「ん……」 beakerはうっすらと眼を開けた。 蛍光灯の光が眩しかった。 ぼんやりと回りを見渡す。 誰かがいる。 「気がついた……ね」 声で分かった。 上半身を起き上がらせる。 「好恵さん……」 ・ ・ ・ 好恵はどこから持ってきたのか包丁とリンゴを持って、しゃりしゃりと皮を剥いていた。 beakerは何をするでもなく、ぼんやりと好恵の動作を見つめている。 沈黙。 好恵は何も喋らなかった。 beakerは何も喋れなかった。 彼は緊張していた、柄にもなく。 仕方がないので好恵が喋り出すのを待った。 だけど、彼女は何も言わなかった。 ……怒っているのだろうか? それはそうだろう。 当たり前だ。 ならばそれをリアクションで示して欲しかった。 好恵は意外と器用にリンゴの皮を綺麗に剥き取った。 それをゴミ箱に捨てると、皮を剥き終わったリンゴを半分に切りはじめる。 beakerは何とか好恵の表情を窺おうとした。 だが好恵はリンゴを剥くのに夢中なのか、それとも別の理由があるのか、 表情は怒っても、悲しんでも、笑っても、楽しんでもない。 ……できればこのままリンゴを切っていて欲しかった。 結論を知るのが怖いと思った。 beakerは先に結果を出した、ならば次は好恵がそれに対して結論を出す番だ。 罵られるならそれで良い。 叩かれるのならば全然構わない。 殴られても。 だけど、彼女を悲しませる事だけは耐えがたかった。 彼女に何の罪があったと言うのだろうか。 身勝手な自分が、馬鹿な自分が、彼女の傍にいたからだ。 今更ながらbeakerは全てを後悔した。 「……リンゴ、食べる?」 好恵は皿にリンゴを載せて差し出した。 beakerは唇を噛み締めて、背中を向いた。 「……いりません」 「……そう」 好恵は一言だけ呟くとベッドの傍の小さいテーブルにコトリと皿を置いた。 「ここに置いておくわね」 「……」 「……どうしたの?」 答えない。 口が開きそうになるのを必死に堪えて沈黙を守る。 「……話したくないんだ?」 頼む、早く出て行ってくれ。 話したい事はあるけど、それを言えるような資格がある人間じゃないんだ、僕は。 何を言ってもキミを傷つけるくらいなら一人で堕ちてしまった方がいい。 「……話したくないなら、出てくね」 椅子から立ち上がる音がした。 すたすたとこちらから遠ざかる足音。 そして、ガラガラとドアが開いて、ピシャリと閉まる。 瞬間、こちらの世界と好恵が隔絶したような感覚に陥った。 ポタリ、と雫が落ちた。 「あ……」 また一つ大きな雫が彼の頬を伝った。 泣いているのか、とようやく理解する。 beakerは思わず笑ってしまった。 眼からはどんどん雫が流れ落ちていく。 乾いた笑い声を微かに上げると、beakerは呟いた。 彼女の名前を。 「……好恵……さん……」 今、一番逢いたいヒトの名前を。 でも彼女はここにいない、 「……呼んだ?」 はずだった。 「……え?」 beakerがその声に驚く暇もなく、タタタッと駆け寄る足音がして、背中から抱きすくめられた。 両手がbeakerの身体に回され、落ちた雫がその人間の手に滴り落ちる。 「……アンタの考えてる事なんてすぐに分かるんだから」 「本当に……好恵……さん?」 思わず間抜けな疑問を口にした。 「……うん」 好恵の顔が彼の背中に摺り寄せられた。 「……汗臭いですよ?」 beakerは言った。 「……私だって汗臭いもん」 一層、キツく抱き締められる。 「……」 「……」 「……」 「……何か……言ってよ……」 ポタリ、とまた雫が好恵の手に落ちた。 「何を……言ったら……いいのか……分からないんです」 右手で顔を覆った。 「じゃあ言わなくてもいいわ」 「え?」 「ずーっとこのままでいようよ」 好恵はそう言った。 「あ……」 beakerは全部分かったような気がした。 今、好恵が思っていること、 今、彼が言わなければならないこと。 背中から回された彼女の手を握り締めた。 「……ゴメン……」 「うん……」 「……ずっと黙っててごめん」 「うん……」 「……悲しませてごめん」 「うん……」 「……傷付けてごめん」 「うん……」 「……独りにさせてしまってごめん」 「うん……」 「……抱きしめる資格がないなんて思い込んでごめん」 「うん……」 「……許して……ください」 「うん……」 背中にひんやりとした感触が起こった。 