グラップラーLメモ第二十七話「無と闇」 投稿者:beaker
その男は震えていた。
'自分'がたまらなく怖く、そして嫌だった。
変えなければいけない、ブチ壊さなければいけない。
さもなければ自分の器をはるかに越えるモノに押し潰されるだろう。
悪いが彼らには――本当に済まないと思っているが――犠牲になってもらう。
その上でどちらが本当の'自分'なのか決定しなければならない。
彼は仮面をつけた、自分の顔が決定されるまで覆い隠さなければならないから。
彼に名前は存在しない、便宜上誰かに呼ばれる為の名前はあるが。


「――選手、出番です」
そして彼は再び立ち上がった。



「ハイド、ちょっちいい?」
ガチャリと控え室の扉を開ける綾香。
ハイドと呼ばれた男は戦闘用のブーツを履き終わったところであった。
「何だ、綾香…………?」
「あの対戦相手の事よ、あの、ね、そのぉ……」
言いたい事を敏感に察知するハイド。
「フン! 葵の復讐なら断わる。俺はそんな事の為に闘うんじゃないんでね。
復讐なら葵自身にやらせる事だな」
その轟然とした物言いに一瞬憤怒の表情を見せたが、すぐに済まなそうな表情に変化する。
「うん、ゴメンね、でもさ…………あの男は遠慮無くぶっ飛ばしちゃってよ!」
「分かった分かった……じゃあ頼みがあるんだが?」
「? 何よ?」
キョトンとした目つき。
「マッサージでもして筋肉をほぐしてくれ」
ダメで元々と言ってみるハイドラント。
「いーわよ」
意外にあっさりと引きうける綾香。
その言葉に動揺するハイドラント。
「い、いいのか?」
その言葉に妖艶に微笑みかける綾香。
「勿論よ、さあ背中を向いて寝そべって」
「あ、ああ」
慌てて彼女の指示に従う。
ちょっとした期待感に胸が高鳴り…………


ごき


「うぎゃああああああああああああああああ!!!!」
「あ、あ、間違えたっ! ゴメンゴメン…………こうかな?」


べき


「ghわおjぉwj9fじょわjふぉわjf!?」
「きゃああああ!! どーしよどーしよ関節が変な方向に曲がっちゃったぁぁぁ!?」
「おたけさんみたいなモードに入るなぁぁぁぁ!!!」
言葉にならない悲鳴を絶叫するハイドラント。
結局彼が解放されたのは試合五分前の事であった。
(結局回復魔法で全快させた)




「それでは武器と魔法の使用を除く全ての攻撃が認められ……」
デコイが毎回の注意を繰り返し喋っている。
ハイドラントは見るからに苛々していた。
悪と闘う事もある、善と闘う事もある、それ以外の何か――例えば復讐を胸に秘めた人間――と
闘う事もあるだろう。
しかし、目の前のこいつは善や悪やそれ以外ですらなかった。
気合いのようなものがまるで感じられない。
相手の正体が全く分からないまま、闘うという事は精神的にもキツい。
だがそこでハイドラントははたと気付いた。
(……もしかしてかつての俺と同類の人間なのか?)
それなら彼が無に近いのも納得できる。
自分にもこのような時期があったはず、善も悪も何もない……強いて言えば「仕事」。
そこには一切の感情が働く事を許されない。
そう、暗殺者として働いていた時期、自分もこうだったではないのか?
少し相手の正体に近付いたような気がしてホッとした。
(つまり、これは……「元」暗殺者の俺と「現」暗殺者のアイツとの対戦って訳か、いいだろう)
ニヤリと笑った。
この表情は勿論彼の目にも見えているはずだ。
(俺と貴様の年季の違いを教えてやるよ)


「それでははじめっ!」
デコイが叫び、試合が始まった。
ハイドラント、無音双方ともゆっくりと間を詰める。
静かだった。
両者とも音を一切立てないで歩いているのだ。
まるでエスカレーターに載って動いているように両者は音一つ立てず動く。
その様子に最初騒いでいた観客達や、綾香、葵と言った面々も瞬きすら忘れたように闘技場を見つめ続ける。
突然、ハイドラントが仕掛けた。
右の後ろ回し蹴り、頭を狙う。
だが無音はまるで予想していたかのようにギリギリで避けると、裏拳を放つ。
ハイドラントもそれをあっさりとしゃがんでかわす。
ぶつかっていないので空気が裂ける微かな音しか観客の耳には入らない。
まるで幽霊同士が闘っているようだ、と綾香は思った。
決して遅い訳ではない、だがどこかスローモーな動き。
しかし一方で攻撃の発動の直前から瞬間は双方とも尋常ではない速さ。
綾香達も初めて経験する試合だった。
何か大事なものがぽっかりと抜け落ちているような試合。
不気味だった。
怖い、ワクワクする、ドキドキする、楽しい、悲しい、そんな感情を一切捨て置いた二人の闘いは
まるで彼らの回りだけ時間が淀んで動かないように淡々と進んで行った。


