グラップラーLメモ第二十三話「咲き誇れ 闘いの花よ」 投稿者:beaker
「うん?」
つい今しがた西山英志を相手に勝利を収めた選手――柏木梓はこちらに向かって来る人影に気付いた。
コツコツという靴の音が控え室までの廊下に響き、刹那、相手とすれ違う。
梓はすれ違いながら相手と肘を軽く接触させた。

無言。

言葉は必要が無かった。

励ましの言葉というものは所詮相手の勝利を信頼し切っていないと言うことだ。
だから梓は言葉を使わなかった。
今のはただの合図、

ただの確認。

勝つという事への。

すれ違った後、彼女は長く黒い髪を素っ気無く後ろでまとめて縛る。
自分自身をも引き締めるように。
名前は綾香。
彼女は登場した自分の姿に観客の視線が一斉に集中するのを心地よく感じながら、ゆっくりと闘技場へ向かった。




羨ましい、とハイドラントは思った。
彼が今いる場所はEDGEの控え室である。
ハイドラントは自分では結構余裕のある人間であると思っていた。
常に威厳を見せ付けねばならないダーク13使徒としては無論当然の事であろうが。
擬似的な自然体と言えば良いだろうか?
ともかくハイドラントは動揺するという感情は極力殺して今まで生きてきた。

だが、目の前の師匠を見るとため息をつくしかない。
彼女は眠っていた…………多分すやすやと。
多分というのは表情が先程まで読み耽っていた本に顔が隠されているからである。
ダーク13使徒らしく寝込みでも襲えば良いのだが、おそらく襲いかかった瞬間その人間は身体を八つ裂きに
――もしかしたら顔が吹っ飛ぶだけで済むかもしれない――される事は目に見えていた。
目に見えていたというよりもさっきたまたま控え室へやって来た葛田を投げ飛ばして実験した所、
大量の血を壁と床一面に広げて横たわる姿を目撃したので「目に見えた」というのが正しい言い方であろう。
柏木耕一だったら喜ぶだろうが、さすがにハイドラントでも柏木耕一を投げ飛ばす力は無かった。

いや、まあ投げ飛ばす力があってもさすがに投げ飛ばす事はしないだろうが。

ともかくまずは師匠を起こさなくては、時計を見ながらハイドラントはそう考えた。
残り五分とちょっと、通常ならそろそろスタッフが呼びに来る時間だ。

そして残り五分になった瞬間、今までピクリとも動かなかった右手が動いて顔に被さっていた
本を取り除いた。
大きいあくびをしながら辺りを見回す。


「ふわああああ、おはよ」
「そんな時間じゃないんですが、師匠……」
ハイドラントは苦笑した。
「挨拶くらいはキチンとしなきゃ駄目なのよ」
そう言いながら立ち上がる。
「さ、てそれじゃ行って来るわね」
「はあ、って、え? 準備運動は…………?」
呆れた様子でハイドラントが聞いた。
「そんなかったるいもの必要ないわよ〜♪」
そしてドアの前に立ってノブに手をかける。
が、開こうとしない。
立て付けが悪いのかと近付いて見る。
が、突然ドアを開いた。
すると扉の向こうではスタッフの人間がノックのポーズをしたまま硬直していた。
「驚いた? ごめんねっ!」
ぽんぽんと肩を叩く。
はあ、とハイドラントはため息をつく。
子供っぽい事をする、スタッフの人間はよほど驚いたのか未だにノックのポーズのまま
硬直している。
ハイドラントはその事を少し不審に思ったが師匠の試合に遅れれば何を言われるか
(そして何をされるか、だ)分かったものじゃない。
慌てて彼女の後ろを追い掛ける。


そして誰もいなくなった控え室。
ようやくスタッフの男はノックしようとしていた手を下ろした。
そして
「ば、馬鹿な…………」
と一人呟いた。
彼は草だったから。
草、『塔』の訓練を受けた隠密達である。
情報収集を旨とし、風紀委員の手助けをする言うなれば忍者。
それだけに音も立てず歩いていく事や気配を殺す事もお手のものである。
が、たった今見事に打ち破られた。
偶然ではない事は扉を開けた瞬間の彼女の表情が示している。
彼は一人肩を落とし、敗北感に打ちのめされながら再び仕事に戻っていった。




「はじめっ!」
デコイが手を振り下ろして叫ぶ。
EDGEは無形の構え(足を騎馬立ちにして、手をだらりと下げる)、
綾香はトットと小刻みに跳ねてリズムを取りながらゆっくりとEDGEに近付いて行く。
微動だにしないEDGE、綾香は慎重に間合いを詰めて行った。
が、その動きがピタリと止まる。
(…………あれ?)
全く動いていないはずのEDGEがこちらに若干近付いているように見えた。
目の錯覚だろうか?
一瞬、ためらうが気を取り直しまたジリジリと間合いを詰める。
(また…………)
またEDGEもこちらに微妙に近付いているような気がする。
足も全く動かしていないのに、だ。
つうっと冷たい汗が綾香の頬を伝った。
「………………………………っ!!」
思い切って間合いを詰める綾香。


