Lメモ過去編「最終話・儚」  投稿者:beaker





人の夢は儚い――

あの時出会った俺達には確かに夢があった

彼女は生きる事を望んだ

俺は死にたくないと願った

時は流れ

俺達は成長した

俺は前より少しだけ残酷になった

彼女は少しだけ優しくなっていた

止まっていた古時計が動き出すように

モノクロームの写真に色が付くように

俺達は再び出会った

これは運命なんかじゃない

俺達の意志、俺達の選択だ











===Lメモ過去編「最終話・儚」===



一体何度この闇の中に身を委ねただろう。
誰にも気付かれない、誰にも見止めがられる事もない。
だから俺は闇が好きだった。
闇を恐怖と感じる人間はそれが闇と一体化しようとしないからだ。
ふと思う、闇に一体化するのと闇に隠れずに生きるのとではどちらが幸せなのだろうかと。
馬鹿な……答えは決まっている。
俺はそんな事を深く考えようとする自分に苦笑して頭を振った。
落ち着け、やる事自体はいつもと変わりがない。
俺は意識を集中させた、闇に紛れ込めない人間が二人、門を見張っている。
犬は……連れてない。
俺は走り出した、真正面から。
走ってくる俺に気付いた瞬間、二人の喉は俺のナイフで切り裂かれた。
物も言えずに酸欠間際の金魚のように口を開いて倒れる。
死体を見下ろし、ふと思う。
彼等にも生きる理由が、生きたい理由があったのではないか?
俺は頭を振ってその考えを頭から追い出そうとした。
この最後の仕事が終わったらゆっくりと考えよう、それがいい。