綾香はチラリと時計を見た。
試合が開始してから三分ほどしか経っていない。
が、綾香にとっては既にその何十倍も時間が過ぎて行ったように思えた。

ハイドラントが音も無く走り出す。
貫手で躊躇せずに鳩尾を狙う。
無音は動かない。
そして、貫手が鳩尾に入る瞬間、無音はくるりと身体を回転させて貫手をかわした。
さらにそのまま右手でハイドラントの貫手を掴む。
左の肘がハイドラントの顔面を襲った。
ビキッと顔面の骨が軋む。
苦悶の表情を浮かべるハイドラント。
だが、唇の端の筋肉がゆっくりと動いた。
皮肉っぽい笑い。
「動きが止まったな」
「!?」
無音は自分の中のイヤな予感に従って、咄嗟に後ろに飛びのこうとする。
だが、いつのまに足を動かしたのかハイドラントが彼の足を踏んづけていた。
その足がさらに力強く無音の足を踏み、逆の足が彼の下腹を襲った。
鋭い蹴りが突き刺さる。
続いて鳩尾、さらに顎へ。
無音は顎を仰け反らせて倒れた。
「あら、三階崩し・逆(げき)なんてまたひねくれた技を使うわねえ」
EDGEが愛弟子(愛と言う表現には若干の誤解が伴われていると思うが)の弟子をポテチをぽりぽりと
食べながら呟いた。
「やったかっ!?」
誰かが叫んだ。
「ダメ、外されたっ!」
綾香がハイドラントへ向かって叫ぶ。
下腹への攻撃は見事に決まったがその後の鳩尾は微妙に外され、顎への攻撃は
仮面を下げてかすらせる事で威力を緩和させた。
(そんな事ブチ当てた俺が一番分かっているに決まっているだろうがっ)
走る。
倒れたままの無音へトドメとばかりに片足を上げて踏もうとする。
突然カッと無音の眼が見開いた。
後になって考えてみれば仮面をつけていたから眼が開いたかどうかなど分かったはずないのだが――
少なくともその時、ハイドラントはそう思った。
ハイドラントの浮き上がった足を両手で掴み、足を絡ませる。
身体全体がまるでコマのように回転して、膝関節を極める。
「膝十字!?」
咄嗟にもう一方の足で無音の顔面へ蹴りを放つ。
ピシッという何かがひび割れるような音が彼の仮面から聞こえた。
「!」
慌てて片手を仮面にやる無音。
ハイドラントはその隙に身体を捻って膝十字から脱出した。
「ぜえ、ぜえ、ぜえ……」
冷や汗をかいた。
ハイドラントは膝に手をやった。
一瞬でも極められたせいかとかなり痛むが歩けない事はない。


一方の無音は仮面にしつこく手をやる。
「…………?」
ハイドラントはその様子に疑問を抱いた。
何故あの男はそこまでして仮面に拘るのだろうか。
「そんなに仮面が気になるか?」
カマをかけてみた。
無音は慌てて仮面から手を離す。
(なるほど……俺が指摘しなければ気付かないほど仮面が気になる訳か)
だったら、当然やるべき事は一つ。
「その仮面……狙わせてもらうぞ!」
敢えてハッキリと宣言する。
予想通り彼の身体が一瞬硬直した。
その瞬間を狙って前蹴りで彼の顔面を狙う。
慌てて十字受けで防御する無音。
小気味良い音が響き、無音が若干後方へさがる。
「まだまだ…………」
再び顔面へ回し蹴り、無音は顔面を慎重に防御しながら捌こうとする。
が、無音が予想していた軌道にハイドラントの足はなく、代わりに脇腹へ重たい蹴りが突き刺さった。

「あちゃあ」
初代beakerがぽりぽりと頭をかいて唸った。
「あの黒いのもかなーり意地が悪いのー」
beakerが普段の冷静さはどこへやらとばかりに動揺する。
「ど、どうしましょうか!? '師匠'!」
初代beakerは苦笑しながら
「ま、アレが外された時どう動くかはあの馬鹿の勝手だからな。
お前も覚悟を決めておいた方がいいぞ」
そう言った。

脇腹への蹴りがかなり効いたらしくよろめく無音。
(これで…………終わらせてもらうぜ)
ハイキック。
脇腹を押さえていた右腕がガードに遅れ直撃する。
その蹴り足を残したまま、ハイドラントは飛んだ。
「あの技はっ…………さっきのっっ……!」
岩下信が思わず目を見開いた。


