グラップラーLメモ第四十話「Private Lesson」  投稿者:beaker


「ふあぁ〜あ」
実に退屈極まりないという様子で彼は大欠伸をした。
眠たげな眼を擦って、洗面所の水で顔を洗う。
とりあえず、眼は覚めた。
鏡に映ったヨレヨレの白衣が気になって手で伸ばしてみる。
……まあ、何とかそれなりにシャキッとしているようには見えるだろう。
だが、手を白衣から離すと……また元に戻ってしまう。
やれやれ、仕方がないか。
そんな事を呟くと彼は洗面所を去った。


NTTTはふらふらとおぼつかない足取りで闘技場へ向かった。
……知らない人間が観ればどう考えたって思い付かないだろう。
この男が今から「闘う」とは。



「……ん? ああ、こんにちわ」
片手を挙げて挨拶する、それすら面倒臭そうだ。
彼のそういう性格を知っている彼は苦笑する。
「……また飲んでるのか?」
初代beakerはポケットの微妙な膨らみに気付いてそれを指摘した。
「まあ、ほんの少しですよ」
そう言いながらも顔は微かに赤みを帯び始めていた。
やれやれ、と肩を竦めながら、
「そんな事であの嬢ちゃんに勝てるとは思えんがねぇ」
その時、キラリと眼鏡の奥の瞳が煌いた、ように初代beakerは見た。
「そうですかね? ……もし、酒を飲んだくらいで勝てないなら私はそれまでの男ですし。
第一……」
次に彼は不思議な事を言った。
「勝つだけが目的じゃあ、ありませんから」
「何?」
「それでは失礼!」


彼は驚くほど機敏な動きで初代beakerの横を通りすぎた。
無論、初代beakerにとってそれは驚くに値しない。
彼が本気になればこんなものだろう。
一つ引っかかる事と言えば……
「……勝たないだって?」
さすがに彼もその言葉の真意は掴み兼ねていた。


観客席から失笑が漏れた。
NTTTの歩き方があまりに滑稽だった為だ。
右足と右手が出る、そして次は左足と左手。
途中で気付いて直せば良いものを彼は闘技場を歩いて梓の眼の前に立つまで、
きっちりその歩き方で通してきた。
緊張しているにしても度が過ぎている。
「こりゃあ消化試合かな……」
そう思い込んだ観客の何人かは席を立ち始めていた。
「よお、綾香……こりゃあダメだな。決勝はお前と梓で決まりだろ」
悠 朔がそう声を掛けてきた。
綾香は柱にもたれかかって腕組みしながら、悪戯っぽく笑った。
「あら、本当にそう思う?」
「当たり前だろ、あんなに緊張していたら……」
「まあ観ていなさいよ、'色々'と面白いわよ、あの先生……」
そう言うと綾香の神経は今まさに試合が始まろうとしている闘技場に集中した。


「それでは柏木梓選手、NTTT選手、お互い一旦下がってください」
「あ、梓さん」
「?」
NTTTは振り返ろうとした梓を呼び止めた。
訝しげに彼を見つめる梓。
NTTTは右手を差し出した、そして微笑む。
「どうか、よろしくお願いします」
「……あ、はい。こちらこそ」
思わず恐縮しながらも握手を交す梓。
(何か調子狂うな〜)
梓はぽりぽりと頭をかきあげながら、そう思った。


とーるの手が真っ直ぐ天井へ向けて挙がった。
「始めっ!!!」


梓は構えながら慎重に前に詰める。
NTTTは左手を白衣のポケットに突っ込んだまま、ふらふらと歩み出す。
(一撃で決めるか……さもないと何か後味悪そうだもんね)
体格的にも別に普通の人間、筋骨隆々という訳でもない。
首筋に一撃を食らわせれば決まるだろう。


