テニス大会参加Lメモ「変わらぬふたり」 投稿者:秋山登
 昼休み。
 彼女は、日当たりのいい中庭の芝生の上に腰をおろし、弁当の包みを開いた。
 Leaf学園三年生、柏木梓。
 学園長柏木千鶴の実妹でもある彼女は、そのボーイッシュな外見に似合わず、
 柏木家の家政を取り仕切る一流の家庭経営者であり、ことに料理においては、
 料理研究会現部長の神岸あかりが師と仰ぐほどの卓絶した腕前の持ち主であった。
 無論、彼女が持参してくる弁当は、そこらのシェフも裸足で逃げ出す出来栄えで、
 それは、主に二人の人物による激烈な争奪戦の対象でもあった。
 梓もそれを見越して、二、三個多めに弁当を作ってはくるのだが、
 多く作れば作っただけ、それを一人占めしようとさらに抗争が激化するので、
 結局、昼飯時は大騒ぎになってしまうのが常だった。

 だが、本日ただいま、彼女の前に坐る両名は、いつになく静かだった。

 一人は、梓にとって陸上部の後輩でもある、二年生、日吉かおり。
 ややうつむき加減で、簡素な箸をゆっくりと口に運ぶ。
 口の達者なこの少女が、今日に限って言葉少なで、笑顔を見せることもない。
 薄茶色の髪が初夏の風に揺れ、どことなくアンニュイな雰囲気を醸し出している。

 もう一人は、かつての同級生、今は二度目の二年生をやっている、秋山登。
 その身に纏う漆黒の忍者装束は、夏に備えて半袖にモデルチェンジしていた。
 大きな身体でどっかとあぐらをかき、大きな口に黙々と御飯を放り込んでいる。
 そういえば梓は、今日はまだこの男の大きな笑い声を聞いていなかった。

「……そ、そういえば、宇治の奴はどうしたんだ?」
「彼なら、今日はゆきくんや初音ちゃんと一緒に食べるそうです」
 どうにも沈黙に耐えられなくなった梓が聞くと、かおりが無機的な声で答えた。
「あ、そうなんだ……。 残念だね、あの子の分も一緒に作ってきたのに」
 実は、今日のかおりと秋山の雰囲気にただならぬものを感じた宇治は、
 身の危険を察知し、初音やゆきが形成するほんわか空間に逃げ込んでいたのだ。

「…………」
 会話が止まる。
「えっと……。あのさ、もしかしてあんたたち、喧嘩でもしたの?」
 梓が、二人に訊ねる。
 これは、いささか奇妙な質問であった。
 かおりと秋山の二人が顔を合わせて、喧嘩していない状況などまず無かったから。
 無論、梓にとっても、いつも喧々囂々と騒がしい二人が普通なのであり、
 その二人が揃って黙っているということこそまさに異常事態であったのだ。
 それがつまり梓の言う「喧嘩」であった。
 ひょっとして、自分の知らないうちに、何か、
 この二人の関係を激変させる事件が起こったのではないか?
 と、色々想像してみると、どうにも不安になり、居心地が悪い。

 そう思っていると、かおりがようやく口を開いた。 
「菅生先輩と……」
「え、誠治?」
「梓先輩が、菅生先輩と組んでテニス大会に出るって聞きました」
「あっ……」
 虚をつかれた顔になる梓
 そう、先日梓は、テニス大会の企画に、菅生誠治とペアで参加登録をしていた。
 いつもの、ちょっとしたイベントだと思って、軽い気持でOKしたもので、
 かおりがどう思うか、なんてことまでは考えていなかった。
「そ、そんなんじゃないよ、あれはただ……」
 しまった。
 よく考えてみれば、確かにそうだ。
 優勝すれば、賞品にかこつけて、三年全員で温泉旅行に行こう、なんて計画が
 持ち上がり、それならばと、さほど親しいわけでもない誠治と組んではみたが、
 何といってもペア温泉旅行が賞品である。まわりはそうは見てくれない。
 この子に、一言相談すべきだった。

