To Hentaimask2 <Manaka-Komaki(3)> 投稿者:AIAUS

「愛佳。誕生日おめでとさん!」
 知らないショートカットの女子生徒が、廊下で気軽な様子で愛佳の
肩を叩いた。
「あ、ありがとう、由真」
「えへへ。これでオバサンだよね」
「オバサンじゃないよぉ。もぉ〜、由真ったら、あたしには遠慮ない
んだからぁ〜」
 頬をふくらませて怒る愛佳たちの話に側耳を立てていた貴明は、
弱った顔で回りを見回していた。
「よぉ、貴明」
「あ、雄二か。実は相談があるんだが……」
「ちょっと待て。こっちの話が先だ。これ、姉貴から預かったんだけどさ」
 雄二がポケットから取り出したのは、流行の映画の入場券が二枚。
「おまえと行きたいんだ……ごけっ!」
「悪い、雄二。俺は今、修羅となる」
 金的一発。
 情け容赦のない攻撃を受けて、雄二は泡を吹いて悶絶している。
「おーい、愛佳〜っ!」
 かつて自分を奴隷に貶めたドミナさえ怖くなくなったのか。
 愛と義務感に押されて、貴明は愛佳に向けて手を振った。
「どうする? こいつ、ヘンなところを押さえて廊下で悶えているけど」
「ブリブリ?」
「ブリブリ……女子剣道部の部長、そろそろ次のステップに進むって言っていたよね?」
「キュイキュイ?」
「1号から5号まで洗浄しておかないといけないね」
「俺が一体なにをした〜〜!?」
 拉致される雄二の切ない悲鳴が廊下に響く。


 上映が終わった。
 ずいぶんと人が死ぬ、ひどい映画だったけれども。
 不条理な死は全て、明日へとつながっていて。
 無力な存在でも、今ここにあることを感謝したくなるような。
 そんな内容の映画を見終わって、愛佳はぐしゅぐしゅとハンカチで涙を拭っていた。
「よよよよかったよぉ〜〜〜」
「ああ。いい映画だったよ。悲しいけど悲しいだけじゃなかったね」
 貴明から強奪した映画チケットは素晴らしかった。
「お誕生日おめでとう、愛佳」
 まだ映画の興奮が冷めやらない内に、勇気を込めて、貴明はつぶやく。
「え……たかあきくん?」
「うん。ちょっと小耳に挟んだから。楽しんでもらえたようで良かったよ」
 ポロリと、愛佳の垂れた目の端に新しい涙が浮かび。
「ふぇえええええ〜〜。こんな時に、そんなこと言ったらダメえええ」
 まるで小さな女の子のように、愛佳はポロポロと泣き始めた。
 周りの冷ややかな視線が痛かったけれども。
 愛佳を喜ばせることができたから。
 それでいいかと、貴明は微笑んでいた。


「雄二〜〜!! あんた、何やってんのよ〜〜!!」
「姉貴っ!! 俺は悪くないっ!! 信じてくれえ〜〜!!」
「うるさあああああい!! この大馬鹿〜〜!!」

 向坂雄二。
 調教進度 +088
 体力   -600
 理性      -720
  快楽   +122
 被虐      +060
 従順   +012
『女子剣道部部長の隷奴志願者』
   

 フゥと一息。
 デートを終えた貴明と愛佳は、今更ながら緊張してしまって、
二人ともカチカチと歯を鳴らしていた。
「こ、これってデートだよね?」
「そ、そうなるかな」
「あたし、デートって初めて……」
「俺も初めて」
「絶対ウソ」
「なんでやねん」
 少しの戯れ言の応酬の後。
「たかあきくんって……優しいよね」
「わからない。でも、頑張る愛佳には優しくしたいと思ってる」
 これが精一杯。
「うん。あたしも、たかあきくんには優しくしたいと思ってる。だけど……」
「だけど?」
 告げようか、告げまいか。
 恋人未満から一歩先に進むことは出来そうだった。
 他の女の子には近づくことさえできなかったけれども。
 愛佳と一緒なら、知らない先へ歩いていきたかった。
 けれど、思い悩む愛佳の表情が、それをさせなかった。
「今度は、あたしから誘うね。イヤだったら、すぐに帰っても
構わないから」
 どこと、愛佳は告げなかった。
 悩み抜いた上での決心。
 貴明が優しいから。
 信頼できるから。
 口から出すことが出来た言葉。