館は俺の記憶が間違っていたのかと思うほど錆びれていた。
あちこちに蜘蛛の巣が張ってあり、扉のいくつかは壊れたまま放置されていた。
人の気配はほとんどと言っていいほどしなかった。
俺は適当に扉を開けていたがどこにも人はいない。
あの時俺を追い掛けてきた人間は、あのぞっとする目を持った彼は、そして春蘭はどこに
消えたのだろうか?
俺は微かな記憶を手繰り寄せながら、春蘭の部屋へ向かっていた。
そして記憶が完全に途切れる場所の角を右に曲がった瞬間、誰かがこちらに向けて発砲してきた。
頬が切れ、血がつぅっと流れ出す。
俺は角に身を隠した。
持ってきた手鏡で相手の姿を映し出す。
……震える手で拳銃を持ち、こちらを必死で睨み付けているのは……
ああ、間違い無い。
彼だ。
俺は顔をひょいと出した。
パニックになったようにこちらに向かって銃弾を発射する。
勿論俺はすぐに顔を隠した。
もう一度手鏡で彼の顔をよく観察する。
かつて俺があれほど恐れた相手は老け込み、黒かった髪はすっかり白髪に変わり、
あれほど迫力のあった眼は怯えきった小動物のソレだった。
月日の流れが彼をそうさせたのか、俺が強くなったのか……
俺はもう一度顔を出した。
何かを叫びながらこちらに向けてめくらめっぽう拳銃を乱射する。
やがて予想通り、カチリという音がした。
弾切れだ。
俺は顔だけでなく、全身を角から出した。
そして走り出す。
彼は怯えたような顔付きをしながらも、逃げ出しはしなかった。
こちらに向かって闇雲に突進する。
「ウワァァァァァァァァァァァァ……」
俺は至極冷静に彼の頚動脈を切り裂いた。
「ア……」
血を噴き出しながらガクリと膝を突く。
この瞬間終わった、と思った。
何もかも、俺の今までの全てが。
そして俺は彼女と逢わなければならない、そして――
俺がドアのノブに手をかけた瞬間だった、誰かに手首を掴まれた。
驚いて振り返る。
手を掴んだのは彼だった、俺は思わず叫んだ。
彼の形相が余りに凄惨で、悲愴だったから。
「春蘭……しゅんらん……しゅ……ら……やっ……と……おまえと……っしょ……
はず……な…………しゅ…………」
その後の言葉は聞こえなかった、彼は俺の手を掴んだまま、ゆっくりと崩れ落ちた。
今度こそ身動き一つしない。
俺は無理矢理手を引き剥がした、痣が手首にクッキリとついている。
最後の意地だったのだろう、父親としての。
だが、それでも俺は彼を殺すだけの理由は存在していた。
この俺の十年は彼を殺すためだけに存在していたとしても間違いではない。
そしてもう一つ、彼女と逢うために。
俺は扉を開いた、このドアだけは他のドアのように錆び付いた音は聞こえなかった。
ベールに包まれたベッド、そう、俺がこの下に隠れた事は今でも覚えている。
「あなた、なのね……」
ベールの中から声が聞こえた。
俺はベッドに近寄ってベールをゆっくりと開ける。
いた……彼女だ。
「春蘭……」
俺はこの十年で自在に操れるようになった中国語で彼女の名前を呟いた。
彼女はニコリと笑った。
「中国語……お上手になったんですね……」
「ああ……」
「十年で……見違えるように成長しましたね……」
「ああ……」
「私に逢いに来てくれたんですね……」
「ああ……」
「お父様を……殺しましたね……?」
「……ああ……」
彼女の瞳からつぅっと涙が流れた、微笑んだままの彼女の顔が余計に辛そうに見えた。
「分かっています……私たちに生きる権利なんかないって事は……」
彼女は眼を押さえた。
……この十年で彼女は驚くほど美しく成長していた。
だが、本来の人間が持つ健康的な成長ではない。
血が通っているとは思えないほどの透き通った肌、余分な肉はまるで存在していないような
身体付き、そしてこれだけ生きているような艶やかな黒い髪。
どれもが彼女を話に聞いた月下美人という花のように儚げな美しさにさせていた。
彼女は一体誰の為に、何の為にここまで美しくなったと言うのだろうか?
父のためか? 十年前に一度きり出会った少年のためか?
どちらも違うそうで、俺には分からなかった。
「あなたが……ここに連れて来られた理由……知ってますよね?」
「臓器移植」
俺はその単語だけを答えた、それで充分だろう。
彼女も無言で頷いた。
そう、俺は彼女の臓器移植の提供者として連れてこられたのだ。
ただ一人、彼女と適合する提供者として。
どこで、どう俺の臓器が彼女と相性が良いのか調べたかどうかは分からない。
ただ、全世界で俺だけが彼女を救えるのは間違いなかった……自分の命と引き換えにだが。
だが俺は逃げ出した。
彼女は俺を逃がした。
彼女がここまで生き続けてきた事はまさに奇跡と言ってもいいだろう。
そして俺には一つだけ疑問があった、臓器移植の事実を知ったのと同時に浮かび上がった疑問。
それが彼女と逢う理由でもあった。
「君は……あの時君は俺の事を知っていたのかい?」
俺の事……そう、彼女はあの時俺が生贄である事を知っていたのだろうか?
彼女は再び微笑んだ。
そしてゆっくりとあの時の事を語り始める。
・
・
・
私は生まれついた頃から家の外には出れなかった

腕にはいつも痛い点滴が付けられていて

遊び相手はお父様を除けばたくさんのぬいぐるみだけ

だけどある日お父様は言ってくれました

「もうすぐおそとであそべるようになるよ」

私は凄く嬉しくて、その日をずーっと待ち焦がれていました

その内、もう自分がお外で遊べるようになったと勝手に思い込んで

そっと部屋を出てみました

お父様に逢うために

ある扉の向こうからお父様の声が聞こえました

いつもの優しい声ではなかったけど

私は嬉しくてそっと扉を開きました

声が聞こえます

「春蘭の為だ……日本の餓鬼の一人や二人、殺しても構わん!」

シュンランノタメ……コロス……?

私は震えながら部屋に戻りました

私はまだ五歳だったけど

私の為に誰かが死んでしまう事は分かりました

どうしよう? どうしよう? どうしよう?

