グラップラーLメモ第二十二話「背負う者、捨て去る者」 投稿者:beaker
「ではそろそろ本気で行くぞ、お前もそのつもりだっただろう?」
一人の男が目の前の女に問い掛けた。
問われた女はズレたヘアバンドを直しながら答える。
「あれ? 本気じゃなかったんだ、やっぱり」
黄色のヘアバンドが栗色のやや短めの髪に良く似合っている、と彼は思った。
もっともでは彼女が好みのタイプかと問われればおそらく彼は否定したであろう。
彼が好むタイプは栗色のショートではなく黒いセミロングであり、
彼女が持つ自慢の肉感的なボディよりもスラリとした――平たく言えば胸が無い方が――好みだった。
男は肩の前に来たおさげをうっとうしそうに払いのける、その筋肉質の体にはやや窮屈そうな
拳法着がやはり似合っていた。
女の名前は柏木梓、男の名前は――
「じゃあ、今度こそ本気で闘るわね……英志」
そう呼ばれた男は両手を後ろに組み、足をピンと伸ばして両方の踵をくっつける。
「来い」


激闘が再び再開された。


「さっきまでのがトレーニングかよ……」
呆れたように誰かが呟いた。
綾香も同じだった。
互いにエルクゥの血を引くものであり、純粋な人相手に向けられる何かしらの遠慮のようなものは
存在しなかった。
組み手でも二人はかなり本気で闘っていた、少なくとも綾香はそう思っていた。
だが今、眼前で繰り広げられる闘いのレベルはそれを簡単に振り切っていた。
柏木梓は力で押し切るタイプだった、これは間違いない。
だが意外な事に西山英志は力に力で対抗する事無く、「技」で柏木梓の攻撃を捌いていた。
以前綾香は西山英志に「SS不敗流は攻めではなく、むしろ護りの武術なんだが……」
と笑いながら話していたのを覚えていたのだが、目の前で繰り広げられる芸術的な捌きを
見せ付けられては以前は否定した(綾香は絶対に攻撃的な流派だと思っていた)ソレも肯定せざるを得ない。


風を切る音がして梓のパンチが西山英志のボディに叩き込まれる、瞬間、彼の腹部は目の前から消え去り、
代わりに伸び切った梓の腕は西山英志の右足に挟まれた。
手はまだ後ろに組んだまま。
驚いて彼の顔を見る。
「甘い」
そう一言呟くともう片方の足で梓の顎を蹴り上げた。


仰け反って倒れる梓。
だがすぐに転がって起き上がる。
キッと西山英志を睨み付ける、正確に言うと彼が先ほどまで立っていたその場所へ。
しかしそこには誰もいない。
が、鬼の力を解放している梓には西山英志がいた場所の更に向こうの観客席の様子も見て取れた。
そこにいた数人の観客の表情を観察する。
あんぐりと口を開けて驚いている者が多数、と言う事はつまりだ、
「でぇいっ!!!」
吼えて裏拳を背中にいるであろう人物に叩き付ける。
西山英志は舌打ちすると、右腕を咄嗟に顔面の脇へ寄せてガードした。
次の瞬間、落雷が落ちたような衝撃が右腕から身体中に走る。
たまらず壁際まで吹き飛んだ。
「ぐっ!」
ズキン! という痛みが右腕に走る。
触ってみる、折れてはいないようだ。
だが、いくらエルクゥとは言え回復力には限度がある。
少なくともこの試合中はこの右腕は死に体だろう。
相手の反応の良さを誉めるべきだろうか、西山英志は苦笑した。


梓は何とか自分の予感が当たっていた事に感謝した。
痛んだ顎をさすりながら間合いを詰めて行く。
西山英志も右腕を押さえながら立ち上がる。
梓は西山英志がやけに神経質に右腕を押さえるのを見て、彼の右が死んだものと見当をつけた。
少しずつ少しずつ、半円を描きながら西山英志の左側――つまりこちらから言えば右側に移動する。
実は相手の右腕が死んだとき、自分が動いて立つべきスタンスは相手の左よりもむしろ右なのである。
相手の左側にいる限り、相手は左腕で威力のあるパンチを打つ事もできず、
右で迎撃する事も出来ない。
(もう、右は使えない!)
梓は間合いを一気に詰めて、振りかぶる。
ただし、


