Lメモ稗史「彼女とあいつの事情」 投稿者:秋山登
 日吉かおりには、嫌いなものが三つあった。
 子供の頃、餌をやろうとして鳩の群れに近づいたら、
 あっというまに取り囲まれて、餌どころか全身をついばまれた。
 それ以来、鳩が大嫌いになった。
 鳩が平和の象徴だとか最初に言いだした奴は、
 鳩の、殺戮兵器のように無表情なあの目を見たことが無いか、
 さもなくば世界が狙えるレベルの皮肉屋か、どちらかに違いない。 

 ラッキョウが嫌いだった。
 プラスチックのようにつるりとした舌触りは、
 他のどんな物体と比べても食べ物には思えなかったし、
 噛んだときのプチプチ感は鳥肌ものだ。
 第一どこまでが皮でどこからが実なのだ、あれは。
 あんなもので御飯を食べるなら、キャベジンをオカズにしたほうが余程マシだ。
 と、学校帰りの歩道橋で夕日に誓ったのは、三年前の春だったか秋だったか。

 そして何よりも、男という生き物が嫌いだった。
 喋るたびに唾を飛び散らかすし、全身から足の裏のような異臭がする。
 爪の形はガタガタで、しかも間に脂が挟まっている。
 手の甲どころか指にまで毛が生えているし、密生した脛毛はまるでアリの大群だ。
 自分の価値観ばかり押し付けて人の話は聞かないくせに、
 反抗されるとやたらオトナ気取りで説教をかます。
 どうせ暴力に訴えれば女はどうすることも出来ない、と思っているから、
「自分は女性の味方」なんて、人を舐めきった台詞を平気で吐く。
 女は全員自分に気があると信じて疑わないから、やたらと馴れ馴れしいし、
 自分の行いを反省したりは絶対にしない。
 だから、女が怒るのは全てヒステリーである、としか考えられない。
 ……日吉かおりは、そんな、男という生き物が、大嫌いだった。

 ……今現在、かおりの目の前で、小さな椅子にどっかと腰を降ろしている男は、
 そういったタイプではなかった。
 むしろ、価値観からいけば彼女に近いとさえ言えた。
 お互い、世間一般では決して誉められることのない性癖を持っていながら、
 それを頑として変えようとしない点も共通していたし、
 愛する人のためならば、親を売っぱらうくらい平気でやりそうな所も似ていた。
 人の恋路を邪魔する奴は、頭割られて井戸の底、が信条で、
 ついでに言えば、女性の好みもそっくりだった。
 この男が、妹分の女の子に、
「男を殴れる女になれ」
 と言っていたのを、かおりは聞いたことがあったし、
 それについては全面的に賛成したい気分でもあった。
 だが。

 近親憎悪という言葉がある。
 これだけの共通項があるにもかかわらず、
 この男は、かおりにとって、間違いなく好意の対極に位置する人物であり、
 また外見的にも、彼女の美的感覚の埒外に鎮座していた。
 キューティクルもヘチマもない、逆立った黒い短髪。
 手入れなどしたことがあるとは思えない、太い眉毛。
 かおりより30センチは上回るであろう長身を覆う、鋼のように鍛え抜かれた筋肉は、
 男が身にまとう漆黒の忍者装束の上からでも、容易に見てとることができた。
 かおりにとってそれは、男というものの粗暴さの象徴に他ならない。
 そう。彼女にとって、恨み重なる最悪の敵、秋山登がそこに居た。

 ……だが、普段は不敵に笑みを浮かべるその口元は、今日に限って固く引き結ばれ、
 言葉を紡ぐこともない。
 躊躇とか優柔不断とかいう言葉とは無縁なはずのこの男が、
 かおりの太股くらいありそうなゴツい腕を組み、眉間に皺を寄せて考え込んでいる。
 いつもにも増して鋭く、凶悪と形容するのが相応しいようなその視線は、
 彼とかおりの間に境界線のごとく置かれている机の上に吸い付いて離れない。

