Lメモ異録「偽書・ある一つの終末へと至る道程」第一話 投稿者:雪乃智波
--3/21-- One day, at Leaf High-school.
 生とはつまり苦痛である。
 唯一の幸せとは、その先にある。
 つまり完全なる消滅。
 死を超えた、消滅だけだ…。

           図書館にて禁書指定された名も無き一冊の古い本より

















”ねえ。この世界は嫌い…?”
 僕の耳元にその声はこだまする。
 古く、聞き覚えのある懐かしい声で…。
 知っていたはずの声はもっと幼くて、小さな声だったのに、聞こえてくるの
は[彼女がもし生きていたらこんな声をしていただろう]という僕の想像にぴっ
たりと当てはまった、そんな声だった。
”辛いでしょう? 生きているのは…”
 彼女の声はいつもそう語りかけてくる。
 物静かな口調で…。
 憂いを秘めた響き…。
「そんなことない……」
 そう心の中で言ってみても、僕は彼女の言い分を何処か認めている。
 それは日常を過ごしているときには忘れてしまう感情…。
 恐怖…。
 もう辛い目には合いたくないという気持ち…。
 それならば生きなければ良い…。
”だからみんな壊せば良いのよ”
 彼女は僕の耳元にそう囁きかける。甘い声が耳をくすぐる。
 あの日々のように。優しく…。
”すべて無くなれば、苦しい事なんて無いのよ”
 生きている限り、苦しい事はたくさんある…。嫌な事もたくさんあるだろう。
”私に任せておけば大丈夫よ”
 彼女はそう言って僕にそっと寄りかかる。あの日々のように、優しく、静か
に…。
”お兄ちゃん、もうすぐ全てが終わるよ”


















 ふざけるな!
 俺達だって生きてるんだっ!

              図書館の壁に刻まれたどうでも良い落書きより











      Lメモ異録

                   偽書・ある一つの終末へと至る道程





















 死に行くものが汝の前にいる。どうして汝に彼の者が死に行くと分かるだろ
うか?
 何人も、汝すら、日々、死に歩み寄っているというのに…。

                  「ある一つの終末へと至る道程」より


 きーん、こ…
「鬼畜ストライク!!」
 どっごぉぉぉぉぉぉぉっっっんっ!!!!

 今日もまた四時間目のチャイムは最後まで聞こえなかった。
 今日の先陣を切ったのは風見君、隣の席の美加香ちゃんの襟首をチャイムが
鳴ると同時に掴み、教室の後ろのドア目掛けて投げ飛ばしたのだ。何故か美加
香ちゃんはその進行方向にあった生徒や、机や、椅子を吹き飛ばすと、一番最
後にドアにぶつかると同時に爆発した。
「みぎゃぁぁぁぁぁ〜〜ん!! なんだがいつもより力いっぱい投げられてま
すぅ!!」
 私の記憶が確かなら、美加香ちゃんはお弁当を(当然風見君の分も)作ってき
てたので風見君が昼食の争奪戦に参加する理由は無いと思うのだけれど、そこ
ら辺にはもしかすると深い事情があるのかもしれない。
 とにかくいつもより派手に広がった爆発が、潮が引くように収まると、後に
は一部の阿鼻叫喚の地獄と、これ幸いと教室の扉に殺到する窓側の生徒の狂乱
となった。
「ちょっと待たんかいぃぃっ! ひなたぁ! なんで僕まで巻き込まれなきゃ
いけないんだっ!」
 Hi−wait君がそんなことを叫びながら、瓦礫と化した机の下から起き
上がってくると、
「むぎゃっ!」
 風見君に踏まれてそのまま瓦礫に埋まった。さらにその上を他の生徒たちが
駆け抜けていく。
「美加香、行きますよっ! コロッケパンが僕を呼んでいます!」
 風見君がそんなことを叫びながら、気絶している美加香ちゃんの襟首を引っ
つかみ教室から飛び出そうとする。
 その瞬間、
「風見様、いけませんっ!」
 カキーンッ!
 そんな効果音を残して、風見君と美加香ちゃんはお空のお星様になった。電
芹ちゃんが電柱をバットのようにして、風見君を場外ホームランにしたのだ。
「如何に空腹であったとしても、食事のために他人を犠牲にするなど、許され
ない事です!」
 血痕のついた電柱を手に、電芹ちゃんは妙に強く語っている。
「うんうん、そーだよね。やっぱり暴力はいけないよね」
「はい。たける様にもしもの事があったらと考えると私は」
 どうでも良い事かもしれないけど、この二人ってすんごい天然だと思う。
「おーいっ! かおちゃん!」
 そんな教室の風景を何気なしに見ていると、ひづきちゃんが手を振りながら、
こっちにやってきた。途中で黒焦げになったゆき君を踏んでたような気もする
けど、本人は気にしてないらしい。
 隆雨ひづきちゃん。
 私と同じLeaf学園一年生、ってそんなことはクラスにいるんだから当然か。
 ポニーテールを三つ編みにした髪を揺らしながら、走ってくるんだけど、風
見君の鬼畜、なんだったけ? なんとかって技でぼろぼろになったクラスメイ
トを飛び石のように踏みつけてきてる…。
 確かに瓦礫の山みたいになってる教室の中をすばやく移動するには最適だっ
たかもしれないけど…。
「お昼、一緒に食べよ!」
 ばんっ! と、(最後に別のクラスにいるはずのTaSさんのアフロを踏み
つけて)私の机の前に着地したひづきちゃんはそう言って、微笑んだ。
「いいけど、教室はちょっとやだな。私」
 そう言って、教室を見回してみる。
 どんな状況だかはさっきの通りだ。衝撃の所為で埃が舞っているので、あん
まりご飯の食べるのには向いてない。
「そだね。じゃ、中庭で食べよ!」
「え? 中庭」
 返事をしながら、今日は来るときどんなだったかを思い出してみる。
 確かにそんなに肌寒くはなかった気がする。でも、決して春の陽気というほ
どでもなかった。
「いいから、いいから…」
 何が良いのか全然分からなかったけど、とりあえず私はひづきちゃんに言わ
れるままに席を立った。
「ねえ? ところで今日のお弁当は何が入ってるの?」
「う、んと、ミニハンバーグと…」
「あっ! それ頂戴!」
「ひづきちゃん、自分でお弁当作ってるんじゃなかったの?」
「そうなんだけどね。かおちゃんは料理うまくて良いなあ」