「え…………?」
カウンター気味に右のストレートが梓の脇腹にヒットした。
愕然として崩れ落ちる梓。


今言った言葉は常識の外にいるような人間、つまり壊れている右であろうがなんだろうが
平気で使うような人間は考慮に入れていない。


(油断したっっ……!! さ、幸い右腕だったおかげで何とか深刻にならそうに済みそうだけどっ)


腹を押さえてうめく。
胃液が逆流して吐きそうだ。
西山英志も右腕が激痛に襲われている――はずなのだがあまり表情に変化はない、
ほんの少し顔をしかめているだけだ。
梓はふらつきながらも何とか立ち上がった。
「あああああああああああああああっっっっっ!!!!」
幼い子供が闇雲に手を振りまわして突進するように、梓は走った。
自分のパンチがテレフォンパンチになっている事にも気付かぬままに、西山英志の顔面へ拳を突き出す。
闘牛士が突進する牛を避けるように、梓のパンチをギリギリで避ける。
よろけてバランスを崩す梓にひょいと足を払う。
無様に転ぶ梓。
幾人かの観客は失笑する。
堪らず綾香は「梓ぁぁぁぁぁっ!!」と叫ぶが梓はその声に反応する事もなく、やはり先程と
同じような突進を繰り返す。


一度、二度、三度、その度に避けられ、その度に転ばされる。
いや、転ばされるだけでなくカウンターを食らう事も何度かあった。
もう何度目になるか観客も忘れ掛けた頃、西山英志は梓にゆっくりと近づいて行った。
立ち上がろうとする梓だが身体がガクガクと震えて言う事が利かないらしい。
「梓、もういいだろ? これ以上は俺も…………」
梓の眼がギラリと光るのを見る事が出来たのは一部の人間だけだった。
膝を突いた状態から一気に低空でスライディングしながら飛び込む。
「しまっっ……」
梓は彼の右足を素早く掴むと自分の身体ごと回転させた。
『ド、ドラゴンスクリュー!?』
膝が梓の回転に従ってぐにゃりと捻られる。
次の瞬間、ビキビキという骨が砕かれる異様な音がした。
動物のような唸り声を上げると、西山英志は右膝を折って倒れる。


「くそっ くそっ くそっ くそっ くそっ!!」
がくがくと右膝が震える、立とうとしても右膝に力が入らない状態では歩く事もままならない。
右膝を手で押さえ、左足に重心を持っていって何とか立ち上がる。
そして梓の事を思い出し、顔を上げて彼女の存在を確認…………しようとした瞬間だった、
突然心臓に穴が空いたとその時は思った。
一瞬置いて自分の身体が観客席まで吹き飛ばされる。
吹き飛ばされる直前、西山英志は確かに梓がこちらに向かって拳を突き出すところを見ていたと言う。


「粉砕の拳は触れるもの全てを破壊する…………と言ったところですかね?」
二階、beaker、沙留斗、初代beakerが闘技場を見下ろしている。
「しかし……全く持って強いですね」
一人が感嘆して呟いた。
「おいおい、そんなのんきな事を言える立場かよ?」
初代beakerが苦笑する。
「あ…………立ち上がりましたよ!」
沙留斗が叫ぶ。


「あ、梓…………」
西山英志は感極まったように呟いた。
「見事だ、だが……このまま倒れる訳にはいかないんでな……最後まで……闘って……貰うぞ」
梓は驚いたように西山英志を見つめた。
だがその眼が真剣な事に気付くと、無言で頷く。
「っ!?」
観客席の楓が立ち上がった。
急いで西山英志の元へ駆け寄る。
「お姉さん! 西山さん!」


「来るなっ!!」
楓の方を振り向く事もなく叫ぶ。
ビクッとその声に反応して硬直してしまう楓。
「に、しやま…………さん?」
「来ないで……くれ」
震える声でそう囁く。
その迫力に一歩も動けなかった、まばたきすら忘れていたかもしれない。
西山英志は一瞬楓の方を見た、わずかに微笑むとゆっくりとそこから離れて行く。
そして梓の元へと一歩、二歩と近付いて行く。
「もう…………いいだろ」
観客の誰かが呟いた。
「そうだよ……もう終わったって……」
同意して誰かが言った。
連鎖するようにあちらこちらで試合の中止を求める声が出始めた。
デコイがチラリと志保を見る。
志保は一瞬、逡巡したが無言で首を横に振った。