 かおりが、梓に好意以上のものを抱いてることは、無論梓自身よく分かっていた。
 倫理観と生理的嫌悪が先に立って、その気持ちに答えることこそ無かったものの、
 梓は、自分を慕い、懐いてくれるこの少女が好きだった。傷付けたくはなかった。

「ええと、かおり、違うんだって。
ほら、あれって男女ペアじゃないと参加できないらしいし、だから仕方なく……」
 そこでハッ、とする。
 秋山と目が合った。
 優しい目をしていた。
 いつもの秋山ではなかった。
 いつも、むき出しの好意をぶつけてくる、あけっ広げで、直截的で、本能全開の、
 そんな、いつもの秋山ではなかった。
 目は優しいのに、どこか突き放されたような、そんな気持ちを梓は味わった。
 すると、
「ごっそさん。美味かったよ」
 と言って、空の弁当箱を二つ重ねて置き、秋山が立ち上がった。
「日吉、行くぞ」
「……うん」
 かおりも、弁当を置いて立ちあがる。
 二人は同じクラスだったから、一緒に教室に帰っても別段おかしくはない。
「じゃな、梓」
「ごちそうさま、梓先輩」
 そのまま、すっと背を向けると、二人並んで歩き出す。
 だが、梓は思った。
 違う。こんなはずじゃない。

『ふっ、誰と組もうが、我らが築き上げた既成事実の前ではカス同然! なあ梓!』
 とか、馬鹿なことを大声で叫んでほしかった。
『わっはっは、んじゃ今すぐ俺と組み直してGOだ!』
 とか言って、自分を肩にかついで、大笑いしながら走り回ってほしかった。
 そんな秋山をかおりが追いかけて、ロケットキックのひとつもかます。
 それで何もかもいつも通りだ。誰も傷つかずにすむ。だから……。

 秋山は振り向かなかった。
 かおりも振り向かなかった。
 梓は、ひとり残された。

「……ッ!」
 組んだ両手を額に当て、舌打ちとも呟きともつかない音をもらす、
 梓は、後悔していた。
 軽はずみだった。
 二人の気持ちを知っていながら、あのときそれを考えようともしなかった。

