Lメモ過去編「第弐話・生」  投稿者:beaker

――まだ、雨は降り続いていた

だけど僕は立ち止まる訳にはいかなかった

諦める訳にはいかなかった

ただ、生きていたかった

どんなに闇の底で這いずりまわっていたとしても

いつしか差し込むはずの光を夢見ながら過ごしていたんだ

でも

まだ雨は降り続いていたんだ――












===Lメモ過去編「第弐話・生」===



……僕がここに居着いてから既に数ヶ月が過ぎた。
周りの言葉を少しずつ理解し、ここのルールも少しずつ理解し始める。
この路地は「公平」だった、ここに住む全ての人間にとって。

僕はここにいるだけで黙って食べ物を分けて貰えた。
――別に彼らが憐れんでいるという訳ではない。
これは僕への「投資」なのだ。
そう、まずここは一番長くいるものに優先的に食べ物が恵まれる。
彼らへの敬意のためだ。
次に優先されるのは僕みたいな幼い子供――言うなれば「新人」だ。
僕たちはまだ身体が成長しておらず、何の役にも立たない事は分かっている。
だから育てる、後に「回収」するために。
そして僕たちは育つとこの路地で恵まれる食料の代償を払わなければならないのだ。
ある者は自分を金持ちの性的欲求の相手とすることで、
ある者は自分を暴力衝動の相手とすることで。
いずれにせよ、その代償として食料が恵まれる。
そして若い内に死んだとしても、やはり食料となるのだろう。
この路地の名前は「腐肉食」、人生を終わらせたもの達の唯一の安息の場だ――



「お前さん、日本人だろ?」
たどたどしい日本語で僕は声を掛けられた。
この路地に来て数ヶ月、初めての事だ。
黙って頷いた、顔を上げようとしたが顔を上げるのも億劫だった。
「別に構いはせんよ、ここの路地はどんな国籍だろうが歓迎さ」
座ってもいいかね、と彼は僕に聞いた。
僕はもう一度頷いた、座ったおかげでようやく顔が見える。
……老人だった、おそらく白髪だったであろう髪は長年洗っていないせいか黄色に変色していた。
目は細めて、こちらを見つめている。
不思議に不快な感じはしなかった。
僕も彼を見つめ返した。
すると老人はいかにも可笑しそうに笑った。
「ここの路地には似合わないくらいの良い目じゃな、まだ希望が残っているのか」
……これは中国語だったので分からなかった。
「私の名前は、徐、徐・雲明(じょ・うんめい)と言う。誰もこの名前を呼ぼうとはしないがね」
今度は日本語だった。
彼は何故日本語が話せるのだろうか? 僕はその時そんな事を思っていた。
……自分の祖父に日本と中国の歴史を教わるのはずっと後の事だ。
「キミが何故ここに来たのかは分からない、分かろうとも思わない。だが、まあ……
ここに居着くつもりならば、とりあえず中国語を教えてやろう」
僕は頷いた、何をするにせよ言葉が分からないでは不利だし危険極まりない。
だけど何故そんな親切をしてくれるのだろうか? 僕は訝しげに思った。
それが彼にも伝わったらしく、彼は
「私はもう何もかも引退した身だからだ、まあ老人の暇潰しとでも思っておくれ」
と言った。
「中国語を学び、生きる術を学べ。お前さんがここで「代償」を支払うその時までな」
僕はもう一度深く頷いた。


驚いた事に彼は言葉だけでなく中国拳法も教えてくれた。
形だけのものではない、実戦で鍛え上げ、培われた本物の武芸だ。
僕は言葉も、中国拳法も、熱心に学んだ。
とりあえず時間はあったし、何かの役に立つ事は間違いなかったから。
乾いた布に水が吸収されるように――とはいかなかったが、そこらの道場で学ぶような人間とは
執念が違っていた。
生きる、という事への。
時間はまたたくように過ぎた。
・
・
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そして生きた鼠が御馳走と思い、腐った食い物でも平気で食えるようになった頃、
僕が代償を払う年月になった。
悩んだが――僕は身体を不具にされる事だけは避けたかった。
夜の街に立つ。
僕が十一歳になった頃の事だ。。
僕の売り込みは徐爺さんがやってくれた。
老骨に鞭を打ち、必死に僕の「売り込み」をする。
幸いにして商談はすぐにまとまった。
「初物」というコピーが効いたのかどうかは分からないけど、ともかく僕は誰かに「買われた」。
好色そうな目でジロジロとこちらを見る。
およそ女性にはモテそうにない顔だ、かと言って同性に好感を持たれる顔でもないだろうが。
多分、商売女には飽きたので退屈混じりに、といったところだろう。
数年間ここでじっと観ていたおかげで人間の観察には自信がある。
僕は腕を握り締められたかと思うと、近くの安宿に引っ張り込まれた。
粗末なベッドに突き飛ばされる。
覚悟はしていたけど、それでも身体が震え始めた。
太ももを撫でまわされる、そいつの汗ばんだ手がたまらなく気色悪かった。
この後の事は良く覚えていない、思い出したくないという事なのか、それとも
殴られて頭をぶつけたのが悪かったのかは覚えていない。
ともかく僕は早朝、目に青い痣を作り、徐爺さんの元へと帰って来た。
無言で二人して壁にもたれかかりながら路地に座る。
徐爺さんは煙草を差し出した。
僕はそれを受け取った、誰が吸ったか分からないようなシケモクだがそんなのどうでも良かった。
マッチに火を付けて煙草を吹かす。
……煙草の味が解ったような気がした。
確かこの日からだっただろうか? '僕'が'俺'になったのは。
俺と徐爺さんは黙って煙草を吹かしていた、いつまでも、いつまでも……


