To Hentaimask2 <Manaka-Komaki(1)> 投稿者:AIAUS

本作品を読まれる前に

:本作品は、  To Heart2のネタばれを含んでおります。
:本シナリオは、To Heart2の小牧愛佳シナリオをクリアした方のみ
 お読みください。クリア前に読むと、ネタバレのため、作品を
 楽しむことができなくなる恐れがあります。
:それでは、上記の項目を満たした方で、シモネタが平気な方のみ、
 下へお進みください。

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 ピピピピ! ピピピピ!

 うるさい……。
 ……もう、朝なのか?

 布団の中から手を伸ばして、パジャマ姿の河野貴明は目覚まし時計のスイッチを押した。

 フニョン。

 まだ眠いけれども……フニョン?
 なんだろう。この暖かくて、妙に柔らかく、懐かしいような感触は。
 
 フニョン、フニョン。
 アヒルの卵を、ゴムの袋に包んだような感触。 
「なに……これ?」
 まだ眠気が覚めない目を、薄く開く。
 目に映ったのは。

 ブリーフ?

「それは、私のオイナリさんだ」

 おいなり?
 え? じゃあ……これって。

「俗語では、タマキーンとも言う」
「ウゲポギャララゲゲゲゲゲゲゲゲゲ!!!」

 
 気持ちの悪い朝だった。
 夢見は最悪。
 歯を磨きながら、貴明は思う。
 なにが悲しくて、男のオイナリさんを触る夢を見なくてはいけないのだ。
 吐き気と共に、口の中の歯磨き粉を吐き出した。

 ピンポーン。

 呼び鈴が鳴る。
 ちょうどトースターでパンが焼き上がるのを待っていた貴明は、玄関まで
出て行った。最近、物取りや通り魔が多くて物騒だから、扉に鍵はかけてある。
 しかし、貴明が扉を開ける前に、カチャンと音が鳴って、ドアノブが回った。
「なんで?」
 貴明の両親は海外出張中。
 国内で河野家の鍵を持っているのは、長男である貴明ただ一人で、鍵は電話台の下に
置いてあるはずだ。
「このみ?」
 わずかに開いた扉の隙間。
 その間から、覗き込むようにして顔を出したのは、貴明の幼なじみの女の子だった。
「おはよ〜。タカくん」
 扉を開けて、跳ねるように中へ入ってきたのは、柚原(ゆずはら)このみ。
「えへへ。早起きさんだね」
 このみは貴明の家の隣に住んでいて、物心つく前から、二人は幼なじみだった。
 学年が一つ違うため、通う学校は中学と高校と別々ではあるが、通学に使う道は
一緒なので、二人で学校に行く習慣は小学校の頃から変わっていなかった。
「何で、おまえが、うちの鍵を持ってんの?」
「え? おばさんから預かったんだよ。聞いてない?」
「聞いてない、聞いてない」
 可愛らしい子猫のキーホルダーがついた鍵。
「おばさんがね。このみにね。留守にしている間、どうか貴明のことをお願いします
って頼みに来たの。だから、タカくんのことは、このみにお任せなんだよ。えへ〜」
 とても誇らしそうに胸をそらした幼なじみの姿を見て、貴明は溜め息をついた。
 二人がいつも待ち合わせをするのは、二人の家の前の真ん中。
 そして、いつも多めに待たされるのは、寝坊した、このみを待つ貴明の方だ。
「出るには、ちょっと早すぎるだろ」
 このみが珍しく早起きして、自分を迎えに来たと思った貴明は、そう言ったが。
「タカくん。朝ご飯、もう食べた?」
「いや。まだだけど」
 パァと花がほころぶように、このみが微笑んだ。
「このみが作ってあげようか?」
「作るって……誰が?」
「む〜。このみに決まっているじゃない」
 このみの頬がぷっくり膨れている。
「ごめんこうむる」
「タカく〜ん。ひどいよ〜」
 嫌な予感がしながらも、貴明は幼なじみのよしみで、このみを台所へと通した。

 一ヶ月ほど前。
 仕事の関係で、貴明の父が海外支店に長期出張をすることになった。
 数年がかりの大プロジェクト。
 昨日、貴明の父と母は勇んで、海の向こうへと飛んでいった。
 貴明は置き去りにして。

「無責任ちゅうか……まあ、このみに頼んでいたってことは、心配はしてくれた
っていうことなんだろうけども」
 でも、なんで、このみなんだ?
 朝に見てしまった悪夢が強烈過ぎて忘れていたが、今日から気ままな
一人暮らしが始まる。
 嬉しいけれども、どこかつまらないような気もする複雑な気分。
 素直に喜べないのは、朝見た悪夢のせいなのか。
「タカくん。冷蔵庫の中に、なんにもないよ〜」
 制服に着替え終わって、二階の部屋から降りてきた貴明を迎えたのは、
このみの困った声だった。
「なんにもないってことはないだろ。ほら、お茶漬けの素があった」
「御飯がないよ〜」
 ……考えてみたら、昨日、炊飯器を仕掛けていなかった。
「お魚の干物はあるけど。これ、使っていいの?」
「やめとけ。それは、お袋が大好きで、俺と親父は大嫌いな“くさや”だ」
「え〜。くさいの?」
「強烈だ」
 まだ頑張ろうとする、このみの襟元を引っ張って、貴明は玄関の方へと
歩いていった。

「タカくん。朝御飯食べなくても大丈夫なの?」
「途中のコンビニで、何か買うさ」
「でも、コンビニに寄っていったら、ギリギリになっちゃうよね」
「ん〜。微妙かなあ」
 腕時計を見て、貴明は顔をしかめた。
 たかが一食。
 だが、高校生男子が腹を空かすには十分な栄養源の不足だった。
「走るか」
「は〜い」

 走るか。
 急ぎ足で、コンビニまでの時間を短縮するだけのつもりで言ったのに。
 ほぼ全力疾走に近い速度で走って、貴明は息を切らしている。
「タカくん、はやくはやく〜!」
 常々、疑問に思う。
 貴明は平均的な男子高校生の体力の持ち主で、体育も苦手な方ではない。
 それなのに、このみは息を切らしている貴明とは対照的に、楽しそうに
道路を走っている。
 コンビニに着いた時、貴明はがっくりと膝を落としそうになりながら、
このみの顔を見た。
「なんで……平気そうなんだ?」
「ちょっと走っただけだよ〜。タカくん、大げさだって」
 馬鹿な。
 このツルペタンボディのどこに、そんなミラクルパワーが隠されているんだ?
「ほら、早くパンを買って。学校に着く前に食べちゃわないと」
 そう言って貴明の背中を押す、このみの笑顔は。
 春を告げる桜の花のように眩しくて。
 ようやく、貴明は朝見た悪夢を忘れてしまえそうになれた。

 限りなく澄んだクリアブルーの空。
 そこに一人、白い布地で股間と顔だけを隠した男が一人、電柱の上に立っている。
「河野貴明。審判は始まった」
 青に青を重ねて出来上がった、どこまでも透明で澄み渡った青空。
 それなのに、男が履いた網タイツからはみ出たスネ毛が、そんな清々しい朝の空を
台無しにしていた。

「タカくん。走ろ」
 タッ――
「まっ、待て。引っ張るな、食ったばかりだから――!」
 
 六つに分かれた腹筋の上に生えるギャランドゥ。
 白い布に隠された顔から見えるのは、平行四辺形の角張った白目と逆立った髪のみ。
「おまえは果たして、どんな結論を迎える?」
 楽しげに走る幼なじみの二人。
 不敵な男は、天下無敵な変態スタイルで、その姿を見下ろしていた。

「はふ、はふ、はふぅ……ここまで走れば大丈夫だよね」
 パンを食べたばかりで全力疾走をさせられた貴明は、道路の端にモンジャ焼きを作っている。
「タカくん。具合悪いフリっていっても、やり過ぎだよ〜」
「げふぅ……演技じゃない。マジゲロだって」
「ウソ。タカくん、そんなに体力ないわけないもん」
 このみにとっては、貴明はいつまで経っても、お兄さんのままなのか。
 口の端をポケットティッシュで拭った貴明の背中を、うんしょうんしょと、このみが
押している。
「よぉ、おはよ〜さん」
 微笑ましい幼なじみ二人に挨拶の言葉を投げかけたのは、やはり別の幼なじみだった。
「あ、ユウくん。おはよ〜」
「おはよう、雄二」
「へへ。朝っぱらから仲がいいじゃねえか、お二人さん」
「ああ。仲が良すぎて、道路にモンジャ焼きを作っちまったところだよ」
「む〜。このみのせいじゃないもん」
「100%、このみのせいだと思うけど」
「あん? モンジャ焼き?」
 少し赤みがかかった髪をしている、貴明と同じ学校制服を着た男子の名前は、
向坂雄二(こうさか ゆうじ)。
 この地域一帯に今でも影響力を持つ、古き家柄の長子だった。
「なんでもない」
「あん? まあ、いいや。貴明、おじさんとおばさんは、もう海の向こうか?」
「ああ。あっちも気楽にやっていくさ」
「いいよなぁ。気楽な一人暮らし。俺もしてみてえ」
「雄二の家って、親父さんもお袋さんも、仕事でほとんど家にいないじゃないか。
雄二だって、一人暮らしみたいなもんだろ」
「いんや。毎日、家政婦さんとか来るから、全然一人暮らしって雰囲気じゃねえよ」
「似たようなもんだけどなあ」
「ちっがーうっ! ウチに来る家政婦のババアは、俺に断りなく俺の部屋を掃除するし、
俺の様子を親父に告げ口していやがるんだぜ。まさに、牢獄に捕らわれた囚人って
感じなんだよ」
「そうかなあ。うらやましいけどなあ」
 庶民の貴明と、このみは顔を見合わせて、悶える雄二の姿を見ている。
「ああ。どうせ監視されるなら、メイドさんとかなら諦めもつくってのに!」
「若いオネーサンだったらいいのか?」
「あったりめえだ!」
 清々しいくらいの若々しい男子高校生の言葉だった。
「んー。それだったら、このみがメイドさんになってあげようか?」
「チビ助にメイドさんが努まるもんか。メイドをなめるなーっ!」
「むー。ユウくん、ひどいことばっかり言う」
「せめてなあ。家政婦を雇う金でメイドロボを買ってくれればいいのになあ」
 若かったら、機械仕掛けとかでもいいのだろうか。
 それとも、そんなにメイドさんが好きなんだろうか。
 問えば、大好きだ、という答えが返ってくるのがわかりきっていたので、
問いかけかねていた頃。
『このみ〜!』
 曲がり角から、このみを呼ぶ大きな女の子の声が響いた。
 このみと同じ制服を着た女の子が二人、幼馴染み達の所へ走ってくる。
「おはよ〜」
「あ、ちゃる〜! よっち〜! おはよ〜!」
 元気に手を振る女子中学生三人。
「先輩、おはようっス」
「……おはようございます」
「おう、おはようさん」
「……」
 雄二は気軽に挨拶を返したが、貴明は黙ったままだった。
 ボブカットの、元気な声を出す女の子は、そんな貴明の顔を不思議そうに
見ている。
「先輩? おはようっス!」
「あ……ああ、おはよ。それじゃ、このみ。ここでな」
「え〜? タカくん。もう行っちゃうの?」
「遅刻するって、俺を引きずり回したのはおまえだろ」
「朝から、お盛んっスね〜」
「え? お魚がどうしたの?」
「……このみに、その手の話題を振っても無駄」
「それじゃな」
「それじゃあ先輩、失礼するッス」
「……どうも」
「いってきまーす」
 このみはタッと足取り軽く、三人一緒に、中学校の方へ向かっていった。