 何があったって。

 帰ったり、逃げたりしないと、貴明は心に誓った。


 小牧愛佳の寝室に、古びた本はない。
 几帳面に整理されて、ヌイグルミさえ棚に整列している女の子の部屋。
「ううん……」
 絨毯を剥いで、その裏まで探索した変態仮面アイアウスは、あきらめて
天井を見上げた。
「上位眷属までが出かかっている……その先にあるのは終焉か」
 写本に、そこまでの力はないはずなのに。
 写した人物が問題なのか、「孔」は拡がり続けていた。
 本の場所さえわかれば、焼き捨てることができるが。
 本は見つからない。
「たかあきくぅん……」
「パンティ被った河野貴明、コカン・グッスリネン。ぶ〜らぶ〜らマナカちゃんが
時計の針。パンティ被った河野貴明、コカン・グッスリネン。ぶ〜らぶ〜らマナカ
ちゃんが時計の針。パンティ被った河野貴明、コカン・グッスリネン。ぶ〜らぶ〜ら
マナカちゃんが時計の針……」
「うぐぅううう〜〜」
 巨乳分が不足して苛立っているのか、パジャマを着て髪を解き、寝ている
愛佳の耳元に悪夢を吹き込んで。
 巨大な怪物たる上位眷属と戦うため、アイアウスは夜の街へと飛び出して行った。
 

 作業が当分終わりそうにない、どこまでも広い書庫の中。

 ある時、あるところに女の子がいました。
 その子は生まれつき体が弱くて、毎日が家と病院との往復。
 部屋で、車内で、病室で、窓から見える景色が彼女にとって世界の全てでした。
 ひとつしか歳が離れていないお姉さんは、可哀想な妹を見る度に泣きました。
 可哀想?
 いいえ、自分が寂しかったからです。
 体もろくに動かせない妹に両親はかかりきりで。
 手をつながれたことも、抱き上げられたこともなくて。
 それでも、両親が頑張っているって、妹も病気に耐えているってわかってしまうから。
 欲しいものは手に入らないから。
 欲しいって言うのも、大好きな両親の重荷になるってわかっているから。
 ひとつしか歳が離れていないお姉さんは、可哀想な妹を見る度に泣きました。

「愛佳と、妹さんの話だよね」
「ええ。愛とか奉仕とかいうけど、そんなのはキレイごとだよ。どうして、あたし
だけがとか。どうして、妹ばかりとか。そんなことばかり」
 ドロドロとした自分の心の影を淫靡に見せつけて、愛佳は寂しく微笑んでいる。
「いや、俺はそう思わない」
「どうして? あたしのこと、嫌いにならない?」
「今更試さないとダメなのか、俺?」
 書庫の中は小さな小さな世界。
 誰にも顧みられないで忘れ去られていた小さな小さな世界。
 だけど。
「たかあきくんがいたから……信じてみたいの」
「妹を?」
「ええ。もうすぐ、ここに入学してくることになったの。新しい治療法が
確立したとかで、通学に必要な体力を維持できるかもしれないから」
「いいことじゃないか」
 愛佳の表情は曇って、今にも涙の雨はこぼれ落ちそうだった。
「体力だけは……でも、あの子、限られた人としか接したことがないの。
外の世界、いきなり学校に放り込まれて、みんなを嫌いにならなければいいけど」
「俺がいる。それに、みんなだって、小牧委員長の妹なら、一目置いてくれる」
「そんなことない……たかあきくんは別だと思う。そう信じているけど」
 愛佳の背中にそびえるのは無数の本棚。
 静かな知識の神殿。
「いつかは外に出なければいけない。今は、いい時期だと思う」
 無責任だと思っても。
 背中を押してやりたかった。
 書庫の中は小さな小さな世界。
 誰にも顧みられないで忘れ去られていた小さな小さな世界。
 だけど。
「それに、困ったら、ここがある。ここは秘密の場所だからさ。
泣いたって、悔しがって叫んだって、誰も文句は言わないよ」
「ええ……あのね、たかあきくん」
「行くのかい?」
「うん。明日、見舞いに行くの」
「行こうか」
 凛然と。
 精一杯の凛々しさを込めて。
 うなずく貴明の顔は、泣き出したいくらい晴れ晴れとしていた。