「焦ったな…………」
ハイドが呟いた。


真っ直ぐ飛び込んで左のジャブを放った瞬間、綾香の顎に衝撃が走った。
EDGEの掌底がカウンター気味にヒットしたのだ。
さらにそのまま顎を掴まれて足を払われる。
ドスンという音と共に倒れ込む綾香。
「あ…………」
目から火花が散ったような感覚。


次の瞬間、綾香が目にしたものはEDGEの足だった。
咄嗟に身体を右に捻る。
EDGEの足は闘技場の床を勢い良く踏みぬいた。
素早く姿勢を戻して立ち上がる。

「いっつう〜〜〜〜〜」
頭を擦る綾香。
痛みを堪えながら必死に考える。
自分は確かに「自分の間合い」でEDGEに近付き、仕掛けたはずなのだ。
しかし現実に起こったのは自分の放ったジャブを完全に見切られ、カウンターを食らったという事実。
そもそもの話、牽制であるジャブを見切るという事自体が異様な話だ。
格闘技のありとあらゆる技の中で最もスピードが速いと言われる技であるジャブを
こうもたやすく見切られた事が綾香にはショックだった。


(偶然? それとも…………いずれにせよ、もう一回…………)
再び突っ込んでみる。
今度は左をフェイントにして右のアッパーをEDGEの顎に打ちつけるつもりだった。
まずは左のフックでEDGEの脇腹を狙う、ように見せ掛ける。
EDGEが脇腹に注意を逸らされた所で右のアッパーを打ちこむつもりだった。
左のフックがEDGEの脇腹に向かっていく。
EDGEは微動だにしない、それどころか左のフックを見ようともしなかった。
寸前で止める、だがしかしそれでもEDGEは眉一つ動かさなかった。
「くっっ!」
焦りを感じて慌てて右腕を動かす、が、EDGEにひょいと腕を掴まれると、
その腕を自分の右肩まで勢い良く動かされた。
関節に痛みが走り、身体のバランスが崩れる。
が、綾香とてただでは終わらせなかった。
倒れ込むと同時に左足でEDGEの後頭部を蹴る。
バランスが崩れているので大した威力では無いがひるませるには充分だった。
舌打ちして間合いを取るEDGE。
その隙に素早く体勢を立て直した。
ふう、と一息つく。
「手癖の悪い足ね…………」
EDGEは両腕をいつでもモノを掴めるような体勢にしながら言った。
「手癖の悪い足って言い方は変でしょ、足癖が悪いと言ってもらえないかしら?」
ぽんぽんと足を叩きながら綾香は言い返した。


(間違いない、知らず知らずの内に自分の間合いから彼女の間合いに誘導されている……)
綾香は間合いを遠めに取りながら考え続けた。
おそらく、EDGEは自分が間合いを詰める瞬間に自分自身の身体をほんの少しだけ動かしているに違いない。
微妙に動きを取る事で相手の間合いから自分の間合いへと誘導する。
並みの格闘家なら絶対に気付かないような微妙な加減、綾香もEDGEの才能に正直感嘆した。
だけど…………
(脅威って言うのは謎があって始めて成立するものなのよね…………)
じりじりと近付く。
一気に間合いを詰めれば相手の懐に飛び込めるところまで近付く。
最もいくら何でもそんな事はしないだろう、とEDGEは思っていた。
だが彼女は綾香を甘く見過ぎていた。
綾香は一気に間合いを詰めた。
EDGEの懐に飛び込もうとする。
一瞬驚いたEDGEだったが微妙に前に進んで、カウンターを食らわせようとする。
後は蹴りさえ気を付ければ足で喉を踏んで決着だろう。
ところが綾香は懐に入るか入らないかの直前、一気に後退した。
正確に言えば思い切り後ろに飛びずさったのだ。
不意の事に驚いて逆にバランスを崩すEDGE。
さらに綾香はもう一度こちらに飛び込んできた。
(避け切れ…………ないっっ!)
カウンター気味に正拳を彼女の鳩尾に放つ。
「ぐっっっっっ!!!」
マトモに食らって勢い良く跳ね飛ばされるEDGE。
「手応えあったっっ!」
綾香が叫ぶ。


「やるねぇ、見切りやがったか」
西山英志が綾香とEDGEの試合を見ながら感嘆する。


壁に叩きつけられ、うめくEDGE。
だが、ビクンと身体が跳ねるとゆっくりと起き出した。
「は、はは…………綾香、さん、綾香、さん、強いよね…………」
『た、立ち上がったっっ!?』
闘技場の壁にもたれかかりながらずるっ、ずるっと自分の身体を引き上げるEDGE。
「でも、ね…………私は…………絶対に……ずぇったいに……勝つ!!」
背中を丸めて吼えるEDGE。
その声が、闘気が、振り絞られて綾香に叩き付けられる。


