グラップラーLメモ第三十六話「その名は無音」 投稿者:beaker
準決勝・素手部門第一試合――

無音の控え室。

「……無音選手、出番です」
スタッフが彼の控え室をノックして、呼び掛けた。
ガチャリとノブが捻られ、彼が出てくる。
試合前なのだが――ウォーミングアップはしていたのだろうか?
呼吸は落ち着いているし、汗もかいていない。
礼を言う事もなく、無音はスタッフの目の前を横切る。
一瞬、冷たい空気がスタッフの肌を襲った。
スタッフのその男は……肩を竦めて、持ち場に戻ろうとして一つの発見をした。
ドアの隙間から椅子が倒れているのがチラリと見えたのだ。
無視しようとも思ったが、性分なのか「やれやれ」と一人ごちて、ドアを開けた。
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・
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「……! な、何だよこれ……」


その部屋に、完全な姿を保っている物体は一つも残されていなかった。
椅子、鏡、机……その他全てのものが破壊されている。
壁もところどころがひび割れ、拳を叩き付けたと見られる跡が残されていた。
彼にはまるで、怪獣がここの部屋で暴れたように思えた。



来栖川綾香は廊下を歩きながら静かに怒っていた。
許せなかった、彼が。
もちろん……beaker……今の名は無音と呼ばれる男の事である。
一回目の試合、相手は葵だった。
互いに全力を尽くしたとか、力が足りなくて一方的な展開だとか、そんなものではなかった。
ただ、何もさせてもらえなかったのだ。
余りにも残酷な勝ち方だった。
二回目の試合、彼はハイドラントと闘った。
格闘家とは言えない者同士の闘い……
試合の後、彼は仮面を外した……そして残酷な答えを彼らに突き付けた。
葵とハイドラントを倒したのは無音、無音はbeaker、beakerは坂下好恵の恋人。
綾香にはそれが裏切りにしか思えなかった。
だから怒っていた。
ただ、一つだけ懸念されるのは好恵である。
自分とbeaker、いや、無音が闘うのは彼女には辛いことではないのかと……


「綾香」
好恵は廊下の終わり、入り口に立っていた。
こちらに近付く。
止めに来たのだろうか、とふと思った。
だが、彼女は綾香の両肩を掴むと、全身を震わせながら、
「勝って」
と言った。
「え……」
驚く綾香。
好恵は続けて、
「……良く分からないけど、アイツをこのままにしておくと……
アイツがアイツでなくなるような気がする、だから、お願い……」
勝って! と声を絞り出すように叫んだ。




「武器の使用は一切許可しないものとし……」
とーるが対峙した二人の真ん中で注意を述べている。
そんな中、綾香は無音に、
「どうして……どうしてアンタはこんな事してるの? 一体何を考えているの?」
と聞いた。
今までずっと頭に引っかかっていた疑問だった。
彼女が知っているbeakerは無報酬で動くような事は滅多にない。
「打算」だけで生きているような男だ。
別にそれが悪いとは言わない、むしろ徹底している分、コロコロ主張が変わる人間よりはマシだ。
だが、今回のこの試合……beakerが動いて一体何の得があるのだろうか?
裏で非合法な賭博でも行われているのでは、とセバスチャンに少々調べさせたが、
多少の賭けは存在するものの、とてもじゃないが彼が動いているような金額ではなかった。
無音は無表情でこちらをぼんやりと見ていたが、その言葉に目を一瞬まばたかせると、
「別に……何も考えてませんよ」
と一番考えられなかった答えを述べた。