「おまえ。なんで、そんなに女が苦手なんだ?」
「それがわかったら苦労してないって」
 河野貴明は、女の子が苦手だった。
 何を考えてるかよく分からない。
 うかつに触れると、壊れてしまうのではないかと思う。
 何より、近くに寄られただけで体が異常に緊張する。
「あの子達だって、中身は、このみと同じようなもんだろ」
「このみは妹代わり。他の子とは違うよ」
「妹ねえ。このみも苦労しそうだよなあ」
「なんで、このみが苦労するんだ?」
「そういうところだよ。ほら、行くぞ」
 もうすぐ学校が始まる。
 雄二の言葉の意味もわからず、貴明は校門へと向かっていった。


 今日から三月、弥生となる。
 春の日を迎えて、テストも終えた学生達は、やって来る春休みを心待ちにしている。
「おーい。貴明、おまえ、テストはどうだった?」
「別に。普段通り。可もなく、不可もなく」
「つまんねえ。おまえも、たまには親に点数で怒られてみやがれ」
 雄二と貴明の学力は同じくらいだが、性格の違いからか、雄二にはケアレスミスが
極めて多い。加えて、旧家のしきたりなのか、高校生になってもテストの答案は全て親父殿の
閲覧物となり、点数が悪ければ、当然、怒られる。
「また、姉貴と比べて貴様は〜、って、くどくど言われるんだぜ。たまったもんじゃ
ねえよぉ」
「気にするな。人生、テストの点数で決まるわけじゃないさ」
「そうだよな。やっぱり、かわゆくて、オッパイバイーンなギャルをゲットするのが
人生の醍醐味ってもんだって、醍醐天皇もおっしゃっていたよな」
「おっしゃらなかったと思う。うん」
「「……」」
「え? あれ? なんだ?」
 雄二以外の誰かが自分を見ているような気がして、貴明は教室を見回したが、
学生達はそれぞれの世間話に興じていて、誰も自分たちには興味を払っていなかった。
 
 教室、二階の窓ガラス。
 股間と顔だけを白い布地で隠した男が、指だけで全体重を支えて、窓枠に捕まっている。

 違う、違うぞ、河野貴明。
 オッパイバイーンなギャルのゲット。
 それは漢の人生で2番目に大切なことじゃないか。

 白い平行四辺形の目が血走っているのが、とても怖かった。


 昼休み。
 学食でチャーシュー麺を食べていた貴明は、同じように隣りでキツネウドンを食べている
雄二に向かって、語りかけた。
「なあ。さっきから、変な視線を感じないか」
「あん? ようやく色気づいたか? 気にすんな。おまえをストーキングする女なんか
いないって」
「そうだよなあ。なんだろう。朝、ヘンな夢を見たんだよ」
 そう言って、貴明は今朝見た悪夢のことを話し始めた。

「そう。ちょうど、おまえが箸でつまんでいる油揚げみたいな感じの、フニャンとしたやつ」
「……待て。今ちょっと、おまえに殺意を抱いた」
「なんでだよ」
「楽しみに取っていたんだよ、この油揚げっ!」
「オイナリさんに包むものだから、一緒だろっ!」
「マジ殺すぞーっ!」
 学食は、今日もにぎやかだった。


 授業が終われば、後はフリータイム。
 友達との歓談を楽しむ者。早く家に帰ろうとする者。まだ居眠りを続ける者。 
「みんな、ちょっと待ってぇ〜、連絡事項があるからぁ〜」
 そんな教室の中に、ホンワカとした女の子の声が響いた。
 教壇に立っているのは、小柄で垂れ目な女子生徒。
 少し茶色がかかった髪を、左側だけ青い髪留めで留めて。
「はぁい、注目、注目〜。騒いでるだけじゃ終わらないからぁ〜」
 メリハリがないと言うのか、ノンビリとした喋り方。
 彼女の名前は小牧愛佳(こまき・まなか)。
 貴明のクラスの副委員長であるが、おっとりとした彼女は守ってやりたくなる
ような可憐さは持っていても、クラスを引っ張っていくというリーダーシップには
無縁そうに見えた。
「もぉ〜、みんな聞いてよぉ〜!」
 怒っているのか、両手をバタバタと降りながら、小牧は喧噪を止めようとはしない
クラスの連中の前で、やはり気が抜けるような声を発している。
「聞ぃ〜てぇ〜」
 炭酸の泡が抜けるのと同じようなものか。
 いつしか、教室は静かになり、みんな、教卓に立つ小牧の姿を見るようになった。
「えーっと……最初はね……最近、駐輪に関してのマナーが……」
 舌が短いのか、貴明のクラスの副委員長は、あまりスピーチが上手な方ではなかった。
 話し方はたどたどしく。
 自信も余裕もないのが、目に見えるようだった。
 まあ、それでも。
 なぜか、貴明を初めとするクラスの一同は、小牧愛佳の報告を大人しく聞いていた。
 不思議なものだ。
「そこで、明日から一週間は遅刻とりしまり週間として、予鈴の時点で校門を
閉じることになりました」
「うえっ!」
「ちょ、ちょっと待てよ! 委員長! それって横暴っ!」
「そうだ、そうだっ! 暴君っ!」
 小牧が悪いわけではないのだが。
「そそそれはあたしのせいじゃないぃ〜っ!」
 もっともである。
 だが、クラスの一同は、小牧に文句を言えば、なんとかなるとでも思っているのか、
口々に好き勝手なことを叫んでいる。
「もぉ〜! まだ話が残ってるのぉ〜っ! 静まれ静まれーってばぁ〜っ!」
 ポムポムと教卓が叩かれた。
 ……?
 もしかして、威嚇しているつもりなのだろうか?
 教室の一同全員が怪訝そうな顔をしてから、また騒ぎ出しそうになったが。
「う……ぅぅう……」
 真っ赤な顔で、目の端に小さく涙をためて、小牧が怒った様子を
見せると、さすがに静かになった。
『泣く?』
『おいおい。こりゃマズいぜ』
『やばい、まじ泣き寸前だ』
『ストップ。ストップ。これまでっ』
 いかなる魔術か。
「それではぁ、遅刻については、特に朝練をやっているクラブに、
注意が出ています。 体育部に所属してる人は、早朝のクラブ活動についてぇ……」
 のんびりとした報告が続く中。
 さきほどまでの喧噪が嘘であるかのように、クラスの連中は大人しく
小牧の言葉に耳を傾けている。
 小牧が手にしているのは、報告がまとめてあるプリントの束。
「はい。それでは最後に。必要な人はプリントを取りに来て下……きゃわ!?」
 うつむき加減になって、教卓の上でトントンとプリントをまとめる愛佳は、
顔を上げた時、目の前にクラスの半数以上が自分の前に集まって、我先にと
プリントに手を伸ばしてくる光景に目を回していた。
「あ、あう……み、みなさん、順番にね?」
 知るものか。
「あわわ、だから、みんな順番に……それとこれ混ぜちゃ……いやぁ〜〜!」
 小牧の事情などには構わず、一分でも早く家に帰りたいクラスの連中は
好き勝手に手を伸ばして、プリントを強奪している。
「ダメぇ。みんな、落ち着いて〜〜〜!?」
 そう言う小牧が一番落ち着いてないよなあと思いながら、自分の机の上で、
貴明は対岸の火事を見守っていた。
 小さな体をチョコマカチョコマカと動かしてプリントを渡そうとする小牧に
対して、みんな、好き勝手にプリントを持って行っている。
 机の上に置いて、勝手に取らせればいいのに。
 なぜか、小牧は必死に手渡しで渡そうとして、事態を悪化させている。
「はわわわわわ〜〜」
 アクビを一つ、貴明がしてしまった頃。

「いやぁ〜! 今だれか、あたしの胸さわったぁ〜っ!」

 シンと、水を打ったように教室の中が静まった。
 目の端に涙を溜めて、フルフルと肩を振るわせて、怒っている小牧。
「向坂……あんた、最低よ」
「雄二。人間にはやっちゃいけないことがあるんだ」
「ああ。見損なったぜ」
 なぜかクラスメイト全員、貴明の後ろの席に座っていた雄二の顔を
怖い顔でにらんでいた。
「待てっ! 俺は怪物ランドの王子様とかヨガマスターじゃねえっ!
こっから、どうやって委員長のオッパイを揉むんだよ」
「向坂なら、やりかねないよねえ」
「吐け。どんなトリックを使ったんだ?」
「そうだ。お上にも情けっていうものはあるんだぜ? 今なら、石抱き
六枚で許してやる」
「ふっ、ふざけんな、おまえら!」
 雄二の言うことなどには一切耳を貸さずに、クラスの一同が雄二を
教室の床にムリヤリ正座させて、その上に国語辞典やら英和辞典やらを
置こうとしていた頃。
「悪い、悪い、委員ちょ〜。でも、うちは胸なんか触ってへんよ〜」
「当たったもん〜。ひどいよ〜」
 教卓の方で、小牧と女生徒の呑気な声が響く。
「まあ、日頃の行いってやつだな」
「そうだな。向坂だから」
「そうだ。俺達は悪くない。むしろ正義」
「てっ、てめえら……」
 雄二とクラスの連中の仲に暗く深い溝ができそうになっていた。

