グラップラーLメモ第三十八話「抱炎人」  投稿者:beaker
「もらッたァァァァァァァ!!!!!!!!!!」
トドメとばかりに無音は綾香の右肩を掴んだ。
右拳がスッと綾香の鳩尾に添えられる。
「いけないっ! ……寸勁!」
気付いた葵が叫ぶ。
だが、綾香の眼は虚ろで避けようとする気配が全くなかった。
「いかん!」
初代beakerが二階から飛び降りて、駆け寄ろうとする。
ハイドラントも音声魔術の詠唱を始めた。

だが、
「「間に合わ……」」
最悪の結末を予想して思わず初代beakerは目を閉じた。


立てた拳が折り畳まれる。
寸勁が綾香の身体を撃ち貫く……はずだった。
それで全てが終わるはずだった。


綾香の回転しての裏拳が無音の側頭部から顔面にかけてヒットするまでは誰もがそう思っていた。


「な……んだと……」
無音が信じられないという顔のまま、倒れる。
今、確かに自分は寸勁を放った。
だが綾香は自分の拳が彼女の鳩尾に当たるその刹那、身体を回転させて裏拳を叩き込んだのだ。


「何ィ……」
初代beakerが凍り付いたように動かなくなった。
ハイドラントや悠 朔も彼と同じだった。
彼らだけではない。
観客も、志保も、とーるも、誰も彼もが綾香の行動を凝視していた。

のろのろと無音が立ち上がる。
「……フン!」
ぺッと唾を吐き捨てた。
血と一緒に歯が転がる。
そして呆れたように首を振った。
「何故大人しく負けようとしないんだ? 無駄な…抵抗…するんじゃねェェ!」
左後ろ回し蹴り。
決まるはずだった。
綾香は立ってはいるものの、膝は震え、目は虚ろ。
こちらが左後ろ回し蹴りを放っても茫然と立っているだけ。


だから当たらなければならないはずだった。


だが……
吹っ飛んだのは綾香ではなく無音であり、無音が放った左後ろ回し蹴りは
綾香に当たったと思った瞬間、同じ左後ろ回し蹴りで返された。
つまり、後から放ったはずの綾香の左後ろ回し蹴りが無音にヒットしたのだ。
「バ……カ……な…」
もう一度、倒れる。


「……っておいっ! 一体どういう事だよ!? 綾香は……何故綾香は闘えるんだ!?
さっきまでのあの闘気が全然感じられないんだぞ! 今のアイツには何も……」
悠 朔が近くにいたハイドラントに掴みかかった。
ハイドラントはゴクリと唾を飲み込み、
「分からんが……もしかして……天才を超えた……」
と言い澱んだ。
「好恵さん!? 綾香さんは……」
葵も傍にいた好恵に思わず問い質す。
「多分……アタシも聞き齧りの知識しかないけど……」


「神の領域に達しおったか……」
初代beakerが呟いた。

「……神、だって?」
「俗に言うなら無我の境地だ……今、綾香には殺気も、闘気も、全くない。
いや、人間ですらないんだ」

「前に何かの雑誌で見た事がある。そのゴルファーはその事を『ゾーンに入った』って
言ったらしいけど……」
「ゾーン?」

「闘いに次ぐ闘いの中で、天才が感じた初めての恐怖、それが……」

「……綾香を一気に神の領域にまで押し上げた」

「熱に浮かされたような自分、そして自分の姿を冷静に客観に見つめている自分がいる。
そして、身体が自動的に動いて……」

綾香が再び動いた。
身体全体がコマのように回り、跳び左後ろ回し踵落とし……フライングニールキックを放つ。
無音は虚を突かれたものの、両手を十字にして受ける。


「やる事なす事全てが上手くいく」


両手を十字にして踵落としをブロックしたまでは良かった。
だが、次の瞬間、無音の左頬が歪んだ。
空中での左後ろ回し踵落としから、更に右の蹴りの二段攻撃。
防げるはずもない。


「だ、だがハイドラント! b……いや、無音だってさっき気を消していたじゃないか!?」
「あれは、多分アイツの生まれつき持っていた才能と修練の賜物の技だ。完全に気配を断つ
なんて事は『人間』である以上不可能なんだよ、だが今のアイツは……」
「人間じゃ、ない、か……」
「ああ」