 手をつなぐ。
 これは初歩。
 一緒に歩く。
 これも初歩。
 行くのは身内、問題を抱える身内がいる病院。
 ちょっと上級。
「欲しいものが目の前にあって、それが手に入らないって、すごく苦痛なんだよ。
餓鬼道っていう地獄があって……」
 大好きな怪奇話と一緒に、愛佳は心の泥を吐き出していく。
「欲しいって思うから苦痛なんだって気づくと。欲しがることにさえ遠慮
してしまって。ほら、あたしって、お人好しって言われるでしょ。それは
断るのが怖いからなんだよ。拒否されるのが怖くて。自分でチャンネルを
のばせないから、いつも誰かからチャンネルを伸ばしてもらいたがって」
「ああ」
 手をつないで、足が重くなりがちな愛佳を前へと歩かせながら、
貴明は相づちだけを打つ。
「たかあきくんには甘えてばかり。今でもこうして、立派な姉として妹の前で
見栄を張りたがっているのかもしれない」
「そんなことない」
 小牧愛佳がどんなに人のために尽くしてきたのか。
 それを知っているのは、貴明一人ではない。
「あたしね。好きで人のために働いてるんじゃない。みんなによく
思いたがってもらいたくって。妹に立派だと思われたくって。
それでコマネズミみたいに走り回っているだけのピエロなのよ」
「ピエロじゃない」
 コマネズミは、あえて否定しなかった。
「たかあきくん……ダメだよ。あんまり信じさせないで」
「一度、裏切ったから。ひどいことをしたから。だから、もう裏切らない」
「いっ、一度じゃないよぉ」
 それ以上、言葉をつなぐ前に。
 病院の白い建物が、二人の目の中に飛び込んできた。


 消毒液のアルコール臭。
 白いポンプ式の消毒液には「ウエルバス」と書いてあった。
 病室の前で、愛佳が足を止める。
 扉の前には、マジックで「小牧郁乃」とプレートが貼ってある。
 コンコン。
「入って」
 少し幼い感じの声が扉の向こうから飛んでくる。
 白い、何もない無機質の部屋の中で。
 愛佳よりも二回りほど小さくて、彼女よりもずっと華奢で。
 姉とよく似た顔をした妹は、青白い顔でベッドに寝ていた。
「郁乃。変わりはない?」
「今は大丈夫。朝は血圧が低すぎたみたいだけど。ほら、今は白くないでしょう?」
 まだ白く見える細い指を、面倒くさそうに郁乃と呼ばれた、愛佳の妹は見せる。
「ねえ、姉さん。この人はだれ?」
 郁乃は横目で愛佳の後ろに立っている貴明の姿を見ながら質問した。
「クラスメイトの河野くん。一緒に、お見舞いに来てもらったの」
「どうも」
 郁乃はマニュアル通りの笑みを浮かべて、頭をペコリと下げた。
「姉の重荷になっている小牧郁乃です」
 なぜ、そんなことを言うのだろうか。
 なんとも言えなくて、貴明が難しい顔をしている横で、愛佳は悲しい顔をしていた。
「よろしく、お兄ちゃん」
「こちらこそ」
 居たたまれなくなって。
「ごめん、たかあきくん。ちょっと担当医さんと話すことがあるから」
 愛佳は部屋の外へ出て行く。
 意地悪そうな妹と二人きりにされてしまった貴明は、所在なさげに腰掛けに座って、
脚をぶらぶらさせていた。
「たかあきくん? なにそれ? あんた、姉の男のつもり?」
「もちろん」
 本人がいたら、とてもこんなことはいえないが。
 ずるがしこい郁乃に対抗するため、右ポケットに忍ばせた小さな布を握りしめながら、
貴明は応えた。
 細められた眼差しと口端を釣り上げるような笑み。
 貴明が邪魔だと、その表情は語っていた。
「ねえ、自分が何人目なのか、わかっている?」
「愛佳の顔を股間に挟んだのは、俺が二人目だ」
「こっ、股間っ!? 顔っ!?」
 勝った。
「……ウゲ、ゲホッ」
 だけど、一歳年下の世間知らずの女の子には刺激が強かったのかもしれない。
「姉はそんなことしないっ!」
「だよな?」
 にやりと、郁乃そっくりの笑い方で貴明は笑う。
「姉さんが連れてきたから、ただのお人好しのボンボンだと思っていたけど……
なかなか楽しませてくれるじゃない」
「あまり、ふざけるな。愛佳の大事な妹じゃなかったら、コカン・グッタリネンの刑だ」
 だから、コカン・グッスリネンだっちゅうのに。
「しょうがないじゃない。姉さん、なんにでも一生懸命なんだから」
「それが愛佳だからな」
「一生懸命に何かができるって……死が背中にいつもいる者にとっては、
ものすごく不愉快だって、わかる?」
「そうなのか?」
「当たり前じゃないの。あたしはね。姉の真心が、献身が、愛が、すごく不愉快なの。
あたしだって好きで、こんな体なわけじゃないよ」
「でも、治るんだろ?」
「そう信じているのは、姉と両親だけよ」
「俺も信じてる」
「今日、ついさっき会ったばかりなのに、何がわかるのよ、馬鹿」
「愛佳の真心が、献身が、愛が、きっと実を結ぶって信じてるから。俺も郁乃の快癒を
信じてる」
「出会ったばかりの他人を名前で呼ぶな。大体、あんたは姉のなによ」
「男だ」
「趣味わるっ!」
「おまえ、自分が姉貴そっくりだってわかって、それを言っているのか?」
「ううう〜〜」
 喧嘩をしているように見えても。
 なかなかどうして。
 病室での二人の会話は弾んでいた。