「委員ちょ、もう帰ってええの?」
「そうだよ。雄二祭りが終わったんだから、早く帰らせてくれよ、委員長」
「おまえら、後で仕返ししてやる……で、委員ちょ?」
 あんまり、みんなが委員ちょ、委員ちょと言うものだから。
「うぅぅあぁぁ……あああたしは委員長じゃない〜〜〜!」
 小牧はついにキレてしまった。
 小牧愛佳が働いている部署は、クラスの副委員長。
 実際の委員長は先月、帰り道に通り魔に襲われて揉み合いになり、
入院しなければいけないほどの怪我を負ってリタイア中。
 委員長の仕事をサボってばかりのダメ男であったが、空手部出身の
腕っ節の強さにはクラスのみんなが一目置いていたので、彼を怪我させる
ような通り魔がいたことに正直、驚いていた。
「あたし……委員長じゃないのにぃ〜〜」
「でも、委員ちょ」
「泣くなよ、委員ちょ」
「そうだ。あなたには笑顔こそ似合うよ、委員ちょ」
 泣きそうな小牧をなだめようとしているのか、マジ泣きさせようとしているのか。
 実質、真委員長が入院する前からクラスの仕事は副委員長である小牧の
手によって回されていたので、みんな、悪気はなかった。
「押忍っ! ただいま退院したっス!」
「委員長!!」
 野太い声。
 救われたかのように小牧が黄色い声を上げた。
 教室の出入り口の前に立っているのは、空手着を着た真委員長。
 どこからどう見ても男くさいのに、前髪だけは女のようにフワフワと
丸く伸びているのが、なんだかおかしかった。
「委員長、ザビ家の三男みたいに前髪クルクル指で回してないで、
職務に復帰してくださいっ!」
 事態の収拾を真委員長に押しつけようとしている辺り、小牧もなかなか
どうして、したたかである。
「すまぬ、小牧君。俺は今日から山に籠もることにした」
「へ?」
 小牧を初めとするクラス一同が、キツネにつままれたような顔をしていた。
「たかが通り魔風情に襲われたくらいで倒れるなど、カラテカには許されない
失態。俺は山にこもり、委員長を捨てて虎となるっ!」
「そうか。そういや、こいつって委員長だったよなあ」
「うん。波動拳とか撃てそうでも、仕事は全然してなかったもんなあ」
「……社会不適応者」
 バンっ!と、真委員長が空手着の前をはだけた。
 Tシャツも着ていない大胸筋の上に斜めに浮いているのは、醜い刀傷。
「……それ、通り魔にやられた傷?」
「まさか。あんたに、そんな傷を負わせる奴がいたなんて」
「ああ……そうか。それなら仕方ないよな」
 小牧以外の全員が、真委員長の迫力に飲まれそうになったが。
「仕方なくないぃ!」
 小牧だけはまだ往生際悪く、バタバタと手を振っていた。
「委員長。男には、いや漢にはやらねばらなぬことがあるのだよ」
「そや。止めたらあかんで、委員ちょ」
「ガンバレーっ!」
 軽く手を上げて。
 もはや立ち入ることもない教室を背にして、真委員長は去っていく。
「小牧君。後は君に任せた。今日から、小牧委員長と名乗るがいい」
 無責任に、背中はそう語っていた。
「なっ、名乗るがいいじゃ、ない〜っ!」
「万歳っ! 小牧新委員長万歳っ!」
「我がクラスに栄光あれっ! 小牧愛佳に栄光あれっ!」
「そそそ、そんなあああぁぁ〜〜〜!?」
 つられて、他の生徒と一緒に万歳しながら。
 かわいそうだなあと、他人事ながら、貴明は教卓でジタバタと暴れている
小牧の姿を観察していた。


 今日の昼ご飯はラーメン定食であった。
「おお〜い、河野」
 油っこいラーメンの後味に難儀しながら、貴明が教室へと戻っている道中。
 担任教師に呼び止められた貴明は、大量のプリント束を手渡されて、
とても迷惑そうな顔をしていた。
「委員長に渡しておいてくれ。最近、物騒だからな。生徒の帰宅時間とかを
把握するアンケートを行うことになった。授業最後に配るように伝言たのむ」
 たのむって申されましても。
 まるで電子レンジのスイッチを入れるかのような無愛想な様子で去っていく
担任に対して、貴明は何か言いたくなったけれども。
 なにか言ったところで、手の中にあるプリントが消えて無くなってくれる
わけでもないし。
 そのまま、教室へ向かって、生活時間帯アンケートが書かれたプリントを
持って教室へ戻ることにした。

「おーい、小牧さぁん」
「ん? 河野くん? どうしたの?」
 トコトコと教室の前を歩いていた小牧に声をかけると、彼女は嬉しそうに
笑って、「なに、なに?」といった様子で貴明に近寄ってきた。
「えっと、これなんだけど……」
 手に抱えたプリントの束を見ながら、貴明が細かいことを告げようとする前に。
「委員ちょ。次の化学って、特別教室に移動だっけ?」
「ねえ、委員ちょ。レポートって、いつまでに出すんだっけ?」
「委員ちょ。ところで体重どれくらい?」
「宿題の期限って今日じゃなかったよね、委員ちょ」
「ううー」
 矢継ぎ早にクラスの連中に質問されてしまった小牧は、泣きそうな顔で
頬をふくらませていた。
 本当にハムスターみたいだなあと貴明は思ったが。
 マジ泣きされると大変なので、プリントを手に抱えたままで黙っていた。
「いいんちょいいんちょって、それ、委員長の仕事じゃなぁい」
 まあ、それはそうなんだが。
「でも、委員ちょに聞くのが一番早いし」
「そう。委員ちょに聞くのが一番安全だし」
「委員ちょ、怒らせても全然怖くないし」
 顔を紅潮させて。
「むきーっ!! 次は教室で授業、レポートは来週月曜日に提出。
女の子に体重のことなんか聞くなーっ!」
 ごもっとも。
 用事を終えた三人はどこかに逃げ去って、怒鳴ってしまった小牧は、
疲れたように肩で息をしていた。
 そんなにイヤなら答えなければいいのに。
「ふぅ……それで、河野くん。用事ってナンですか?」
「これ。最近物騒だから、帰宅時間とかを把握しときたいんだって。
ほら、これがアンケート用紙。授業の最後に、みんなに配ってくれってさ」
「は〜い。かしこまりました」
 そう言って、小牧は両手を出してプリント束を受け取ろうとしたが、
結構な重さがあるので、貴明は彼女を前に歩かせて、一緒に教室に
入るようにうながした。
「優しいんですね、河野くん」
「いや、女の子に重いものを持たせたらいけないだろ」
「ううん。あたしのこと、委員ちょって呼ばないし」
「あ、委員ちょ〜。聞きたいことがあるんやけど〜」
 タイミング悪く、小牧を委員長と断定する関西弁が教室の中に
響き渡った。
 用事を終えて。
 教卓にプリントを置いて、厄介ごとから解放されようとしていた貴明の
横に戻った小牧は、窓の外を見つめて、溜め息をついていた。
「どうせ、あたしなんて、みんなに委員長として扱われて生きていくしかないんです」
「いや、まあ。頼りにされているってことだし」
「そう。便利に使われて、そのまま一人でコテンって死んじゃうんです」
 コテンDEATH。
 それは小動物系の小牧にピッタリの最後に思えたが、言うのも可哀想なので、
貴明は難しい顔をして黙っていた。


 放課後の教室だというのに、教室には珍しく、ペンを走らせる音が響いていた。
 一週間の生活時間帯を書き込むアンケート用紙。
 それは結構な量があったが、あんまり書き込むと自分のプライバシーを
暴露してしまうことになるので、みんな真面目に、慎重に書いている。
『家を出る。
 授業受ける。
 帰る。
 ベッドで寝る』
 昔のアドベンチャーゲームだって、もうちょっとマシなイベント量を誇る
だろうと、貴明はアンケート用紙に消しゴムをかけた。
 教卓にしがみついて、自身もアンケート用紙を書いていた小牧は、
貴明よりも難しい顔をして、小さな字を書き込み続けている。

 委員長ぐらいだったら、きっと、スケジュールでいっぱいなんだろうなあ。

 盆暗人生を過ごして後悔もない自分を省みて、貴明はなんだか悲しい気分に
なった。
 あきらめて、消しゴムで消したのと同じ内容を用紙に書き込んで。
 貴明は小牧委員長がアンケートを書き終えるのを静かに待った。
「よしっ!」
 なぜか小さくガッツポーズをした小牧は、教卓から顔を上げて、
アンケート用紙を手に持って待ちかまえているクラスの連中に声をかけた。
「では、書き終わった人は教卓へ提出をお願いします」
 大容量を書いていた小牧と違い、みんな、普段の予定なんて詰まってないから。
 クラスメイトのほとんどが小牧の立つ教卓へ、砂糖に群がる蟻のごとくに
突進するという悲劇が、本日もまた繰り返された。
「はぅあっ!?」
 なんで、書けてない奴を飛ばして前に集めさせないのかなあ。
 俺だったら、こうするのに、と無意味な感想を抱きながら。
 貴明は人混みに飲まれて溺れている小牧の姿を観察している。
「はい、委員ちょ」
「ほれ、委員ちょ」
「あいよ、委員ちょ」
「ハウス。委員ちょ」
「あたしはワンコじゃない〜〜!!」
 十数分後。
 人の波が去り、教卓の上にはグッタリとした小牧が突っ伏していた。
「はい、小牧さん」
「河野くん……やっぱり優しい」
「いや、早く帰りたいから」
 まあ、そうは言っても。
 結構な重さがあるアンケート用紙の束を女の子一人に運ばせるのは
酷だったので。
 行きと同じようにプリント束を抱えて、貴明は職員室へと向かうことにした。