 もっとも、そんなことは、かおりにとってはなんら心配事ではなかった。
 この男が考えている程度のことなど、手に取るように分かっていたから。

「王手」
 ぴしり、と、軽い音を立てて、玉の正面に歩が打たれる。
 たまらず後ろに逃げる玉。
 一般的に、将棋は、実際に王が取られるまでは戦わない。
 数手から十数手先を予想し、逆転が不能な状況だと判断した側が投了するのが普通だ。
 だが、二人の将棋は、完全に決着がつくまで終わらない。
「王手」
 いや。たった今、終わった。

「…………」
 ここは、人影まばらな放課後の教室。
 机の上に置かれた、中折れ式の安っぽい将棋盤をじっと見つめ、秋山は沈黙していた。
「秋山センパァイ、あなたの番ですよぉ?」
 ニコニコと笑いながら、甘えるような声で言うかおり。
 柏木梓と同期生である秋山登は、日吉かおりにとっては先輩だった。
 去年までは。
「…………った」
 一方の秋山は、下を向いたまま、絞り出すような声で呟く。
「え? 何ですかぁ?」
「……まいった」
「聞こえませんよぉ。もう少し大きな声でおっしゃって下さぁい☆」
「……だあああああ!!」
 やおら叫んで立ち上がった秋山が、背中に担いだ忍者刀の柄に手をかける。
 次の瞬間、チン、という鍔鳴りの音がしたかと思うと、
 将棋盤が机ごと真っ二つに割れ、駒がバラバラと床に散らばった。
「俺の負けだっつってんだよ! いちいちうるせえぞ!」
 190センチ近い長身の、しかも刃物持参の男が怒鳴っているというのに、
 かおりは平然としたものだ。
「ほほほほほほ! 大声出したって駄目よ。そう、あんたは私に負けたの。完璧に」
 先程とは打って変わって傲然とした偉そうな口調で、かおりが言う。
「それにしても、まっっっっったく、お話になんないわねぇ。
『大男、総身に知恵が回りかね』ってのは、このことかしら?」
「何だと、この……」
 しかし、言葉に詰まる。
 知恵の勝負において、まさしく完敗した直後では、どんな言葉も言い訳でしかない。
「はいはい。それじゃ約束通り、今日は梓先輩と二人っきりで下校させていただくわ」
「そっ、それはっ……!」
「なーに、その顔? 何か言いたいことでもあるのかしら?」
 ふふん、と鼻で笑うかおり。
「……くっ、くっくくく苦苦苦、心配するな、武士に二言は無い」
 こめかみに青筋など浮かべつつ、無理矢理ニヤリと笑う秋山。ちなみに君は忍者です。
「あらそう。ま、語彙貧困なあんたの言う事なんて、1から10まで予想通りだけどね」
「フン、せいぜい今のうちに吠えておくんだな。お前にとっては最後の勝利だろうから」
「それじゃ、あんたは一生布団の中で勝利の夢でも見てなさいな。残念ながら、私には
そんな暇は無いけれど。……なんたってこれから梓先輩と、激ラブで超絶ディープな、
というかむしろ宮廷風に絶愛的なひとときを堪能しなくちゃいけないから」
「そーかそーか。好きにしろ。憲法じゃ、妄想する自由ってのも保証されてるしな」
「うふふ。それでは御機嫌よう。…………ほーっほっほっほっほっほっほっほ!!」
 かおりは、スカートの端を摘まんで優美に挨拶したのち、高笑いをあげて立ち去った。
 秋山は、腕組みをしてその場に佇んでいたが、しばらくして含み笑いをはじめる。
「……ふっ。ふっ。ふっふっふふふふふふふぐがあああああああああああ!!!」
 腕組み姿勢のまま突進すると、教卓を跳ね飛ばして粉砕し、
 さらにそのまま猛然と頭突きをかまして黒板を叩き割る。
 直後、一緒に割れた彼の額から、それはもう噴水のように盛大に鮮血が吹き出した。
「……うむ。ちと、すっきりした……。が、いかん! 
 秋山登ともあろうものが、物にあたってストレス発散とは! 恥を知れ恥を!」
 彼の恥の基準は、大抵の場合、常人とは違う宇宙にある。