「悪い子じゃないね」
「ホントに、そう思う?」
「俺も、ああいう立場になったら、多少はひねくれて毒ぐらいは吐くと思う」
 ホウと、愛佳は安心して溜め息をつく。
 誰彼時。
「学校に行きたいって言い出したのは、郁乃の方から?」
「うん。学校の話をしたら、すごく興味を持ってくれて」
「俺を相手に男嫌いを克服しようって思ったのは、郁乃のせい?」
「それだけじゃないよ……」
 つぶやいてしまってから。
 頬を夕日の色に染めて、愛佳はうつむいた。
「どうせ、彼氏を作る時間もないんでしょって言われたから……それもあるけど」
「俺は、嬉しかった」
「ダメ。それ以上言うと、たかあきくんにまた甘えちゃうから」
「今も嬉しい。だから、艱難辛苦は厭わない」
 まずいなあ、と、愛佳は悩んでいた。
 ちょっとだけ手伝ってもらうつもりが。
 今は家族の問題まえ背負わせてしまった。
 貴明の隠された性癖はちょっと怖かったけど。
 それを許せてしまうような自分がまずいなあと、愛佳は悩んでいた。
「妹の病気は、本当ならバイ菌とかから体を守ってくれるはずの仕組みが、
妹自身を攻撃するというものらしいの。確か、病名は自己免疫疾患……」
 聞き慣れない病名が夕闇に響き、どこか遠くで、パサリと布が落ちる音がした。
「起きた時は血行も悪くて。指先なんか蝋みたいに真っ白で。それでも、あの子。いつも
平気な顔をして、強がりばかり言って」
「ああ。郁乃も頑張っているんだよな」
 あの生意気さは嫌いじゃないと思って、貴明はうなずく。
「ここ数年は視力も衰えて……ただでさえ狭い世界なのに……」
 泣き出しそうな世界。涙で崩れ落ちそうな世界。
 でも、横に貴明が、初めて頼る誰かがいたから、愛佳は泣かなかった。
「でも、新しい治療法が確立して、随分と元気になってきたんだよ。
科学の進歩って否定したがる人もいるけど。それで命をつなぐことが
できる人がいるなら、きっといいことだと思う」
「視力は?」
「あと三日後。網膜の血管を拡げて、血を通りやすくすることができれば、
視力は回復するの。そうすれば、車椅子だけど、学校に通うことだってできる」
「きっと成功するよ」
「だけど万が一……失明とかしたら。網膜の手術は電子回路よりも精密だから、
絶対とは言えないって、担当のお医者さんが言ってた」
「まなか……」
「ねえ、たかあきくん。何も知らない方が妹は幸せだったのかな。
学校の話なんかしなければ、郁乃も手術を受ける気にならなかったのかな」
「きっと成功するよ」
 なにも確証がない無責任を吐き続けるしか能がない自分が呪わしかった。
 夕暮れが闇に溶けて、泣き出しそうな世界を覆っていく。

 世界は涙に崩れ落ちて。
「自己免疫疾患……」
 盗んだばかりのパンティを地面に落として。
 拾い上げることも出来ずに、変態仮面アイアウスは白い平行四辺形の
瞳から、滝のように涙を流していた。
「あふれ出る液体……これは、涙?」
 そんなもの、生まれてから流したことなどなかったのに。
「アイアウス。あの娘、焼くんじゃなかったのか?」
 横で岩下信が、どこか罪悪感に苛まれながら、愛佳の後ろ姿を指差したが。
「否っ! 私は誓うっ! 郁乃たんを不幸の海から、病魔の海から救い出して
みせるっ!」
「……自分は初めて。あなたを人間らしいって思えたよ」
 どこか満足そうな微笑みを浮かべて。
 ライターもないのに、岩下信はくわえたタバコに火をつけてみせた。
 紫の煙が、夜の空に立ち上る。 