「じゃ、じゃあ好恵さん! 綾香さんは……」
「勝てる……でしょうね。間違いなく」

「神に勝てる、神を越えられる人間など、この世におらん……」
初代beakerは先ほど自分がいった言葉を思い出していた。

「私はあの孫と魔法抜きでは絶対に闘いたくない」
と言った。

今、訂正する必要があるようだ。
「あの嬢ちゃんとはたとえ魔法をフルに使えるとしても絶対に闘いたくない」
と。

「くっ……」
前蹴りが鳩尾に決まり、壁まで吹き飛んだ。
両腕を壁にかけて持たれかかる、そうでもしなければ立っていられない。
だが、もう限界だ。
ダメだ。
無音は自分と綾香の間にある途方もなく大きな壁を理解した。
オーケー、俺の負けだ。
つくづく馬鹿だなと思った、自分自身を。
まるで道化じゃないか。


人を裏切って


人を傷付けて


それで得られたものは何だ?


何を得るつもりだったんだ?


平穏と安息の日々から、また澱んだゴミ溜めのような日常へ帰還する覚悟だったのに


そこまで覚悟してたのに


負けては全て終わりだ


ゲームオーバー、諦めろタコ


いいだろう、さっさと止めを刺せ、どうした?


口から血を垂れ流しながら、無音は綾香を驚くほど冷静な様相で見つめていた。
多分、今の綾香なら躊躇せずトドメを刺してくれるだろう。
ありがたい、どうせなら殺してくれ。
俺はアンタを殺すつもりだったんだから、これでおあいこだ。
無音は死神が無表情で近付いてくるのを恍惚とした表情で手を広げながら待った。



綾香は、自分を見ていた。
あの瞬間、気付けば闇の中。
光を求めて抜け出すと……自分という他人が試合をしていた。
強かった。
(このまま見ているだけでアタシの勝ち……)
左後ろ回し蹴りが決まった。
(でも……)
フライングニールキックもどきの二段蹴りも決まった。
(だけど……)
前蹴りが決まった。
(これは……私じゃない! だって、私がここにいるもの!)
壁にもたれかかる無音にツカツカと近付く。
(待って! 待ちなさい私! あなたじゃダメなのよ!)
・
・
・
パァンッ!!
闘技場一杯にその音が鳴り響いた。
「な、何だぁ?」
パァンッ!!
乾いて太陽光線を一杯浴びた布団を叩くような、
「……おいおい」
そんな気持ちの良い音だった。


「あ、綾香さん……?」
「あーーー、ちょっと痛かったけど……何とか元に戻れたわ」
両の頬が田舎娘のように真っ赤に染まっていた。
自分の手で勢い良く両頬を張れば当たり前かもしれないが。
無音もさすがに茫然として綾香を眺めている。
「一体……どういう……つもり……」
「だって、あんな勝ち方じゃあ……ぜんっぜん面白くないし、フェアじゃないもの」
平然としてそう言ってのける綾香。
ハイドラントは頭痛がしたかのように頭を押さえる。
「あの、馬鹿……」
無音はまだ話を続けた。
「つまり……あなたは……ただ、それだけで……ただ、それだけの為に……みすみす
目の前の勝ちを見逃したんですか?」
「この来栖川綾香をそんじょそこらのバトルマニアと思わないで欲しいわねー。
あんな自分がイッちゃった状態で勝ったって嬉しくも何っともないの! 正々堂々!
自分の力で、勝って負ける! そーでなきゃ何の為にトレーニングをしているんだか
分かりゃしないじゃない!」
拳を構えてそう言った。
その答えに眼を見開いていたまま、茫然としていた無音は
「……クックックックックック……ハッハッハッハッハ……」
また笑い出した。
「ハハハハハハハハハハハハ!!!!! 参りました……全くあなたって人は……」
壁にもたれかからせていた自分の身体を起き上がらせる。
そして、歩き始める。
(来るっ!?)
綾香は無音を見て構えたが……あっさりとその横を通り過ぎた。
「あれ?」
慌てて振り向く。
無音はツカツカと歩き、やがて放送席にいた志保の前へ辿り着いた。
『な、な、何よっ』
ちょいちょいと指である方向を指し示す。
志保がアナウンスの途中途中でチビチビと飲んでいたミネラルウォーターだ。
「それ……頂けます?」
そう言った。
あっけに取られながらも志保は頷いてミネラルウォーターのペットボトルを渡す。
それを受け取った無音は蓋を開くと頭からミネラルウォーターの水を振り掛け始めた。
憎悪も、悲しみも、嫉妬も、恨みも、負の感情全てを洗い流すかのように。
やがて、ミネラルウォーターが尽きた。
「ふう……気分スッキリ」
濡れた髪を後ろに撫で付けながら言った。


