Lメモ過去編「第壱話・逢」  投稿者:beaker




朝、目が覚めると必ず自分が泣いている事に気付く。

二十三日の朝はいつもそうだ。

多分、悲しい夢を見ていたのだろう。

夢の中身は忘れている、だけど僕は知っている、その夢がどんなものだったのか。

そう、それはかつて現実だった。

その現実は夢よりも遥かに悲しいものだった。

僕はベッドから起きると、カーテンを開けた。

眩しい朝の日差しの代わりに霧のような雨と曇り空が窓の外に広がっている。

煙草に火をつけて、あの当時の事を思い出す。

'僕'が'俺'だったあの頃を。

'彼女'の余りにも悲しく、せつないなんて言葉では片付けられない想いを。

そしてたまらなく悲しくて、辛くて、激しくて、愚かだったあの頃の事を。












===Lメモ過去編――「第壱話・逢」――===






ハァ、ハァ、ハァ……五歳の自分には余りにも激しい運動だった。
そこらの扉を手当たり次第に開けて、出口を探そうとする。
だけど、僕が望むような部屋はどこにもなかった。
後ろからドタバタと自分を追ってくる足音が聞こえてくる。
五歳の足と大人の足ではすぐに追い付かれてしまうだろう。
僕は手近な部屋に飛び込んで、隠れる事にした。