 その少し後。
 そろそろ太陽が夕日に変わろうかという頃合い、ここ一年生の教室では、
 風見ひなたとゆきが、やや童心に帰ってゲームボーイで対戦などしていた。
 いつもは身体を張ったギャグに忙しいエルクゥ同盟の面子にも、
 たまにはこうやって、男同士で互いを慰め合うことがあるのだ。(誤解推奨)
 ところが、そんな、ちょいと美少年風の二人の静かな時間をぶち破る男が。
「風見ぃ〜」(スリスリ)
 突如背後に出現した秋山登。覆い被さるようにして、風見ひなたに頬擦りを敢行する。
「んぎゃあああああっ!!!」
 音程のズレた悲鳴をあげて秋山を振りほどくなり、顔面めがけて掌打ラッシュを放つ。
「ぐべっ! ぶぶっち!!」
「ななな、何をやってんだアンタはっ!!」
「はっはっは、人間関係にお肌のふれあいは大事だぞ?」
 ジャスト一秒で顔を修復すると、キラリと歯を光らせてさわやかに言う秋山。
「それ以上そぱに寄らないで下さいっ! スキンシップならゆきちゃんにでもどーぞ!」
「ええっ!? 僕!?」
 突然話を振られて驚くゆきだが、
「ゆき〜」(スリスリ)
「ひゃああああああ!!!!」
 時すでに遅かった。

「……うう……。初音ちゃん、僕、僕、汚されちゃったよう……」
 教室の隅に転がって涙にくれるゆき。
「……日吉かおりに勝つ方法、ですか?」
 怪訝そうに言うひなた。
 ゆきを気にも留めないあたり、人間ができているというほかない。
「うむ。
あの阿呆をギャフンと言わせる、アバンギャルドで超ゴイスなアイディアは無いか?」
「いつも仲良さそーにしてるじゃないですか。なんでまた?」
「一体どこをどう見たら仲良く見えるのか甚だ疑問だが、この際改めて宣言しておこう。
俺と日吉は不倶戴天の仇敵、いやむしろ子供の両手を引っ張る大岡越前のような関係だ」
「後半がさっぱり解りませんが、要するにかおりさんをヒドイ目に合わせてやりたいと」
「奸智に長けたあの女をへこませられるのは、関西一の鬼畜であるお前意外にいない」
「何故関西? それにちっとも誉められてる気がしません」
「そうか? 『鬼畜』とか『卑劣』とかいう言葉、好きだろ?」
「そりゃ、嫌いじゃないですが」
「なら素直に悦べ」
「字が違いますって」
「まあ悦びはこの際いい。問題は日吉かおり。奴だ」
「普通に、屋上から投げ飛ばすなり若狭湾に沈めるなりすればいいじゃないですか」
「それでは普段と変わらんのだ。奴が得意とすること……つまり、同じ土俵で戦って、
なおかつ完勝をおさめることが肝要。さすれば奴も少しは懲りるということを知るはず」
「だからって何で僕に……」
「頼む〜。俺は、そういう小細工が苦手なのだ」
「あのねぇ。忍者ってのは、破壊工作、後方撹乱、まさにその小細工が仕事でしょ?」
「ふっ。俺は、プライベートに仕事を持ち込むような無粋な男ではないぞ」
「はあ……。わかった、わかりました。他ならぬ秋山さんの頼みですしね……ふう」
「そう嫌そうに言うな。よし。これからは特別に、俺の事をアニキと呼んでもいいぞ」
「断固拒否します」
「年に似合わず謙虚だな。……まあいい。で、策はあるか?」
「相手にもよりますが、基本的に罠ってものは、単純なほど効果があるんですよ……」