「つまりアンタは……『ただ』試合にでて、葵を負かせたって訳?」
拳を握り締めた。
「いけませんか?」
「葵は……あの娘は一生懸命だったのよ、アタシや好恵と闘うために!」
無音は肩を竦めた。
「努力が報われない事もあります、それはあなただって良く御存知でしょう?」
確かにそうだ、いくら努力しても負ける時は負けるし、努力しなくても勝つ事はある。
だけど、
「分かっているわ、充分に理解してるわよ……でもね、アンタにだけは言われたくないのよ!」
綾香が動いた。
「!!」
右の上段回し蹴り、不意をつかれたらしく、無音の側頭部を直撃する。
とーるは呆気に取られたが、すぐに綾香に注意を促そうとする。
だが、それより速く綾香は更に動いた。
左のロー、足を残したまま中段蹴りに移行。
無音はたまらず吹き飛んだ。
さらに追い打ちをかけるために無音に駆け寄る。
とーるは綾香を止めるか止めまいか逡巡した。
志保を見る。
彼女はコクリと頷いた。
つまり……


「はじめ!!!」


とーるはそう一声上げると、席に戻っていった。
「葵……だけじゃ……ない!」
左フックが脇腹に突き刺さった。
「好恵だって……悲しんでいるのに!」
左後ろ回し蹴り。
顔面に綺麗に入った。
そしてそっと彼の懐へ入る。
葵は綾香の構えに気付いた、何をしようとしているのかも。
「……崩拳!」
完全に鳩尾に決まった。
無音は壁に叩き付けられた、背骨が仰け反る。
一瞬、観客は静まり返ったが……
「すっげえええええええええええええええ!!!!!!!!!!!!!」
大歓声が巻き起こった。
「おいおい、もしかして瞬殺か?」
誰かが呆れたように呟いた。
「さすが綾香センパ……」
観客の歓声が止んだ。
無音は背骨を仰け反らせたまま、動いていなかったが、
そばにいた観客は彼の顔をじっくりと観察することができた。
まるで痛みを感じていないような表情の乏しさだったが、ニヤリと笑った。
唇の端から血が流しながら、笑う。
ゆっくり、ゆっくりと仰け反らせた背骨を元に戻す。
歩き方は何も変わっていなかった、震えるような事もなければ、膝を突く事もない。
先程までの一気呵成の攻撃がまるで幻のように思えた。
ボサボサの髪の毛がダラリと前に垂れ下がり、ちょうど目の部分が覆い隠された。
そしてニヤリという笑みを浮かべたまま、
「言いたい事は、それだけですか?」
と綾香に向かって言った。


綾香も呆気に取られていた。
慌てて、構え直す。
「なら次は……'僕の'ターンです」
無音が走り出した……否、跳躍した。
「くっっ……」
速い、速いだけではなく、最初のダッシュの瞬間が読めなかった。
まるで映画のラッシュフィルムのように細切れな動き。
一瞬綾香が気を取られた間に無音の左手が彼女の右手首を掴んだ。
前に引っ張られる。
無音は彼女の無防備な腹に右の肘を叩き込んだ。
くの字に折れ曲がる綾香。
さらに肘打ちから顔面への裏拳に移行。
だが、ヒットする瞬間、パッと手が開いた。
パチンという軽い衝撃が顔面に伝わる。
数瞬、綾香の目は全く機能しなくなった。
その隙に、無音は苛烈な連撃を彼女にぶつける。