「……!」
「……?」
扉の向こうから大人の喧騒が聞こえてくる。
やがて、声も足音も遠くへ消え去っていった。
ホッと息をついて、ズルズルと扉を背中にへたり込む。
そして僕は落ち着いて考える事にした。
何故自分がここにいるのかを。
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それは、余りにも突然だった。
父さんや母さんと香港へ旅行に行った時の事だ。
母さんは妊娠三ヶ月だったが、半年も前から決まっていた旅行をキャンセルする手はない。
僕も父さんも母さんの身体に気を遣いながら、旅行を楽しんだ。
ちょうど香港では祭が始まっていた。
活気の良い市場の声が、楽しげに騒ぐ香港の人達が、自分達を歓迎しているように思えた。
そして、香港旅行三日目の夜。
止まっているホテルに帰るためにタクシーを呼び止めた。
タクシーに行き先を告げる、運転手は頷いて車を発進させた。
しばらく進んだ後の事だ。
突然、後ろから衝撃が起こった。
「きゃっ!」
「何だっ!?」
僕は激しい衝撃が起こったかと思う暇もなく、前の席に頭をぶつけて昏倒してしまった。
遠のく意識の中、こちらに近付いて来る影が見えた……。
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その次に目覚めたのは病院の手術用のベッドだった。
辺りを見回す。
カチャカチャと金属音をたてて医者が鋏やらメスやらをいじくっていた。
背中を向けているのでこちらが目覚めた事は気付いていないらしい。
……不思議な事に助手は誰もいなかった。
テレビドラマで良く見る手術シーンにはたくさんのお医者さんが出てくるというのに。
生まれ付いての勘、なのだろうか?
とんでもなくイヤな予感がした。
とにかく、父さんと母さんに会おう。
そう思って起き上がろうとする。
だが、突然手術室に扉が開いて中から僕の父さんより一回りくらい年をとった――でも僕のお爺さんより下
だろうか?――男が入ってきた。
服は総理大臣のように立派だったが目付きは鋭く、どう見てもいいひとには思えなかった。
その男は医者と二言、三言話すと手術室を出て行った。
だが、出て行く前にこちらをチラリと見る。
僕は慌てて目をつぶった。
うっすらと、気付かれないように目を開ける。
その男はこちらを睨み付けていた――まるで僕を殺そうと思っているみたいに。
僕は彼が出て行った後、咄嗟に近くにあった血みどろの鋏を手に隠し持った。
その瞬間、こちらを医者が振り向く。
医者はキラキラと光るメスを手に持ちながら、近付いて来る。
……そうか、突然僕は分かった。
彼らは悪の組織なんだ、彼らは僕を改造して怪人にするつもりなんだろう。
日頃見ていたテレビの影響かそんな事を思い込んでしまった。
僕は鋏をぎゅっと握り締めた。
こちらに医者が近付き、かちゃかちゃとマスクのようなものを僕の口に当てようとする。
僕は突然起き上がった。
そして鋏で医者の――悪の医者の首に鋏を突き立てた。
さらに鋏をねじ込む。
医者は余りの展開にきょとんとしながら、ガクリと崩れ落ちた。
血が噴き出し、僕が着ていたTシャツを汚す。
だが、崩れ落ちる瞬間、医者は手術用のテーブルに手を引っ掛けた。
ガシャン! と激しい音がして辺りにメスやら鋏やらが散乱する。
今の音はマズい、と僕は思った。
今のでさっきの男が気付いて、こちらに戻ってくるかもしれない。
僕は起き上がると、痙攣している医者の身体を踏み越えて、手術室の扉の横に立った。
やがて何人かの足音がこちらに近付いて来るのが分かった。
後、五秒。
僕は意識を集中させた、扉を開けた瞬間、こちらに気付けば終わりだ。
零、と僕が心で数えたのと同時にバタン! という音がして扉が開いた。
黒服の男が二人、手術室へ入ってくる。
僕はそっと、その横を通り抜けた。
足音も、気配もなく。
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・
そして今、僕はここにいる。
ともかく向こうは悪人だという事は分かった、そしてこちらは正義。
正義の人間は悪に負けるはずがない、そんな今から思えばくだらない事が僕の勇気の源になっていた。
僕はふと、気付いた。
この部屋……悪の組織の部屋にしては妙に明るかった。
真っ白な壁、豪華なシャンデリア、そして廻りに整列しているぬいぐるみ。
女の子の部屋なのだろうか?
そう思った時、ベッドの影からキィ、キィという音がして、こちらに何かが向かって来る。
僕は先ほど掠め取ったメスを握り締めた。
キィ、という音は車椅子の音らしい。
やがてゆっくりとその車椅子の人間が姿を現した。
僕と同じ歳くらいの女の子だった、僕はそれほど太っていた訳ではなかったが、
僕より一回りは細いだろう。
真っ白で、たくさんフリルのついているパジャマに透き通るような肌。
ほっそりとした腕には痛々しく点滴がついていた。
彼女は僕を見るとびっくりした目になった、当然だろう。
叫んだら、どうしようか?
僕はさっき悪い医者をやっつけたが、彼女は果たして悪いやつなのだろうか?
とてもそうは見えなかった、ならば誘拐されたのだろうか?
五歳の僕にとってそれは余りに難しい問題だった。
人を愛する事と人を憎む事は両立する、それを知ったのはつい最近になってからだ。
彼女は声を上げなかった、ただ、哀しそうな目をした。
僕はメスをズボンのポケットにしまい込むと、ゆっくりと近付いた。
敵意が無い事を分からせるために。
女の子は怯えたような表情を浮かべたが、やがて僕に言葉をかけた。
「……誰?」
だけど僕にはその言葉がわからなかった、当たり前だ。
それは中国語で、僕は日本人だったんだから。
僕は身振り手振りで彼女に僕の名前を教えようとした。
けど、そんな暇はなかった。
僕がさっき入ってきた扉がノックされた。
蒼ざめる僕と彼女。
「春蘭? 春蘭いるのかい?」
彼女は僕に黙って、ベッドの下を指差した。
その意味する事が分かった僕はベッドの下に隠れる。
僕がベッドに隠れたのと、彼女がはいと答えたのと、扉を叩いていた人間が
入ってきたのはほぼ同時だった。
「春蘭、春蘭や。どうしたんだい?」
ひどく心配した声で足しか見えない人間は聞いた。
「いいえ、お父様。ちょっと疲れて声が出せなかっただけ。どうかなさったんですか?」
「ああ、不埒な賊がこの家のどこかにいてね。春蘭は何か見なかったかい? 物音とかは?」
「いいえ、お父様。何も見ていませんし、聞いていませんでした」
「そうかい、そうかい。お前が無事ならそれでいいんだよ」
ぽんぽんと車椅子の彼女を抱き締める音がした。
「はい、お父様」
彼女も嬉しそうな口調でそれに答えた。
僕は妙に不安になった。
彼女はもしかして自分を窮地に追い込むために、敢えてここを指差したのではなかろうか?
彼女の姿は車椅子越しの背中と、手くらいしか見えない。
その手が黙ってベッドの下を指差せばどうなるのだろうか?
僕はゆっくりと動き出した、ここに長く留まっているのはうまくない。
だが、それが仇となった。
ベッドの下にあった何かに僕はぶつかった。
かすかな音だが、二人の耳を刺激するのは充分だったらしい。
「? ベッドの下に何か……?」
男はベッドの下を覗き込もうとした。
慌てて彼女は男の前に立ちはだかる。
「……? どうしたんだい?」
「実はお父様……その……もうすぐ、お誕生日でしょ? だからここにプレゼントを……」
苦しい言い訳だったかもしれない。
だが、彼はそれで納得したらしい。
ニッコリと笑うと、彼女の頭を撫でた。
「念の為に、扉の前に見張りをつけておくからね。何かあったらすぐ知らせるんだよ?」
「はい、お父様」
そう言い残して彼は部屋を出て行った。
ふう、と一息ついて彼女はベッドの枕木をコンコンとノックした。
僕はそれに応じてベッドの下から抜け出す。
……僕には彼女たちの会話はほとんど分からなかった。
だが、これだけは確実に言える。
彼女は僕を庇ってくれた、と。
前にも言ったけど僕は中国語を知らなかった、だけど知っている単語は一つだけあった。
「謝々(ありがとう)」
僕はそう言った。
彼女はニッコリと笑った、言葉は通じたらしい。
そして思い付いたようにベッドの傍らからスケッチブックを持ってきた。
パラパラとめくって、真っ白なページを見付けるとペンでこう書いた。