ピリピリと頬が強張るような感覚に綾香は膝が震えた。
実の所それが「恐怖」なのか「歓喜」なのか綾香自身にも分からなかったのだが。


(次で…………)

        (決めるッ…………)


EDGEは両腕を広げ、掌をいつでも身体を掴めるように広げる。
綾香は逆に何の構えも取らない……が、いきなり膝を落としてしゃがみこんだ。
『り、陸上のクラウチングスタート?』
「おいおい」
ハイドラントが呟く。
腰を上げて、手に力を入れる。
そして膝にバネを溜めて…………飛び出した。
「っっっっっっ!?」
驚くEDGEを尻目にグングンと彼女に近付いていく綾香。
何の迷いも無く、ためらいも無く、真っ直ぐに進んでいく。


何のフェイントも無く、右のストレートを繰り出す綾香。
EDGEはそれを落ち着いて片手で弾いて捌く。
が、続いてローキックを繰り出してきた。
これもあっさりと避ける。


ローキック、ミドルキック、ハイキック、右アッパー、左ストレート、右アッパー、左フック、
捌く、捌く、捌く、捌く、捌く、捌く、捌く…………


どこまでいっても全く尽きない綾香の攻撃、
どこまでいっても全く破れないEDGEの防御。


「凄い…………」
「こりゃもう技術とか、スタミナとか、そんな瑣末な事では勝負がつかんな」


「どちらかの精神が、体力が…………力尽きるまでやるつもりかっっ!」
悠 朔が立ち上がって思わず叫ぶ。


「はーーーっ、はーーーーっ、はーーーーーーっ、はーーーーーっ」
「ぜーーーっ、ぜーーーーっ、ぜーーーーーーっ、ぜーーーーーっ」
肩で息をしながらひたすら超接近戦で闘う二人。

(しぶっといわね…………いい加減…………一発くらい殴らせてくれたっていいでしょう……)
(しぶっといわね…………いい加減諦めて…………よ…………)

(呼吸……が、できない……まるで……そう、深い海の中に引きずり込まれたような……)
(どっちが……先に……海面に……浮かび上がってしまうのか……が勝負の分かれ目……)
・
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(も、もう…………ダメ…………)

EDGEがガクンとバランスを崩した。
(貰ったっっ!!)
綾香はもう一度腎臓をフルに使ってアドレナリンを振り絞った。
渾身の力を込めた正拳突きがEDGEの胸に突き刺さろうとする。
が、その瞬間、
「勝ぁぁぁぁつ!!」
EDGEがもう一度吼えた。
渾身の力を込めた正拳突きをしっかりと受け止めて、腕を捻って投げる。


「あ…………」
「最後の最後でっっ…………」


『逆転…………!?』


綾香は、逆さまに、された、瞬間、頭の奥で何かが反応した。
それは何千、何万と続けていたトレーニングの成果でもあるし、
あるいはつい最近、知り合った一人の男の影響なのかもしれない。
左足が美しく床を蹴り、逆さまになった自分の身体をEDGEごと引っくり返した、力は使わずに。
「!?」
EDGEは自分の視界が逆さまになったかと思うとたちまち後頭部に衝撃を受け、昏倒する。


デコイが慌てて飛び出してEDGEが気絶している事を確認した。


『大、大、大、大逆転勝利!! 来栖川綾香選手、準決勝進出ですっ!!』

たちまちの内に大歓声が巻き起こった。
綾香はゆっくりと深呼吸をして空気を味わった。


そんな中、EDGEの元へ一人の男が歩み寄る。
EDGEが目をうっすらと開き、自分の元へやってくる男を確かめようとする。
「あ、兄様…………?」
苦しそうにうめく。
「じっとしてろ」
黙ってEDGEを背中に担ぎ上げる西山英志。
「あ、や、やだ兄様っ! みっともないでしょっ!」
じたばたと抵抗するEDGE。
が、そんなEDGEをジロリと睨むと一喝する。
「いいから大人しくしてろ! …………馬鹿」
その言葉に一瞬ムッとするEDGEだが、やがて思い直したのか頭を西山英志の肩に預ける。


「あーあ、二人揃って返り討ちだよねー」
「ふん、完全に負けたわけじゃないさ」
「それもそっか」
「…………まあ、また修行のやり直しだな」
「…………そうね」
EDGEは担ぎ上げられながらくるりと振り返って綾香を見つめる。
そして叫ぶ。
「次は負けないからねーーーーーーーーーーーー!!!!」
その声に気付いた綾香は親指をぐっと突き出してニッコリと微笑んだ。


それが、答えだった。


来栖川綾香・・・準決勝進出!
EDGE・・・二回戦敗退



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