To Hentaimask2 <Tamaki-kousaka(3)> 投稿者:AIAUS

 学校へと向かう行きすがら。
「ねえ、タカ坊。首もとのボタンが一つ外れてない?」
 貴明の首の下をのぞきこむようにして、環はそう言った。
「ああ。さっき外れたんだよ」
 外れたワイシャツの白いボタンを手にして、なんでもないことのように貴明は言う。
「ダメよ。そのままで学校に行ったら、だらしないと思われるわ」
「ダメって言われてもなあ。接着剤でつけるわけにもいかないし」
「ほら、貸しなさい」
 貴明の手から白いボタンをひったくると、学生鞄の中から携帯用の裁縫道具一式を
出した環は、貴明の首もとに針を近づける。
「いっ、いいよ、タマ姉。時間ないから」
「ダメ。ほら、動かないで。針が刺さっちゃうわよ」
 このみを初めとした他の学生たちが、朝からくっついている貴明と環を
不思議そうな顔で観察している。
「ふわあ。タマお姉ちゃん、お裁縫が上手だね」
「このぐらいのこと。このみも裁縫道具ぐらいは持ち歩くようにしなさい」
 プチっと、貴明の首に顔を近づけて、縫いつけ終わったボタンの糸を環が噛み切る。
 間近にシャンプーの良い匂いがして、貴明は首をしめられているわけでもないのに、
窒息しそうだった。
「あっ……ありがと、タマ姉」
「どういたしまして。ほら、学校に行くわよ」
 少し顔を赤らめて、つけてもらった首もとのボタンをはめようとする貴明。
 しかし、間近に環の髪の匂いを感じてしまったことが影響しているのか、
手はうまく動いてくれなかった。
「あれ? おかしいな……あれ?」
「ああ、もう。貸しなさい」
 小さな子供に手を貸す母親のように、環はまた貴明の首もとに手を伸ばして、
そのボタンをはめてやった。
「うわあ……姉さん女房だ」
「いいなあ。俺、あんな人が彼女だったら死んでもいい」
 そうか。死ななくていいから、どこかに持っていってくれ。
 朝から青い顔をした貴明はそう思ったが、心の声は誰にも届かなかった。
「これでよし。タカ坊は素材はいいんだから、身だしなみから整えていけば、
きっと女の子にモテるわよ」
「いいよ。モテなくても。俺、そういうのに興味はないし」
「強がり言わない。ほおら、二人とも行きましょ」
「タマお姉ちゃん……いいなあ」
「なにが?」
 このみは少し頬をふくらませていたが、小さな女の子の小さなヤキモチに、
環も貴明も気づかない。
 そんな朝の一幕であった。

「我が後輩たちか。懐かしいな」
 だれもいない校舎の屋上。フェンスの縁に腰掛けて、股間と顔だけを白い布地で
覆った変態男が、次々と登校してくる学生達を見下ろしている。
 貴明が通う学校は、アイアウスの母校でもあった。
 卒業証書はもらっていないが、想い出はたくさんある。
「十五年か。過ぎ去ってみれば、あっという間であった」
 その間、顔に被り直したパンティの数は何枚ぐらいであったのか。
 埒もないことを考えながら、アイアウスは登校してくる学生達を見下ろしている。


「タマ姉。なんで、こっちに帰ってきたの?」
 そうしなければ、きっと平和だったのに。
 言外の思いは口に出さずに、学校帰りに向坂邸に拉致された貴明は、
お茶を飲みながら、そんなことを聞いた。
「なんでって言われても。タカ坊がこっちにいたから?」
「そんなわけないだろ」
「あら。本気なのに」
 コロコロと笑いながら、畳の上で綺麗に正座をした環は、貴明と
お茶を楽しんでいる。なんだか、とても機嫌が良さそうだった。
「そのまま大学に行っていれば、いろいろと楽だったろうに」
「タカ坊。若いうちから楽しようなんて考えていると、ろくな人間にならないわよ」
「そりゃ、そうかもしれないけど。それと、この話は別だろう」
 他に話題もないというか、子供時代の話をすると、興に乗った環がとんでもない
ことを始めようとするので、貴明は、この話題に固執した。
「大学は九条院に行くつもりだけど。進学はほぼ決まったようなものだから、
こっちにいても、あっちにいても、あまり変わらないわ」
「すげえ。タマ姉、もう大学進学の内定もらったのか?」
「飛び級っていうものがあるから。まあ、飛んだ分の年数をこっちで過ごしているから、
飛び級って言わないかもね」
「いいなあ。俺はこれからが大変だものなあ」
「そうそう。苦労して、いい男になりなさい。私も手伝ってあげるから」
「うん。タマ姉に手伝ってもらえたら助かるよ」
 子供の頃のタカ坊の顔にもどった貴明は、嬉しそうな顔で微笑んでいる。
「やっぱり、こっちに戻ってきて良かったな……」
 微笑みを返しながら、環はそんなことをつぶやいたけれども。
「えっ?」
「ううん。なんでもない」
 それ以上のことは何も口にせずに、二人はただ御茶を楽しみ、庭の景色で
心を潤していた。
 カポンと、鹿脅しの竹筒が岩を撃つ音が中庭に鳴る。


「いやぁんっ! あたしの下着、誰かに盗られてるっ!」
「ええ〜っ! あたしのもっ! やだぁ、お気に入りだったのにぃ!」
「……私、盗られてない。なに? この胸に沸き上がる敗北感は?」
 女子サッカー部のロッカーで、新体操部のロッカーで、学校のあちこちで。
 女子生徒の悲鳴が上がっている。
「フフフ。今日も大収穫であった。大地の恵みに感謝しなくてはな」
 小麦ならぬ大量のパンティを唐草模様の風呂敷に包んで背中に背負った
変態仮面アイアウスは、影から影へ飛びながら学校を脱出した。
 顔に被るから変態秘奥義の素材まで、パンティは色々な使い道がある。
「待ていっ、そこの変態っ!」
 道路の脇の壁の上をひた走っているアイアウスを呼び止めたのは。
 白馬に乗って西洋風の鎧兜に身を固めた、一人の騎士であった。
「とーる……ここで貴方に出会うとは。久方ぶりだ」
 旧交を温めようと、アイアウスは壁から降り立ち、握手を求めたが、
とーると呼ばれた騎士は右手に構えた馬上槍ランスを振り上げて、
アイアウスを威嚇している。
「盗人めっ! 話はまずっ、その盗んだものを返してからだっ!」
 古着を古着屋から買うのは、ブルマをブルセラショップで買うのは違法では
ないが、更衣室から下着を盗み出すのは立派な窃盗罪である。
「何を言うか。私は畑から作物を収穫しただけだ。悪いことなどしていない」
 だが、アイアウスは罪悪感など微塵も感じない顔で宣言した。
「ええいっ! ならば一騎打ちを申し込むっ!」
「断る。貴方と戦う理由がない」
「黙れっ! か弱きご婦人を守ってこその騎士! おまえを成敗するっ!」
 白馬のヒヅメがアスファルトを蹴って、躍りかかるようにアイアウスに
向かって、馬上の騎士とーるが構えた槍の先が突っ込んできた。
「仕方があるまい……この勝負、急がせてもらうっ!」
 早めに分別して真空パックにしないと、風呂敷包みの中の女の子の匂いが
混ざり合って、楽しみが薄れてしまう。
「ライトニング・ランスっ!」
「変態秘奥義っ! 大開脚ウマ殺しっ!」
 将を射ろうと思えば、まず馬から。
 槍に刺されるのを避けて、アイアウスは、とーるが乗った白馬の顔を
自らの顔に挟んだ。
 ブルルルルルルルルルルウルルルウっ!!
 白馬は目に染むもので顔を挟まれて、口から泡を吹きながら、二本脚で
立ち上がる。
「ぬおっ! 卑怯なりっ!」
「あいにく、騎士道など持ち合わせておらぬっ!」
 白い白馬のタテガミから飛び降りるようにして。
「変態秘奥義っ! 地獄の悶絶兜割りっ!」
「ぎあああああああああああああああああああああっ!」
 白馬の騎士の兜を割るほどの締めつけで、アイアウスは、とーるの顔を
股間に挟んで、地面に着地する。
 バタンと横倒しに白馬が倒れて、その後を同じように口から泡を吹いて
痙攣している、とーるが続く。
「敵ながら見事であった」
 騎士道など持ち合わせていないけれども。
 強かった敵に敬意を表して、何枚かのパンティを、とーるの顔の上に置く。
 そして風呂敷包みを背負ったまま、そこから走り去るアイアウス。
「あっ! あそこにいたっ! 下着ドロボウっ!」
「やっちゃえ、やっちゃえ!」
「ええいっ! 昔年の恨み、今こそ晴らすぅっ!」
 竹刀や長刀、バットや弓矢で武装した女子生徒の足音が、気絶した騎士の
もとへ近寄ってきていた。
「わっ、私は無実だぁああああっ!」
 いつかどこかで、悲劇の騎士と、とーるは呼ばれるようになる。
 