「春蘭」

そして自分を指差した。
春蘭……それが彼女の名前なのだろう。
僕は何回も頷いて、それが分かった事を伝えようとした。
それから僕の名前も教えようとした。
差し出されたスケッチブックとペンを手に大きく名前を書いた。
だけど、残念な事に僕はまだ漢字を知らず、ひらがなしか知らなかった。
彼女は差し出されたスケッチブックを手に取って困ったような笑顔を浮かべた。
でもとにかく頷いた。
僕は僕の名前が伝わったものと思い込み、嬉しくなって笑った。
彼女は僕の手を引いて、窓の側へ移動した。
窓の外は曇り空で今にも何か降り出しそうな気配だった。
彼女は窓を指差し、それから下を指差した。
この窓から逃げ出せ、と言うことらしい。
僕は頷いた、一刻も早くここを抜け出して父さんや母さんに逢いたかった。
そして窓を開ける、窓越しでは気付かなかったが少し、霧雨が降り出していた。
僕は窓を見下ろした、屋根はゆっくりとスロープしていて、一階へは簡単に降りられそうだった。
窓の外へ足を踏み出す。
そして彼女に向かって手を差し出した。
彼女はニッコリと笑い、僕の手を取って握手した。
僕はもう一度一つだけ覚えていた中国語を言ってお別れした。
「謝々(ありがとう)」
と。
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僕は夢中になって駆け出した。
次第に激しくなってゆく雨も、鳴り出した雷も気にならなかった。
ただ、ひたすら走った。


やがて、疲れ切った僕は迷い込んだ路地裏に倒れ込んだ。
異臭が鼻を突くが、そんな事は気にならないほど疲れていた。
そこには他に何人もの人間がうずくまって雨を耐えていた。
全員が何がしかの毛布だか筵だかで雨を避けている。
残念な事に僕は何も持ち合わせていなかった。
だが、仕方あるまい。
そう思った瞬間、バサリと誰かが僕に毛布をかけてくれた。
猛烈な異臭がするが、ともあれ雨を凌ぐ事はできる。
僕は「謝々」と誰にともなうものでなく呟いた。
周りの空気がほんの少し、優しくなった気がした。


僕はこの時、何となく予感がした。
もう父さんと母さんには逢えないだろうと。
悲しかった、だが、これで良かったのかもしれないと思う。
あの悪の組織はきっと父さんと母さんの居所も知っているはずだろう。
ならば僕が帰っていくのはきっと危ない。
子供なりに論理的な判断のつもりだった。


実際、それで良かったのかもしれない。
後になって気付いた事だが、僕は遠くまで走ってきたと思っていたものの、
実際にはあの館から数kmも離れていなかったのだ。
きっと、のこのこと表通りを歩けばたちまち見つかったに違いない。
だが、僕は既に裏通りの住人となっていた。
裏通りに住む名も無い人間達を誰が気に留めると言うだろうか?


僕はここで生き抜いていかなければならないと思った。
この路地裏の名前は後に知る。
腐った肉を食い漁る、何もかも終わった人間が集う場所。
通称、「腐肉食路地」と。


この路地裏で僕は七年を過ごす事になる――











<続く>