グラップラーLメモ第三十七話「舐めンじゃねぇ!」 投稿者:beaker
ぴっ。
綾香の頬を微かに無音の拳が掠めた。
「くぅっ……」
掠めただけだが頬に筋が走り、血が滲む。
綾香は堪えていた。
今はまだ、反撃の時ではない。
綾香の格闘家としての経験と本能がそう告げていた。
我慢だ。
綾香は無音の攻撃の防御と避けに集中していた。
幸い、彼の攻撃のパターンは単調で全神経を防御に集中しさえすれば、
攻撃の発動の瞬間、何とか避けることが出来ていた。
無論綾香が取れる行動で可能なものは、防御だけだ。
時々、無音にも隙ができる。
その隙にカウンタを食らわせればもしかしたら一気に決着はつくかもしれない。
だがその隙は明らかにこちらを誘っている隙だった。
無音はわざと隙を見せ……こちらのカウンタを誘っているのだろう。
誰がその手に乗るものか、
綾香はともすればカウンタを狙いたくなる誘惑を振り払いながらひたすら防御に集中していた。
やがて、耐え抜いた彼女に転機がやってきた。


無音は宙空を跳んだ。
両方の貫手が綾香の顔面を襲う。
「はっ!」
間一髪、綾香の身体が沈んだ。
貫手は彼女の頭のすぐ上を掠めた、長い髪をまとめていたゴムが切れてパラリと真っ黒な髪が解かれる。
両の頬を綾香の長い髪がさらさらと撫でた。
その時、電撃が走った。
(そうだ……これしかないっ!!)
逆転の手、彼の攻撃を防ぎながら攻撃に転じる唯一の手段を思い付いた……この限界の状況から。
だが、それは余りに危険な賭けだった。
躊躇する。
しかし、分かっている。
「やるしかない……」
綾香は覚悟を決めた。


ちっ、無音は微かに舌打ちした。
さっさと終わらせたいが思ったよりしつこい。
次の一撃で今度こそ仕留めてやる……そう思った瞬間だった。
「!?」
さすがに驚いた。
いや、彼だけではない。
「……正気か?」
悠 朔が唖然としてそんな事を呟いた。
「どういうつもりだ……?」
ハイドが唸った。
そして、
「気付いたか、だが、果たしてそれが、通用するかどうか……」
初代beakerが言った。
「し、信じられない……」
好恵と葵が首を振った。


綾香は、眼をつぶっていた。
無論、構えは解いていない、左手をしっかりと無音の方向へ向けている。
無音は一瞬躊躇したものの遠慮なく攻撃を仕掛けた。
ダッシュで駆け寄り、そっと、音も無く彼女の横に回る。
そして手刀を放つ、狙いは彼女の首。
「貰ったっ!!」
ガシィッ!!!
綾香の左腕は無音の手刀を完璧にガードしていた。
「!」
絶句する無音。
綾香はカッと目を見開く。
「そこっ!」
右の上段回し蹴りが横にいた無音の側頭部を直撃した。
「ぐっ!!!」
ガードは一瞬間に合わず、倒れ込む無音。


「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」
たちまち観客の大歓声が綾香に降ってきた。
ガッツポーズを取ってそれに答える綾香。
沙留斗は驚愕のあまり、ペタンと床にへたり込んだ。
「ど、どうして……?」
おどおどと彼の師匠たる初代beakerの方を振り向く。
「beaker……もとい、無音。あの男の特性は分かっておるな?」
「は、はい…」
一切音も立てず、気配も断って攻撃を仕掛ける事ができる。
つまり相手は自分の目に頼るしかない。
「だが、視覚ではどうしても彼を追う範囲に限界と死角ができる」
確かにそうだった。
先程から無音は上空から攻撃を仕掛けたり、横や下からと視覚が及ばない範囲からの攻撃に終始していた。
「そこで金持ちの嬢ちゃんは視覚ではない、もう一つの感覚……触覚に頼ることにしたんだろう」
しょっかく……?
沙留斗はそう言われてもまだ理解はできなかった。
初代beakerはそんな沙留斗を見て、
「理解できないか?」
と聞いた。
沙留斗は正直に頷いた。
無理もないか、と初代beakerは言った後、スッと沙留斗に手を伸ばした。
「論より証拠。沙留斗、今からお前を攻撃する。眼をつぶっておけ」
「……は、はい」
眼をつぶってみる。
「いいか、攻撃するぞ」
そんな声が聞こえた。
闇の中、沙留斗は耳に全神経を集中させた。
やがて何かが沙留斗の顔面のすぐ傍らを通過した。
それによって出来た風が沙留斗の顔面をそっと撫でた。
眼を開く。
「どうだ? 空気の流れを感じただろう?」
「い、今ので……綾香さんは……攻撃を避けたと言うんですか!?」
冗談じゃない、確かに今空気の流れを感じた、それは確かだ。
だが、こんなわずかな風を身体に感じただけでどこから攻撃が来たのか、それまで読んでいるのか。
「ああ、正直私も信じられん。十と七程度でそんな真似ができるとは……」
初代beakerは頭を振った。
全くここの学園の生徒は一生かけて一度巡り合えるかどうかの愉快な人間ばっかりだ。
そう思いながら。