 あなたを待っています。
 カバンを両手で持って、慎ましい乙女として、環は校門の前で貴明を待っていた
つもりであったが。
「うおわっ。タマ姉がいるっ……」
 ひどいことをつぶやきながら、遠くで貴明は回れ右をしていた。
「ふぅ……」
 距離はおよそ25メートル。地獄耳を誇る環は、地獄の番犬と同じくらい速く
走ることもできたので。
 今日もまた、帰り道の貴明を捕まえるべく、その逃げる先に向かって走り始めた。

 こどものころはかげんというものがわからない。
 どんなことをしたら、あいてがけがをするのか。
 どんなことをしたら、あいてがじぶんをきらいになるのか。
 どんなことをしたら、あいてがじぶんをすきになってくれるのか。

 タカぼーは、タマねえちゃんのおきにいりだった。
 それは今も変わらないけれども。
 大きくなった今でも、どんなことをしたら貴明が自分のことを好きに
なってくれるのか、環にはよくわからなかった。


「タカ坊もいま帰り?」
「なっ、なぜだ……索敵に成功して回避経路を取ったはずなのにぃ」
 裏門に回り込んで、汗一つかかないで自分を迎える環の姿に、貴明は
喜んで頭を抱えて、苦笑いをしている。
「もうっ。なんで、そんなに嫌そうな顔をするのよ」
「だって、一緒に帰るのって恥ずかしいじゃないか」
「……恥ずかしい? 私と一緒にいることが?」
 赤髪のメインヒロインのような貴明の言葉に、スッと環の目が細くなった。
 周囲の温度が二、三度、下がったような気がして、貴明はあわてて言いつくろう。
「ほっ、ほら。タマ姉って目立つからさ。俺たちの学年でも噂になるぐらい
なんだよ。すっごい美人がいるって」
「あっ、あら? そうなのかしら?」
 コロっと騙される辺り、環も人がいい。
「そうそう。髪はサラサラで、目元は涼しくて。背筋はキリリと伸びて。
タマ姉が好きだっていう男子、結構いるよ」
 これは嘘ではない。
 環は背が高くて髪が長い美人なので、学校でも相当に目立つ。
 環と仲良く話している貴明や雄二に、彼女のことを紹介してくれという無謀な
同級生が結構いたが、「おう。ぜひ持っていってくれ。というか、頼む」と、
『向坂環がどんなに素晴らしい女性か』説明し始めると、みんな背中を
向けて悲鳴を上げ、逃げ出すような連中ばかりであった。
 珍しく、タカ坊から賛辞を浴びて、環は本当に嬉しそうに微笑んでいる。
「うんうんっ。そんなタマお姉ちゃんと一緒に帰れて、タカ坊は三国一の幸せ者だっ」
「それはやっぱり変わらないのね……」
 あまりに薬が効きすぎたのか、今日の環は最高に上機嫌である。
 嫌がる貴明の腕を脇に抱えて、恋人同士に見間違われるぐらいにくっついて
歩き出す。
「あの……今日もタマ姉んち行くの?」
「そうよ。決まっているじゃない」
「あああああ……」
 なぜ、貴明が疲れたように溜め息をつくのか、環にはよくわからない。
 少年の純情と乙女の恋心。
 かくや神の配慮とは、かくも行き届いているものである。


 変態ってなんだろう。
 ロダンの『考える人』のポーズで、アイアウスは黙考している。
 そのケツの下で、ビクンビクン痙攣しているのは、変態秘奥義を喰らって
悶絶した着ぐるみ男、ノボル。着ている着ぐるみの中に、アイアウスの魅惑
フェロモンが充満しているので、中は地獄のようになっていた。
「ふもっふ!! ふもふもっふ、ふもっふも!!」
 パンティって、なんで、あんなにいい匂いがするのだろう。
 ロダンの『考える人』のポーズで、アイアウスは黙考している。
「ふもっふ!! ふもふもっふ、ふもっふも!!」
 いっそ殺せと、中でノボルが叫んでいたが、ふもふも言われても、
アイアウスにはわからない。彼はノッポさんではないので。
「ふも〜〜〜〜〜〜っ!!!」
 ふもって、なんだろう。
「アイアウスさん、いい加減許してやったら?」
「待て。あと百年は欲しい」
「死ぬって」
 貴明に言われて、アイアウスは仕方なく腰を上げた。
「どうした? 最近、元気がないようだが」
「うん。どうも調子が悪いというか……女運が悪いというか」
「例のドミナのことか。受け入れろと言っただろう」
 アイアウスの言葉は貴明には響いていない。
 ただ、明日も環に会うのだと思うと、帰り道の足取りが重くなるのは確かだった。


 アメリカとかの学校は、掃除は業者に頼んでやってもらうということである。
「ああ……面倒くさい」
 音楽室前の廊下を掃除していた貴明は、ホウキを動かしながら、思ったままを
つぶやいた。貴重な青春時代を、こんなことで費やしているのが馬鹿馬鹿しく
なってくる。といっても、家に帰ったところで、ゲームをするか、テレビを
身ながら寝転んでいるぐらいのものなのだが。
 日本の学校における掃除というのは、掃除が修養につながるという、
きれい好きで真面目な国民性に由来している。
 だが、そんなことは露知らない貴明は、ブツブツ言いながら手を動かした。
 そんな、つまらない時間を覆したのは、音楽室の中から聞こえてきた、
ピアノの旋律であった。