「一人で来るとは見上げたものね」
 右のポケットにある小さな布切れを握りしめながら。
 口から体に溜まり込んだ毒を吐く、愛佳の妹の前に、貴明は座っていた。
「姉は?」
「すぐに来ると思う。あれでも学校では頼られているんだよ」
「どうだか」
 両手を広げて、ナンセンスのジェスチャーをしてみせる郁乃。
 その指先が白く見えてしまって、貴明は毒舌を浴びながらも、
彼女のことが心配になっていた。
「おまえも変わらず、みんなに愛されているみたいだけどな」
「親戚連中の社交辞令。見舞いなんて、滅多に来ないんだから」
 棚の上に山盛りになった見舞いの品々。
「なあに。学校に行ったら、おまえの部屋の机だって、男の子からの
プレゼントで山盛りになるさ」
「なによ、それ。世辞のつもり?」
「愛佳そっくりの容姿で、男好きっていうのはポイント高い」
「男好きじゃないっ!」
「じゃあ、お姉さんそっくりの男嫌い?」
「ううう〜〜。この卑怯者め〜〜」
 目が霞んでいるのか、郁乃の瞳はどこか霞んで見える。
 明後日。
 もしかしたら、永遠に郁乃の瞳が外の世界を写せなくなるかも
しれないと思うと、他人事であるはずなのに、貴明は憂鬱な気分になった。
「学校ってさ」
「なんだよ」
「あんたみたいなヘンな奴ばかりなの?」
「俺はヘンじゃない」
「絶対にヘンよ。だって、病人にここまで容赦ない奴なんていないもの」
「それは郁乃が外の世界を知らないからだ。厳しいぜ、色々と」
「姉みたいにボケボケした人がやっていけるなら平気よ」
「……やって、いけているのか?」
 一人暮らしをする愛佳。
 OLとして働く愛佳。
 そのどちらも想像できなくて、貴明は大げさに頭を抱えた。
「そんなに厳しいの?」
「楽しいこともたくさんある。早く来いよ、学校に」
「手術が成功したらね」
「するよ」
「無責任」
 本当に無責任な自分の言葉が歯がゆかった。
「それで、姉の具合はどう? 気持ちいい?」
「なんの話だ」
 機先を取ったと見た郁乃は、一気に畳みかけてくる。
「姉って都合がいいでしょ。姉の男って言ったんだから、やることは
やっているでしょ、このケダモノ」
「……それができたら、どんなに楽か」
「へ?」
「おまえ、隠れて読むエロマンガみたいに楽に展開するって思ってないか?」
「そんなの、読んだことないっ!」
「隠すな。愛佳はあれでもな、ガード固いんだよ。いくら、こっちがその気に
なっても。ヒラリヒラリと忍者みたいに避けちゃうんだよ」
「ホントにケダモノ……」
 ナースコールボタンを握りしめて、耳年増なだけの郁乃はプルプル震えている。
「あ、姉にムリヤリ変なことしたら、絶対に許さないんだから」
「応。その時は殺してくれて……ありゃ?」
「うううう〜〜」
 必死に、見えにくい目で貴明を威嚇している郁乃。

 姉にムリヤリヘンなことしたら、絶対に許さないんだから。

 病室の扉に貼ってあったプレートに、郁乃の血液型が書いてあった。
「帰る時、献血していくわ」
「なんでよ」
「おまえの手術の時、使ってもらうから」
「ケダモノの血なんか入れたくないっ! すなっ!」
「なんで。男大好きなのに」
「ち〜が〜う〜〜っ!」
 ジタバタと、姉そっくりの暴れ方をする郁乃の姿は、どこか血が巡り始めた
ように見えて。
「赤じゃなくて白い方がよかった?」
「ここここここここ殺してやるぅ!」
 病室は騒がしく、楽しそうだった。


 魔導書ネクロノミコン。
 それは人皮で綴られたる802頁のもの。
「対象確保。それじゃ、やっちまうか」
「待て。まだタッカーが来ていない」
 眠っているように、腕の中で気絶している小牧愛佳の首に手を伸ばそうとしている
秋山の腕を、変態仮面の手が止めた。
「おいおい。これ以上「孔」が拡がったら洒落にならんぜ」
 目の前で、巨大な触手が一本、空の孔から這い出そうとしていた。
「ああああん! あたしに脱がさせてええええ! ふたなりにしちゃううううんっ!」
 奇怪な手術道具と人工キリタンポをフリフリしている隼(女Ver)を、
みんなで殴り倒して。
 0.5秒で脱がした小牧愛佳の白のパンティを、空の孔から這い出そうとしている
触手の先めがけて、アイアウスは投げ上げた。
「来いっ、変態仮面タッカーっ!」
 風を切り裂き。
 光となって。
 病室の窓から真横に足先を向けて飛んだ貴明は、そのまま横履きに、
「合体っ!」
「いや、それ履くもんじゃないよ」
「……クロス・アウット!」
「いや、それ脱ぐ時の掛け声」
「フォオオオオオオオオオオ!!」
愛佳のパンティを顔に被ろうとした。
 ビクンと、空の孔から這い出した巨大な触手が震えて。
 一緒に被られそうになったのを慌てて回避する。
「ウソだろ? 外なる神が逃げた?」
「まあ、あれでも女神様だからな」
 邪悪な豊穣の女神でも、変態には触りたくないらしい。