ずっと考えているのに答えは出ませんでした

私が震えながら悩んでいた時、彼はこの部屋に乱入してきました

ギラギラとこちらを睨み付ける鋭い眼、血だらけのTシャツ

だけど眼の奥は私と一緒でした

そう、怯えていました、怖がっていました

私は……護らなきゃ、と思いました

お父様が人の命を奪うなら、私は人の命を救ってあげよう

……たとえ自分を犠牲にしたとしても
・
・
・
回想は、そこで終わった。
……俺は正直、驚いていた。
知っていたというのか、俺の事も、自分の事も、父親の事も全て。
その上で敢えて俺を助けたと言うのか。
俺が必死だったように彼女もまた必死だったのだ。
……痛感する、俺がこの場にいるのは彼女のお陰だと。
「ねえ……名前を……名前を聞かせて……」
彼女の呼吸が段々と荒くなってきた。
俺は……無音と言おうとして止めた。
そして遠い昔、ここに置き去りにしたままの名前を声に出す。
「そう……いい、名前ね……」
俺はどうする事もできずに彼女が苦しそうに胸を押さえるのを見ているだけだった。
何もできない、彼女の父親が俺の人生を奪ったのと同様に俺もまた彼女の人生を奪ったのだ。
「お願い……お願い……私を日本に連れて行って……」
俺は苦しそうにしながら必死で訴える彼女に耐えられなくなった。
「もう、喋るな」
彼女は自分の胸に付けていたロケットを外した、カバーを開いて中を見せる。
そこには写真があった、彼女と、そして彼女の父親と。
「これを……代わりに……お願い……」
俺は無言でそれを受け取って頷く。
その瞬間だった、突然轟音が聞こえた。
と、同時に床が崩れ落ちる。
「!?」
爆弾、か!!
俺は慌てて彼女を抱きかかえた、床が崩れ落ちるが咄嗟にベッドに飛び乗って二階から一階
へ落下する。
だが、一階へ落下したのと同時に天井が崩れ落ちてきた。
そして……