 華やかな旋律の連なりは、まるで夢に誘うようで。
 誘われるままに、ホウキを持ったまま、貴明は音楽室の扉を開けた。
 黒いグランドピアノの前に、制服を着た女子生徒が座っている。
 演奏はとどまることを知らず、華やかに、軽やかに、雅に、
美しきものを美しきものとして語り、喜びを喜びとして、音として、
語り続けている。
 その流れるような指先を一目見てみたいと。
 ホウキを置いて、足音を出さないように気を付けながら、貴明は
ピアノを弾いている演奏者の近くへ歩いていった。
「あら、タカ坊じゃない? どうしたの?」
 そこにいたのは、軽やかに動く指先でピアノを演奏している環であった。
「タマ姉……ピアノが弾けるんだ?」
「知らなかった? こう見えても、結構自信があるのよ」
 結構どころではない。
 音楽など流行の歌謡曲ぐらいしか聴かない貴明であっても、この演奏が
上手い、いや、心に響く、なにかがあるということはわかる。
「私、あまり器用な方じゃないから。最初、上手に弾けなくてね。それが
くやしくて。習い事はたくさんさせられて嫌だったけど、ピアノの時間だけは
大好きだったわ」
「聞かせてくれればよかったのに」
「そう? でも、家にはピアノを置く場所がないし、学校で聴かせる機会も
なかってし。誰だっけ? 小学校のピアノを破壊して、授業以外は音楽室に
出入り禁止になったのは?」
「逃げるのに成功したのは、タマ姉だけだったよな」
「ん〜ん〜。なつかしいわねえ」
「ごまかすんじゃないっ」
 いつものように昔のことを話しながらも、演奏は続いていた。
 いつしか話すこともなくなり、環の演奏に、ピアノを弾く環の姿に
夢見心地になって、貴明は穏やかな顔をしている。
 演奏が終わり。
 している本人も大げさじゃないかと思えるぐらいの大きな拍手を貴明が
すると、環は椅子から立ち上がり、スカートをつまんで、うやうやしく頭を下げた。
「ねえ、タカ坊。気分がいいから、アンコールに応えてあげる」
「いや、俺、ピアノ曲なんて、あまり知らないし」
 
 こどものころはかげんというものがわからない。
 どんなことをしたら、あいてがじぶんをきらいになるのか。
 どんなことをしたら、あいてがじぶんをすきになってくれるのか。

 それでも環は想いをこめて、貴明のための演奏を続ける。
 不思議と今日は穏やかに時が過ぎていく。


「昂河くぅん。これなんか爆乳だから、とてもエロだと思うのだが」
 珍しく、人を「くん、さん」付けで呼んでいるアイアウス。
「いや、僕……そういうのは興味ないから」
 アイアウスの傍らに立っているのは、すらっとした体格の温和そうな青年。
わずかにブルーが混じった黒い瞳が、とても印象的だった。
 二人が立っている場所は、エロいゲームばかりが並べられたゲーム店。
 嫌がる昂河晶をムリヤリ店に引きずりこんだアイアウスは、先ほどから
ずっと、「巨乳がどんなに素晴らしく、愛らしく、気持ち良く、神々しいのか」、
宣教師のごとき勢いで語り続けていた。
「もういいから。早く仕事に戻ろうよ」
「むむっ! ここにある品揃えでは満足できないというのかっ? 店主っ!」
「オアチョーッ!」
 カウンターでタバコを吹かしながら新聞を読んでいた店主が、椅子から
真上三メートルほど飛び上がり、天井に設置されてあったAボタンとBボタンを
同時に押した。
 ゴゴゴゴと音を立てて。
 マニアックな品揃えの店の天井から、隠し階段が降りてきた。
「フォオオオオオオオオ! ご招待〜っ! 我らが巨乳の城っ!
トゥ・ハンドレット・ゾーンへっ!」
 そこは200cmを下回る乳は置かない、生粋のマニアック・ゾーンだった。
「いっ、いやぁああああああんっ! や〜め〜て〜っ!」
「ん? なんだ? おにゃのこのような悲鳴を上げて? 昂河くん。
今日は仕事のことを忘れて、二人で神乳に酔いしれようではないかっ!
フォオオオオオオオオオ!」
「やだぁ〜っ! おうち帰るですぅ〜〜〜っ!」
 実際、店の中には吸いついてチューチュー吸える巨大シリコン授乳器
(2メートルサイズ)がある。
『コート・デュ・ムロン』
 そう看板がかかった店の奥で、昂河晶のソプラノな悲鳴が響き続けていた。


 学校の帰り道。
 校門の前で環が待ち伏せをしていたので、貴明は裏門に迂回して
攻撃を回避しようとしていた。
「タ〜カ坊っ! なんでコソコソするのよっ!」
「ぐわあっ! こんなところにも伏兵がっ!」
 赤壁の曹操のような声を出して、貴明は逃げようとしたけれども。
 悲しいかな、環関羽は貴明を見逃してはくれなかった。

 水が流れ続ける川端。
 それは流れを止めることなく、姿を変えることなく、けれども、
流れる水は常に、以前とは違うもので。
 吹き抜けていく四月の風は、こんなにも気持ちがいいのだと、
土手に座った貴明は和んでいた。
「あ、タカ坊。ほらほら、あそこで死んだ魚が浮いてる」
 だから、なんで台無しにする。
「懐かしいな〜。昔、よくここで遊んだよね」
「ああ。そうだね」
「野球にサッカー、ドッジボールにチャンバラごっこ……本当に懐かしいな」
 ガレー船の奴隷ごっこタマ姉船長役とか、男を馬にしての『だーびーごっこ』は
忘れているのだろうか。赤兎馬代わりにされて、一人くわえさせられたクツワの痛みを
思い出して、貴明はソッと自分の口の端を撫でた。
「ねえ、タカ坊。ここで、みんなでよく昼寝をしたのを覚えている?」
 膝を抱えて座った環が、優しい微笑みを浮かべた。
「うん。あれは気持ち良かった」
「そうだよね。目覚めたら夜中になっていたりとか。夕立が降ってきたりとか、
色々あったけど」
「ん〜。タマ姉がいなかったら、そんなこともできなかったような気がする」
「そう?」
「うん。あと、タマ姉はガキ大将だったから。よく膝枕とかさせられたよ」
「逆じゃなかったっけ?」
「違うよ。よくキンタマクラとかさせられた」
「してないわよ、そんなゲヒンなこと」
「してたって」
 頬を膨らませて、しばらく考え込んだ後。
 膝を伸ばした環は、自分の太ももをポンポンと手で叩きながら、ニッコリと笑った。
「そんなことないわ。ほら、思い出しなさい」
「は?」
 首筋をガッとつかまれて。
「んぐぐぐぐうぐぐっ!!」
 ムギュウと、貴明の顔面は環の太ももに押しつけられた。
「ほら、懐かしいでしょう。私の膝枕……」
 マクラじゃねえ! 少なくとも安眠できねえっ!
 窒息しそうな貴明が暴れて、正式の膝枕の型になるまで、少し時間がかかった。

「雲が流れてる……」
「不思議ね。子供の頃と変わらないなんて」
 空を見上げながら、幼馴染み二人は昔を懐かしんでいる。
 空が赤く染まり。
 子供の頃と同じ、残念な気持ちを少しだけ持って。
 二人は、子供の頃に遊んだ河原を後にした。
 穏やかに流れる川の流れが。
 二人の後ろ姿を見送っている。


「激安というだけあって、さすがにマズいな……」
 どことなくゴム臭い麺。何倍に薄めたのかと思われるほど薄いスープ。
「親父、換え玉」
 ブラリと入ったラーメン店で、パンティを顔に被っているのに平然とラーメンを
すするアイアウスは、こんなにまずいラーメンに換え玉を頼んでいる変人の
方に平行四辺形の白目を向けた。
 白銀の髪、白ずくめのスーツ姿。髪が七三に別れているので、サラリーマンのようだ。
「ビジネスマンっていうのも大変そうだなあ」
 ピンポイントで介護士として働いて生計を立てているアイアウスは、
自分の貧乏暮らしも顧みずに、ズルズルとラーメンをすする男を見て、
気の毒そうな顔をしていた。 
「親父、換え玉」
 あれだけ換え玉頼んでいたら、ゴムの味しかしないだろうに。
 半分以上残った器を置き去りにして、アイアウスは席を立つ。
 男の名札には、氷室京介と名前が書いてあった。
 口直しに、自宅でパンティ入り袋ラーメンを食べようと思いながら。
「親父、換え玉」
 アイアウスは、クソマズいラーメンを出す店を後にした。