「河野くん。重くない?」
「いや、全然。小牧さんこそ、先に返っていいよ」
「や、そんなわけには」
 ゴイン!
 すれ違う女子生徒を避けようとして、横に動いた貴明から距離を取ろうとした
小牧は、廊下から着きだした柱壁に思い切りオデコをぶつけてしまう。
「あうう〜」
「小牧さん、痛くない?」
「あいたた……うん、大丈夫。こういうのってよくあることだし」
 涙目になりながらも健気に微笑む小牧を見て。
 よくあることじゃないよなあと思いながら、貴明は廊下を歩いた。
「ねえ、河野くん」
「なに?」
「どうして、あたしに優しくしてくれるの?」
「優しいってわけじゃ。小牧さん、一人で大変そうだから」
「そうでもないけどなあ」
 また女子生徒の肩が触れそうになったので、貴明サイドステップ。
 それに合わせて、小牧もサイドステップ。
 ゴイン!
「あうっ!!」
 さきほど打ったところをまた柱の壁で痛打してしまった小牧は、
ヘナヘナと尻餅をついてしまった。
「小牧さん、もしかして瓦割りに挑戦しようとして、額を鍛えているとか?」
「そんなわけない〜」
 そりゃそうか。
 貴明が手を差し出すと、しゃがみこんだ小牧は困った様子で、差し出された手を
見上げていた。
「だ、だいじょぶ。一人で立てるから」
「そか」
 赤くなったオデコを手で押さえながら、小牧はヨロヨロと立ち上がったが。
 まだダメージから回復しきっていないのか、足下がふらついている。
「あうう〜〜」
「ちょ、危ないって、小牧さんっ!」
 ヒョイと、貴明が手を伸ばして、小牧の背中を支えた。
「き!」
「き?」
「きゃあああああああああ!!!」
 いきなり発生した悲鳴に、廊下を歩いていた生徒達が一斉に貴明たちの方を
振り向いた。

「ごごめんなさいっ、ごめんなさい、ごめんなさぁいいいい」
「いや、ちょっと冷たい目で、みんなに見られただけだし」
「ごめんなさいっ。河野くん、危ないからって手を出してくれただけなのに。
ごめんなさいっっ、それなのに、あたしったら、悲鳴なんか上げちゃって」
 なぜか廊下を歩いていた雄二が竹刀を持った女子風紀委員たちに引っ立てられて
いたが、そういう面白い記憶は無視して、貴明は職員室の方まで歩いた。
「はい、小牧さん」
「え?」
 小牧にプリント束を渡すと。
 貴明は何でもない様子で職員室から立ち去る。
 ちょっと恥ずかしかったけれども。
 いいことはできたから。
 満足そうに、貴明は家路に向かって歩き始めることができた。


「おい、貴明〜」
「なんだ、雄二? 顔一面にミミズ腫れなんか作って? ブリブリの跡か?」
 ブリブリとは、容疑者を逆さ吊りにして竹刀で叩きまくるという伝統的尋問法の
一つであり、ちょっとSが入った女子剣道部の部長が得意としていた。
「『跡か?』じゃねえ!! おまえと委員長のせいで、もうちょっとで『僕がやりました。
ごめんなさぁい!』って、虚偽の自白をしちまうところだったじゃねえか!」
「まあ、普段の行いの差ってやつだよな」
「てめえ。そりゃ、おまえが妹萌えだって知れ渡っているからだろ」
「俺、妹いないし」
「このみのことだ、このヤロウっ!」
 ふざけてつかみかかろうと……いや、ちょっと本気入ってつかみかかろうとする
雄二を軽くいなしながら。
「大体、小牧は悪くないだろ。驚いて叫んだだけなんだから」
「うっせえ。似た者同士、純粋無邪気な俺に迷惑かけやがって」
 純粋無邪気なエロ学生。ある意味、一番タチが悪い。
「俺と小牧が似たもの同士?」
「女嫌いと男嫌い。性別が違うだけで、まるっきり、そのまんまじゃねえか」
「ふ〜ん。小牧って男が苦手だったんだ」
「おまえ……一年もクラスメイトやっているんだから、それぐらい把握しとけよ」
 呆れたような、雄二の溜め息が漏れる。


 基本的に、帰宅部というのは帰宅するのが活動だからして。
 下駄箱に上靴をしまった貴明は、校舎から出て一路、校門を目指した。
「ふ……ぅ……ふぅ……」
 風が鳴っている。
 寒い冬を抜けて、ようやく迎えた春。
 風は心地良く、花は咲き誇り、小鳥たちは恋の歌を歌う。
「ふぅ、ふぅ……」
 貴明の頭の中も春になっているのか。
 鳴る風音が、やけに艶めかしい響きを持って耳に届いた。
「っていうか、風じゃないよ、これ」
 そうですか。
 面倒くさいことは嫌いだが、ニヒルでもクールでもない貴明は、
どこかで息を切らしている女子生徒がいるのだと思って、辺りを見回した。
 聞こえてくるのは、植え込みの方。
 だれか貧血でも起こしたのだろうか。
「よいしょっと」
 植え込みをまたぐと。
 段ボール箱が幾つも積まれていて。
「うぅ、うぅ、う〜ん」
 その荷物に囲まれて、小柄な女の子が息を切らしながら、なんとか、
重い段ボールを動かそうとしていた。
「なにやってんの、委員長?」
「え? あ、わわわわ。こっ、河野くん!?」
 息を切らした真っ赤な顔で、頭をペコリ。
 つられて、貴明も頭を下げてしまったが、その後で、委員長が置かれた
状況に疑問を持った。
「どうしたんだよ。この大荷物?」
「図書館に入る新刊です。本来なら、図書委員全員で手分けして運ぶ手はず
だったんですが。予定時間の夕方よりも早く、運送屋さんが来ちゃったんですよ」
 怒ったように、段ボールに張られた黒いネコのシールを指で弾く小牧。
「ふ〜ん。それで、なにを手伝えばいい?」
「てっ、手伝うって……いいですよ。なにも問題ないですから」
「でも、動かそうとしていただろ?」
「はい。あの、雨が降りそうだと思ったので」
 不安そうな顔で、小牧は真上を向いた。
 確かに、黒ずんだ分厚い雲が頭の上を覆っている。
 いつ、ポツリと雨が降り出してきてもおかしくはない。
「よし。それじゃ、あっちまで運ぶよ」
 本というのは、紙の塊なので、かなり重い。
 ヒョイとはいかないまでも、貴明はしっかりとした手つきで段ボールを
持ち上げた。
「ホント、いいですから。手伝ってもらわなくても」
「うん。好きでやっていることだから、放っておいて」
「あ、あ、あ……すみません」
「謝ることじゃないし」
 小牧は自分も手伝うとばかりに、両手で段ボールを抱え上げようとしたが。
「う〜ん、うぅ、ぅうううう」
 唸り声が聞こえるばかりで、段ボールは持ち上がらない。
 小牧の働きには期待しないで。
 テキパキとした動きで、貴明は段ボールを全て、雨が降っても大丈夫な
屋根の下まで運んでしまった。
「……すごい。河野くん、サムソンのような働きぶりです」
 多分、力持ちの人のことなんだろうなと聞き流しながら。
「どうする? ついでに、図書室まで運んでしまおうか?」
「いえいえ、ご心配なく。もう少ししたら、図書委員のみんながやって来て
くれるはずですから」
 そう言いながら。
 小牧は段ボール箱を閉じているガムテープを一つ、ベリベリと剥いでしまった。
「おいおい。いいのか、勝手に剥いじまって」
「いいんです。これぐらい、特権の内ですから」
 中にあるのは、梱包材に囲まれた新刊の束。
「おろし立ての本の匂い……いいなあ」
 なにがいいのか、漫画もあまり読まない貴明には、よくわからない。
 新刊を一冊手に取り、小牧はフンフンと鼻を動かしている。
 男がパンティ相手に鼻を動かすと変態であるが、女の子が本相手に鼻を動かすと、
こんなにも絵になるのかと、貴明は変なことで感心してしまった。
「うふふ……どうせだから、もう一箱」
 まるで、クッキーの箱を開ける子供のような嬉しそうな表情で。
 小牧は、また段ボールの箱を閉じているガムテープをビリビリと剥がした。
「小牧さ〜ん。荷物って、それぇ?」
 いつの間にか集まってきた図書委員たちの言葉に、小牧の小さな体がビクンと
震えた。
「な、なんでもないですよ。検品していただけなんですから」
「え? きっ、きゃぁあああああああ!!」
 なぜか絶叫。
「な、なんで叫ぶんですか。なんでもないんですってば」
 両手をバタバタ。
「いや、いやあああああああああああ!!」
 でも、絶叫は止まらない。
「委員長、後ろ、後ろ!」
「ほえ?」
 振り向いた小牧の後ろで。
 調子の悪いバネ仕掛けの玩具のようにユラリと。
 大腿筋と腹筋の力だけで、奇妙な格好の男が段ボールの中から起き上がった。

「……」
 奇妙?
 目の前の男の格好は、ほぼ全裸。
 それだけなら、奇妙という言葉で差し支えない。
 かろうじて黒のビキニパンツだけは履いているから、お巡りさんが怒る
ぐらいで済むだろう。
 だが。
 手には皮手袋。
 脚には網タイツ。
 そして、なによりヘンだったのは。
 女物の花柄パンティを仮面代わりに顔に被っていることだった。