好恵も、眼から涙を流していたのだ。 端から観れば滑稽な状況なのかもしれない。 女の両手を握り締めながら泣く男の子と、 背中に手を回して泣く女の子と。 でも女の子は涙を流していながら――微笑んでいた。 「……もう……二度と……独りには……しないから」 「……約束してね……」 beakerは好恵の手を解くと、振り返った。 両肩に手を伸ばす。 「好恵さん……」 耳元で囁いた。 好恵は頬を真っ赤に染めながら…… 「ちょっと黙っててくださいよ」 「……へ?」 きょとんとする好恵。 そして突然beakerが声を大きく張り上げた。 「あ、好恵さん、いけません! そ、そんな事……」 「ちょ、ちょっと……」 「だ、ダメですってば……」 切なげな声を出す。 「……おーい」 そんな声を出しながらそろそろと保健室の扉へと近付く。 「あ、そ、そんなコトまでっ……き、汚いですよ」 「……」 そう言ってから突然扉を開いた。 「わっ」 「げっ」 「ありゃ?」 「とっとっと」 どさどさどさと扉が開いた瞬間、雪崩てきたのは…… 「……アンタ達……ま・さ・か……」 「あはははは、好恵さんこんにちわ、本日はお日柄もよろしく……」 「シャ、シャッターチャンスだと思ったのに……がくっ」 「ま、マスター……やっほー」 「だから私は止めとけって言ったのにぃ」 「先生の嘘つきぃ」 「……(何してたんだろ)……」 雛山理緒、沙留斗、デコイ、勇希、東雲忍、東雲恋と言った購買部の面々だった。 好恵の背中から炎が噴き出たような……気がした。 「アンタ達そこに並べええええええええええええ!!!!!!!!」 「「「「「うわああああああああああああああ!!!!」」」」」 「……?……」 beakerはその騒乱をよそにそっと保健室を抜け出した。 向かわなければいけないところが、まだ残っていた。 「いつつつつつ……」 顔を顰めた。 「我慢しろ、とにかく血を止めないと死んじまうんだからな」 悠 朔が包帯を巻きながら言った。 綾香も大人しく、それに従う。 実際beakerが無音の時にやられた傷は相当深いものだった。 肉ごとこそげ落ちたためか、いつまで立っても血が止まらず、包帯をキツく巻く事で 何とか防いでいたのだった。 (とは言うものの……このままじゃあ、決勝は……) 「棄権はしないわよ」 綾香が悠 朔の脳裏に浮かんだ言葉を読み取って先制した。 「だけどな、これじゃあ……」 「出なきゃ駄目なの、葵のためにも、好恵のためにも、EDGEのためにも、そして……彼のためにもね」 「綾香さん……」 じっと見ていた葵が綾香に声を掛ける。 「だいじょーぶよ、私を信用しなさい」 左手でドンと胸を叩いた。 ちなみに今、この場にいるのは綾香と悠 朔、それに葵の三人だった。 ハイドラントは「おめでとう、と一応は言っておく」と言って何処かへ消え去った (実はこの時に落とし穴を掘っていた……と思われる。詳しくはハイドラントさんの Lメモいんたーみっしょん5「ただ復讐の為だけに」 http://plaza24.mbn.or.jp/~ReeZn/lmemo/Hyde/40415163.htm 参照) 梓も「おめでとう、次は私だからね」と言った後、控え室へ戻っていった。 その為に綾香は梓に彼女の対戦相手の事を言い出せなかったのだが。 そして扉がノックされた。 綾香がどうぞと答えて、扉が開く。 扉を開いた人間を見た瞬間、葵と悠 朔が凍り付いた。 「き……キサマッッ!!!」 悠 朔が掴み掛かった。 「ど、どうも……」 「今更何をしに来た!?」 胸倉を掴んで壁に叩きつける。 叩き付けられた人間は顔を顰めた。 「ちょっとプレゼントを……」 「……何だと?」 彼はポケットから無造作にソレを取り出した。 ……何かの塗り薬のようだった。 綾香に向かって放り投げる。 ガッチリとそれをキャッチすると綾香は不思議そうに彼に聞いた。 「これ……何?」 かすかに鼻をツンとさせる匂いがした。 