 
 うまくいきそうなのに、うまくいかない。
 どうしたらいいのかわからない。
 貴明が悩んでいる頃、環もベッドで大きなマクラを抱えて悩んでいた。
「ううう……タカぼうぅ……」
 切ない乙女の溜め息は届かない。
 年上の自分からリードしなくてはいけないのかと想ったが、そんなことできない。
 なにしろ、環は乙女なのだから。
 寝苦しい夜は更けていく。 


 変態仮面と変鯛九州男児が、早朝の公園で対峙している。
 殴り合い、蹴り合い、つかみ合いを繰り広げた二人の体は、ところどころが
赤く腫れ上がり、戦いが長時間に及んでいることを知らせていた。
 ベンチに座ったまま、立ち上がることもできない目を皺に埋もれさせた老人。
 砂場で作った山を崩れさせて、怯えている男の子と女の子。
 車椅子のお婆ちゃんを連れたまま、動けないでいる若妻。
 警棒を構えて並んだまま、その戦いに魅せられている警官達。
「いいかげん、ここらへんで決着をつけるタイ。アイアウスはん」
 黒く焼けた精悍な体に半被を羽織り、キリリとフンドシを締め上げた男は、
大きく白い歯を見せて笑い、低く構えてから、両手を上へと上げた。
「手四つ。男が男と決着をつけるのは、これですタイ」
「よかろう。勝負だ、平舟盛」
 テラテラとオイルを塗ったマッチョな体を、履いたブリーフをクロスさせて
から裾を肩にかけて締めつけているアイアウスは、黒パンティを被った顔に
不敵な微笑みを浮かべて、平舟盛と同じ格好で構えてから、ゆっくりと近づいてきた。
 両手を絡み合わせて、握り合い、互いの二人の体に浮く膨大な筋肉が、
モコモコと動いて、実に気色悪かった。
「……思い出す。大陸で銃を取った、あの日々を」
 老人がつぶやくと同時に、どこからか激しくリズミカルなメロディが流れ出す。
 ベンチに座ったまま、老人はハーモニカを取り出して、戦場でも奏でた
懐かしい曲を吹き始めた。
「む? これは……」
 手四つで組み、両手を左右に伸ばしてくっつき合い、平舟盛と押し合っていた
アイアウスは、そのままの姿勢でグリングリンと腰を回しながら組み合っている
相手の股間に押しつけ始めた。
「ギアッ! なっ、なにをしているタイっ!」
 締めているフンドシの上でブリーフが動いて、めっさ気持ち悪い。
「踊らないか、アチャラカ・ダンスを」
 それまで、戦いの興奮で血走っていたアイアウスの白目に、情熱的な興奮が宿る。
「……なんタイ、アチャラカ・ダンスって?」
「これだっ!! これこそがアチャラカ・ダンスっ!!」
 グリングリングリン。
「ぶわああああああっ! はっ、離すタイっ!」
 そして、地獄で鬼達が踊る戦慄のダンスが始まった。

 頬を風船のようにふくらませて、激しくハーモニカを吹き鳴らす老人。
 砂を蹴り散らしながら、男の子と女の子も同じようにアチャラカ・ダンスを
踊っていた。
 普段は車椅子に座ったまま、自力で立ち上がることもできない、お婆ちゃんが、
嫁と一緒に、スタンディング・オベーションで両手を振り上げ叫んでいた。
 カン、カン、カン、カカカカ。カン、カン、カン、カカカカ。
 互いの警棒を打ち鳴らして、シンクロして回る警官達。日本の警官の練度も
捨てたものではない。
「踊ろうっ!! 腕が千切れるまでっ!! 腰が抜けるまでっ!!
ダンスダンスダンスぅ!」
「ぶえええええええっ! 気持ち悪いいいタイイィイイイイっ!」
 互いの履いているブリーフとフンドシが絡み合い、つながり合い、溶け合うまで。
 戦慄のダンスは続く。


 学校の帰り道。
 言うまでもなく、河野貴明は女の子が苦手である。
「いい加減なんとかしろよ、その性格。このままじゃおまえ、姉貴に婿養子で
迎えられて、そのまま人生終わるぞ」
「ああ……最近、ひしひしと感じるようになってきたよ」
 最近、環の密着の度合いというか、くっつき具合が激しい。

「河野くんって、年上の彼女がいるんですね」
「なんや、委員ちょ。今更そんなこと言うても。河野はもう売約済みやで〜」
「べっ、別に、河野くんを買いたいとか、そういうことじゃなくて……
見かけによらないなあと思って。てっきり、仲間だと思っていたのに」
「れみんぐ仲間?」
「そっ、そんな集団自殺するような不吉な仲間じゃないです〜〜っ!」
 今日もまた、手をバタバタ。、

 昼休み、小牧と話した内容が尾を引いている。
 誰が『年上の彼女』やねん。
 これは巧妙な情報操作であり、悪質な人権侵害だ。
 というわけで、匍匐前進で廊下を進み、窓から校舎を出て、グラウンドを
囲むフェンスをよじ登って学校から脱出したソリッドでスネークな貴明は、
久しぶりに雄二と一緒に帰り道を歩いていた。
「そもそもなあ。女なんて怖くねえじゃんかよ。別に、殴ってきたり、
噛みついてきたりするわけじゃないんだから」
「タマ姉は怒らせると殴ったり、噛みついたりするじゃないか」
「姉貴は論外。姉貴を基準として女を見ているから、おまえ、女が苦手に
なったんじゃないのか?」
「……えっ?」
 ドサリと、貴明が肩にかついでいた学生鞄が地面の上に落ちた。
「ほら。おまえ、女の子と言ったら、このみとタマ姉しか知らないじゃんか。
だからだよ。おまえが女の子が苦手なのは」
 コペルニクス的な発想の転換だった。
「そっ、それじゃ……他の女の子って、このみやタマ姉と違うのか?」
「当たり前じゃねえか。あんな連中、探したって、そうそう見つかるもんじゃねえ」
「なんてこった……」
 二人で顔を見合わせて、深く溜め息をつく。
「はぁああああ〜〜。俺は、なんて不幸なんだ」
「馬鹿野郎。そんな女を実の姉として持つ俺は、おまえより不幸なんだぜ」
 暴れ馬のような、ドカドカドカという足音が、貴明と雄二の後ろから近づいてくる。 
 振り返ると、目をつり上げた環が鬼のような勢いで迫ってきていた。