 普段、騒ぐ二人に囲まれて、本当は居心地が良かった。
 なのに、それを維持する努力を怠った。
 こんな関係が、いつまでも続くと信じて疑わなかった。



 その日の放課後。



 「……さてと。行く?」
 「無論だ」

 かおりと秋山は、並んで歩き出す。
 とある男に、問いただすことがあった。
 目的地は、Leaf学園工作部。



「……というわけだよ」
 部長の菅生誠治は、時ならぬ闖入者に驚く様子も見せず、柔和な表情で、
 梓と組んでテニス大会に出ることになった、ことの顛末を語ってみせた。
「でもでも、菅生センパイ、私に黙って決めちゃうなんて、酷いじゃないですかぁ」
 かおりが抗議する。
 秋山は、先程からのかおりと誠治のやり取りを聞いていたが、
 まるで銅像のように無表情で、身じろぎ一つしない。
 上背も厚みも、誠治とは比較にならない大男がドンと立っているのは、
 正直、少々鬱陶しかったが、それには構わず、誠治は話を続ける。
「ははは、それについては悪かった。でも、君もそろそろ本当の恋を見つけなきゃ
いけないよ? 君はチャーミングだし、その気になればとてもモテると思うなあ」
「え〜っ。私、梓先輩のことが大好きですよぉ? これって、恋だと思うんです」
「それはね、恋に恋してるってだけだよ。梓は面倒見もいいし、
 姉御肌だから女の子にももてるだろうけど、それは恋とは違う」
「でもでも、梓先輩だって私のこと可愛いがってくれてますぅ」
「恋愛というのは、お互いがお互いを思いやり、認め合って初めてできるものだよ。
 君の、いや君たちのそれは、恋愛じゃない。好意の押し付けなんじゃないのかな?」
 涼しげな瞳で、子供たちを諭す。
 かおりと秋山は無論知る由もなかったが、楠誠治という技術者のクローンである
 菅生誠治の肉体には、歴とした大人の精神が宿っているのだ。
「愛することで相手を苦しめるとしたら、そんなものを愛と呼べるかい?
君たちがそうだとは言わないが、もう少し相手の立場に立って考えてみた方がいい」
 人生経験の不足している子供は、若さにまかせてなにかと間違いを犯すものだ、
 だから、自分たちのような大人が、正しい方向に導いてやらねばならない。
「……はい、教科書通りのご高説ありがとう」
 かおりの口調が変わっていた。
「あんたは、ある種典型的な『男』だってことがよく分かったわ。
世の中の人間が、皆あんたに惚れてるとでも思ってんの?
偉そうに恋だ愛だ語りたいなら、等身大のフィギュア相手にでもやっててほしいわね。
口答えしないだろうから、あんたみたいのにはきっとお似合いだと思うわ」
 かおりの挑発的な言葉にも、誠治は苦笑するだけだ。
(なるほど、こっちが本性か)
 この世代の子供は、えてしてこういう状況に過剰に反応することを、
 誠治は経験上知っていた。
 興奮させないように、理論立てて諭してやるべきだろう。
「いやすまない、説教する気は無かったんだがね。
ただ、梓は、俺のほうから誘ったわけでも、無理強いしたわけでもないよ。
何故君たちを誘わなかったのか、そのあたりの彼女の気持ちも察してあげてくれ」
「……ふう。なるほど」
 かおりが、ため息をつき、両手をあげる。「お手上げ」という意味だ。
「どうしよっか?」
 ずっと黙ったままの秋山のほうを向いて言う。
 言葉通りの意味ではない。
 たんに「もういいわ」という諦めの気持を確認したに過ぎない。
 秋山の、無表情な顔と細められた瞳を見れば、彼が自分と同じ気分である、
 ということくらいは、かおりにはすぐに分かった。

 出来心だったんだ、とか、自分も本当は梓が好きだったんだ、とか、
 言い訳するにしても、開き直るにしても、本気でそう言われれば、
 二人とも誠治の言い分を認めるつもりだった。
 自分たちと同じ土俵に立ったのであれば、
 それは、敵であると同時に、ある意味仲間でもあるのだから。
 だが彼は、二人と同じ舞台に登ろうとはしなかった。
 否、誠治の価値観から言えば、二人のいるところに降りて行こうとはしなかった。



 秋山の思考は単純だった。
 ああ、これはもう殴るしかない。



「部長! 部長!」
 揺り動かされて、誠治はハッと目を覚ました。
 床に仰向けに倒れたまま、結構な時間気絶していたようだ。
「一体どうしたんです!? 血が、こんなに……!」
 うろたえる工作部員。
「い、いや、なんでもないよ。ちょっと、整備中にドジ踏んでしまってね」
「そ、そうなんですか? もう、気を付けて下さいよ。心配したんですから……」
「ああ、悪かった……」
 と呟き、あたりに散乱した機械の破片を片づけはじめる。
 だんだんと、誠治の記憶が蘇えってきた。
 ……顔面に、ハンマーで殴られたような凄い衝撃を感じて、床に倒れ……。
 それだけだ。あとは何も覚えていなかった。
 床の血痕を見るに、どうやら、前歯数本と鼻の骨が折れていたらしい。
 ナノマシンによる高速治癒のおかげで、骨はなんとか元どおり接合していた。
「……くそっ、あの戦闘バカ……!」
「え? 何か?」
「いや、なんでもない……」
 まったく、これだから、暴力しか能の無い餓鬼どもは度し難いんだ……!
 人の話を聞こうともせず、独善的な正義を振りかざし、人を傷付けることしかしない。
 あんな奴等が、俺の工作部に足を踏み入れたってだけでも虫唾が走る!
 顔には出さずに怒る菅生誠治。
 無理もない。



