シネマLメモ「フェイス/オフ」後編 投稿者:beaker
胸がむかつき、胃の中の不味い飯が逆流しそうになった。
両足はガクガク震え、足を支える拘束靴がなければ崩れ落ちるところだった。
目の前にいるのは、
彼を好奇心と嗜虐心の入り混じった眼で見つめているのは、
他ならぬ彼自身だ、
つまりここにはいないはずの自分だった。
その’自分’は新聞を持ってクスクスと笑いながら目の前に立った。
ここまで来てようやくOLHは腹の底から何とか言葉を搾り出すことが出来た。
「b……beaker………か?」
その男はさらに堪えきれないように笑い出した。
「実にイカしているぜ色男!!」
からかうように口笛を吹く。
「そんな………まさか…………どうして…………」
「あの医師達は実に優秀だよ、OLH。保管されていたお前の顔も
俺に移植する事が出来たんだからな、ただ惜しいことに――」
「……………………」
「手術代が足りなかったんだ。だから俺は俺なりにケジメをつけたよ、
こういう具合にな!」
そう言って彼は新聞の一面記事を見せた。
火災記事と殺人事件の記事だ。
火災現場は彼が手術を受けた場所、そして殺人事件はこの火災現場から
ガソリンをかけられて燃やされた数人の男女が見つかったと言うものだ。
すでに新聞には判明した何人かの被害者の顔写真があった。
そこには彼の見知った顔と、親友がいた。
「ああ、そんな…………榊が、…………」
新聞の写真はまぎれもなくOLHの親友であり、頼もしい相棒でもあった榊宗一
そして隣の写真は広瀬ゆかりだった。
「彼に君のことを任されたよ、これを受け取ってくれと言われてな」
OLHはbeakerに左手薬指にはめられた結婚指輪を見せつけられた。
もちろんこれはOLHが手術前、榊に預けておいたものだ。
と言うことはつまり――
もはや嗚咽するしかOLHには手が無かった。
「さて、俺はこれから来栖川警備保障に出社だ、それから爆弾を解除して
一躍ヒーローになる。そしてその後は――」
「……………………」
beakerはOLHに最後の爆弾を落とした。
「お前さんの恋女房と寝る」
「!!」
「おっと、失礼。下品だった、そうそう、『愛を交わす』でいいのかな?
では、ごきげんよう」
最後の爆弾はOLHの理性を失わせるには十分だった。
我知らずbeakerの首を引っつかみ、このままへし折ろうと力を込める。
だが、後十秒締め上げれば殺せるところをたちまち反省房の警備員に
邪魔され、スタンガンによって意識を昏倒させられた。
「申し訳ありません!」
警備員の長がbeakerに頭を下げる。
実に彼には心地よかった。
「いいんだ、彼は不幸な少年時代を送っていてね、それが原因さ」
そう言い残して彼はこれから永遠に入ることの無い反省房を後にした。


「違う!! 違うんだ!! 奴はOLHなんかじゃない!! OLHじゃないんだ!」
そうわめき散らすOLHを警備員達は独房に放りこんだ。
しばらくドンドンと扉を叩いていたOLHもやがて落ち着きを取り戻し、
ゆっくりとベッドに腰を下ろした。
両手で頭を抱えうずくまる。
「くそっ…………どうすればいいんだ……?」
OLHは深呼吸をして、落ち着きを取り戻そうとした。
冷静に自分の状態を判断してみる。
(この手術は上には通していないと言った)

(と言うことはへーのきや、他の同僚も知らないって事だ)

(一方あいつは俺の顔を被り、爆弾を解除するつもりらしい)

(警備保障の中枢に最も危険なテロリストが居座るって事だ、くそっ、最悪だ)

(そして…………あの野郎、勇希を抱くと言いやがった)
考えるだけで、血が沸騰するように沸き立つ。
壁に拳を叩きつけた。
ガン! ガン! ガン!
手の皮が破れて血が滲み始める。
OLHは痛みで何とか冷静な意識を取り戻した。
(そう、まずはここから脱出だ。脱出してから何とか勇希と連絡を取ってみよう)
考えてから備え付けの鏡を見た。
自分ではない奴の顔が写っている。
OLHは鏡に顔を背け、ベッドに横になった。
(嘆くな、嘆いても始まらん。脱出の方法を考えるんだ。
この拘束靴も絶対に脱がなきゃならん)
体中を包み始めた絶望感に必死に耐え、OLHはゆっくりと眠りについた。