「こら、タカ坊。色に興味を持つ年頃なのは仕方がないけど。女の子を泣かせるような
真似は許さないからね」
 一体どういう勘違いをしたのか、タマ姉は懇々と、『自分たちに接するようにして、
気軽に他の女の子たちに触れてはいけない』という道徳じみた説教を続けている。
「泣かせるって……普通に話をしたりしてみたいなぁ、って思っただけだよ」
 同じセリフを雄二も言ったが、流出裏ビデオを大量に所蔵していた前科があり、
全く信用されることなく、撲殺コースとなった。
「ダメよ。男女七歳にして席を同じくせず。そんなこと常識でしょ?」
 いつの時代の常識だと思いながらも、貴明は言葉を続けた。
「そんなこと言ったら、俺とタマ姉が話しているのだっておかしいじゃないか」
「え? 私とタカ坊はいいのよ」
「なんで?」
「男と女の関係じゃないから」
 みんなが噂しているような強気で世話焼きな怪力お姉さんキャラとの
ラブラブシナリオという、ゲームとか漫画に出てくるような甘い話は、
貴明の人生には用意されていなかったようだ。なぜか、タカ坊はガックリと
肩を落としているが、意外と鈍感なタマお姉ちゃんは、そのことに気づかない。
「男女の関係じゃないって言われても……俺も男なんだからさ。このままずっと、
雄二やタマ姉とつるんで遊んでいるってわけにもいかないだろ。いずれは恋愛とか
結婚とかもしなくちゃいけないんだから」
 女の子と話せない、むしろ、近づいてくるだけで怖いという状況は克服しなければ
ならないと貴明は思っているが、そうすると環が前言を翻して、『それじゃあ、
私で練習しなくちゃね〜』というムチャクチャな行動に出ることはわかりきって
いたので、あえて口にしなかった。
「恋愛とか結婚ねえ……ふ〜ん」
「タマ姉はしたことないの?」
「私が既婚者に見える?」
「そっちじゃなくて。初恋の方。タマ姉もいい歳なんだからさ。一人ぐらいは
好きになった男だっているだろう」
 そんなことを弟も同然の男の子に言われて、女の子な環は少し顔を曇らせた。
 柳眉をわずかにしならせて、小さく、本当に小さく、紅梅の唇を動かす。
「……結構ひどいよね、タカ坊って」
「えっ?」
 その声は小さ過ぎて、環の声にしては、あまりにも小さすぎて、貴明には
よく聞き取ることができなかった。


 キモいダンスが始まって9時間後。
 観客達は拍手を終えて、それぞれの家路をたどり、倒れ伏した平舟盛が
デッドからアッシュになって、風に吹き流されてロストした頃。
 アイアウスは公園の水で滝のように噴き出した汗を洗い流し、股間から
取り出したタオル地のパンティで顔を拭いていた。
「ふぅ……」
 遠くから聞こえてくるのは、悩める男の子の溜め息。
「休む暇もない。どこだ、悩める変態な少年は?」
 罪のない少年を変態と断定して、アイアウスはそちらに向かって歩き始めた。


「ふぅ……タマ姉。いきなり黙りこくっちゃって。結局、あの後、一言も
しゃべらなかったよなあ」
 滑り台の出口に腰かけて、貴明はよくわかっているはずの、よくわかっていると
思いこんでいた環の女心さえわからない自分を嘆いている。
「でも結局、タマ姉の初恋の人って誰だろ?」
 なぜか、そのことが心の端に引っかかって、忘れることができない。
 美も、知も、力さえも我がものとしている年上の幼馴染み。その笑顔だけは
昔と変わらないけれど。心の色がどうなっているのか、貴明にはわからなかった。
「どうした、河野貴明?」
「えっ、誰……? んっ? ……なんだ。アイアウスさんか」
 隣りに立っている人物の姿を見て、貴明はうなずいた。
 股間はブリーフ一丁、網タイツを履いて。隆々と盛り上がった筋肉質な上半身は
素裸のまま。 顔には黒いパンティを被っているという、この世に有り得ざる格好
をした男、変態仮面アイアウス。
「まだドミナとの関係に悩んでいるのか?」
「別に」
 強がりを言うが、貴明の顔から曇りは晴れない。
「河野貴明。もっと腹を割って、ドミナと話し合うべきだ」
「話しても通じてないし」
 六つに分かれた腹筋の上に繁るギャランドゥ。
「腹を割れ。腹筋を鍛え上げろ。その極上のクロマグロのような、赤身と脂身が
混じり合った体を作り替えろ」
「腹を割るって、そういう意味じゃないよ」
「それでは、こっちをいっておくか?」
 そう言って、アイアウスが取り出したのは一枚の青パンティ。
「誰の?」
「わからん。旧日本軍の水中戦用パンティと聞いたが」
 パンティには、小さく平仮名で「はなえ」と書いてあった。

「フォオオオオオオオオオ! 磯の香りがエクスタスィイイイイイイイ!」
 磯言うな。

 日頃のストレスか、今日の変態仮面タッカーは、ちょっと凄かった。
「変態秘奥義っ! 地獄の空中ブランコっ!」
「ブランコォオオオオオオオオっ!!」
 看板を手につかんで、男の顔を股間に挟んだ貴明こと、変態仮面タッカーは、
そのままブランブランと空中を前後に揺れていた。ぶら下げられて
ビクンビクンと痙攣する男の学生服のポケットやら袋から、虎バサミや
ワイアーなどの大量の罠がこぼれ落ちる。
 その姿を、真下から眩しそうに見つめているのは変態仮面アイアウス。
「トラップマスターの真藤誠二を、罠を使う隙も与えず、瞬く間に撃破か。
河野貴明。得難き変態よ」
 得たくない。
 そのまま腹筋で腰を振り上げて、真藤誠二を遠く、どこか遠くへ振り捨てて
しまったタッカーは、その変態的スタイルのままで、どこかへ駆けだしていく。
「走ろうっ、ピリオドの向こうへっ!」
 変態仮面二人は今日も暴走していた。 


 昼休み。コンビニで買ったパンをカバンから取り出した貴明に、雄二が
話しかけてきた。
「おい、貴明。姉貴に、なにかしたのか?」
 それはいつもの迷惑そうな顔ではなくて、どこか戸惑いを含む問いかけだった。
「ん〜。確かに、最近のタマ姉。なんかヘンだよな」
 朝の登校時間も、学校に来てからも。
 タマ姉は遠目に貴明の姿を見かけても、近寄ろうとはせず、自分から姿を
消していた。もちろん、帰り道に伏兵しているようなこともない。
 そんなことがもう、三日も続いている。
「姉貴が大人しいのはいいんだけどさ。なんかこう……」
「調子が狂うよなぁ」
 おとこのこがふたり、なやんでいる。
 

「ふぅ……」
 滅多に疲れることもないはずの環は、夕方の屋上で大きなため息をついた。
「タカ坊の馬鹿……ああ、女になんて生まれるんじゃなかった」
 そうだったら、きっと全て上手くいっていたのに。
 心が沈み、体も重い。つかんだ金網をワシワシと握って曲げながら、環は
憂鬱な気持ちで学校帰りの生徒達を見下ろしている。
 きっと自分から逃げようとして、大脱走みたいなトンネルとか掘っている
んだろうな。いつもだったら、トンネルの出口で待ちかまえるけど。
 そんな埒もない考えが浮かび、環はまた、
「ふぅ……」
と、大きな溜め息をつく。
 このまま朝まで学校で過ごしたら、少しは気分も晴れるのか。
 晴れるはずもない。
 それがまた、環の心と体を深みへと沈めていく。
「タマ姉。ため息なんか漏らして、どうしたの?」
「ひゃややや! ……たっ、タカ坊?」
 後ろから聞こえたのは、聞き慣れた声。あわてて振り返ると、そこには
心配そうな顔で自分を見つめる、子供の頃から変わらない瞳の貴明がいた。
「なっ、なんでもないわよ。タマお姉ちゃんだって、たまには一人になりたい
時だってあるんだから」
「三日も? どこか調子が悪いんじゃないかって、雄二も心配していたよ」
 夕暮れ。誰も彼も顔の見分けがつかなくなる、夕闇の時。
 全てが赤く染まる昼と夜の狭間は、待ち望んでいたロケーションに近いけれども。
「なっ、なんでもないったら。放っておいてよ」
 手を振って貴明を追い払おうとしたが、タカ坊は、そんなことでメゲるほど
繊細な少年でもなかったので。
「あっ……」
「ほら。こんなに手が熱い。風邪でもひいているんじゃないのか?」
 耳たぶまで真っ赤に染まっていたが、赤い夕日がそれを隠していた。
 それは環にとって幸運だったのか、不運だったのか。
「……だから、違うんだってば」
「なにが?」
「……女の子には月に一度、こういう風になっちゃう時があるの」 
 ボショボショと、消え入りそうな顔で告げた環の言葉に、貴明は固唾を
飲んだ。あわてて手を離し、後ろへ下がり、申し訳なさそうに頭を下げる。
「ごっ、ごめんっ! 本気で気づかなかったっ」
「……バカ」
 それは鈍感な貴明に言ったのか、下世話な嘘を言ってしまった自分に言ったのか。
 夕闇は言葉の真意さえも包み隠して。夜が訪れる束の間、世界を赤く染めていた。