一年ほど経った頃、俺はいつものように名も知らない人間に代償を支払った。
……この頃になると俺は少しずつ金を貯めていた。
方法は単純で、油断している金持ちの財布からちょっとばかしちょろまかすだけだ。
金は腐肉食路地ではあまり役に立たないシロモノだが、いつか役立つ時が来るだろう。
そう思って俺は少しばかり金をちょろまかしていた。
この日もそうだ、俺は隣で眠ったヤツの財布にすぅっと手を伸ばした。
だが、余りにも成功しすぎたせいか少し油断したのかもしれない。
突然腕を掴まれた。
骨が砕けるかと思うくらいに握り締められる。
俺は悲鳴を上げた。
男はニヤリと笑った、ゾクリとする笑み――
考えてみれば彼は今までの人間と質が違っていた。
多少後ろめたい事がありそうな人間ではあるものの、今まで表を歩いているような人間と違って、
彼はまさしく裏の人間だった。
腕を掴んだまま、鳩尾を蹴り飛ばされた。
俺は防御する事もできたが、ここで下手に抵抗しては殺されかねない。
そう判断してわざと受けた、覚悟はしていたものの余りに痛かったが。
そしてたちまち意識を失った。
・
・
・
次に俺が目覚めると、俺は椅子に座らされていた。
紐で両腕を縛り付けてある。
頭から肩にかけてがやけに冷たい、おそらく水でもぶっかけられたのだろう。
……という事はあの客は俺を連れ返ったということだ。
この事態がどう転ぶのか――自分の命がかかっているにも関わらず、俺は冷静にそれを受け止めていた。
「目が覚めたようですぜ」
側にいた人間が誰かに言った、嫌らしい耳に粘るような声だった。
「よう、お目覚めかい?」
さっきの男の声だ、闇に隠れて顔は見えない。
俺が黙っていると突然誰かにブン殴られた。
「てめえ! 何か言わねぇか!」
俺は心の中で勘弁してくれ、と思いながら
「ここは……どこ?」
としおらしく言ってみた、こんなのが通じるような人間とは思えなかったが。
「お前の死に場所さ」
さも気の利いたジョークを言ったとばかりにさっきのイヤな声のヤツが答え、
側にいた俺を殴り付けたヤツがお愛想混じりに笑う。
「俺の財布をちょろまかそうとするとは、たかが男娼がイイ度胸じゃねえか」
……俺が財布の中身を盗もうとした人間は少しは理性がありそうだ。
残念ながらその他二人には期待をかけられないだろう。
さて、これからどうする? 俺は自問自答した。
素直に「ごめんなさい、もうしません」と言ったら笑って送り返してくれるような人間ではない事は確実だ。
とりあえず、
「縄を解いてくれませんか?」
そう言った、多分次に来る行動は……
「ふざけてんのか!?」
ほら、予想通り俺を殴った。
だが、今ので俺をただの男娼と思い込んでいたリーダー(現時点での)は興味を示したようだ。
「ほう、中々面白いヤツじゃないか、なあ?」
アプローチは成功したようだ、イヤな声の男はそれこそガマガエルが泣き喚くような声で
「へい」
と言った、タダでさえイヤな声なのにますます気持ち悪くなっている。
「いいだろう、解いてやれ」
続いてリーダーはそう言った、これはいささか予想外だった。
どうやら彼も人を観る目に自信があるようだった、さもなければこんなに簡単に縄は解かないだろう。
俺を殴っていた男は渋々縄をナイフで切った。
ここまでは順調にいった、しかし問題はここからだ。
ヤツは俺の顔を見ているが俺はヤツの顔が見れない。
ここまでの彼らの会話を分析して、性格を掴むしかない。
彼の性格を掴んで話をすれば交渉は割合簡単に成功するはずだ。
「で、お前はこれからどうなると思う? バラバラにして魚の餌か? 別に豚の餌でもいいが」
どちらがいいか答えろ、と言う事か。
「できればバラバラにしたら腐肉食の路地へ放り込んでくれ、そうすれば仲間が俺を食ってくれるから」
これは半分本気だった、もし彼のお目がねに俺が添えないようならば即肉片になって転がるだろう。
「何だお前……腐肉食路地の男娼か?」
侮蔑するようにイヤな声の男は言った、まあコイツ等ですら行きたがらない場所だからな。
「なかなか泣かせるじゃないか? ええ?」
一瞬間があって、突然殴り男に殴られた。
多分ボスが合図を送ったのだろう、どういう反応を彼は求めているのだろうか?
数瞬考えて答えを弾き出した。
「……勘弁してください、これ以上殴るようなら反撃しますよ」
とりあえずそう言った、無論本気だ。
俺の挑発にマンマと乗った殴り男は激昂して俺を何発も殴り付けた。
顔といわず、腹といわず。