「あー、彼の様子はどうだ?」
来栖川警備保障にやって来たbeakerはそう言ってビデオカメラに
映し出されている沙留斗を見据えた。
「サンドイッチとピザがお好みのようで」
部下の一人は肩を竦めた。
「気にするな、それぐらい食わせてやれ」
「榊の件は本当にお気の毒でした」
もう一人の部下――どうも秘書らしいが、彼女が沈痛そうな表情で言った。
「運が悪かっただけさ」
beakerは表情をほとんど変えずにそう言いきった。
思わず二人は顔を見合わせた。
(この冷血男と来たら友人が死んだってのに顔色一つ変えないのか?)
これはますます早めに退職するべきだと秘書が決意を固めたとき、
ドアを乱暴に開けてずかずかとへーのき=つかさが入ってきた。
「OLH、話がある」
厳しい表情だった。
「君は沙留斗に司法取引を申し出たそうだな、爆弾のありかを教えれば
釈放すると」
「ええ、そうですよ。それが何か?」
へーのきは首を振った。
「何かじゃない、君がそんな事をするなんて初めてだろう?
しかもよりによって奴の弟だ、本当にそれでいいのか?」
「時には攻撃方法を変えるのも当然です。爆弾を解除するためなんだから」
へーのきはまじまじと彼の顔を見つめ、ぱくぱくと何か言いたそうに
口を開けたが、言葉にはならなかった。
結局「好きにしろ」、そう言ってへーのきは部屋を出た。
ついでに部下や秘書も全部部屋から出て行かせる。
beakerはビデオカメラを停止し、沙留斗を確保している部屋に入った。
もぐもぐと口を動かしていた沙留斗も残りのピザのピースを飲み込むと、
自分の兄に向かって笑いかけた。
「ピザでも食うかい? 兄貴」
「貴様の残りなんぞ、誰が食うか。さて、これからの予定なんだが――」
そこまで言ってbeakerは沙留斗がこちらを奇妙に見つめていることに気づいた。
「あんたの顔を見ていると奇妙過ぎて反吐が出そうだよ」
そう言う。
beakerはこれ以上無いというぐらいに嘆きのポーズを取ってみせる。
「俺だって嫌だ、この間抜けなあご、口、鼻、眼――鏡を見るたび
ぶち破りたくなってくる」
沙留斗は愉快そうに笑った。
「いや、最初は信じられなかったがまさしくあんたは俺の兄貴だ。
反省房から出すと聞いたときはあんたが神様のように思えたよ」
「そう思うなら少しは有難く俺を敬え」
beakerは机に腰を降ろした。
「で、これからどうするんだい? 爆弾がぶっ飛ばされない内に脱出?」
「いや、俺は爆弾を解除する。そしてヒーローになる」
沙留斗は信じがたいものでも見る顔つきになった。
「兄貴、顔を剥がされたついでに脳まで手術されたのかい?」
「馬鹿、いいか、考えてもみろ。俺がこの警備保障の中枢になるチャンス
なんだぞ。爆弾を解除し、ヒーローになれば長官の地位だって夢じゃない、
そうすれば――」
ニヤリとbeakerは口を歪めた。
「この学園は俺の思いのままだ、ライバルは逮捕すればいい。
この学園を俺達がコントロール出来るんだぜ?」
「あんたはやっぱり俺の兄貴だよ」
「そうだ、まずは爆弾を解除。そして俺達と敵対していた馬鹿な邪魔者を
合法的に始末する」
そう言って二人は笑い転げた。
「最高だ!! これこそ人生だ!!」


こうして翌日の新聞・TVは爆弾解除事件一色となった。
来栖川警備保障のOLHが国際テロリストbeakerによって
仕掛けられた爆弾を解除――
カメラのフラッシュがたかれ、マイクが向けられる中、
beakerはOLHだけに分かるメッセージを送った。
「悪いな、今回のゲームも俺の勝ちだ」
OLHは反省房のTVに映し出された彼――自分の顔をしたbeakerを見て、
我知らず拳を握り締めていた。