「月経か。被ったことはあるが、血の臭いはあまりしなかったな」
「被ったことあるの?」
「あまり面白いものではない。私は血で興奮する性癖もないしな」
「うん……そうだよね。面白いものじゃないよね。本人にとっても」
「タッカー。悩みすぎるのはよくない。当たって砕けろ」
「何に当たって砕けたらいいのかわかんないから、悩んでいるんだよ」
 街で一番高いタワービルの屋上で、変態たち二人は語り合っている。


 朝の登校時間、四人ならんで学校へ行く。
「ムギュっ!」
「オッス! タカ坊〜っ!」
 正面から抱きついてグリグリと。
 抱擁というよりはエアバック付ベアハッグに近い。
「ふあ〜。朝からすごいねえ」
「姉貴だからな。大人しい方がよかったかもしれねえ」
「むぐぐぐ、むぐぅっ!」
 いつもの調子に、いや、いつもよりもハイテンションになった環に、
貴明は抱き潰されそうだ。
 
 昼休み、屋上に出て、みんなでお弁当。 
「はい、ア〜ンして」
「ア〜ンって……タマ姉。気合い入れて弁当つくってくれたのは嬉しいけど」
 重箱四段重ね。総菜にエビ魚、煮物にソボロ飯。
「うう〜。タカくんばっかりずるいよぉ」
「こっ、こらっ! だからってチビ助っ! 俺の弁当から肉を奪うんじゃねえっ!
三枚しか入ってないんだぞっ!」
「はい、タカ坊。ア〜ン」
「えぐっ、うぐぐっ」
 鼻をつままれて、箸でエビを丸ごとつっこまれたので、味はよくわからなかった。
「ごめんね、このみ。このみの分は、こっちに用意してあるから」
「……ふぁぁ。トンカツだぁ」
「おまえ、自分の弁当もトンカツ弁当なのに、なんで嬉しそうなんだ?」

 束の間、タマ姉の猛攻から解放される授業と授業の合間の休憩時間。
「なあ、雄二。タマ姉、前にも増してヘンじゃないか?」
「ヘンっていうか……やたら、おまえにくっつきたがるようになったな」
「ハハハ。なにを言っているんだ、ゴルァ」
 顎を指でつまみながら、謡うように雄二は続ける。
「まあ、あれだ。シスコンなおまえも年貢の納め時ってヤツだな。
あきらめて人生姉貴にくれてやれよ」
「気軽に言うなっ! 俺だって、こう、なんていうかその……」
 環以外の理想の女性を思い浮かべようとして、貴明は考え込み、
悩み、頭を抱えた。
 出てこない。
 超マイペースということを除けば、環に欠点はない。
「ケケケ。どうした、貴明? 俺はおまえと違って、てバンキュボーンな
甘えさせてくれる年上の女をゲットしてみせるぜ」
「……なあ、雄二」
「んんっ?」
 勝利者の笑みを浮かべていた雄二の顔が、
「それ、タマ姉と、どこが違うんだ?」
ピシリと凍りつく。
「……んなッ!? 姉貴は全然、そういうんじゃ……」
「もろ、そういうのだろ。そうか、おまえもシスコンか。ようこそ、兄弟」
 貴明にそっと手を握られながら。
「う、嘘だ……嘘だよ……そんなことって……」
 ムラサメ研究所の被験体のように、雄二は頭を抱えてうずくまる。
「空が……空が落ちてくる……」
「アイヤーサー♪」
 貴明が、謎の歌を歌っていた。

 帰宅前の掃除時間。
 音楽室前の廊下の掃除は、ちょっとした楽しみになっていた。
 掃除を終えた貴明は、モップを立てかけて、環の見事な演奏に
耳を傾けている。時々、貴明の様子を横目でうかがいながら、
環は力をこめて、鍵盤の上で指を踊らせる。
 語り合わなければ、こんなに上手く、一緒でいられるのに。
 想いは旋律にのせられて、聴衆の耳へと届く。
 ピアノは、そんな不思議な楽器で、環はその巧みな奏者だった。
 いつ終わるか知れず、ピアノは流れ続ける。

 
 爆発音。
「戦場拓壬っ! 他の者を巻き込む気かっ!」
 六つに分かれた腹筋の下に幼な子をかばい、憤然とした様子で、
股間をブリーフ、顔をラメ入りの派手なパンティで覆い隠した男、
変態仮面アイアウスは立ち上がった。
「悲鳴や爆発音も音楽と一緒さ。なんの音もしないよりまだマシだろ?」
 そう言って狂った笑いを浮かべるのは、ネズミ色の軍服を着て、全身、
その顔までも包帯で覆い隠した男、戦場拓壬。右手には突撃銃、左手には
小型の火炎放射器を仕込み、胸には多数の手榴弾をぶら下げていた。
「くっ……」
 機関銃を乱射されてしまえば、後ろにかばった幼な子をかばいきれない。
歯噛みをするアイアウスの網タイツを履いた太ももを、小さな手が押した。
「お兄ちゃん……」
 筋肉ムキムキでパンツ一丁なオニイサンは、ライダーとかレンジャー
みたいなヒーローみたいに格好良くはなかったけれど。
「あいつを……」
 その背中に刺さった手榴弾の破片から流れる血が、高らかに正義を示していたから。 
「やっつけてっ!」
 幼き小さな瞳にとて、その正義は燃え移る。
「応っ!」
「ハハハハハハハハハハハハハハっ!」
 侵略者という者は、力に奢った者は、かくも醜い叫び声を上げるのか。
 直線上、アイアウスと幼な子をとらえた戦場拓壬は、ためらうことなく
左手の火炎放射器の引き金を引いた。
 背中に背負ったタンクから揮発性の燃料がガスとして噴射され、出口の
トーチのところで着火して、炎が噴炎となって、アイアウスの体に向かって
噴き出される。
 それは骨まで人間を焼き焦がす炎の舌。
 しかし、それは誤った選択。
「フォォオオオオオオオ! 変態秘奥義っ! セクシーランジェリー・ハリケーンっ!」
 およそ千枚、宙空から召還された女性物の下着が竜巻となり、パンティの
暴風雨を巻き起こす。
「なっ、ばっ、馬鹿なっ!?」
 炎の舌を吹き散らされて、戦場拓壬の包帯が巻かれた顔が驚愕で歪む。
「変態秘奥義っ! マッハスピン・バンテージっ!」
 竜巻にも勝るマッハスピン。
 竜巻の中から飛び出して、戦場拓壬の顔に新たに巻かれた包帯を巻き取るように
して、アイアウスが迫ってくる。そしてまた、戦場拓壬の体も、竜巻の中に
引きずり込まれていく。
 竜巻に吸い上げられ、遙か天空へ二人が飛ばされる。
 頭上で聞こえるバガンバガンという激しい爆発音に、
「お兄ちゃんっ!」
幼な子は悲鳴を上げた。
 その小さな頭の上に舞い落ちるのは下着、包帯、そして破れた網タイツ。
「あっ、あああああっ……」
 浮かび始めた絶望。
 それを吹き消すかのように。
 変態仮面アイアウスは、消えた竜巻の中心に立ち、掲げた両腕の上に
黒焦げになって髪がアフロになった戦場拓壬を抱えて、敢然と立っていた。
 幼い心に燃え移る正義の炎。
 その日のアイアウスは、結構ヒーローしていた。
 それが騙りの正義だということは、本人しか知るものはいない。