梓は自分の間合いにNTTTが入った瞬間、一気に距離を詰めた。
首筋に向かって手刀を放つ。
その瞬間、世界が逆さまになった。
「……え?」
視界がぐるんと回ったと思うと、床に寝転んでいた。
一瞬、我を見失う。
だがすぐに梓は立ち上がった、それと同時に蹴りを放つ。
前蹴りで鳩尾に狙いをつける。
だが、梓の蹴り足は空を切り、さらにその足をNTTTの手に無造作に掴まれた。
そのまま足を上げさせられる。
「……わっ!?」
さらに片方の軸足を蹴り飛ばされた。
当然、引力に従って一瞬宙空に浮いた梓の身体は床に叩き付けられていた。
「……ッ」
苦しさの余り息が零れる。
「……闇雲に攻撃しても良い事はないですよ」
NTTTの穏やかな声が梓に掛けられた。
その声は確かに穏やかだったが、どこかたしなめるような口調でもあり、
それが返って梓を苛立たせた。
立ち上がる。
「……試合中に敵にアドバイス……するなっ!」
駆け出す。
右のストレートをNTTTの顔面へ打ち込む、はずだった。
だが、驚いた事に彼は真っ直ぐに間合いを詰めた。
ギリギリでスッと身体を横に傾けて拳を避けるとそのまま梓の顎に左の掌を添える。
右手で彼女の左手を掴み、左足で彼女の左足を払う。
……また、床と後頭部が激突する羽目になった。
慌ててまた立ち上がるが、視界が突然歪み出す。
「くっ……」
「あまりすぐに立とうとすると立ち眩みが……遅かったか」
「梓せんぱーーーーい!!! どーしたんですかーーーー!?」
日吉かおりが叫んだ。
何故か隣にいる秋山登も
「あずさぁぁぁぁぁぁぁ!! いつもの俺に向けてくるあの鮮烈な一撃はどうしたぁぁぁぁ!?」
叫んでいた。
「外野うるさああああああああああい!!!」
思わず怒鳴り返す。
(他人事だと思ってぇ〜〜、この先生……結構強いんだってば)


「そんな事では……」
ぽつりとNTTTが梓にだけ聞こえるように声を潜めて言った。
「……何?」
「そんな事では……綾香さんに勝てませんよ」
そうキッパリと言い切った。
梓の頭の神経の何かが「プチ」と切れる音がした。
「うるさぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁいいいいいいいい!!!!!!」
一番言われたくない事を突かれた梓はめくらめっぽう、飛びかかった。


拳を上から下へ無造作に振り降ろす。
まるで猛獣のような一撃だった。
だが、NTTTは横へ移動すると、左足で彼女の振り降ろされた拳を踏んづけた。
そして右手で彼女の喉元目掛けて突きを放つ。
「くっ……!」
だが、喉へ一撃が当てられるか当てられないかギリギリのところで彼の突きはピタリと止まった。
手を踏んづけていた足も放し、背中を向いてひょこひょこと歩く。
「……?」
顔だけを振り向かせた。
「まだ時間はあります……これで終わりじゃあ呆気なさすぎます」
……信じられなかった。
いくら何でも目の前にあった勝利をあっさりと見逃すとは。
激昂する、が、同時に彼女は不思議な気分を味わっていた。
(次は……絶対に、次は当てる!)
妙な期待、とでも言うべき存在か。
「その余裕……後悔させてあげるわよっ!!」
拳を闇雲に振りまわしてはいけない。
叫びながらも今までの教訓から梓は慎重に間合いを詰めていた。
冷静になれ、猛獣が獲物を狩る時のように。
自分の見方が誤っていた事を認める、彼は強敵だと。
そして、次の決勝で綾香と闘う為にも、この闘いは絶対に勝つ。
慎重にフェイントを織り交ぜながら、牽制気味のパンチやキックを放つ。
だが、彼は見事に打ち込む打撃全てを捌いていった。
そればかりかちょっとでも気を抜くとすぐに何時の間にか床に叩き付けられていた。
……そんな事を何度繰り返しただろうか?


やがて、一人二人と闘いに慣れたSS使いたちが気付き始める。
観客にもそれが段々と分かり始めてきた。
梓の攻め込む時間が確実に長くなってきている。
時には投げられた瞬間に、床に手を置いて素早く切り返すような場面も出始めていた。

beakerはつぅっと汗を流した。
「やっぱり……あの人もそれ相応の化け物って事ですか……」
そんな事を呟いた。
傍にいた初代beakerも無言で頷く。
沙留斗だけが余り分かっていないような顔で二人の顔を交互に見比べた。
その視線に気付いたbeakerが
「沙留斗……どちらが勝つか分かりますか?」
と言った。
沙留斗は勿論、というような顔で。
「あの新しい保健の先生の……」
「NTTT、だ」
初代beakerが口を挟んだ。
「そう、NTTT先生が勝つと思いますけど……」


「……やっぱり、梓の勝ちね」
綾香がそう呟いた。
葵が不思議そうに、
「どうしてですか? NTTT先生は手加減してあんなに強いのに……」
「悠 朔、気付いた?」
「ああ、NTTTって先生よりも梓が攻め込む時間が長くなっている事は分かるが……
それだけで梓の勝ちと決める訳には……」
二人とも分かってないわねぇ、という様子で嘆息する。
「いい? NTTT先生が手加減している事は分かるわね。つまり、ほとんど練習組み手みたいに」
「ああ」
「はい」