「いっ……」
「いっ?」

 小牧の前で、変態、そう、まさしく変態と呼ぶにふさわしい格好をした
男は小首を傾げた。
「いやぁああああああああああああああああああああああ!!!」
「ぎゃあああああああああああああああああああああああ!!!」
 小牧と貴明、周りの図書委員たち。
 何故か段ボールの中に潜んでいた変態男の登場に、全員そろって悲鳴を
上げている。
「落ち着きたまえ、私は怪しい者ではない」
 怪しさが1000万パワーぐらいある男は、落ち着き払った声で
鍛え上げられた全身の筋肉をピクピクと動かしたが、それはとても
気持ち悪かった。
「いやぁああああああああああああああああああああああ!!!」
「安心したまえ。何も怖がることはない」
「いやぁああああああああああああああああああああああ!!!」
「ドン、ウォーリィ。アイム、ユア、フレンド」
 こんな友達、欲しくないやい。
「仕方があるまい」
「いやぁああああああああああああ……あ?」
 ワシと、小牧の頭を手の平でつかむと。
「落ち着きタマえ」
 あろうことか。
 男は、自分の履いている黒のビキニパンツの中へ、小牧の頭を
突っ込んでしまった。

「……」
「……」
 水を打ったような静けさが辺りを包む。
 小牧愛佳。
 時折、男がクイックイッと腰を動かすと、ビクン、ビクンと手足が
痙攣する様子が、とても痛々しかった。
「変態秘薬。コカンキープ・グッスリネン」
 いや、どっちかというとグッタリしているし。
「……ある意味、無理エッチよりひどいわ」
 もっともなことを、一人の女子図書委員がつぶやいた。
「河野貴明」
「おっ、俺?」
 なにも見ませんでしたよーと立ち去って、さっさと家に帰って
寝てしまい、今日のことを忘れてしまおうとしていた貴明は、
いきなり変態男、いや変態仮面に名前を呼ばれて、硬直した。
「パスだ」
 ポンと。
 小牧を股間から引き抜いた変態仮面は、貴明に向かって、
彼女を投げてよこす。
「ひいいいいいい!」
 貴明が悲鳴を上げながら横に避けたので、目を回しながら
宙を飛んでいた小牧は、ズザザと音を立てて、鼻から
地面に着陸してしまった。
「……」
「……ひどいよ、河野君」
「おっ、俺!? ひどいの、俺!?」
 周囲の非難の目を受けて、貴明がうろたえた刹那。
「トウっ!」
 一飛びで、周りの人間たちの頭上を飛び越えて。
「フォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!」
 シュタタと軽快な足取りで、変態仮面は逃げ去ってしまう。
「だ、大丈夫か、委員長?」
「えぅああ。ひっ、ひどいよぉ、河野くん……」
「おっ、俺!? ひどいの、俺!?」
 なぜか非難を一身に受けることになった貴明の、惑乱の声が
響いていた。


 鼻に貼られた大きな絆創膏。
 あまりにも可哀想だったので、図書委員の誰もが心に鍵を閉じて、
悪夢のような一時を忘れ去ることにした。
 忘れていないのは、河野貴明と小牧愛佳の二人だけ。
「小牧さぁん。勘弁してよ。あの状況だったら、誰だって逃げるって」
「や、大丈夫ですよ。全然平気なんですから」
 ごめんって、何度も謝ったのに。
 やっぱり、小牧は視線を合わせてくれなくて。
 仕方なく。
 三日も経ったというのに、貴明は小牧の後をついて歩いていた。

 小牧が抱えているのは、小さな段ボール。 
 当然のように、それよりもずっと大きな段ボールを貴明は持つ。
 放課後。
 二人がいるのは図書室で。
 新しく入った本の分類とバーコード貼りつけが終わったので、
各本棚に新刊をしまっていた。
「別に、手伝わなくてもいいんですよ、河野君」
「駄目。委員長が許してくれるまで、手伝いを続ける」
「それじゃ、当分許しません」
 手伝って欲しいのか、欲しくないのか。
 どうも、小牧の心情はわかりにくい。
「ふぅ、ふぅ」
 それでも、小さな女の子が汗だくになって働いている姿を
放っておくことはできなくて。
 自分でも驚くぐらいテキパキとした動きで、貴明は本棚に
本を仕舞っていった。

「ねえ、河野くん」
「なに、委員長?」
「図書委員でもないのに、どうして手伝ってくれるの?」
「委員長だって、図書委員じゃないでしょ」
「あたしは文芸部員だから。河野くんはどうして?」
 夕暮れが窓から差し込む図書室で。
 全ての新刊を仕舞い終わった小牧と貴明は、本棚に背中を
もたれかけさせて、努力の成果をしみじみと味わっている。
「……半分は罪悪感で、半分は義務感かなあ」
「別に、河野くんが悪いわけじゃないから」
 すり剥けた鼻の頭をさすりながら、小牧は微笑む。
 ひどい目に遭った。
「酷すぎるよなあ。あの変態」
「はい。あのまま気を失って、どこか遠くの世界に飛んでいって
しまうんじゃないかって思いました」
「ハハハ……」
 なんと答えを返したらいいものか。
 困った貴明の乾いた笑いが響いた。
「ねえ、小牧さ〜ん。もう図書室閉めるよぉ〜」
「は〜い……それじゃ河野君。帰りましょ」
「う、うん……」
 パタパタと足音を立てながら図書室から立ち去る小牧。
 その小さな体を。
 あの時、どうして受け止めてやれなかったのかと。
 貴明はまた、罪悪感を募らせた。


 小牧の鼻の頭にある絆創膏。
 それが剥がされるぐらいまでは。
 クラスのために、学年のために、図書室のために。
 何も報われないというのに、小さな体で走り回っている女の子を助けようと、
貴明は心に決めてしまったので。
 ちょっと迷惑に思われても、貴明は毎日のように小牧を手伝っていた。
「河野くん、優しいんですね」
「そんなことないよ。小牧さんには敵わない」
「あたしは優しくなんかないから」
 小牧は人を動かすことに特別な才能がある少女のようだった。
「あっ、河野くん。こっち、こっち」
 図書委員にまで名前を覚えられてしまって。
 小牧委員長の忠実な部下のように、テキパキと貴明は体を動かしている。
「小牧さん、いい彼氏を見つけたね」
「うん。優しいし、寡黙で格好いいし。小牧さんにお似合いだよ」
「かっ、彼氏じゃない〜〜」
 ちょっと迷惑に思われても、貴明は毎日のように小牧を手伝っていた。

 そんな、ある日。
「ねえ、河野くん」
「どうしたの、小牧?」
「河野くん、毎日、図書室に来るっていうことは本が好きなの?」
「いや、そんなことはないけど」
 正直、貴明は漫画もろくに読まない。
 いろんな媒体が発達してしまった今、紙に書かれた文字を読むような
作業は面倒くさいと思う貴明は、平均的な男子学生だった。
「もう嘘ばっかり」
 それでも、クラス委員の仕事はおろか、図書室の雑事まで手伝って
くれる貴明の好意の理由がわからなくて、小牧は懸命に言い張る。
「そんなに本が好きなら、お見せしましょう。我が学園に存在する
秘密の場所を」
 ちょっと芝居がかった様子で。
 謡うように小牧は宣言する。
 鼻の頭の絆創膏は、もう外れかかっていた。


 小牧が図書室のカウンターから案内してくれた部屋は、図書室の
書庫だった。大半は昭和に書かれたような古い本ばかりだったけれども、
静かに居並ぶ本棚の列は、なにか神殿のような神々しささえ感じさせて。
「いいね」
 鼻孔いっぱいに広がる紙の匂いに、貴明は微笑みを見せた。
「でしょう」
 本棚を背にした小牧は、いつものどこか怯えているような態度は
消えて、堂々と胸を張って、自慢そうに書庫の中に立っている。
「ここが小牧さんの秘密の部屋?」
「私の部屋じゃないけど……半分は似たようなものかな」
 だれも読まなくなった本が並ぶ書庫は、だれも入ることなどなくて。
「ここの本を誰かが読むの?」
「ええ。きっと、私達の後輩の誰か。名前も顔も知らない誰かが、
きっと読むと思うから」
 その可能性を否定し尽くすことはできないから。
 貴明は黙って微笑み、書庫の中で微笑む小牧を見つめていた。
「……? や、あはは。面白くなかった?」
「いや、そんなことないけど」
「えと……実は今、この書庫の整理をしていて、有志を
募っているところなんだけど」
 伏し目がちに、申し訳なさそうな態度で小牧はつぶやく。
「や、その、別に、河野くんに手伝って欲しいとか、そんなことは
全然なくて……いや、全然ってわけじゃないけど」
 そうまで言われてしまったからには、断るわけにはいかないし。
「それじゃ明日からかな」
「え? あのあの、なにが?」
 それでも、嬉しそうに貴明の顔を見上げて。
「小牧さんの秘密基地の建築作戦」
「もうっ。だから、あたしの部屋じゃないですってば〜」
 笑い声が二つ。
 訪れる者も少ない書庫に。
 

 書庫の整理は、女の子一人では大仕事であった。
 有志を募っていると小牧は言ったけれども、実際、放課後の貴重な時間までを
潰してくれる物好きなど、そうそういなかったから。 
「河野くん。そろそろ、お茶にしようか」
 気を使って、家からティーセットまで持ってきた小牧が用意したカップは
二つだけだった。

 書庫の中にある応接室で。
 甘い紅茶の香りが、貴明の鼻孔をくすぐっている。
 いつも家で煎れているのか、ティーポットを手に持つ小牧の姿は、
なかなか様になっていた。
「ふーん。スコーンか」
「そうそう。河野くん、男の子なのに、よく知っているね」
「そりゃまあ、一通りは」
 向かい側のソファーに座る小牧は、しっかりと膝を閉じて、
それでも、どこか嬉しそうで。
「うん。紅茶も濃いめに入れてあって美味しい。やるな、お主」
「えへへ〜。紅茶にだけは、ちょっと自信があるのですよ」
 女の子が苦手な貴明。
 男の子が苦手な愛佳。
 ソファーで向かい合って座り、一緒に紅茶を飲むなんて場面は
想像したこともないけれど。
 実際にやってみると、それはなかなか心地良くて。
「お代わりはどう?」
「それじゃ遠慮なく」
 スコーンをつまみながらティーポットに手を伸ばした貴明は、
「あっ!?」
 指先に硬い陶器ではなく、同じくらいにスベスベして、そして
柔らかい感触を感じて、頬を赤らめた。
「ごめん。わざとじゃない」
「だ、だいじょぶ、だいじょぶ……うん、多分、大丈夫」
 首をすくめて、耳まで真っ赤にした小牧。
 貴明がつかんでしまったのは、ティーポットの取っ手ではなく、
貴明にお代わりを注ごうとして、同じように手を伸ばした小牧の
指先だった。
 気まずい空気をぬぐい去るキッカケになればと。
 貴明はもう一度、ティーポットに手を伸ばす。
「ひあっ!?」
 似たもの同士は、考え方や行動まで似るものなのか。
 ティーポットの取っ手をつかもうとしていた貴明は、同じように
取っ手をつかもうとしていた小牧の手を、完全に握りしめて
しまっていた。
「ひゃぁああんっ! 河野くん、手を離してぇっ!」
「危ないっ! 小牧さん、ティーポットを振り回したら危ないってばっ!」
 閑話休題。