 翌日、朝。



 二年A組、長岡志保が自分の教室に入ろうとすると、
 入り口付近でうろうろしている柏木梓に出会った。
「あれ〜? 梓さん、どしたの?」
「ん? ああ、志保。あの……。秋山とかおり、いる?」
「? ええ〜っと。ああ、あの二人ならあそこね」
 教室の後ろを指差す志保。
 窓側の一番後ろの席に秋山、その隣にかおりが坐っている。
「ほら、用事なら入った入った」
 梓の手を引っ張り、教室に連れ込む志保。
「え? ああっ、ちょっとちょっと!」
「で、何です? もめごと? 別れ話?」
「ち、違うって! そんなんじゃないよ」
「まあまあまあ。ほら、遠慮なくGO!」
 志保が、梓の背中をとん、と押す。
 やれやれ、という感じで歩き出す梓。
 梓に気づいた秋山が、よう、と手をあげ、
 かおりも、おはようございます、と挨拶する。
 二人の前で、しばらく、ええっと……と考えていた梓だが、
 やがて意を決して話し出した。
「あの……。二人とも、昨日はゴメン!」
 ぺこっ、と頭を下げる梓。
「あれからずっと考えたんだけど、……あたし、軽率だった。
二人のこと、考えてなかった。だから、やっぱり登録は取り消そうと……」
「おお、テニスのことか。賞品のためだ、相手がお前でも、手加減せんぞ」
「は!?」
「梓センパイ。私、コレと出ることにしたんです、テニス大会」
 ぴしっ、と親指で秋山を指差して、にっこり梓に笑いかけるかおり。
「はい!?」
 唖然とする梓。
「この阿呆は、何故か女なもんで、もともとお前と組むことはできん。それはいいが、
残念ながら、俺がお前と組んでも、重複登録になってイマイチ具合が悪いらしい」
「だから、私とこの馬鹿が組んで優勝するんです! そうすれば宿泊券は私達のもの!」
「うむ! しかる後に此奴をヘブン送りにすれば、晴れて俺とお前は結ばれるのだ、梓」
「そーです! 私と梓先輩の熱い夜を、海の底から見守ってくれるそーです、コイツ」
「ちなみに梓、お前が優勝した場合、もれなく副賞として俺がついてくるので忘れるな」
「安心してください梓先輩、私達の負けは即ちコイツの死と同義ですから」
「ふっ。やはりキサマとは、本番前に決着をつけねばならんことが多すぎるな」
「あんたって、マゾだけあって負けるのが好きよね、実際」
 相変わらずな二人。
 いつもと変わらぬ光景が、そこにあった。
「くくくくくくく…………」
 ふと、梓が、腹を抱えてうずくまる。
「どーした、梓。あの日か?」
「梓先輩、私、いい便秘薬もってますよ?」
「あっははははははははははは!!」
 突然、爆発するように、梓が笑った。
 そうだった。こういう奴らだ、この二人は。
「あれっ、私、なんか面白いこと言いました?」
「甘いな日吉。理由なぞ無くても笑いたいとき笑う! これこそ人間よ」
「なによー、偉そーに」
「ふ、悔しかったらお前も笑ってみせろ。このようにな!
……うわーーーーっはっはっはっはっはっはっは!!!」
「むむ、なんて偉そうな笑い! 見てなさい、私だって!
……ほーーーーーっほっほっほっほっほっほっほ!!!」
「あっはっはっはっは!」
「ふはははははははは!」
「ほほほほほほほほほ!」
 二人は。
 否、三人は、些細な行き違いをいつまでも引きずるような弱い人間ではなかった。

「くく……。あー、お腹痛い」
 梓が、涙目で言う。
「うむ、すっきりしたな。優勝くらい軽〜くやれちゃいそうな気分だ。
日吉、お前も、俺の足を引っ張らんようにな」
「あんたテニスでも私より弱いじゃない」
「あれはたまたまだっ! もう二度と負けん!」
「ま、あんたは血反吐吐くまで特訓しなきゃダメね。
そんなわけだから梓先輩、覚悟してくださいね?」
「ふふふふ。俺の超絶サービスにびびるなよ?」
「ああ。あたしだって、手加減しないよっ!」
 にっ、と梓は笑う。

 今日は、いい一日になりそうだった。