グラップラーLメモ第二十八話「衝動」 投稿者:beaker
ガン!
好恵は壁に拳を叩き付けた。
皮が裂けて血が滲み出る。
「なんっ……で、何で気付かなかったのよ……何でっ!」
ガンガンとさらに壁に叩き付ける。
葵が心配そうに声をかけた、

「好恵さん…………」
ガン! ガン! ガン!
だが全く聞こえてはいないようだった。


好恵の目からはうっすらと涙が零れ落ちている。
何てことだ、先程自分の後輩をあっさりと倒した'敵'がよりによって、
自分の最も身近な人間だったとは。
気付かなかった事や葵への罪悪感、その他様々な疑問がぐるぐると好恵の頭を巡る。
ゴメンと一言呟くと好恵は黙って廊下を歩き出した。
今はこの場にいられない。

結局、保健室の扉の前に残ったのは、
葵、綾香、梓、悠 朔と言った面々だった。
「……無理ないわよね、だって回りの親しかった人間誰も気付かなかったのよ」
綾香が続いて声を出す。
あの時、無音の仮面が外されてbeakerが出てきた時、
その場にいた人間の誰もが目を疑っていた。
日頃親しい好恵は勿論、購買部関係の人間すら、だ。
そう、多分知っていた――知らされていたのは沙留斗とあの側にいた男だけだろう。
今から思えば無音の試合の時は必ずbeakerと沙留斗が共にいなかった気がする。
おそらくは無音の試合の時だけ、沙留斗が変装用のマスクを被り、その他の時は
普段通りに行動していたのだ。
それにしても――アクシデントで正体が露呈したとは言え…………

「……何でそこまでして正体を隠していたんでしょうか?」

葵が当然とも思える疑問を問い掛けた。
「多分そりゃあヤツが俺達の側の人間って事を知らせたくなかったからだろうな」
そんな事を言いながらガチャリとドアを開けて出てきたのは、

「あ、ハイド、大丈夫?」

ハイドラントだった。
何箇所かに包帯を巻いているが普通に歩いているところを見ると、命に別状は無いようだ。
「俺達の側…………?」
葵が不思議そうに呟いた。
「ああ、俺達――いや正確に言うと俺みたいな人間と同じって事だ」
「つまり…………」
ゴクリと唾を飲み込んで綾香が言った。
「図々しい変態?」
「違うわ!」
「えーっと、真っ黒な変態とか?」
続いて悠 朔。
「違う!」
「液漏れ消火栓」
「どこから出て来やがったるーん!!」
ハイドラントは手を大きく振りまわして抗議した。
さっきまでの怪我はどーした。
「そういうんじゃなくてだな! アイツも俺と同じ――暗殺者って事だよ」
「暗殺…………者」
「ああ、アイツと闘った時分かったが…………ありゃ、どう見ても格闘家って感じじゃない」
実際の話、とハイドラントは心の中で思った。
(beakerは闇とかそんなものじゃない…………光と闇以外の何かだ)


「ま、お前さんの予想は大体当たっているぞ」
「「「「!?」」」」
近くのソファーから突然声がした。
影から手がひょっこり出てくる。
続いて顔。
「あ、あなたは確か………」
葵が倉庫の回りをうろついていた彼を見掛けたのを思い出して声を掛ける。
「お初の人間も何人かいるな、はじめまして、私がbeakerの祖父だ」
「祖父ぅ!?」
まさかという顔をする悠 朔。
「ちょっとややこしい事情があってな、まあ信じろよ」
ひょいと立ち上がって杖を取る。
つぶっているとしか思えないほどの細い目――実際に目は閉じているのだが。
サラリと風に柔らかく揺れる金髪。
落ち着いた声のトーンに全員何とか平静を取り戻した。
「…………今、いつからそこにいた?」
ハイドラントが疑い深く声をかけた。
初代beakerはうーんと顎に手をやって考える振りをする。
「確か、さっきまでいた空手の嬢ちゃんが拳を壁に叩き付けた頃からだと思ったが?」
「なるほど、ねえ」
ニヤリとハイドラントは笑った。
つうっと冷や汗がこめかみから垂れる。
(冗談じゃねえ、こんな近くにいて全く気配を感じさせなかっただと……?)
それは綾香達も同様らしい。
思わず戦闘体勢に入っている悠 朔のような人間もいる。


そんな雰囲気を感じているのかいないのか、のほほんと言葉を続ける初代beaker。
「アイツは確かに元暗殺者だ…………最もどういう暗殺者だったか、なんて事までは分からんがな」
「祖父の癖に随分と放任主義じゃない?」
ジト目で睨む綾香。
ハッハッハと高笑いを上げて誤魔化そうとする。
「まあ、知らないものはしょうがあるまい。どっちにしろあの馬鹿孫は強いぞ……
私が言うのも何だがな」
そんな事を言いながら綾香の方へ向き直る。
「金持ちの嬢ちゃん……キミは今までどんな人間と闘ってきた?」
「へ?」
突然言われて狼狽する綾香。
「ど、どんなって言われても…………」
「多分、私の孫は今までキミが闘ってきた相手とは全く異質な相手になる、と思う」
続けて言う。
「それを承知でお願いする」
ゆっくりと頭を下げる、腰を90度まで曲げる。
「あの男と戦う事になったら…………勝ってくれ、頼む」
「……………………?」
「頼む、あの馬鹿の目を覚まさせてやってくれ」
そう言い残すと、初代beakerはコートを翻して去って行った。


「マスター…………」
心配そうに沙留斗が声をかける。
控え室まで戻った時、beakerは肩で息をしていた。
荒い呼吸、汗だくの身体。
試合自体で疲れた訳ではない、その分異常とも言える。
「沙留斗…………すいませんが出ていって貰えませんか?」
背中を向けたまま沙留斗にそう言った。
少々躊躇ったが沙留斗は分かりました、と言い残すと部屋を出て行った。


ハァハァと動物のように荒い呼吸をする。
ふと、机が目に止まった。
内部の暴力的衝動に従って、机を叩き壊した。
思い切り拳を振り上げて叩き付ける。
「…………ハハ」
うっすらと笑いを浮かべる。
次に目に付いたのは鏡。
自分の顔が映っている部分に蹴りを入れた。
鏡は粉々に砕かれ、写し出されるbeakerがまるで破壊された彫像のようだった。
それはもっとbeakerを昂ぶらせた。
パイプ椅子をぐにゃぐにゃになるまで拳で殴り付ける。
壁に拳を叩き付ける。
まるで判子を当てる様に壁に跡がついていった。
拳がめりこんだ跡のところどころからピシピシとひび割れが始まる。
やがて飽きたのかピタリと立ち止まる。
身体がガクガクと震え始める。
両手で無理に身体を押さえ付けた。
内部の溢れ出ようとする暴力的な衝動を押さえる事ができない。
口から笑みが零れ出す。
とうとう、我慢しきれずにbeakerは笑いはじめた。
壁一枚隔て、沙留斗が腕組みしていた。
声と、音が彼の耳にも届いていた。
beakerが何を考えているかなどは彼にも分からない。
だが、一つだけ確かな事がある。
マスターは何かを変えようとしている事だ。
ともかく、

沙留斗は改めて心を決めた。
何があろうと、自分はマスターについていく、と。