一方勇希もその顛末を病院のTVで見ていた。
びっくりするほど明るく笑う自分の夫の姿に、少し戸惑う。
だがこれは任務を達成した高揚感であろうととりあえず思うことにした。
それにしても、
(彼ってあんなに下品な言葉使いだったかしら?)
それだけは心の中で引っかかっていた。


夕食頃ようやく勤務から解放された勇希はため息をついて家の扉を開ける。
おそらくOLHは帰ってきているまい。
今日は何か色々とあったみたいだし、事後処理に追われているだろう。
こんなことくらい部下に任せればいいのだが、それを許さない所がOLHであった。
だが……
キイッと音を立ててドアを開けた途端、勇希は一瞬家を間違えたのかと錯覚した。
あちこちにキャンドルが立てられ、テーブルは豪華な食事で埋まっている。
唖然としながら周りを見渡そうとする。
と、その瞬間勇希は自分の体がぎゅっと抱きしめられるのを感じた。
「きゃっ」
軽く悲鳴を上げて抱きしめた人を見る。
自分の夫だった。
「これは……何? あなた……?」
「軽くお祝いでもしようと思ってね、ハニー」
これまで一度も呼ばれたことのない名だった。
「ハニーですって? ちょっとあなた、一体な……」
何か言おうとした勇希の唇をbeakerは強引に塞いだ。
戸惑っていた勇希もうっとりとして目を閉じる。
だが、はっとなってbeakerを突き飛ばした。
「この間の罪滅ぼしって訳?」
勤めて冷たい声で対応する。
だが、心の中ではこういうロマンチックな状況を作ったOLHに
感謝せずにはいられなかったのだが。
「あ、その、だな……いや、そういう訳では無いんだ」
少し苦笑してごまかそうとする。
実際には’この間のこと’が何か分からなかったのだが。
「まあ、いいじゃないか。座ってくれ、こんな日は久しぶりだろう?」
知らず知らず勇希は彼のペースに飲まれていた。
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beakerは巧みに会話を誘導させ、
ディナーが終わる頃には勇希は陶然としていた。
まるで夢の世界にいるようだ、と勇希は思った。
これまでのOLHとはまるで違う、
やはり彼――beakerを逮捕する事が出来たのが大きいのだろう。
勇希は神に彼が永久に自分達に関わらなくなったのを感謝した。
「君の魅力は全然衰えていない――結婚当時のままだ」
ディナーも終わり、居間で曲に乗ってダンスをしながらbeakerは言った。
勇希は頬を染めたが、ふとある事を思い出して目を背けた。
「その割には――ちっとも、私を抱いてくれないのね?」
寂しそうに呟く。
そんな勇希をbeakerは抱きしめて耳元で囁いた。
「今夜は君にとって生まれて初めての経験となると思うよ」
かあっと勇希は頬を染める。
そんな勇希を抱きしめながらbeakerはニヤリと笑い、
今、この場にいないOLHに自分の台詞を聞かせてやりたいと思った。