右ロー、左フック、右の掌底アッパー、トドメとばかりに右の上段回し蹴り。

形勢は逆転した。
ドサリと床に倒れ込む綾香。
「つ……」
「強い……」
観客席からわずかな感嘆の声が漏れた他には誰も、一言も喋らなかった。
無音はしばらく佇んでいたが、やがて
「フン……」
と鼻で笑う素振りをすると、帰ろうと控え室の方角に振り向いた。
瞬間、背後から刀を突き立てられたような気配がした。
「何っ!!!」
慌てて振り返る、そこには……
「じゃーん!」
ピースマークをしている綾香の姿があった。
「アンタこそやりたい事は終わった? アレじゃあ私は倒せないわよ〜」
チチチと指を左右に振る。
「……」
「一応仮にも私は前年度エクストリームチャンピオン! あんな攻撃で倒れておしまい、なんて
事になったら他の人達に申し訳ないのよ」
「バカな……女(ひと)だ」
「好恵とも約束したしねー、さあ、いらっしゃい」
構えた。
「葵が出せなかった格闘家の強さ、思い知らせてあげるから」
構えた右手でおいでおいでの仕草をする。
「なるほど、格闘家ですか……」
無音はすっと両手を広げた。
「それでは僕も教えてあげましょう、この'無音'の名前の由来を……」
両手をダラリと下げたまま、無音は走った。
先程よりも遥かにスピードが遅い。
彼が懐へ飛び込んでくるまで引きつけてカウンターを食らわせよう。
綾香は拳にギュッと力を入れた。
無音の体勢は低く、ちょうど真っ直ぐ伸ばして拳が当たる位置に顔面がきていた。
両手は相変わらずダラリと下げたままで、何かの攻撃の動作をするような様子には見えない。
そして懐へ飛び込んできた瞬間、綾香は迷わず拳を突き出した。
だが、彼女の拳は虚しく空を突いただけであった。
いやそれどころではない、綾香は無音の姿を'見失った'。
「どこっ……」
その時、綾香の顎に無音の踵が突き刺さった。
「な、んで……」
咄嗟に背骨を仰け反らせたのが功を奏したのか、顎に掠った程度で済んだ。
無音は何事もなかったかのように、立ち上がった。
綾香の頭に緊急的な警告が発令した。
逃げろ、彼女の頭はそう言っている。
綾香はとにかく間合いを取った。
そして考える。
(何故、私は……あの状態でアイツを見失ったの……そして……)
さっきから感じているこの違和感は?


無音はそんな彼女を見ながら、
「生まれつき……」
そう呟いた。
そしてまた駆け出す。
やはりスピードは遅かった、綾香は次に何が来ようと驚かない心の準備をした。
まだ何かある……彼には決定的な秘密が。
ぐんぐんぐんぐん近付いて来る。
その時、綾香は気付いた。
彼の足音が'聞こえない'ことに。
そして無音は彼女の目の前まで来た瞬間、跳んだ。
彼女が用意していたミドルキックは虚しく空を斬る。
慌てて上を見上げようとして、綾香は自分の頭をまるでシャンプーするようにそっと触っている人間が
いる事に気付いた。
「……!?」
次の瞬間、打撃が彼女の後頭部を襲った。
無音は彼女の頭をつかって、身体の方向を転換させると、そこから膝蹴りを打ち込んだのだ。
「わ、か、った……」
綾香は膝蹴りを何とか堪えて、振り向く。
(こいつには……音と気配がないんだ! だから攻撃が読めないし、分かり難い!)
「特異体質、というヤツですか……音を立てずに歩けるし、走れる。
誰にも知られることも、悟られることもなく、相手の頭を叩くことだってできる」
綾香くらいのレベルになると、肉体の機能の五感だけではどうしても限界が出てくる。
だから、知らず知らずの内に綾香は気配で、攻撃を読むようになった。
相手の行動を観察する目と、どこから何らかの攻撃が来るのか掴むことができる耳、
それにその五感を越えた……言うなれば第六感で綾香は攻撃を読んでいた。

耳をそばだてれば、相手が今どこにいるのか分かる。
背中から殺気が来れば何らかの攻撃が来ると分かる。
目で観察すればどんな攻撃がやってくるのか分かる。

だが、耳をそばだてても何も聞こえない。
闘気も殺気もないから、何も感じない。
つまる所、彼女に残されたのは目、だけだった。


「分かったからって……どうにかなるようなものじゃあないですがね」
その通りだ、だから無音もわざわざ説明したのだろう。


「すっごいわねー、ちょっと不利かな」
「ちょっと? 凄く、でしょう?」


やはり強い。
綾香はそれに不安も感じていたが、それと同時に胸の高鳴りを感じていた。
強い人間と闘うのは楽しい。
単純明解な理論かもしれないが、結局綾香を動かすのはそれだった。
強い人間と闘いたい、全力を使ってぶつかりたい、という欲。
とは言うものの……


(ホントーにどうすればいーのかしらねぇ……)


冷や汗が少々彼女の顔を伝った。