のろのろと無音が立ち上がった。
それを見た綾香はダッシュをかける。
ここで一気に畳む!
右のハイキックを無音の側頭部目掛けて放つ。
(そうそう何度も食らってたまるかっっ……)
無音は彼女の右足を掴もうと両手を胸のところまで上げた。
だが、
ビシィッ! 左のハイキックが無音の右側頭部に放たれていた。
(双龍……脚だと……)
一番最初にソレに気付いたのはハイドラントだった。
「い、いや、まさか……」
左脚を彼の肩に残したまま、右足のつま先が無音の顎を襲った。
「サマーソルト!?」
誰かが叫んだ。
「ぐふっ!!!!」
顎を貫いたかのようにつま先が空へ、跳んだ。
その足が再び彼の脳天目掛けて戻ってくる。
「踵落とし!! ……ま、待てよ」
一人、二人と気付く。
先程これと酷似した状況が二度存在した事に。
無音は反射的に首を傾けてそれを避けた。
だが、次の瞬間彼も気付く。
(しまっっ……)
「神威のSS 表技奥義……鳳凰落か!」
綾香の両足が彼の首に蛇のように絡み付き、くるりと無音の身体を回転させた。
一瞬、時が静止したように沈黙した後、凄まじい土響音が闘技場全体に響き渡った。


「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
呼吸が整わない、心臓が早鐘のように打ち鳴らされ、これ以上の運動の危険を警告している。
綾香が眼をつぶって彼の攻撃を止め、続けて攻撃を仕掛けるまで三十秒も経っていなかった。
一瞬の隙を突いて攻撃を畳み込む、これしか無音を仕留める方法は残されていなかった。
その為に、自分の体力もかなり消耗したが。
無音は仰向けに転がっている、ピクリとも動かなかった。
ハイドラントは手すりをぎゅっと握り締めた。
「二回だぞ、二回見ただけであの技を自分のモノにした、だと……?」
やはり化物だな……冷や汗が滴り落ちた。
初代beakerもやれやれ、と呆れたように肩を竦めた。
「やはり、あの金持ちの嬢ちゃんの格闘の才能は学園で一……」
番だな、と言おうとして言葉が途切れた。
今までの全試合を通して、初めてと言っても良いほどの真剣な顔付きに変わる。
他の観客も、歓声を挙げようと口を開けたまま、手を挙げたまま、茫然と闘技場の二人を見つめている。
「信じられんっっ……」
「うっそだろお……」


綾香も片膝を突いて立つ事すら忘れたまま、彼を見ていた。
一人を除いて全ての人間が凍りついたように'彼'を見ていた。
いや、それは正確ではない。
正確に言うと、彼の'笑い声'を聞いていた。
「ハハハハハハハ ハハハハハハ!! ハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!」
仰向けに倒れたまま、口を大きく開けて、
「ハハハハハハハハハハハ……ハーーーーハッハッハッハ!!!!!!!!!!!」
彼は笑っていた。
「ハハハハハハハ…………」
やがてピタリと沈黙した。
と、同時に両足を回転させて勢い良く起き上がった。
口を大きく開けた笑い顔のままで。
「舐めンじゃ……」
ぼそ、と呟いた。
「舐めンじゃねえっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
絶叫した。
余りの無音の変化ぶりに、観客も、綾香も、誰もが戸惑った。
「な……」
何がよ、と言おうとした綾香の声を遮って更に叫ぶ。
右手で何かを掴む仕草をしながら、三度あの台詞を言った。
「舐めンじゃねえっっ!!!! 温室育ちのお嬢がァァ!!!!!!!!!!!!
こちとら生まれて十七年!!! 何回修羅場をくくってきたと思ってる!!!!!」
全身に走る激痛が、更に無音を激情させた。
「てめえらみたいなアマチュアと'俺'とじゃあなぁ……年季が違うんだよっっ!!!!!!!!!」
無音が突然しゃがみ込んだ、そのままダッシュで駆け寄る。
慌てて綾香も立ち上がって構えを取る。
無音が片手を突いた、素早くその手を軸にして回転する。
(足払いっ!!)
左足を上げて避ける。
だが、無音の足は一回転した時点でピタリと止まり、踵が床を踏んだ。
「?」
さらにその踵を軸にしてもう一度身体を回転させた。
「二……連発!」
上げた左足に鞭のようにしなった蹴りが決まった。
たまらず、床に倒れ込んで足を押さえる。
たった一発食らっただけなのに、全身に痺れるような痛みが残る。
しかも今の一撃、殺気が漲っていた。
つまり読めたはずなのだ、今の一撃は。
'にもかかわらず'食らってしまった。
無音はゆっくりと起き上がり、
「紅円(こうえん)……弐連」
そう技の名前を言った。