翌日OLHは一晩かけて練った脱出計画を実行に移し始めた。
「煙草を貸してくれ」
いきなり看守に話し掛ける。
看守はあっけに取られた。
「何だって?」
「煙草をよこせと言ったんだ、耳の穴は掃除してるのか?」
今度は看守にも理解出来た。
警棒で彼の腹を小突く。
「列に戻れ、さっさと戻らないと独房行きだ」
「そうもいかん」
そう言って彼は思い切り看守をぶん殴った。
体をくの字に曲げて崩れ落ちる。
その隙に彼は煙草を一本失敬した。
たちまちのうちに警報が鳴って数人の看守が取り囲む。
警棒でさんざん痛めつけられるOLHだが、決して煙草を手放そうとしなかった。
「電気ショックを与えて大人しくさせる! 医務室に連れて行け!!」
看守長がそう言うと数人の看守が無理やり彼を引きずっていった。
OLHは煙草を咥えておく。
やがて医務室の電気ショック用の機械に座らされる。
「おやおや有名人のご登場か、だがこれにかかれば――」
医師が嬉しそうに言った。
「借りてきた猫のように大人しくなるさ」
そう言って彼の両足の拘束靴を外す鍵を持ってくる。
その間にOLHは看守に煙草を吸わせてくれと頼んだ。
看守はニヤリと笑いながらささやかな代償として火を与えた。
ふうーーっと吸って息をつく。
そして医師が彼の拘束靴を外した途端、彼は跪いている医師の顔面を蹴り飛ばした。
続いて慌てて駆け寄った看守に煙草を押し付ける。
熱さと激痛に絶叫する看守。
もがき苦しんでいる看守を黙らせると拳銃とショットガンを奪う。
たちまち騒ぎを聞きつけて二人の看守がこちらに発砲してきた。
OLHはとっさに側の棚に置いてあった硫酸の瓶を投げつけた。
落ちる前にそれを銃で撃つ。
悲鳴を上げて二人は階段から転げ落ちた。
素早く彼はその階段を登り始める。
そして全ての拘束靴を電子的にコントロールしている部屋へ押し入り、
全てのシステムに強烈な負荷をかけ、電子ロックされた扉を開かせた。
「よし、大パニックになっている今なら何とかなるはずだ!」
そう思い、何階もの階段を懸命に登り始める。
ドアに辿り着いた時、彼は開くことを神に祈りながらボタンを押す。
だがブーッという音だけで扉は開かれようとしなかった、ランプは赤のままだ。
絶望感に囚われる――が、側にあった指紋判別装置を見て
とっさに思いついた。
(この間奴はここに来たじゃないか!!)
たちまちのうちに自分の本来の指紋を包んでいる人工皮を剥ぎ取る。
激痛がしたが苦にはならなかった。
そしてその装置で自分の指紋を試してみる。
少し待った後、ピーッという音と共にランプが緑に変わる。
恐る恐るボタンを押すと眩しい光が彼の目を射す。
こうして彼はこれまでの人生ではまったくありがたみを感じていなかった
’自由’を手に入れていた。


プルルルルル…………
うっとうしそうにその電話を取ったbeakerは跳ね起きた。
「何だと!?」
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「脱出したのならここへは戻ってこないのでは?」
すぐに警備保障に飛び込んできたbeakerに部下の一人が言った。
beakerはじろりと睨むと、
「俺を信じろ。奴は必ずここに来る」
そう言ってドアを叩きつけた。


「何だと!? beakerが脱走しただって!?」
携帯を持ったままYOSSYFLAMEががなりたてた。
「ああ、それは分かった。で? 他には?」
「まだ馬鹿どもにヤクを売っているのか? YOSSY?」
背後から突然男の声がした。
咄嗟に脇から銃を引き抜く。
そこにはボロボロの服を身にまとった男がいた。
破顔一笑するYOSSYFLAME。
「よお、beaker!! 生きていたのか、このダニめ!」
「生憎とまだ死ぬに死にきれない事情があってな」
ニヤリと笑うOLH。
何回も鏡の前で苦痛に耐えながら練習してきた笑い方だ、淀みは無かった。
驚くほどタフなbeakerにYOSSYFLAMEは感嘆を覚えていた。
もっとも彼の事情を省みすれば当然の事であったのだが。


YOSSYFLAMEは車で自分の家へと彼を連れていった。
ちょうど今日は彼の友人――つまりbeakerの部下やその女達がパーティを開いて
いる頃だった。
OLHは内心震えながら彼らと対面した。
様々な連中がこちらの様子を窺いながら握手を求めてくる。
あくまで自分をbeakerだと見せつけることが大事だ。
そう、こいつらは俺の部下だ。
beakerが部下に下手に出ることなどありえない。
そう言い聞かせながらOLHはなるべく威張りくさった態度で彼らに笑顔と
握手をした。
ソファーにどっかと座り込んだOLHに、YOSSYFLAMEが
小さ目のアタッシュケースを持ってくる。
蓋を開けるとそこには……

(奴の銃か)
コルトガバメントV−10フルサイズゴールドモデル――
beakerはホルスターを背中に引っ掛け、これを常に二挺持っていた。
グリップにはドラゴンとグリフォンの彫り物がされてある。
豪華な銃だった。
OLHはそれを両方持って感触を確かめた。
不思議な因縁だとOLHはふと思う。
自分であった時はあれほど忌み嫌い、何人もの部下、友人達の命を屠ってきた
この銃をこうして自分が使う事になるとは。