 翌日。
 昼休み。



 例によって例のごとく。
「うわははははは! あずさ〜! おとなしく俺とねんごろになれィ!」
 広大なグラウンドを疾走し、逃げる梓、追う秋山。
「土曜の夜は子供を作るのだ〜!」
「大声で馬鹿なこと言うなあっ!」
 悲鳴をあげつつも、足は止めない梓。
「うむ、さすがに速いな、梓。だが、負けんッ!」
 ぬおおお〜!(←擬音)
 すると。
「ちょ〜っと待った〜!!」
 後方から猛然と追い上げる人影ひとつ。
「ふっ……。来たな、我が怨敵よ」
 人影は立ち止まり、数十歩の間を置いて秋山と対峙する。
 その隙に、これ幸いと走り去る梓。
「昨日の今日でもうこの騒ぎ? 懲りないわね、あんたって」
「昨日なぞ知らんな。忍に過去など無用よ」
「学習能力無しってわけ? つくづく、知性も品位のカケラも無い男ね。
まったく、あんたごとき低能が私の梓先輩を手込めにしようだなんて、
これはもう全人類的に許し難い暴挙だわ。いえ、たとえ神が許しても、私が許さない」
「ふん、許さなければどうだというのだ?」
「どうもこうもないわ。秋山登……。アンタは、この日吉かおりが裁く!」
「面白い! 我が忍術、破ってみるか!」
 とか言っておきながら、突然くるりとかおりに背を向け、梓を追って走り出す秋山。
「っとと、待ちなさ〜い!」

 所謂忍者という人種に、人間離れした脚力を持つ者が多いことは、よく知られている。
 日に百里を走る、という伝説は、誇張があるにせよ、まったくの嘘偽りではない。
 ……だが、僅かとはいえエルクゥの血をひく日吉かおりのそれは、さらに上を行く。
 一説では、梓を追いかける時の走行速度は音速を越えるとすら言われるほどである。
 スタミナ勝負の長距離ならともかく、この程度の短距離走では勝負は見えている。
 みるみる秋山との距離が詰まっていった。
(……そろそろか)
「遅い! 遅いわっ! 陸上部のホープたるこの私に(注:マネージャーです)、
走りで勝負を挑もうなんて、身の程知らずもいいとこね!」
「今だ!」
 秋山が、懐から竹筒を取り出して一振りすると、中から無数のまきびしが飛び出す。
 鋭い突起物が地面に突き立ち、かおりの進路を塞いだ。
「ふん、舐められたものね……。はあっ!」
 ダンッ! と音高く踏み切ると、
 往年のカール・ルイスも裸足で逃げ出す華麗なフォームで宙を駆ける。
「甘いわ!」
「甘いのはお前のほうだ、馬鹿めっ!」
「何ですっ……っきゃああああああ!!」
 着地した、と思った瞬間、かおりの身体は地面に吸い込まれるようにして消失した。

(お、落とし穴!? しかも深い! ものすごく!)
 幸運にも無傷で底に落ちたが、その深さたるやほとんど古井戸である。
 井戸のふちから、かおりを見下ろす秋山。
「ふふふふふ、日吉かおり敗れたり! 見たか、きさまの性格なら、まきびしを迂回せず
飛び越えるだろうと予測しての完璧な策! 全くもって、人智に優る剣は無し!
ああっ、俺は恐い! 何が? 己の才能が!」
 思わず天を仰いで、長々と己が智を誇る秋山登、18歳で二年生。
「畜生ッ! この、この私がっ! こんなことで挫けるもんですかっ!」
 貞子も真っ青のリングな形相で、何とか縦穴を登ろうと爪をたてる。
「わはははは! 負け犬が無駄な足掻きをしよるわ! さっさと退場せい!」
 おもむろにクナイを取り出した秋山、ざっくざっくと穴を埋めはじめた。
「ひいぃぃぃぃ!?」
「おっとっと、いかんな。こんなトコで時間を食ってる暇は無いんだった。
梓が、俺のためだけに作った弁当持って待ってるからな」
「なんでふっ……ぶっ、ぺっ、ぺっ」
 叫ぼうとした口に土が入ってしまい、むせるかおり。
「んじゃ、あばよ、日吉。せいぜい夢の中で梓と仲良くするがいい……。
……ふふふふふふはははは、うわーーっはっはっはっは!」
 勝ち誇った高笑いをあげながら、秋山は悠然と歩み去った。
「ぐぐぐぐっっ!! あの野郎、ぜってえブッ殺す!」
 穴の底で、血涙しそうな勢いで目を見開いて決意を新たにするかおり。
 無理もない。



 5時限。
 柳川裕也教諭の化学の授業。



「何? 課題をやってこなかった?」
「ふ、何しろ昨日はロクに寝ないで穴を掘っていたものでな」
「お前、今日補習な」
「ぎゃふん!」