「ふぅ……平常心、平常心」
 それでもまだ真っ赤な顔をして。
「大丈夫、小牧さん?」
 手を握ったくらいで、あんなに取り乱すこともないのにと、貴明は
不思議そうな顔をしていた。
「ごめんなさい……だって、あたし、男の人と手をつないだの、これが
初めてかも」
 もじもじと指先を突き合わせて。
 それでも穢れなき乙女は、恥ずかしそうに自分の純真さを告白する。
「は、初めて?」
「うん……お父さんとかは別だけど。男の子の友達とか、子供の頃から
全然いなかったから」
 ため息混じりに目を細めて、小牧は先ほどまで自分の手をつかんでいた
貴明の手を見つめた。
「ご、ごめん」
「ううん、いいの。別に、いやじゃなかったから。ただ驚いただけ」
 おずおずと、貴明の顔へ視線を移しながら。
「河野くんはイヤじゃなかった?」
「え? 俺は別に、手をつないだくらいは何ともないから」
 それ以上だと、途端にダメになるが。
「え? 河野くん、なんともないの? 女の子に触り慣れているの?」
「触り慣れているというか。背中に飛び乗られたりすることはあるから」
「ふーん……だれ?」
 だれ? という言葉に鋭い棘がこもっているのに、貴明は
気づかない。
「近所の幼馴染み。一歳年下だけど」
「へ、へえ〜。一歳しか違わないんだ」
 カチャカチャと、いらだたしそうに小牧はティースプーンで自分の
紅茶を掻き混ぜている。
 ちょっとギクシャクした、午後の一時だった。
  

 小牧はいつも、どこかで走り回っている。
 今日も今日とて、放課後だというのに他のクラスの生徒たちの用事を
聞いてやり、委細もらさずメモを取っている。
 手にしたメモ帳は、貴明も持っている生徒手帳だった。
「小牧」
「あ、どうしたの、河野くん?」
「今日は行かないの?」
 鼻の頭に貼られていた絆創膏はすでになくなっていたけれども。
「う、うん。でも、今すぐというわけには……」
 申し訳なさそうに、小牧は話を聞いていた生徒の顔を振り返ったが。
「小牧さん。亭主の言うことは聞くのが夫婦円満の秘訣だよ」
「そうそう。お幸せに」
 完全におもしろがっている生徒たちは、ニコニコと笑って手を振っていた。
「ふっ、ふうふ!? せいかつ!?」
 そこまで言ってない。
「行こうか、小牧さん」
「ひゃうっ! あう、あう、河野くん。手を握らないでぇぇうああぁ〜〜」
 照れくさくなって、貴明は小牧の手を握って脱出したのだが。
「すごい。河野くんとやら、早くも亭主関白だ」
「夜も激しいのかしら」
 夜というか、これ以上は何もできんわい。
「激しくない〜っ! むしろ穏やか〜っ!」
 地雷を践みまくっていることにも気づかず。
 小牧はわめきながら、手をバタバタと振っている。 


 書庫での整理作業は単調なもので。
 各冊子に分類のためのバーコードを貼って、所定の本棚に収めるという
だけの、誰にでもできる仕事。
 誰にでもできる仕事だけど、誰もやりたがりはしないので、物好きな
女子学生と男子学生の二人だけが、黙々と作業している。
「小牧さん。ああいうのって、面倒くさくない?」
「さっきのこと?」
 本棚を挟んで作業をしながら、小牧と貴明は雑談を続けている。
「ん〜。それじゃ河野くん。こうして、あたしを手伝っているのは
面倒くさくないの?」
「まあ、これはできることだから」
「うん。あたしもできることしかやってないよ」
 できることだから。
 そんなことだけで、人のために誉められもせず、走り回れるものだろうか。
 それでもまあ。
 小牧をお人好しだと断じてしまうのは傲慢だとは思ったけれど。
 お人好しという言葉が誉め言葉になるというのであれば。
 きっと、小牧はお人好しなのだろうと、本を収めながら、貴明は思った。
 
 お茶の時間。
 鼻の頭の絆創膏も取れたので、貴明は自分が彼女につきまとうことになって
しまった原因について、言及してみることにした。
「結局、あの変態男、つかまったのかな?」
「変態男?」
「ほら、段ボール箱に隠れていたパンツ男」
 小牧の顔がわずかに曇る。
「あっ、あはは……きっ、きっと逃げちゃったんじゃないかな、ウン」
「今度遭ったら、やっつけてやる」
「そ、そう? でも、生兵法は怪我の元っていうよ、河野くん」
 貴明が何を言おうとしているのか察して。
 小牧は前もって、手のひらを貴明の前に置いた。
「……本音を言えば、あの時、助けて欲しかったけど」
「ごめん。本気で怖かったから」
 ブリーフ一丁。
 足には網タイツ、顔にはパンティの仮面。
 全身は躍動する筋肉の塊。
 怖いというか、キモ過ぎる。
「でも、次は逃げない。誓うよ」
「ちっ、誓うって……そんな大げさな」
 男の子と付き合うことのなかった小牧は、男の子の決心の強さというものを
知らない。
 けれども。
 そういう貴明が、かなり格好良いと思えてしまったので。
 顔を赤らめて、
「うっ、うん。よろしく、お願いします」
と、とても女の子らしく、うなずいてしまった。


「河野くんって、やっぱり優しいね」
「そうでもないけど。小牧の方が優しいだろ。今日も、誰かが
小牧に頭を下げていたし」
「あたしは優しくなんかないよ」
 小牧は人間と人間のつながりを器用にたぐる才能を持っている。
 友達がいない人間などいないから。
 誰かが誰かの知り合いである以上、困っている誰かを元に辿っていけば、
その困難を払うことができる力を持つ誰かに辿り着く。
 これは誰にも出来ることではないけれど、小牧だけは魔術のように、
その糸をたぐることができたから。
「優しいのは、みんな。今日の場合は、場所を貸してくれたバスケ部の
部長さん」
「それでも、頭を下げた先にいたのは小牧だよ」
「そんな大したことじゃないし」
 本棚の向こうで、本当に何でもないことだと、小牧はころころと笑う。
「……困っている時って悲しいよね?」
「そりゃまあ」
「それがいつか自分の身に降りかかる。それで、誰も助けてくれない。
そういうのって、絶対に悲しいよね?」
 本棚の向こうにいる小牧の表情はわからなかったけれど。
 何が言いたいのか、よくわかってしまって、貴明は黙っていた。
 自分の痛みと同じくらい、他人の痛みがわかるのならば。
 そんな奇跡みたいな性格の持ち主であれば。
 人のために働くことは当たり前で、なんでもないことなのだろう。
 空が青ければ、茨の道も歩いていける。
 そういうコを守りたいって。
 本当に、そう思ったから。
 貴明の誓いは誓いのままで、その魂に刻み込まれる。

 下校時間が近づき、帰り支度を始める中。
 自分よりずっと小柄な少女の背中がなんだか、とても眩しく見えて。
 貴明は微笑んで、目を細めていた。


 平行四辺形の白目を細めて。
 書庫に籠もっていた変態仮面、三十代独身は、小牧の置いていったティーセットで
紅茶を煎れて、専用の磁器のティーカップで、黄昏のティータイムを
楽しんでいた。
 貴明の学校に潜入したパンツ男こと、変態仮面アイアウス。
 お気に入りの本、ジョルジュ・サンドの『愛の妖精』を読みながら。
「フフ。私の秘薬が効いて、あの子たちも元気になったようだな」
 絶対に事実と違うことをつぶやいていた。


 終業式を明日に控えて。 
 一年生最後の授業を終えた貴明は、小牧の姿を目で探そうとして
苦笑してしまった。
「忘れ物ってわけでもあるまいに」
 ほんのわずかな時間だったけれども。
 毎日のように、小牧と一緒に書庫にこもって整理を続けてきた時間は、
なんだか、とても楽しかった。
 小動物のように慌てふためく姿だけではなく。
 献身的に働く彼女の本音を、ほんの少しだけでも聞けて、嬉しかった。
 席を立ち、自分が座っていた椅子を眺める。
 一年間つきあっていた相棒は、4月からは新しい生徒を座らせて、
また教室で働くことになる。
 早くて、あまりにも早くて、あっという間だったから。
 せめて最後は思いをはせて、貴明は椅子の上に手を当てた。
「河野くん。なにか忘れ物?」
 いつもとは反対に、横に立った小牧の方から話しかけられて、
貴明は言葉に詰まる。
「いや。来年度もガンバレよって、こいつに言っていたの」
「うん、そうだね。きっと、来年も再来年も、河野くんの椅子は
頑張って働くはずだよ」
 なにかやり残したような。
 まだ、なにかできるような。
 そんな名残惜しさだけがつのる教室。
「なあ、小牧」
「はい?」
「一緒に帰ろうか」
 一人で帰るのも寂しくて、そんな思いから発した言葉だったけれども。
「……うん。そうしよっか」
 たっぷり一分悩んだ後、恥ずかしそうに、小牧は手を差し出した。