「薬草を練り合わせた軟膏です、止血効果は胴体が千切れても有効なシロモノですよ」 「へえ……」 感心したように手でその薬を弄ぶ。 「……どういうつもりだ?」 胸倉を掴んだまま、悠 朔が彼を睨み付ける。 彼……beakerは悠 朔の手をそっと振り解いた。 「……このままじゃあ、少々不公平かと思いまして。第一……」 ニヤリと笑った。 「綾香さんまで棄権したら大会が面白くならないですからね。主催者としての配慮ってやつです」 「……信じると思うか?」 「信じるも信じないも……もう塗っちゃってるみたいですけど」 beakerは綾香を指差した、確かに既に綾香は包帯を一旦解いて先ほどの軟膏を傷口に塗っていた。 「うう、染みるわね、コレ……」 「お、おい綾香……」 「大丈夫よ、そいつはbeakerなんだから」 綾香の言葉には言外に無音ではない、という意味も含まれていた。 「それでは決勝も……その次の試合も頑張って下さいね」 「あら、まるで決勝は絶対に勝てるみたいな言い方じゃない?」 綾香は片目でパチッとウィンクした。 「ええ、勝てますよ……だって……'俺'に勝った人間なんですから。勝ってくれないと困ります」 「大丈夫よ、任せなさいって。……薬、ありがと」 「いえいえ」 「beaker……正直言って俺にはお前が信じられない……それは事実だ」 悠 朔がそう言った。 beakerは微かに眉をひそめた……まだ少し心が痛む。 「だが……薬に関しては礼を言っておく。……ありがとう」 「……はい、それでは……」 と、beakerは控え室のドアのノブに手をかけ、動きを止めた。 振り返る。 「あの、松原さん……ちょっといいですか?」 「……え!? わ、私ですか!?」 突然声を掛けられて戸惑う葵。 「少しお話があるんですが……」 「葵、行ってらっしゃい」 綾香が言った、その言葉に戸惑いながらも頷く。 ・ ・ ・ 「あの、お話って……」 「……すいませんでした」 突然頭を下げるbeaker。 「え?」 「僕が無音だって事を黙っていたのと、その……」 そこまで言って言い澱む。 「あ、……あの、あれは、あの試合は私が弱かったからで……」 「いえ、僕はあの時……怖かったです」 「怖い?」 「はい、松原さんが怖かったんです……」 beakerはゆっくりと話を続けた。 葵が怖かった、だから葵が'全力にならない内に'、葵が'目覚めない内に'、 勝ちたかったのだと。 「松原さんには間違い無く才能があると思います。だから、その…… もう少し自信を持っても良いと……」 「あの……」 「何でしょうか?」 それまで話をじっと聞きつづけていた葵が初めて口を開いた。 「中国拳法……なんですけど……」 「はい……」 「私も中国拳法習っているんですけど、それでその……」 もじもじと指を弄くる。 「良かったら……教えていただけませんか?」 beakerは一瞬目をしばたいた。 やがて、その言葉の意味を飲み込み、 「……購買部が忙しいので……」 と言った。 「あ、そ、そうですよね。やっぱりbeakerセンパイは忙しいですよね」 肩を落とす葵。 「……忙しいのであまりつきっきりで教えるという訳にはいきませんが……」 「え?」 「それでよろしければ時々格闘部へ遊びに行きますよ」 「あ……は、はい! よろしくお願いします!」 今度は葵が頭を下げた。 「こちらこそよろしく」 beakerも頭を下げ、そして笑い合った。 「待ちなさーーーーい!!」 「そこまで怒ることないだろうがぁぁ!!」 沙留斗が保健室を駆け回って絶叫する。 既に残りの人間は頭に拳骨を食らって正座させられてたりする。 そんな中、ガラガラと保健室の扉が開いた。 しめたとばかりに沙留斗は扉から抜け出す。 好恵もそれを追おうと保健室の扉から飛び出した。 その瞬間、黒い影のようなものに突然抱きしめられる。 「……わっ、ちょ、ちょっと……」 「まあまあ、落ち着いて下さい」 beakerが彼女の背中に手を回して言った。 「あ、beaker……」 「まだ……言ってませんでしたね」 「……?」 beakerは彼女の耳元に口を近付けた。 そして、彼女にしか聞こえないようにそっと囁く。 「ただいま」 好恵は、クスリと笑った。 そして、こう答える。 「おかえりなさい」