「ねえ、どうだった?」
「上手だったよ。専門的なことは良くわからないけど、あれなら
毎日聴いたっていいぐらいだ」
 帰り道、タカ坊の言葉にタマお姉ちゃんは上機嫌。
 くふふ、と、こらえきれないように微笑みを浮かべて、貴明の
腕をがっしりと自分の腕の中に捕らえている。
「姐さん女房だ……」
「くそう。いいなあ、あいつばっかり」
 違うんだけどなあ、と帰り道の学生達に思いながら、貴明が環の方を見ると、
彼女の顔は耳たぶまで真っ赤に染まっていた。
 あれ?
 パっと貴明から手を離して、環はダッシュで、彼から逃げていく。
「おおい、タマ姉〜」
 呼びかけても、環は帰ってこない。
 追いかける甲斐性さえあれば、環も救われるだろうに。


 日曜日。
 ブホっ、ブホっ、ブホっ。
 ヘルパーが仕事なアイアウスは、今日は飼い犬四匹の世話をしていた。
「楽と言えば楽だが。これは介護の仕事とは違う気もする」
 そうは言っても、飼い犬とか飼い猫とか、自分を肯定してくれるペットが
近くにいるということは、老人の精神ケアに多大な効果を及ぼすことが
わかっているので、アイアウスは忠実に自分の職務を果たしていた。
 公園で引き綱を外してやり、遠くへ離れすぎたら、その前に回って、
ここからは進んでいけないと諭す。目に見えない広大な檻に入れられている
ようなものだが、犬たちはそれでも、犬小屋よりもよほど自由な空間で、
じゃれ合い、つかみ合い、転げ回って、楽しそうに遊んでいる。
「アイアウスさん。今日は犬の散歩ですか?」
「仕事だ。私は大型犬を四匹飼えるほど裕福ではない」
 毛むくじゃらな犬、精悍な狩猟犬、ハスキー犬にコリー犬。
 話しかけてきた貴明にシュタっと手を上に上げて応えて、アイアウスは
犬の世話を続ける。貴明も、頼まれていないのに、アイアウスと一緒に、
犬の世話を手伝っている。
『ヲフ』
 毛むくじゃらな犬が、貴明を気に入ったようだ。腹を見せて、撫でて撫でてと
シッポをバタバタ振っている。
「こういう仕事なら気楽でいいですね」
「そうでもない。噛み合って怪我でもされたら、主人が悲しむからな」
 歯をむき出して喧嘩しそうになっていたハスキー犬とコリー犬の間に立ち、
二匹に餌を与えると、二匹とも順位争いなど忘れて、嬉しそうにガツガツと
餌を食べ始めた。
『ヲフオフ』
 空はいい天気。
 少し暑いくらいの春の日差しの中で、犬たちは元気に遊んでいる。
「あら、タカ坊」
 そんな公園で貴明に話しかけてきたのは、Tシャツにジーンズを履いた
環であった。
「日曜日に公園で昼寝なんて、爺くさいわね」
「昼寝じゃないよ。犬の散歩の手伝い」
「……え?」
 『犬』という単語を聞いて、環の動きが固まる。ギギギと油の切れた
機械のような動きで、貴明の足下を見ると。
『ハッ、ハッ、ハッ、ハッ――』
 毛むくじゃらな犬が、シッポを振って、貴明の手で腹を撫でられて、
気持ちよさそうにしていた。
「タマ姉。どうしたの? かわいいだろ、こいつ」
『ヲフ』
 撫でて撫でてと、転がって立ち上がった毛むくじゃらな犬は、
環の足に頭をすり寄せようとして……コテンとこけた。
「ひんっ……」
 なぜかヘンな声を出して、顔を歪めて、環は足を一歩後ろへと下げている。
「どうしたの、タマ姉。こいつ、タマ姉にも撫でて欲しいんだってさ」
『ヲフ』
 尻尾をバタバタと振って、毛むくじゃらの犬は近づき、またコテン。
 どうやっているのか、左右の足を入れ替えないままで、滑るように環は
犬の足から逃げている。
「タマね――」
『――ヲフ!』
 もう一度、貴明が環に声をかけようとした時。待ちかねた毛むくじゃらの犬が
環の立ち上がって、環の両肩に前足をかけた。
 青白い顔をして、ペタンと尻餅をつく環。その顔を、ベロベロと毛むくじゃらの
犬が舐めている。
 ベロベロベロベロ〜〜〜〜。
「おりょ? タマ姉、どうしたの?」
 なんだか、手を変な格好で固めたまま、顔を引きつらせているように見える。
 着ているTシャツは足跡だらけで、顔は犬のヨダレだらけ。
「に……に……」
 環がコリー犬の相手をしている間に、環の口から音が漏れ出す。
「に……に……に……に……に゛ゃ――――ッ!!」
「うおわ!?」
 いきなり奇声を張り上げた環に、貴明とコリー犬は驚いて、
呆然と彼女の方を見つめた。
「に゛ゃーッ、に゛ゃーッ、に゛ャァァァァァァァァァァァァァァッ!!」
 そして、そのまま奇声を上げながら、ものすごい勢いで環は走り出す。
「タマ姉?」
 このみも足が速いが、環も足が速いようだった。人外と雄二と言い合っているが、
それを勝る神速で、環は奇声を張り上げながら公園を走り回っている。
『ヲフ! ヲフ! ヲフ!』
 その後を追いかけるのは毛むくじゃらの犬で、これもまた速い。ドッグレースと
いう催し物があるが、この速度なら本命をねらえそうなぐらいだった。
『ヴォンっ!』
 キランと、貴明に頭を撫でられて大人しくしていたコリー犬の目が輝いた。
『ヴォンっ、ヴォンっ、ヴォンっ!』
 ボクも混ぜて〜、といった様子で、毛むくじゃらの犬の後を追って走り出す。
「や――ッ、や――――ッ、にゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
『ヲフ! ヲフ! ヲフ!』
『ヴォンっ、ヴォンっ、ヴォンっ!』
 仲間が楽しそうに走っているので、ハスキー犬と狩猟犬も、その後に続く。
『ワンッ、ワンッ、ワウウウっ!』
『ガウっ、ガウっ、ガウウウっ!』
 嬉しそうに、たなびく長い髪を追いかける犬四匹。
「いにゃぁぁぁぁッ!! 来ないでっ、来ないでぇぇぇぇッ!!」
 変態で仮面なアイアウスは目を和ませて、環と犬たちが走る姿を見ている。
「すっかり仕事を取られてしまった。あのドミナ、なかなかやるな」
「ええと……なんか、大事なことを忘れているような?」
 ドテンと、ころんだ環が勢いよく前に転がると、彼女を囲むようにして、
大型犬四匹の肉厚の舌が、彼女の顔やら髪やら手を、めちゃくちゃにベロベロ
し始めた。
「に゛ゃ――――ッ!!」
 一際大きな悲鳴を上げて、環が犬の毛の海の中でおぼれたように手を天に
あげて、フラフラさせている。ちょっと、凄惨な光景だった。
「……やべっ! 思い出したっ!」
 昔も、こんなことがあった。