続いてYOSSYFLAMEが持ってきたものは問題だった。
(ヤクか)
beakerならともかくOLHは麻薬の経験など一つも無い。
気を持って行動することだ、と自分に言い聞かせながら
麻薬を溶かした水の入っているコップを上に掲げ、
YOSSYFLAMEと実に楽しそうにぶつけ合う。
一気に飲んだ。
一瞬OLHは自分の目の前の景色が吹っ飛ぶような感覚に襲われた。
強烈だった。
目がトロンとしてくる。
眠いのだか頭が冴えているのだが分からなくなってきた。
YOSSYFLAMEが何か喋りかけてきた。
必死になって何を言っているのか読み取ろうとする。
「………で、OLHを殺すのかい?」
そうだ…………奴を殺さなければ…………違う、違うんだ。
舌も痺れ始めたが構わずOLHは喋りつづける。
「ちょっとした……手術をするのさ…………」
「手術?」
「そうだ、まずは奴の喉を潰して黙らせる……そして…奴の顔を……剥ぐ」
「顔を剥ぐ(フェイスオフ)?」
「そうだ…………フェイス、オフだ」
そう言ってOLHは顔に手をやってから剥ぐ仕草をした。
沈黙の中、やがてYOSSYFLAMEがぽつりと言った。
「…………何て惨い男なんだ」
そう言った後、ニヤリと笑う。
部下達も大声を上げて笑い出した。
OLHも最大限の精神力を発揮して、思いきり笑い転げる。
何とか、上手く乗り切った。
そう思ったOLHはYOSSYFLAMEにベッドで寝たいと言って、
部屋を提供してもらった。
よろよろと部屋に辿り着いたOLHは洗面台で水を必死に飲む。
喉がカラカラだった。
飲んでも飲んでも足りないくらいだった。
そして洗面台の鏡をふと見る。
思わず反射的に銃を引き抜くがすぐに今の自分の顔だと分かってホッとする。
だんだん、鏡の顔が二重、三重に見えてきた。
「俺は…………beaker? OLH? どっちだ?」
「どっちでもないさ」
鏡の男が答えた。
「beaker……OLH……beaker、いや俺はOLH……OLH……」
ぐるぐると回る世界に突如孤独感が襲ってきた。
懸命に勇希の顔を思い出そうとする。
狂った世界の中で
唯一マトモな存在の彼女が彼の頭に理性を取り戻させる。
疲れ切った体を引きずってベッドに倒れこもうとしたその時、
「beaker?」
控えめな声が彼の背後に聞こえてきた。
ふっと後ろを振り返る。
坂下好恵だった。
「そうだ、俺だよ」
目を引ん剥いた顔でOLHは答えた。
と、その瞬間彼女の拳が彼の頬を思い切り殴り付けていた。
どさっという音を立ててOLHはベッドに倒れこんだ。
・
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・
・
首筋に息を吹きかけられたような気がした。
背中に人間の重みを感じた。
とっさに枕元にあった銃を引き抜くと、その人間に突きつける。
「ちょっと!! 私よ、私だってば!!」
慌てて叫ぶのは坂下好恵であった。
「さ…………いや好恵…………」
銃を降ろす。
ほっと一息ついた坂下好恵だがすぐにbeakerをキッと睨みつけた。
「すぐにここから出ていって」
そう言った。
「…………なぜだ?」
「あの娘の為よ」
彼女はたたたと駆け寄ってきた娘を抱き寄せた。
「その娘は…………」
「名前はティーナ」
髪型こそ違うがその娘はまさしく笛音そのものだった。
OLHは一瞬幻覚かと思い込んだくらいだ。
「このひとは?」
舌っ足らずな声でティーナは自分の母親に向かって言う。
「さ、ご挨拶なさい」
ティーナはOLHに駆け寄るとぺこんとお辞儀をした。
OLHは思わず膝を突いてしゃがみこんだ。
「てぃーなです、はじめまして」
「……やあ、はじめましてティーナ。……beakerだ」
そう言ってOLHはティーナの顔を触った。
手のひらで額から顎へと撫でる様にそっと。
ティーナはくすぐったそうにして彼に抱き着いた。
好恵は何か不思議なような嬉しいような表情でこちらを見つめている。
ややあって決心したようにこちらを見つめて言った。
「ティーナは……あなたの娘よ、beaker」


<続く>

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