金は朝から上機嫌だった。
一週間前、自分のボスが古びた館の謎の大爆発で死亡したのだ。
実を言うと彼が乗るとは思わなかった。
慌ててあの館に爆弾を仕掛け、申し訳程度に見張りを二人立たせただけだったのだが、
怪しまれなかったのだろうか?
あの館の組織はとうに壊滅し、あそこにいたのは隠退したボスとその娘だけだった。
まあ今となってはどうでもいいことだ。
俺はこれから死ぬまで美味しい汁を吸って生き続けられる。
もう、劉にも、無音にも卑屈になる必要はない。
あのボスを殺した、という事で幹部の間でも箔がついた。
組織に出向こうかと思ったが今となっては俺が出る必要もあるまい。
愛人――と言っても無論男だが――の家に車を走らせる。
この一週間、通い詰めだった。
だが誰も文句を言わない、俺はこの中国で一番強い人間なのだから。
彼が買い与えた家に辿り付くと、扉を開ける。
鍵は掛かっていなかった、不用心だなと思う。
リビングに行くとソファーに座った彼がワインを飲んでいた。
朝からしょうがないやつだ、とこっそりと近付いて驚かせようとする。
「よう」
だがまるで自分に気付いていたかのように背中を向けたまま声を掛けられた。
最も彼が驚いたのはそんな事ではない、声が違った。
「だ、誰だてめぇ!!!」
懐から銃を取り出す。
彼はワイングラスをテーブルに置き――
「この声で分からないかい?」
振り向いた。
「ボス……? ま、まさか! 違う! 違う違う違う違う違う違う違う!!!」
首を必死に振って否定する。
彼は銃が向けられた事などまるで気にしないでこちらに歩いてくる。
「うわああああああ!!!!」
眼をつぶって銃の引き金を引いた。
だがカチリという音がしただけで弾丸は発射されない。
「おいおい、安全装置を掛けっぱなしだぜ」
彼は落ち着いて銃を取り上げた。
「まあ落ち着いてここに座れ」
彼の言葉には魔性の響きがあった、ふらふらと彼は夢遊病者のようにへたり込む。
「ど、ど、ど、ど、ど、どどどどどどどどうして……」
「何故生きているかって? ああ、それはな……ベッドの下さ」
「え……?」
無音はゆっくりとあの時起きた出来事を思い出した。
・
・
・
そう、あの時天井が崩れ落ちてもう駄目かと思った時、袖を引っ張られた。
春蘭だ、ベッドを指差している。
あの時と同じだ、そう……ベッドの下に隠れるんだ!
ただし、今回は一人ではなく二人で。
丈夫に作られていたベッドは天井からの落石にも見事に耐え切った。
轟音が止んで、ベッドの下から顔を出す。
そこには残骸以外何もない空間が広がっていた。
ほっと息をついて春蘭の方を見る。
「……春蘭!?」
慌ててベッドの下から引きずり出した。
呼吸はもう微かで身体中が震えている。
彼女はぎゅっとこちらの袖を握った。
「最後……のお願い……日本へ連れて行って……」
「ああ、連れて行く! 連れて行くから! もう、喋るな……」
彼女は震えながら首を横に振った。
「忘れないで……どんなに……暗闇に堕ちた人間でも……微かに射す光さえ見上げ続ければ
……いつか……いつかきっと……その光に辿り着ける……そう信じて……忘れないで……」
「ああ、ああ!」
俺は彼女を力一杯抱き締めた。
多分、これが彼女の全精力を出し切った言葉だったのだろう。
彼女はゆっくりと眼を閉じた、死人は何人も観てきたが……こんなに微笑んだまま人は死ねる
なんて思わなかった。
俺は……泣けなかった、泣くという行為をこの十年で忘れてしまっていたのだ。
そんな自分がたまらなく悲しかった。
涙が出ない、どんなに悲しくても彼女の為に涙を流す事が出来ないのだ。
俺は彼女のロケットを大切にしまい込んだ。
死体は……もうすぐ来るはずの警察が回収してくれるだろう。
俺は約束を果たすべきだ。
だが、その前に……
・
・
・
「お前を含めた幹部全員には死んでもらった」
あっさりとそう俺は言った。
自分が過去形に加えられているのにも気付かないまま、金はのろのろと
「お、お、お、お、お、お、お、お、俺じゃ俺じゃ俺俺俺俺じゃない……」
「そうか? お前の前に殺した幹部は全員お前が主犯だと言っていたぞ」
「ち、ち、ち、違違違違違違違違違違違違違ううぅぅぅぅぅぅぅぅぅうぅ!!」
金はすっかり錯乱しているようだった。
「まあそう言うな、すぐにお前もあいつらの所へ送ってやるから……」
手を差し伸べる。
金の眼が大きく見開かれ、そして絶叫した。
「う、う、う、う、う、うわあああああああああああああああ!!!!!!!!!!!」
眼を引ん剥いて失禁を始めながら彼は倒れた。
顔を見ようと顔面を蹴り上げる。
金は薄ら笑いを浮かべながら身体を痙攣させていた。
……発狂したか、まあ殺すまでもあるまい。
実を言うと幹部を殺したというのは嘘だった。
俺はしばらく身を隠して主犯を付き止めた後、真っ先に金の元へ向かったのだった。
もう何もかもうんざりだった。
日本へ帰る? どうやって帰るって言うんだ。
どの顔を下げて俺は親の元へ帰るって言うんだ?
春蘭との約束は果たせそうになかった、日本は余りに遠い国だ。
俺はふらふらと当てもなく歩き始めた。
一人の男がこちらに向かって歩いてくる。
この中国では異彩を放つ人間だった。
全身真っ黒のコートに身を包み、髪は金髪。
真っ白な杖を突いて、眼を瞑っているのを見ると盲人かと思われたがそうではないらしい。
道の真ん中の小石をひょいと乗り越えたからそれは確かだ。
奇妙な奴……俺は彼とすれ違った。
その瞬間、
「見付けたぞ」
突然そう声を掛けられた。
まさか警察!? 俺は咄嗟に拳を構えた。
「安心しろ、お前を捕まえる人間ではない。お前を救う側の人間さ」
流暢な中国語だった、十年暮らした俺でもこう上手かどうか。
「久しぶりだな、我が孫よ……」
そう、それが俺とあの爺さんとの出会いだった。