 茜色に染まる帰り道は、なんだか切なくて。
 それが書庫の作業が当分できなくなるということが原因だったとは、
二人とも気づかなくて。
「小牧は休みの間、どこかに行くの?」
「大阪に、おじいちゃんとおばあちゃんがいるから。そこに行く予定です」
「へえ。小牧って、大阪出身なんだ?」
「生まれだけ。育ちはずっと、こっちですから」
 確かに、小牧に大阪弁のイントネーションはない。

「ぽぽぽぽぽぽ!!」

 ヘンな人がいた。
 両手でしきりに、S・O・Sを描きながら。
「ぽぽぽぽぽぽ!!」
 と、しきりに叫んでいる、ヘンな人がいた。
 夕日を反射しているのか、やや赤茶けた髪。
 身長は成人男性だというのに、小牧とあまり変わらないくらい。
 大きな、つぶらな瞳に牛乳瓶の底のような眼鏡をかけて。
 バニーガールの服装をしたオッサンが、しきりに、
「ぽぽぽぽぽぽ!!」
と、ヘンな言葉を叫びながら、天に向かって、S・O・Sを描いていた。

「……なんだろ、あれ?」
「近寄らないようにしよう」
 反射的に自分の背中に隠れた小牧をかばいながら、貴明は無視して、
バニーガールのSOS男を通り過ぎようとしたが。

「ぽぽぽぽぽぽ!! いただきでぇ〜すっ!!」

 ヘンなことを叫びながら、オシリのウサギシッポをフリフリ、男が
襲いかかってきたので、反射的に殴り飛ばしてしまった。

「ぐげっほっ!」
 宙にS・O・Sを描きながら。
 ミゾオチを殴られたウサギ男は、ウサギシッポをフリフリ、道路に
倒れ伏してしまった。
「……小牧。携帯持ってる?」
「持ってない。とにかく、お巡りさんを呼ばないと」
 倒れ伏した変態を扱いかねて、貴明と小牧が困っていると。

「さて。役には立たないと思っていたけど。ここまで役に立たないとは」

 色白で、さらに白いロングコートを着た黒髪の女が、忌々しそうな顔で
貴明たちの後ろに立っていた。
「小牧。俺が今から、あの痴女に飛びかかるから。全力で逃げて、
お巡りさんを呼んでくれ」
「ごっ、ごめん、河野くん。どうも無理みたい」
 ちょうど挟み撃ちにされる格好で。
 ウサギ男が貴明たちの後ろで立ち上がった。
「ぽぽぽぽぽぽ!! 役に立ちまぁ〜すっ!!」
「あら? 宇治丁。見た目よりはタフね」
「SOSさんのためなら。がんばっちゃいまぁ〜すっ! ぽぽぽぽぽぽ!!」
 通り魔というか、変態男と痴女二人に挟まれて。
 貴明は怯える小牧を壁と一緒に背負って、健気にやったこともない
ボクシングのファイティングポーズを取る。
「無駄よ。ほら、まずは腕が動かない」
 からかうように女が言うと。
「なっ、なに!?」
 本当に、貴明の腕はファイティングポーズを取ったままで動かなくなった。
「次はどこかしら? 肺? 心臓? 脳なんかも面白いかしらね」
 クククと笑う女の顔は魔術師のようで、貴明にかけられた言葉は
禍々しい呪いだったから。
「こっ、河野くん……やめてください。お金が欲しいなら、差し上げますからっ!」
 腕が動かなくなった貴明を庇おうと、小牧は前に出ようとした。

「待ちたまえ、愛されたる乙女よ」

「何者っ!?」
「ぽぽぽぽぽぽ!!」
 電柱の上から、夕日を背負って現れたのは。
 股間と顔だけを布地で覆い隠した素裸のパンツ仮面だった。
「私の名は愛し合う人の子、アイアウス。またの名を、変態仮面っ!」
 電柱の上から飛び込むようにして、指先だけで着地したアイアウスと名乗る
変態男は、そのまま伸身宙返りで貴明たちの前に立つと、むさくるしい尻を
向けた。
「そのままで立っていろ。それだけに命を賭けろ」
 平行四辺形の白目に炎をたぎらせて。
 変態男が短距離走のクラウチング・スタートのように、道路にしゃがみこんだ。
「よっ、横から、はみ出てる……」
 もしも腕が動いたなら、貴明は迷わず小牧の目をふさいだだろう。
「ぽぽぽぽぽぽ!! SOSさんに逆らうものはゆる、ゆるしませ〜んっ!」
「変態秘奥義っ! 地獄のジェットトレインっ!」
 つかみかかろうとした小柄な男に走り寄ると、変態仮面アイアウスは、
力任せに宇治丁と呼ばれた男を地面に引き倒し、
「ブエっ!?」
宇治丁の顔を股間に挟んで、もの凄いスピードで明後日の方向に向かって、
「ボボボボボボボボっ! 鼻に食いこんで、めっさ気持ち悪いでぇ〜〜すっ!?」
走り去っていった。
 その後ろ姿を呆然と見送る貴明と小牧、白コートの女。
「あの……ここで解散っていうのは、いかかでしょうか?」
「そ、そういうわけにはいかないし。私も前金で報酬をもらっているから」
 明らかに気乗りしない様子で、白コートの女は手を構えた。
「小牧愛佳。アナタが『本』を持っていることは調査済みなの。大人しく
渡してちょうだい。そうしたら、ここは見逃してあげるから」
「本って言われても……何の本ですか?」
「人皮で綴られた禁断の魔術書。機械仕掛けの神を動かすために、それが
必要なのよ」
「そ、そんなの持ってない〜!」
 貴明が怪訝そうな顔で振り向いたので、小牧は手をバタバタと振って
文句を言っている。
「嘘を言わないで。そうね。直接、体に聞くこともできるのよ?」
 倒錯した情愛の持ち主なのか。
 SOSという名前の黒髪の女は、楽しそうに笑って、小牧の小さな体を
触ろうとしたが。
「近寄るなっ!」
 雄々しい声を上げて貴明が前に立ちはだかったので、興を削がれて
しまったようだ。
「うるさいわね。とりあえず、肺から止めるわ。一番苦しい方法だけど。
オシャベリはできなくなるでしょう」
 貴明に向かって差し出されようとした白い手を、鍛え抜かれた男の腕が
つかんで止めた。
「そこまでだ、時計使い。いやさ、SOS」
「……非常識ね。どうやって戻ってきたの」
「地球を一周して戻ってきた」
 そんな馬鹿な。
 だが、ウサギのシッポをピクピクと痙攣させて、うつ伏せになって失神している
宇治丁の姿は、それが嘘ではないかのように思わせた。
「ボボボボボボ……だれか、僕の鼻を削いで」
「我が魅惑のフェロモンに酔ってしまったようだ。SOS。貴様は酔うどころか、
溺れさせてやる」
「ひぃい!!」
 腰をクイックイッと前に突き出しながら酔ってくる変態男。
 背中を向けて逃げる白コートの女。
 遠くで、「みにゃああああああああああ!!」と、聞いた者が切なくなるような
悲鳴が聞こえたが。
「……鶴亀鶴亀」
「あれ、フェロモンっていうか……鼻孔が破壊されそうになるんだよね」
 ちょっと、ウサギ男に同情しながらも。
 何事もなかったかのように、その場を立ち去った。


 腕はまだ麻痺したように重たかったけれども。
 難儀しながら着替えを終えて、このみと一緒に登校した貴明は、
終業式を終えて、誰もいない書庫に立っていた。

「河野くん。大丈夫だった? 病院とか行った?」
 いつの間にか横に立って。
 二週間はいることができない書庫の中、貴明と小牧の二人は、
昨日あったことについて語り合っていた。
「最近、この辺で通り魔が多いって、ニュースサイトで記事が出ていたよ」
「うん。それと……下着ドロボウが出るって。あたしの母さんの下着も
盗まれたんだけど。まさか、あの人が被ってないよね? よね?」
 自分の母親のパンティを被っている変態男アイアウスの顔を思い浮かべて、
小牧は震えていた。、
「わからない。とりあえず、外には干さない方がいいな」

 失礼なことを言うなっ! 私はヒンニューに興味はないっ!

 遠くで誰かが叫んでいたような気がして、貴明と小牧は書庫の中を
見渡す。
 誰もいなかった。
 あと二週間経てば。
 二人とも、ここで同じように語り合えるのだろうか。
 ヘンなことばかり起こるけれども。
 考えてみれば、女嫌いと男嫌いな二人が、二人っきりで、こうして
誰もいない書庫でいるのもヘンなことで。
「ふふ……」
「うふふ……」
 どちらからともなく微笑み合い、二人して、帰り支度を始める。

「ところで小牧。あの股間に挟まれてヘッドスピンされていた痴女が
言っていた、人の皮で綴られた本って、覚えがあった?」
「わからない。多分、ネクロノミコンのことだと思うけど」
「ねくろのみこん?」
「読んだ人は必ず発狂するって言われた魔導書のこと。ラブクラフトっていう
怪奇作家の創作で、実際には存在しないはずなんだけど」

 久遠に臥したるもの、死することなく。
 怪異なる永劫のうちには、死すら終焉を迎えん。

 802頁の本は旧神について書かれた闇黒の書で、様々な禁忌を
百科事典的に網羅したものだとされている。
 それを読んだ者は必ず発狂し、教会によって何度も焚書に指定された
にも関わらず、今も変わらず、どこかに在り続ける本。
 それは人の皮で綴られた禍々しき本であり。
 およそ人の手に及ぶ存在ではない。

「ね? こんな本、あたしが持っているわけないでしょ?」
「……あ、ああ」
 楽しい帰り道になるはずだったのだが。
 小牧はオカルト系は平気なのか、どこか楽しそうな口調で、
ネクロノミコンや暗黒神話について色々と語ったものだから。
 微笑む貴明の顔は、どことなく青ざめていた。 
 