「梓…………最後まで付合ってくれてありがとうよ」
梓はゆっくりと拳に巻いていたバンテージを巻き直していた。
無言で首を横に振る、礼なんか必要ない。
そして身体を思いきりしならせる。
右の腕が背中にまで回り、顔を残したまま腰がほとんど半回転する。
西山英志は息を切らせながらゆっくりと両手を広げた。
天井のライトが眩しい、とその時彼は思った。


拳が放たれた矢のような勢いで西山英志の胸に突き刺さった。
ゆっくりと眼をつぶる西山英志。
西山英志は天井を見上げて安らかな表情を浮かべていた。
デコイが駆け寄るのを見ながら梓は一息ついた。
後、最低でも三試合闘わなくてはならない。
疲れるし、痛いし、うんざりする。
何故こんな事をやっているのかとふと思う。
いや、違うか。
その答えを見つけ出すためにこの大会に参加したのだった。
そして勝った今、敗者への責任という新しい重荷を背負ってしまった事を実感する。
勝者と敗者、果たしてどちらの方が辛いのだろうか?
楓の突き刺さるような視線を実感して、
梓は担架で運ばれる西山英志を見ながら漠然とそんな事を考えていた。


「ん…………あ…………」
西山英志は先ほどと同じ光を見て、まだ自分が闘技場に立っているのかと思った。
が、天井がやけに低い。
「あら、目が覚めた?」
相田響子がカルテにペンを走らせながら振り返った。
「あ、ここ…………」
「保健室、ま、良く頑張ったわね、お疲れ様〜」
そう言ってニッコリと笑う。
「ああ、さんきゅ」
負けたという事を理解しているのか思ったより落ち着いた様子で答えた。
そんな西山にすっと紙コップを差し出す手があった。
細い白魚のような手。
「あ、か、楓…………」
ガタンと椅子を倒して慌てて立ち上がった相田響子は冷や汗をかきながら退散した。
「お疲れ様でした……」
あまり笑う事もなく言った。
「あ、ありがと……」
紙コップを受け取る瞬間、指と指がそっと触れた。
慌てて手を引いてしまう西山英志。
当然コップは引力の法則に従って落下する。
コーヒーが床に飛び散り、紙コップがカランという音を立てて転がった。
滝のような汗が顔に浮かぶ。
「ああああああっ!! すまんすまんすまんすまん!!」
ベッドから飛び起きて土下座する西山英志。
楓は黙って雑巾を持ってきて床にしゃがんで拭き始める。
「ああっっ! そんな事俺がやるって!!」
だが楓の背中にはそれを拒否する無言の迫力があった。
雑巾がコーヒーのドス黒い色に染まるのを見ながら楓はポツリと呟いた。
「どうして…………」
「? 何が……」
「どうして……闘うんですか? どうして降伏しなかったんですか……?」
こちらに顔を向けず独り言のように喋る。
雑巾をひったくろうと手を出していた西山英志だったが、ふう、と一息ついてベッドに倒れ込んだ。
天井をまた見つめる。
ライトがチカチカと目に眩しかった。
「…………好きなんだ……こういう事が……俺もエルクゥの血を引いているせいなのか、
それともこれが俺本来の性格なのかまでは……分からないけど」
「私には……分かりません……梓お姉さんもどうしてあんな……」
酷い事を、と言おうとして言葉を飲み込まされた。
「梓に礼を言っておいてくれ」
「え?」
楓はその言葉に驚いて振り返った。
「多分あの時…………一番辛かったのはあいつだから」
「……………………」
「俺が立ち上がったのは勝つためでも何でもない、ただの意地だったんだ」
西山英志は上半身を起こして楓に向き直った。
「だからあいつはもっと辛かったと思う、だけど、俺の意地を汲み取ってくれた。
その事に感謝したい」
「梓お姉さん…………、分かりました」
「それから、その楓…………あの、その、何だ、あの時せっかく駆け寄ってくれたのに、だな、
えーっと、あの、つまり、怒鳴ったりして悪かった」
ごにょごにょと口篭りながらそんな事を言って頭を下げる西山英志。
楓はビックリした目でそれを見て…………


「もう、いいですよ」


そう言ってニッコリと笑った。



柏木梓・・・準決勝進出!
西山英志・・・二回戦敗退