俺は五発耐えた、そして彼が六発目を殴ろうとした瞬間に彼の人中を殴り付けた。
「へ?」
イヤな声の男が呆気に取られた声を出した。
殴り男は鼻血を出しながらばったりと倒れた、俺は何事もなかったかのように着席する。
イヤな声の男はこちらに近付いた。
「みゃ、脈がねえ! 死んでる! こいつ殺しやがった! こいつ殺しやがった!」
こちらを怒鳴り付ける、ポケットからナイフを取り出す。
俺は興味がなさそうな顔で彼の顔を見つめた。
イヤな声の男は顔もキッチリと声にふさわしい顔をしていたのは笑えた。
ボスは先ほどから無言、俺の胸は賭けに勝てたかどうかで動悸がかなり激しくなっていた。
「ボス! どうしますコイツ!?」
イヤな顔の男はナイフをちらつかせながらボスに向かって言った。
急にボスと呼ばれた男はこちらに近付いてきた。
そしていきなり俺の頬を殴り付ける。
「……貴様、狂っているのか?」
この問いには無言で答えた。
やがてボスと呼ばれた男はくっくっく、と含み笑いをはじめ、最後は大笑いした。
「ぼ、ボス……?」
おずおずとイヤな顔の男は尋ねた。
やがて笑いが止まると俺の顔を見つめてニヤリと笑う。
髪は肩までかかるか、かからないかくらいまで伸ばしていてまるでライオンのような男だ。
歳は多分30代……半ばだろう。
筋骨隆々としていてとてもじゃないが男色家には見えなかった。
突然ボスと呼ばれた男は俺の唇を塞いだかと思うと、中を舌で蹂躪した。
「気に入ったぜ、お前」
そう言った、どうやら数発のパンチと唇を代償に乗り切ったらしい。
「俺の部下にしてやるぜ、お前は才能がある」
彼はそう言った。
「俺の名前は……劉・揚水(りゅう・ようすい)」
そう名乗ってから付け加える。
「無論、お前に拒否権はないからな」
俺は無言で頷いた、隣のイヤな声と顔の男の視線が気になったが。
こうして俺は腐肉食路地を離れ、まだこの頃は一地方を根城にするにすぎなかった組織――
「九頭竜」に入る事になった。
・
・
・
やがて俺の最初の仕事――暗殺と言えば聞こえいいが要は鉄砲玉――を命じられた。
相手は対立する組織のボス。
俺の見張り役として例のイヤな声と顔の男、名前は実は「金・高芯(きん・こうしん)」
というらしいのだが、ともかくそいつに見張られながら俺が初めての暗殺を任せられた。
これは俺の予測だが、ボス――劉はあまり俺に期待をかけてはいなかったと思われる。
上手く殺せれば恩の字、殺してしかも生きて帰ってくる可能性はないと思っているのだろう。
俺の見張り役もそれを期待しているようだ。
俺は頼んで拳銃の代わりに三十センチはあろうか、という針を道具に替えてもらった。
拳銃は音が五月蝿過ぎて暗殺には向かない、どうやらとことん俺を鉄砲玉にしたかったらしい。
俺は手の内側にそれを仕込み、彼の組織に二、三日張り付いた。
やがてチャンスが巡ってくる。
対抗組織は非常に大きく、ボディーガードが二十四時間張りついていたのだが、
長年ここら辺を仕切って来た関係で、祭の日――この日はボディーガードですら
捌き切れないほどの人間が彼の周囲に集まってくるのだ。
チャンスはこの日しかない。
そして当日、ボディーガードが懸命に人を押し戻そうとするが当のガードされている本人が、
自分から人間を呼び寄せていた。
子供たちが日頃のお礼とばかりに鉢植えの花を送る。
彼は目を細めてそれを受け取った。
……そしてその子供の中に、俺はいた。
鉢植えの花を渡してこう言った、
「今までありがとう」
彼は嬉しそうにそれを受け取った。
そして続けて俺はこう言った、
「そしてさよなら」
彼の顔色が変わるのと俺が持っていた針が彼の心臓を貫いたのはほとんど同時だった。
彼が倒れ込む前に、俺は彼の周りの人の波から抜け出していた。
呆気に取られている金に声を掛ける。
「終わりました」
俺と金はそこからさっさと消え去った。



「ほう、殺した上に生きて帰って来たのかい」
さも面白そうに劉は言った。
「くっくっく、こいつはまた嬉しい計算違いってやつだ。いいだろう、お前を鉄砲玉にするなんて
勿体無い、てめぇは俺の専属暗殺者だ」
金はますます面白く無さそうにそっぽを向いた、こいつもしかして妬いているのか?
俺にはそう言う趣味はないんだがな。
「じゃあ早速次の仕事だ」
意外に早いな、こき使うつもりか。
「……腐肉食路地の人間を全員殺してきな、それが次の命令だ」
俺の身体がビクンと反応した……






<続く>