  
「どこにもない。あの魔女の手から離れている以上、ここに
置かれているものとばかり思っていたのだが」
 書庫の中を探索し終えたアイアウスは、額に浮いた汗を
パンティで拭い、溜め息をついた。
「誰かが、あの本を開く前に。燃やしてしまわなければならない」
「アイアウスさん。どうだった?」
「東西か。ダメだ。どこかに移動させられたか、元から、
ここにはなかったのか」
「いや、つい最近まで、そこに在ったはずだよ。気配でわかる」
 何かの通信機械を使っているのか、空中に向かって、アイアウスは
誰かと話している。
「後ろの連中は、どう言っている?」
「みのりも、ほのかも。わからないって。でも、だれか人の手の
近くにあるみたいだ。魔力を持たないから、それだけでは危険性は
ないけど」
「読んでしまったら、どうなる?」
「ラテン語が理解できるなら死ぬか、発狂するね」
 なんでもないように言う東西に、アイアウスは顔をしかめた。
「周囲に旧神の眷属をばらまいてか?」
「それだけならいいけど。もっと厳しい状態になるかもしれないね。
あの魔女も本を取り返したがっているみたいだし。ややこしいことに
なりそうだよ」
「そうか……」
 応接室に入ったアイアウスは、疲れたようにソファーに身を沈めた。
 ここに在った。
 そして今は、ここにない。
 暗黒の魔導書ネクロノミコン。
 それは誰の手に渡りたがっているのか、様として知れない。 


 環に振り回されて、地獄のようだった春休みを終えて。
 新しい制服にはしゃぐ、このみの頭を撫でてから、貴明は始業式に向かった。

「それでは……委員長は、小牧愛佳ということで、みんな異議はないな?」
「異議なしっ! 万歳っ! 小牧委員長万歳っ!」
「我がクラスに栄光あれっ! 小牧愛佳に栄光あれっ!」
「ああ、東方に日輪ありっ! 我がクラスに小牧ありっ!」
 ヒトラーばりに独裁者としてのカリスマを発揮しているのだが。
「うう〜」
 小牧は、ふくれっ面をして、自分の運命を呪っていた。

「二年も同じクラスだな。よかった、よかった」
「はい。また委員長ですけどね……」
 せっかく貴明が励まそうと、休憩時間に小牧の席に立ち寄ったのに、
小牧はどこか暗かった。
「何となく読めてました……」
「まあ、他に適任者がいないし」
「河野くんとか逸材がいるのに。みんな、前例にこだわり過ぎるんです……」
 貴明は冗談じゃないと首を横に振っていたが、小牧は「フフフ」と
不気味な笑みを浮かべている。もしかしたら、春休み中にネクロノミコンを
見つけてしまったのかも知れない。

 それからしばらく。
 書庫に、小牧が現れることはなかった。
 仕方がないので、貴明一人で書庫の片づけを続ける。
 新入生のクラブ勧誘やらオリエンテーションやら。
 クラス委員というのは、何もしていないようで意外に多忙で。
 特に、頑張りすぎる性格の小牧はパタパタと靴の音をさせながら、
春の廊下を走り抜けているものだから。
 誰かのために走り続けているものだから。
 どこか寂しい想いをしながらも、貴明は一人、働き続けた。

 これが終われば、二人をつなぐものは何もない。

 そんなことに気づかないままで。


 ペタペタペタ。
 分類ごとに分けてプリントアウトしたバーコードシールを本に貼りつけていく。
 単調な作業に貴明はアクビをしながら、ひたすらシールを貼りつけていく。
 ペタペタペタ。
 ペタペタペタ。
 後を追うようにして、隣りで誰かシールを貼っている音が聞こえた。
「小牧?」
 弾んでしまう声の調子を押し隠すようにして、貴明が顔を上げると。
「なんだ、河野貴明?」
 野太い声で。
 パンティを顔に被った素裸の男、アイアウスが、真剣な顔でシールを
本に貼り続けていた。
「うぎゃあああああああ!! 変態〜っ!?」
 後ろに飛び下がりながら、本能的にファイティングポーズを取った貴明の
前で、椅子からユラリと、変態仮面アイアウスは立ち上がる。
 右手を後頭部へ回して、そのまま左耳をつかみ。
 左手を前に突き出して、足を広げて決めポーズ。
「そうだ。我こそ愛し合う人の子、変態仮面アイアウス」
「なっ、何の用だよっ!」
「貴様に力を与えに来たのだ、我が同好の士よ」
「俺は変態じゃないっ!」
「違うっ! 巨乳のお姉様に顎で使われてハァハァ(;´Д`)言っている貴様は、
まさしく私と魂を同じくする者っ! 変態仮面となる者っ!」
「巨乳のお姉様って、たっ、タマ姉のことか!?」
 すぐに該当人物が思い浮かぶ辺り、貴明も救いようがない。
「さあ」
「いっ、いやだ……近寄るな……」
 どこからか取り出したピンク色のパンティ。
 その裾を両手の指で広げて、股当て布を貴明の方に向けて、ジリジリと
変態仮面は迫ってくる。
「俺は……変態じゃない……」
「これが小牧愛佳の着用済みだとしても?」
「え?」
 そんな、わずなの気の緩みは、貴明が変態であった証なのか。
「WELCOME! NEW HENTAI−MASK!」
「ひぃいいいいいいい!!」
 強制的に小牧のパンティを顔に被せられてしまった貴明は、
悲鳴を上げていた。


 その頃。
 ようやく押しつけられた雑事をクリアした小牧は、額に浮いた汗を
フキフキ、書庫への道を急いでいた。
「今日は、何の話をしようかな? みんなでキスの話で盛り上がったって
言ったら、河野くん、喜ぶかな?」
 喜ぶというか。健全な男子学生はいきなり興奮して襲いかかってくる
事態もあるので、委員長、もっと男の子に警戒心を持ちましょう。
「河野くん……いる?」
 何の警戒心も持たずに、小牧が自分の隠れ場所である書庫の扉を
開ける。

 全身の筋肉が躍動する。
 膨れあがり、跳ねあがり、膨大な筋力を発揮するようになった全身は
羽のように軽かった。
 それどころか視覚や聴覚、嗅覚さえも冴え渡り、それまでの自分が
抜け殻のように思えた。
「なっ……なんだ? この肌に吸いつくようなフィット感は?」
 穏やかな目を白い逆三角形に変えて、貴明は書庫の中で吠えた。
「フォォオオオオオオオ!!」
 邪魔なものに手をかけて、一気に脱ぎ捨てる。
「クロス・アウッツ!!」
 学生服とシャツと、青いトランクスまでも脱ぎ捨てて。
 貴明は天井に向かって吠えた。
「俺は変態! 変態仮面! その名もタッカーっ!」
「良き名だ。暗黒の書を消し去るため、共に戦おうぞ」
 腕を組み、満足そうに微笑むアイアウス。
「やあ、愛されたる乙女よ。悪いが、紅茶を煎れてもらえないか?」
 そして、なんでもないことのように小牧の方を振り向いた。
「ああ、俺はアッサムを頼む」
 貴明も振り向いたが。
 下半身には何も履いていなかったので。
 ガチガチになったキリタンポが、小牧の目の前にさらされていた。
「……あう。あう、あう」
 目を点にして、指を振るわせながら、小牧は扉を引っ掻いている。
「タッカー。乙女の前でキリタンポを魅せるな。ほら、履くがいい」
 グンゼと書かれたビニール包装を破り捨てて、アイアウスは小牧の
方に向かって、新品の白ブリーフを投げ上げた。同時に、タッカーも
空中を回転しながら脚を伸ばす。
「合体っ!」
「うぁわぅわぅわぁ〜〜!!」
 あろうことか。
 小牧の頭の上に投げ上げられたブリーフを空中で合体着衣しようとした
タッカーは、着地に失敗して、小牧の小さな頭ごと、ブリーフを股間に
着用してしまった。
「……」
「……」
 さすがに気の毒で、アイアウスの額に冷たい汗が浮く。
「変態秘薬っ! コカン・グッタリネンっ!」
「いや、コカン・グッスリネンだから」
 ビクビク痙攣する小牧を股間にブランブランさせたまま、決めポーズを取る貴明。
 アイアウスはしばらく考えた後、この場は逃げ去ることにした。


「……こ、河野くん?」
 倒れた小牧を介抱していた貴明は、ようやく彼女が目を覚まして、
ほっと安心の一息をついた。
「驚いたよ。扉の方を見たら、いきなり小牧さんが倒れているもんだから」
「え? あたし、変態に襲われて……あれ?」
 学生服の右ポケットに隠されているのは、小牧の匂いがこもる小さな布。
 本当のことを告げる無謀さは、貴明にはなかった。


 黒いジャケットに赤いシャツ。
  眼鏡を掛けていて、痩せ型の長身な男が、バーカウンターで
アイアウスの横に座っていた。
「なあ、君。他に服はないの?」
「岩下。何度も言うようだが、このパンティには匂いが、ブリーフには誇りが、
網タイツには愛が籠もっている」
 酔う前に気持ち悪くなりそうになった岩下信は、ライターも使わずに
タバコに火を灯して、迷惑そうにグラスを拭いているバーテンダーに
片手で謝罪をした。
「それで、例の本に関してはどうなったんだい?」
「ダメだ。魔女が通っていた学校にはない。誰かが持ち出してしまったらしい」
「持ち出す? あの本は人の手に触れて、何も起きないような生易しい
ものじゃないだろう」
「そのはずなんだが」
 ロックを喉に流し込んで、アイアウスは考え込んだ。
 普通の格好であったら、女の一人も口説けたかもしれないが。
 今は店に入ろうとした女の客がアイアウスの格好を見て、あわてて店から
飛び出している。
「炎使いの自分にだって、燃やし尽くせるかどうか、わからない。
とにかく、人の手に触れない場所に隔離しないとね」
「本一冊。しかし、それは人智を超えている。あの魔女ですら、
手に留めることが敵わなかった。ならば、私達がやっていることは?」
「無駄ではないさ。多分な」
 グラスの中のコップが溶け墜ちて、カランと澄んだ音を立てた。


 その夜。
 変態に襲われて、変態にされてしまった貴明は思い悩んでいた。
 全身の拘束が一挙に解放されて羽のように軽くなった一時。
「小牧さん、のか」
 全身にブルッと電撃が走る。
 もう一度、あのパンティを顔に抱き締めたいような。
 しかし、それをしてしまえば、もう戻れないような。
 欲望と理性の狭間で、貴明は煩悶していた。
 空しい夜は過ぎていく。