――そしてまた二年が過ぎ


僕は彼女のロケットを埋めた場所へ行った。
一つの決心を彼女に聞かせるためだ。
「……今度、ウチの学校で格闘大会を開きたいと思います……そして僕も'無音'として出場する予定です」
そう、ずっと前から思い続けて来た事。
僕のあの十年は何だったのか、彼女が命を賭してまで僕に与えてくれた十年は意味のないものなのだろうか?
僕はずっと思っていた、来栖川綾香や柏木梓、松原葵を見るたびに。
嫉妬、羨望、その他色々な想いが彼女達を見るたびに募っていた。
僕はあの十年、誰にも殺されないために強くなった。
誰にも負けない自信があった。
それなのに彼女達は何の為に闘っていると言うのだろう?
その必要はないじゃないか、殺されないのだから。
そんな苛立ちが日増しに募り、僕は決心した。
僕の十年と彼女達とではどちらが強いのか確かめる事を。
春蘭が与えてくれた十年を無駄にしたくはない。
そう……たとえ今の'beaker'としての生活を捨ててもだ。
「絶対に負けません……絶対に」
彼女が生きていたらどんな顔をしただろうか?
……きっと困った顔に違いない。


夕焼けが世界の全てをオレンジ色に染め上げている。
帰り道、僕はかつて自分が住んでいた俺の家の前に立っていた。
祖父はこう言っていた、
「お前さんが帰ってくる時に迷うと困るから子供達はこの家にずっと住み続けるんだとさ」
そう、両親は僕の墓を作ってもまだ信じてくれていた。
……僕がいつか帰ってくる事を。


震える手でインターホンを押そうとする。
だが直前で止めた。
そう、僕はまだ胸を張って彼らの元へ帰れる人間ではない。
だから祖父と誓ったのだ、高校卒業してから両親の元へ戻ると。
卒業まで後一年、それまでに胸を張って父さん、母さんの元へ帰りたい。
だが、せめて一目だけでも逢いたかった。
たとえ名乗れないにしても一目でも。
僕は悩んで悩んで悩んだ末に、立ち去る事にした。
家の前は坂道で、夕焼けが僕の目を射していた。
何も見えやしない、僕はサングラスを掛けた。
坂を登っていく、その時僕に向かって下ってくる親子連れが見えた。
……父さんと母さんとそれに……
そうか、今は小学六年生か……
彼女は右手を母親に、左手を父親に繋がれて仲良く並んで歩いている。
心臓の動悸が急に激しくなった。
ドクン!
落ち着け、落ち着いて通り過ぎるんだ。
ドクン!
僕は心臓を握り締めるように胸に手を当てた。
なるべく顔を伏せて歩き出す。
気付かれませんように、と思いつつもどこかで気付いてくれ、と訴え掛ける自分がいる。
声を出したい、抱き付きたい、甘えたい……だけど……
僕は無言ですれ違った。
かつて無音がやったように気配も音も一切消して。
父さんと母さんにはまるで赤の他人がすれ違ったようにしか思えなかっただろう。
これでいいんだ、僕はそう思った。
「待って!」
突然声を掛けられ、反射的に振り向いた。
僕の母さんがこちらをじっと見つめている。
だがサングラスを掛けている上に夕陽の光が僕の背後に射している状態では顔など分からないだろう。
「……ごめんなさい、何でもないの」
僕の母さんは穏やかに、寂しそうに笑った。
僕は無言で背中を向けた、一瞬でも声を上げると自分が自分でなくなりそうだった。
後ろから微かに母さんを慰める父さんと妹の声が聞こえる。
大丈夫、いい家族だ。
いつか名乗れる日が来たら、僕もあの輪に加わる事が出来るのだろうか?
そんな事を思いながら僕は再び歩き出した。
歩きながら涙が零れ始めた、止まらない。
十年貯めた悲しみを取り戻そうとするかのように涙はとめどなく溢れ出た。










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