 愛佳の体を黒く染めて浮き出したのは、真っ黒な文字の列。
 垂れた優しい目も、よくぶつけるオデコも、ふっくらとした頬も覆い隠して。
 ネクロノミコンの802頁の文字列が、愛佳の体を黒く染め上げていた。
「チっ! おい、本当に焼いちまわないでいいのか!?」
 逃げ去ろうとしている外なる神を呼び戻そうと、書庫で禁断の書に
触れてしまった愚かしい少女に取り憑いたネクロノミコンは、
黒い文字を七色に光らせ続ける。

 変態こそ、黒い闇さえも溶かす。
 名前も知らない誰かに転写された、不完全な禁断の書。
 変態こそ唯一、その闇を唯一、打ち払うことが出来る。

「タッカーっ! 行くぞっ!」
「へっ? きゃううううううううううううううっ!」
 真っ黒になって、目を覚ましかけていた愛佳を持ち上げると、
重力を無視して、アイアウスは愛佳を真上に投げ上げ、まだ宙を浮いていた
貴明は真横へと飛んだ。

「変態破邪奥義っ! コカン・エクスカリバーっ!」
 いやそれ、アーサー王が聞いたら、髭を滝の涙で濡らすと思ふ。

「ひでえ……いっそ、焼いた方が良かったんじゃないか?」
「いやまあ。一応、タッカーは、あの娘でないと変身できないようだし」
 小牧を股間に装着して、グルグルとアイススケート・ジャンプのように
横回転を繰り返す変態仮面タッカー。
 遠心力なのか。
 愛佳の皮という皮にビッシリと刻み込まれたネクロノミコンの文字は、
その血で作られた赤黒いインクは、ビチャビチャと汚い音を立てて
夜空へと散っていく。
「きゅうううううううううう! たかあきく〜んっ! や〜め〜て〜っ!」
「ネクロノミコンが、娘の声を騙っている?」
「いや、純粋にキモいんだろ。おまえ、オイナリさんを顔面に密着させられて、
ミキサーみたいに空中をグルグル回転させられることを想像してみろよ」
「やめろ。俺、イナリ寿司が好物なんだから」
「あふふふふん〜♪ もうちょっと、もうちょっとよ、愛佳ちゅわん。
もうちょっとしたら、気持ち良くなっちゃうんだからあああん♪」
 貴明と一緒に両手両脚をダラリと伸ばしてグルグル回転している
愛佳は、何も答えない。
 黒く染まり上がった体から禁断の書物のインクが全て飛び散り、
最悪の失敗を犯してしまった少女の罪を消していく。
「フォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!」
 夜空に。
 命を賭けて回転する貴明の悲痛な叫びが響く。


「……まったく、あいつら。後始末とか、わからねえのか」
 傍らに、黒いドレスを着た御嬢様な魔女を携えて。
 サングラスをかけた優男は、手にした拳銃で飛び散ったインクを
一つ一つ、委細漏らさず消去していく。
「……」
「なに? 今から雨が降って、全て洗い流すから大丈夫? 下水に流れた
くらいで、汚いインクが力を失うのか?」
「……」
「東西の霊水? だから大丈夫? ちぇ。魔術師同士で結託しているなら、
最初から、そう言ってくれよ」
「……」
「基本的に干渉し合わないのがルール……はい、はいっと」
 遠くで、小牧愛佳を抱きかかえた貴明が、とても大切そうに、
彼女の頭を撫でている姿が見えていた、