「鳳凰落(ほうおうらく)!?」


踵落としを彼の肩に直撃させ、首を極める。
そして身体をぐるりと回転させた。
首が極められ、気味の悪い音が無音の耳に、脳に、響く。
咄嗟の判断で無音は飛んだ。
無論ハイドラントの予測通りと覚悟しての行動だ。
あの時、岩下信は自分がその次どうなるかがわからなかった。
だが、見ていた自分には次の取るべき行動が判断できる。
ハイドラントは彼を逆さまにすると、当然のように足で彼を叩き落した。
強く叩き落としすぎたせいか、落ちたと同時に跳ねる。


やがてハイドラントはゆっくりと起き上がった。
くるりと振り返って相手の状態を確認する。
予想通りうつぶせになったまま、指一つ動かせないでいた。
(死んだか…………?)
大して同情も無く、彼の死体を見つめる。
デコイが駆け寄ってくるのを確認して、背を向けて歩き出そうとした。
だが、
「仮面を被っていたのは何故だと思います?」
背中から突然声が聞こえた。
(馬……鹿……な………………)
「無論、正体をバラされるのが困るから、です。
あなたの言葉に動揺したのもその為…………だが」
ムクリと無音が起き上がった。
デコイは自分の足に急ブレーキをかける。
ハイドラントはゆっくりと振り返った。
眼に穴が空いているだけの白い仮面が複雑な表情を形作るかのように無数のひび割れを起こしていた。
「どうしました? てっきり首の骨でも折れたかと?」
そのとうりだ、首の骨がへし折れているのが普通だ。。
岩下信ですら死んでいてもおかしくない、生きていたのが僥倖とも言えるほどの凶悪な技だ。
「中国拳法の技の一種に…………自分の頚椎を自力で外す技がありまして…………
いやあ、痛いんですよ、これ……」
無音は首を思いっきり縦に振った。
骨の関節が組み合わされ、もげたような状態の首が元に戻る。
綾香や葵は茫然としながら
「し、信じられない…………」
そう言うしかなかった。
好恵は、目の前の光景も信じられなかったが、それと同時に初めてしゃべり始めた無音の声が
気になった。
微妙に普通とは違うイントネーション、いつも側で聞いている声と同じテンポ。
「ま、まさか……」
声が震える。
身体中に悪寒が走りぬける。


外野のざわめきにかき消されるような声で無音は話を続けた。
「どこまで話しましたっけ? そうそう、仮面を被っている理由なんですが――
これをつけて置かないとね、怖いんですよ、何もかも捨て去って闘うほどの馬鹿には…………
なりたくなかったんですがねえ」
ピシピシと仮面が少しずつ崩れていく。
ハイドラントは今のセリフを頭の中で反芻してみた。
(なりたくなかった? 過去形って事はつまり……)
「だけど、まあ……もう、いいか」
それと同時に仮面の真ん中に大きいひび割れが走り、バリ! という音と共に
仮面の右部分と左部分が床に落ちた。
ハイドラントは一瞬床に目を落とし、そして彼の顔を見ようと顔を上げる。
「!?」
無音は既にハイドラントへ向かって走っていた。
「しまっっ…………」
(油断したっ!)
慌てて後方へ下がろうとする。
だが、彼の顔を一瞬見て硬直した。
「ま、さ、か……」
その一瞬が命取りだった。
肩を掴まれてそっと拳が彼の鳩尾に当てられる。
寸勁…………!!!


ズン! という震動が身体中を襲い、闘技場の壁に叩きつけられた。
がはっ! と叫んで血を吐いて倒れるハイドラント。
「ハイド!?」
綾香が慌てて叫んだ。
そして無音の方をチラリと向いて硬直する。
それは葵も一緒だった。
デコイも審判をしようと駆け出しかけた足が止まっている。
好恵は呆然と'彼'を見ていた。
イヤイヤをするように首を横に振る。
「まさか、そんな…………なんで、なんでアンタがそこにいるのよ…………」


二階でその様子を見ていた'beaker'はバリバリと首から顔の皮を引き剥がした。
一息ついて、心配そうに闘技場の無音へ呼び掛ける。
「マスター…………」
初代beakerはやれやれと首を振った。
「一悶着起こりそうだな、これは」


「答え、なさいよ、答えてよ!! どうして……どうしてなのよ!?
b…………beakerァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!!!!!!!!!!!!」
好恵は全ての力を振り絞って絶叫した。


無音――beakerは好恵の方をチラリと見て、すまなそうな表情を一瞬浮かべる。
が、質問には答えることなく、無言で後ろを向いて去って行った。






無音(beaker)・・・準決勝進出!
ハイドラント・・・二回戦敗退