「……梓さんにもそれは充分分かっているはずです。だからもしずっと全力で闘っているならば
梓さんが攻め込む時間が長くなったりする訳ないんですよ。全力ですからね」
「……」
「それにも関わらず、梓さんの攻め込む時間の方が次第次第に長くなっている……
NTTT先生がスタミナ切れみたいな様子もない。と言う事は……」


「つまり……」


「練習してるんですよ……梓さんも」
「練習してるのよ、梓も」


「「「!?」」」


「……ハァ、ハァ、ハァ……次もう一回」
「……」
NTTTは心の底から震撼した。
この世に生を受けて二十数年……これほど体力のある化け物は見た事がない。
しかも、一応の実戦でありながら急激な成長を見せる格闘家を。


NTTTはこうなれば遠慮はいらないな、とばかりに突きを放った。
予備動作が限りなく省略されたような素早い突き。
だが、梓の眼がカッと見開いて光を帯びたと思った瞬間、その突いた手は梓の手に掴まれていた。


「ぐっ!?」
「そおれっ!!!!!」
思い切り力を込めて、その手を振りまわされた。
彼の身体が床に半円を描いた瞬間、ぱっと手を放す。
そしてそのまま彼に真っ直ぐ突っ込む。
慌てて体勢を立て直そうとするが、足のバランスが崩れていたため、瞬間遅れる。
それが仇となった。
「たぁぁぁぁぁぁぁぁっぁ!!!!!!」
間に合わないと知ったNTTTは両腕を交差させてガードした。
梓は構わずその両腕に向かって速く、鋭く、重い拳を打ち込む。
「がっっ!!!」
NTTTは身体ごと吹き飛ばされた。


そして床に身体を叩き付けられる。
「……つぅぅ〜」
腰を擦りながら起き上がった。
「悪いけど……綾香と闘うのはこの私よ! この権利だけは絶対に譲れないわっ!!」
梓は拳を振り上げてそうNTTTに宣言した。
NTTTはため息をつきながら、初代beakerの方向を向いた。
「……?」
NTTTはやれやれ、という風に肩を竦めると左腕で右腕を押さえながら梓に真っ直ぐ迫っていった。
「!」
梓は拳を構える。
……が、NTTTは梓の横をそのまま通りすぎた。
通りすぎる瞬間、梓にだけ聞こえるようにそっと呟く。
「あなたと綾香さんの闘い……楽しく見物させてもらうことにしますよ」


「!?」
梓は慌てて振り返るが、NTTTは彼女を見る事なく、審判のとーるに向かって真っ直ぐ進んで行った。
「……ギブアップ」
とーるは頷くと、志保に合図を送った。
「梓せんぱああああああああああああああああああぃぃぃぃぃ!」
「梓ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
かおりと秋山の二人が駆け寄って来た。


「痛ッ……」
NTTTは観客の視線から逃れられる場所まで辿り付いた途端、
ようやく先程から這いずり出ようとしていた言葉を吐き出した。
「折れてるようだな」
初代beakerが声を掛けてきた。
苦笑しながら、
「ええ、まあこのとうりです」
右腕を差し出す、蒼黒い痣ができていた。
「お前さんもお人良しだなぁ」
「何がです?」
トボけた顔をして聞き返すNTTT。
「少しでも試合を引き伸ばして綾香の体力回復を待っていたんじゃろーが」
私の目はごまかせん、とばかりにニヤニヤと笑いながら言った。
「……まあ、お互い全力で闘って欲しいですからねぇ。綾香さんにだけアレを教えて梓さんに
教えていないというのもちょっと不公平ですし」
「ま、私たちロートルは次の世代の人間の闘いを見守る事にしようや」
「ロートルって……まだまだ私は現役ですよ」
そう反論しながら、NTTTと初代beakerは肩を並べて廊下の奥へ消えていった。


「やっぱり、梓かぁ……」
綾香は視線を秋山登やかおりに囲まれている梓へ送った。
その視線に気付いた梓も綾香を見つめる。
二人して、微かに笑い合った。
志保のアナウンスが高らかに響く。


『従いましてっ! 素手部門決勝戦は柏木梓選手vs来栖川綾香選手に決定いたしましたっ!』





NTTT・・・準決勝途中出場、敗退
柏木梓・・・決勝進出!