「ぅぅうえぇぇぅううあああっ〜〜!! ひどいよぉ、たかあきくぅんっ!!」
 あまりと言えば、あまりにござりまする。
 三度目の股間キープ。
 しかも今回は無制限大回転一本勝負だったので、目を覚ました
愛佳はしゃがみこんで、ピィピィと泣きわめいていた。
「き、気づいていたの、愛佳?」
 パンティを顔から脱いで変態を解き、学生服を着た貴明は
うろたえながらも、助けを求めて、近くにいるアイアウスや
特異能力者、”L”達を見回したが、みんな、待ち遠しそうに
夜空を見上げるだけで、二人に注意など払ってはいない。
「最初から気づいてたぁ〜〜! だって、たかあきくんと
同じ匂いだったもんっ〜〜!!」
「しっ、仕方がなかったんだって。全部、愛佳を守るために
やったことじゃないか」
「守るのだって、守りようってものがある〜〜っ!!」
 間延びした声で、駄々っ子のように泣き続ける愛佳。
 困ってしまって、弱ってしまって、最後には頭に来てしまったので。
 貴明は愛佳の体を抱き締めた。
「ひゃんっ!」
「ごめんっ!」
 そのまま、しばし沈黙。
 夜の空から。
 遙か遠く、霊域伊勢の方角から流れてきた雨雲から、小粒の雨がポツリポツリと
落ちてきた。
「ホントは謝らなくてもいいんだよ?」
「うん。優しいな、愛佳は」
「たかあきくんも優しいよ。最初から優しくて。ずっと優しくて。
どんどん優しくなって……」
 おそらく、小牧愛佳は世界一、優しき乙女である。
「今も迷惑をかけて。たかあきくんには全然関係ないのに、私達家族の問題
なのに、嫌な思いをさせて」
「イヤなんかじゃない」
 おそらく、河野貴明は世界一、優しき変態である。
「これからも、ずっと一緒にいたいなんて……思うようになったから……。
練習じゃイヤだなんて、思うようになってしまったから……」
 雨が肩を濡らす夜。
 わずかに濡れた愛佳の唇を、貴明の唇が覆う。
「んっ!?」
 びっくりして息を飲む。
 目はめいっぱいに見開いて。
 それでも。
 体を抱き締める手が、たかあきくんの手だったから。
 顔いっぱいに広がる匂いが、たかあきくんだったから。
 たかあきくんだったから。
 皆に愛されたる乙女はおずおずと、自らの純潔の唇を、
勇敢なる少年に差し渡す。
 それはどこか神聖で眩しくて。
 邪神の影を追い散らした街の夜空には、なんともふさわしかった。


  
「くかーっ……」
 明日、手術のはずなんだけどな。
 自らが受ける網膜手術の成功を信じて疑っていないのか、郁乃は
山賊の頭領のような豪快な格好で、腹を出して眠っている。
「もう。お腹冷やしたら大変なのに」
 ズリズリと、愛佳はずれた妹のパジャマを直してやった。
 可愛らしいオシリをフリフリ。
「ひゃんっ! あ、あの、たかあきくん?」
 いきなり背中に抱きつかれたので、愛佳はビックリしている。
 ビックリしているだけで嫌がっていないのは、昨夜のせいか。
「たっ、たかあきくん。だめぇ。まだ日が高いってばぁ」
 それが地雷を践んでいるというのに。
「お布団あるけど、郁乃が寝ているってば」
 わざとやっているのかしらん。
 後ろを向いて頬をふくらませている愛佳の唇に、やっぱり
緊張しながら、貴明は唇を重ねた。
「んっ……ぅく」
「くぅ……か、くかっ」
 山賊の頭領のような豪快な郁乃のイビキに、唇を合わせていた
二人はビクリと背中を震わせた。
「ひゃうんっ!!」
 拍子で思い切り首筋を撫でてしまい、愛佳は可愛らしい悲鳴を上げた。
「ダメぇ。ここじゃダメぇ〜。郁乃に見られちゃうよぉ〜」
「見てるよ」

 いつの間にか。

 ぱちりと目を開けた郁乃は、じと目で貴明をにらんでいる。
「うぉおおおおお!?」
 あわてて愛佳の背中から飛び下がったが、すでに手遅れである。
「ケダモノ。絶対に殺してやる」
「しょ、しょうがないだろ、好きなんだからっ!」
「た、たかあきく〜ん……」
 顔面を茹で蛸のようにして、愛佳は溶けている。
「初めてだよ。好きって言ってもらえたの」
「あん? 今まで、姉の体だけ貪っていたの?」
「貪ってないっ!」
「うるさいっ! このバカップルっ!」
「いやぁあああん〜」
 照れる愛佳はどこか嬉しそうで。
 明日の手術のことなど、みんな忘れてしまっているようだった。


 同刻。
 裃袴に身を固めて、お白砂に登る奉行のような格好で、
やはり顔にパンティを被ったまま、固まっている愛佳と郁乃の両親の
前で、アイアウスは深々と土下座していた。
「あ、なにとぞ、お願い奉り上げまつる〜」
「奉られても……どうするの、パパ?」
「えらく本気だというのはわかる。それに……というのは、
よく理解できた」
「免許は持ってらっしゃるようですけど……お金はあまり
出せませんよ」
 無償の愛。
 そんなものを子供の頃に諦めてしまった変態男が。
 なぜかまた、そんなものを瞳に宿らせて。
 ただひたすら、郁乃の両親に頭を下げていた。