「あ……」
好恵は気付いた。
先程までの無音と今の無音の眼の違いに。
あの眼は無音じゃない、あの眼は……
「そうだ、その眼だよ。私がお前を救いたいと思い、
beakerの名前を継がせたいと思った時の眼は……」
好恵は床によろよろとへたり込んだ。
彼が、戻ってきてくれた。
良かった……本当に良かった。
眼からぽつんと涙が零れ落ちた。
好恵は流しているのが悲しみの涙ではない事が嬉しかった。
こんな涙ならいくらでも流したってイイだろう、そう思った。


「……もう少し早くこの状態になるべきでした……」
beakerはゆっくりと間合いを詰めながら言った。
「こんなチャンスはもう二度と訪れないと言うのに、ね」
でも、とハッキリした口調になる。
「勝つのは僕です」
言い切った。
綾香も構えながらジリジリと近付く。
「あーら、それはどうかしら?」
自信満々という表情で綾香もそう言う。
お互い体力は消耗し切っている、つまり……これが共に最後の一撃になる事は明らかだった。
ならば、自分にも十二分に勝てる確率はある。
一発、本気の一発を叩き込めば良い。


「師匠! マスターは……マスターは!」
「ああ、今のアイツはアイツだよ。無音じゃあない……beakerだ!」
「良かったぁ! 元に戻らなかったらどうしようかと思って……」
実際その可能性はあったろう、多分綾香があの時、神の領域に踏み込まなければ
無音は平然と綾香を殺害していただろう。
そうすれば二度とbeakerには戻らなかったろうな、初代beakerは久しぶりに神に感謝した。
・
・
・
beakerと綾香が向かい合って五分が過ぎた。
やがて、一番選手の近くにいる志保やとーるが気付き始めた。
「何だか……暑くないですか?」
『うん、まだ初夏なのに……この炎天下みたいなギラギラとした暑さは……』


「そうか、抱炎人(ホウイェンレン)……」
「な、何ですって……?」
沙留斗は暑さにゲンナリとしながらも、初代beakerの呟いた語を聞き逃さなかった。
「中国の故事でな、闘いを求めて止まなかった人間に天が罰を与えて、炎でその身を焼こうと
したのだが、彼は炎で焼かれてもなお闘いを止めなかったのだ。そこから闘いを求め過ぎる修羅は
天に炎で焼かれる……炎に抱かれる人間となる、というのだが……」
炎で焼かれても尚、闘いを求める人間……
あの二人こそまさしく抱炎人だな、初代beakerは呆れたように言った。


「……この学園に入って良かったと思う事が二つあります……」
「……」
「好恵さんに出会えた事が一つ」
「残りは?」
「……」


ダッシュした。
間合いを詰める。
beakerの全身全霊を込めた左フックが綾香の顔面へ向けて放たれた。
だが、それより一瞬早く綾香の左フックがbeakerの脇腹へ深く、突き刺さった。
肋骨の折れる音がして、くの字に折れ曲がるbeaker。
それでも、beakerは堪えた。
息を吐き出しつつも、右手の指を一本、また一本と折り曲げ、拳を作る。
「僕の……勝ちだ!!!!!!!!!」
「アタシの……勝ちよ!!!!!!!!!」
綾香の右のパンチがbeakerの頬にめり込んだ。
そのパンチを顔に残したまま、beakerの頭を床に叩き付ける。
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「勝負……あり!!!!!!!!!!!!」
とーるが叫んだ。
感極まった表情で葵が飛び出した。
「綾香さああああああああああああああああああああん!!!!!!!!」
駆け寄って飛び付く。
「いやったああああああああああああああああああああ!!!!!」
綾香も思わず叫んでガッツポーズを取った。
「beakerさん、立てますか?」
とーるが側にしゃがみこんで聞いた。
「しばらくは無理みたいですねぇ。……あ、そうそう。綾香さーん」
「何?」
「さっきのもう一つの'良い事'……教えます」
「……」
「あなたと闘えて……本当に良かった……ありがとう……」
そう言ってbeakerは眼を閉じた。
穏やかな微笑みを浮かべながら。
綾香は首を横に振った、
「それは私の台詞よ……アンタと闘えて良かったわ」
そう言って、笑った。




無音(beaker)……準決勝敗退
来栖川綾香……素手部門、決勝進出!