「ねえねえ、タマおねえちゃん。この犬かわいいね」
「うっ、うんっ……そっ、そうかなぁ」
 ともだちがつれてきたポメラニアンのあたまを、たかあきはうれしそうに
なでているが、タマおねえちゃんはかおをひきつらせて、はなれていた。
「ふぁあ……かわいいね、かわいいねえ」
 このみが「かわいい、かわいい」といいながらなでると、いぬはペロペロと
ちいさなユビをなめている。
「ひんっ……」
 こどものころは、かげんというものがわからない。
 じぶんがすきなことは、あいてもすきだって、おもいこんでしまう。
「ほら、タマおねえちゃん。かわいいよぉ」
 きっとてれてしまって、じぶんからさわれないんだとおもった、たかあきは、
タマおねえちゃんのかおに、かかえあげたポメラニアンのかおをくっつけた。
 ペロリ。
「……ぅ」
 タマおねえちゃんのかおが、くしゃりとゆがんで。
「うぅぅぅぅぅぅぅ、うぇぇぇぇぇぇぇん」
 なぜか、タマおねえちゃんはなきだしてしまった。


「うぅぅぅぅぅぅぅ、うぇぇぇぇぇぇぇん」
 子供の頃のように、犬に顔を舐められた環は泣き出している。
 その姿を呆然と見つめている貴明。アイアウスはパンパンと拍手をして、
犬たちを自分の側に呼び戻すと、貴明の背中を押した。
「誰にとて苦手なものはある。惚けていないで、ドミナをなぐさめてやれ」
 整然と整列した犬たちの首輪に引き綱をつけてやりながら、アイアウスは
面倒くさそうに言った。


「この裏切り者……」
 腰が抜けてしまった環は、貴明に背負われて、家へと運ばれている。
「タカ坊が、あんなに薄情だなんて思わなかった……」
 耳が痛い。
 怒った環が、恥も外聞もなく、貴明の耳をガジガジと噛んでいるからだ。
「悪かった、悪かったよ、タマ姉。あんまり久しぶりだから、すっかり忘れていた」
「うるさいっ。もうちょっとでもら……うっ、うううううっ!」
 頭が痛い。
 ポコポコと、だだっ子のように環が拳骨で貴明の頭を殴っている。
 それはいつもの戦慄を覚えるような怪力ではなくて、くすぐったくなるような
柔らかい打撃で、背負っている貴明は、本当に悪いことをしたと思った。
「タマ姉。あんまり暴れると、お姫様抱っこに変えるぞ」
「ううううっ! タカ坊のイジワルぅうっ!」
 童心に戻ると言うが、今のタマ姉は、あの頃のタマお姉ちゃんとそっくりで、
貴明はなぜか胸をドキドキさせていた。
 俺ってロリコンっ気あったっけ? と、的外れなことも思ってみる。
 家路は遠いが、貴明の足は緩まない。あの頃と変わっていないと思って、
思いこもうとしていたのに、あんまり貴明が力強い男の子になってしまったので、
環も困惑していた。
「ねえ、タカ坊……もういいよ。歩けるから」
「やだ。このまま家まで背負って帰る」
「いいってば」
「今度言ったら、肩車に変えるね」
 何度か、同じことを言ったけれども、貴明はなぜかムキになって、環を
決して背中から降ろそうとはしない。
「やぁ……このままだと、あのときといっしょになっちゃうよぉ……」
 舌足らずな声に、貴明は答えることを忘れている。
 見える者には、今、貴明が背負っているのは、髪が長い鋼鉄の乙女ではなく、
強がりだけど小さな女の子のように見えた。
 それは幻。
 けれども、かつて、この道をたどって現された、同じ光の像。


「ねえ、タカ坊」
「ふう……眠い」
「ねえ、タカ坊ってば」
「アイアウスさん、段々人使い荒くなってくるよな。今度、なんか奢ってもらわないと
……」
 ギュィイイイイイイイイイ!
「タ〜カ〜ぼ〜うっ!」
「いだい、いだいって! タマ姉っ、千切れるっ!」
 ホッペタをギリリとつねり上げられて、貴明は悲鳴を上げている。
 帰り道、環と二人で帰ることになった貴明は、じくじくと痛む脇腹を手で
さすりながら、脇を流れる川を見た。
 じくじくと痛む頬。
 流れる川。
 忘れ去っていた昔へ、記憶はつながっていく。

「ど、どうすんだよ〜?」
「ど、どうしよう?」
 かわをながれているのはダンボールばこ。
 そのうえにのっているのは、ちいさなコネコ。
 たすけてあげたかったけど、タカぼうもユウくんもちいさいので、
どうすることもできない。はしのうえから、オロオロとみおろすばかり。
「たかあき。ゆうじ」
「ど、どうしたの、おね〜ちゃん?」
「もってて」
 あかいランドセルをなげてわたすと。
 タマおねえちゃんは、なにもおそれるようすをみせずに、かわにとびこんでいった。
 あんなにふかいかわなのに。
 すごくはやくながれるのに。
 タマおねえちゃん……すごいなあ。
 こねこをかかえあげて、きしにもどってきたタマおねえちゃんのえがおは、
とてもほこらしそうで。
 かみも、ふくもビショぬれだったけど。
 ほこらしそうに。
 とてもほこらしそうに。
 せいぎのみかたみたいに、わらっていた。

「昔の話よ」
 少し照れくさそうに、環は鼻の頭を掻く。
「いや、正直、あの時はタマ姉のこと尊敬したよ。子供心に、タマ姉みたいに
なりたいって思ったもの」
「そ、そう?」
 いきなり昔の話をされて、環はまんざら悪い気分でもなさそうに笑った。

「そうか。河野貴明。それが貴様の起源か」
 
 貴明と環の目の前に立っているのは。
 股間と顔だけを白い布で覆った筋肉むくつけき男、アイアウス。
「……タカ坊。知り合いなの?」
「あ〜、ん〜、えっと……」
 迷った貴明が答える前に、環は学生鞄を頭上に振り上げて、
「近寄るなっ! この変態っ!」
もっともな言葉を叫んだ。
「残念だが。私が興味があるのは君ではない。河野貴明。貴様の方だ」
「ダメよっ! タカ坊の調教計画は二十年先まで予約済みなんだからっ!」
「ちょ、調教ってなんだよ!」
「吠えるな、ドミナ。河野貴明。おまえの中にある変態の血は、彼女に
よって養われ、おまえの中にある正義の血は、彼女によって目覚めた。
そのことを、よく覚えておくがいい」
 キュっと、尻を締め上げて。
「フォォオオオオオオオオオ!!」
 寄声を上げて、男は走り去っていく。
「……なっ、なによ、アレ?」
 カバンを持ち上げたまま、環はへなへなと尻餅をついた。
「わからない。多分、正義の味方だけど」
 記憶がつながりかけている。
「ところでさ、タカ坊」
「なに?」
「オンブして」
 どうやら、環はオンブが気に入ったようである。