 病室の窓際に座り、目を包帯で覆った少女は、静かに待っている。
「おめでとう。手術は成功したよ」
「はい。ありがとうございます」
「痛みとかはあるかい?」
「どこも痛くはありません」
 シュルリという衣擦れの音と共に、包帯が解かれる。
「今、包帯を取ったよ。ゆっくりと目を開けてみて」
「んっ……」

 目の前を舞い散る光に、郁乃は息を飲んだ。

「どうしたの? まぶしいのかい?」
 まぶしい。
 目が悪くなって以来、ボンヤリとしか見えなかった姉の顔。
 両親の顔。
「どうしたの、姉さん。ちゃんと見えているんだから」
「う、うん。良かった。本当に良かったよ〜」
 よく泣く姉だと、いつものように疎ましく思いたかったのだけれども。
 今日の姉は、なんだか、とてもまぶしく見えて。
「ねえ、貴明のところに行かなくていいの?」
「ううん。今日はずっと一緒にいるから。学校の話をしようね」
 とても優しいことに、今更ながら気づいてしまって。
 郁乃は姉と同じように、プックリとした膨れっ面をしながら。
 間延びした姉の声に耳を傾けていた。  


 病院の屋上。
 約定を取り付けることに成功したアイアウスは、空を見上げていた。
 悪滅。
 それが正義だと信じていたけれども。
「河野貴明。私は最後の最後に、自分の道を見つけたのかもしれない」
「笑いませんよ」
 爽やかな変態男たちの笑い声が、青い空に響いていた。


 車椅子に座った少女が一人、学園の校舎の前にいる。
「郁乃、おめでとう」
「うん。入学おめでとう」
「なによ、あらたまって」
 車椅子に座った郁乃の両脇にいるのは、愛佳と貴明。
 嬉しそうに、本当に嬉しそうに微笑む二人と顔が合わせづらくて、
郁乃は頬をふくらませて、下を向いていた。
 音もなく、車椅子の車輪が回る。
 季節はずれの入学式。
 けれども、とても清々しい初夏の空気は、病室に籠もっていることしか
出来なかった郁乃の体に、瑞々しい命の力を与えてくれている。
「よかったわね、郁乃」
「うん。本当によかった」
「二人して、同じことばかり言っちゃって……ねえ、ところでさ」
 両脇に並んで、郁乃を守るように歩く二人。
「私の車椅子、誰が押してんの?」
 車椅子に座っている郁乃からは、三人目の人物が見えなかった。
「なんか、背中にプニョプニョして、なま暖かいものが当たって、ちょっと
気持ち悪いんだけど」

「それは、私のオイナリさんだ」
「へ?」

 頭の上から声がしたので、つられて、郁乃は上を見上げる。
 そこには、桜色のパンティを顔に被った、筋肉隆々の上半身ハダカの男がいた。
  郁乃の目がまん丸になり、悲鳴が口をついて出た。
「ぎぃやぁあああああああ!!」
「あら、どうしたの、郁乃?」
「へ、変態! 姉さん、変態が、私の車椅子を押しているっ!」
「うん。アイアウスさんは変態だけど、それが何か?」
「何かじゃないっ! なんで、姉さんもアンタも、平気な顔してんのよっ!」
 口をパクパクとさせて、呼吸困難寸前まで驚いている郁乃に対して、貴明も愛佳も
平然とした顔をしている。
「え? だって、アイアウスさん、お父さんとお母さん、私にも挨拶を済ませて、
今日から郁乃の介護を担当することに決まったのよ」
「きっ、聞いてない、聞いてないっ!」
「大丈夫。アイアウスさんは普段、介護士として働いてらっしゃるから。
全然、心配しなくていい」
「そういう心配じゃなくって!」
「照れているのだろう。大丈夫。すぐに郁乃たんの心を私色に染めてみせる」
「染まるかーっ! なおかつ、郁乃たんって呼ぶなっ!」
「あらあら」
「なんか、初日から仲がいいね」
 初夏の風が吹く。
 変態男に車椅子を押されて、郁乃は騒いでいたけれども。
 貴明と愛佳は互いの手をつなぎ、なんだか、とても幸せそうだった。

「郁乃たん、お手洗い?」
「うぁあ〜! しっ、死ねえっ!!」

 メデタシ、メデタシ?

 To Hentaimask 2  Manaka-Komaki     end