「マズいな……とうとうキレおった」
「キレ……た……?」
「ああ」
初代beakerは自分の持っている杖を握り締めた。
「そんな、まさかマスターが……」
沙留斗が弱々しい微笑みを浮かべる。
初代beakerはそんな彼に向かって無言で首を横に振った。
「あそこにいるのはお前の知っているbeakerじゃぁない。かつて中国でわずか五年という歳月だが
……その名を轟かした犯罪組織、'九頭龍'の頭領にして最強の暗殺者、無音だよ」
「暗殺者……!」
「まあ、あいつの過去についてはいずれ落ち着いた時にゆっくり話してやる。
それより……ヤバいな」
「ヤバいって……」
「あの男……綾香の嬢ちゃんを殺すつもりだ」
愕然として沙留斗は闘技場の二人に眼をやった。


ひょいっと無音の手が伸びた。
指を二本突き立て、綾香の顔面を狙う。
「危ない、目潰し……!」
葵が叫んだ。
バックステップする、綾香。
だが、それより更に速く無音が踏み込んだ。
左の手刀が綾香の右首筋を狙う。
読める、先程までと違って殺気が無音の身体から異常なほど発せられている。
だが、
「速いっっ……」
スピードが段違いだった。
だが、右腕を引き上げてガードは出来る。
そう思った矢先だった。
ザックリと右腕が裂けた、まるで皮と肉がこそぎ落とされたように。
驚く暇もなく、次の攻撃が飛んできた。
右の横蹴り、間一髪で避けたつもりだが、やはり脇腹が裂け血が噴き出た。
ここで突然無音の動きが止まった。
そして左手についた手をつぅ……と舌で舐め上げる。
ニヤリと笑った。
寒気がするような微笑みに綾香は全身がすくみ上がった。


「沙留斗……お前、今のb……いや、無音に勝てると思うか?」
沙留斗は無言で首を横に振った。
「私もだ」
初代beakerは呟いた。
「もし、魔法を使わないという限定下での勝負なら……今のアイツに勝てる生物はこの世に存在しとらん。
正直……こんな気分は久しく味わってないが……」
初代beakerは顔を沙留斗にゆっくりと向けた。
笑顔を浮かべてはいたが……その額からは汗が滴っていた。
「アイツが怖い、心の底から闘いたくない……そう思うよ」


「うっ……」
後退しながら一撃、一撃と食らっていたせいで壁に叩きつけられた。
まだだ、まだあの笑みを浮かべている。
何かが綾香の心の中で産声を上げた。
やがて、ソレは次第次第に成長して行き、彼女の心を圧迫する。
'恐怖'だった。
今まで闘う事は怖くなかった。
見捨てられる恐怖――誰からも振り向いてもらえない恐怖――それはあった。
その恐怖は常にあった、今までソレを綾香は闘う恐怖だと思い込んでいた。
だが、今、目の前にいる男から感じるものは、ソレとは全く違うモノだった。
悪寒、絶望、そして恐怖……
そう、生まれて始めて、生まれて始めて綾香は闘う事への恐怖を味わっていた。
膝がガクガクと震えて立っていられない。
いや、膝だけではない。
両腕で自分の身体を抱きしめても消せないほどの震え。
怖い、イヤだ、痛い、闘いたくない。
眼が涙で潤み始めた。
私、私……


次の瞬間、意識が途切れた。






<つづく>