 私は南条薫。
 試立Leaf学園に通う、ごく普通の女の子だ。


「ところで、だ…」
 もしゃ、もしゃ…。
 ハイドラントは渋い茶を一口啜ると、それをまた盆に戻す。
 もしゃもしゃもしゃ…。
「なんでここにいる?」
「それは僕も聞きたいところだな。四時間目の授業が終了して、まだ30秒経っ
てないのに、どうしてこんなところにいるんだ?」
 もしゃもしゃ…。
「そーですよ! ……授業はちゃんと出ないといけませんっ! ん、んぐっ!」
 …………。
「人の部室の壁を破って床に突き刺さった挙げ句、茶菓子を勝手に食い荒らし、
あまつさえ喉につまらすなっ!」
「はい、お茶です。美加香」
 ごきゅごきゅ。
「ひなたさん、ありがとうございますぅ。危うく知らないおばあちゃんに呼ば
れて、川の向こうに渡ってしまうところでしたぁ」
「茶を一気飲みにするなぁぁぁぁぁぁっっ!」
「ははっ、茶室で大声を上げるほうが、マナーに反してるぞ。ハイド」
「おまえらわぁっ!」
 しかし、何を言っても無駄だと悟ったのか、ハイドラントは浮かしかけた腰
を戻し、また茶を啜る。
「やれやれ、貴様らを相手に腹を立てていては身がもたんな」
「あ、ひなたさん、こんなところに隠し扉が」
「どれどれ? ……「愛のポエム?」 ところでミラン・トラムって誰だ? 
ハイド」
「るっせぇぇぇっ! 人の部屋を勝手に荒らしてんじゃねぇぇぇっ!」
 何故か、必死の形相になりながら、ハイドラントがその声を媒体に熱衝撃波
をひなたに放つ。

 音声魔術…。
 それはこのLeaf学園では割と一般的な技能であり、それこそがLeaf学園が特
殊であることを示している。なぜならば、この技能を使える人間は、遺伝的に
限定されており、さらには並みならぬ訓練を積まなくてはそれを制御すること
はできないからだ。
 音声魔術がSS使いに広く普及する理由。
 それはおそらくSS使いの根本的な能力と、音声魔術によって為されること
が同一だからであろう。
 それはつまり世界を作りかえる能力…。
 ハイドラントの放出した構成は空間に彼の望んだ世界を描き出し、声と共に、
構成に満ちた魔力が元の世界を押しのけて、彼の構成を現実に作り替えた。

 空間の揺らぎとして見て取れるその熱衝撃波はすぐそばにいるひなたと美加
香に向けて肉薄し、
 耳鳴りのような大気の振動。そしてそれが集約するかと思うと、一気に全身
を震わす大気の蠕動に変わり、部室さえもぐらつかせる響きになり、
 熱衝撃波は、第二茶道部の屋根を吹き飛ばして、空に消えた。
 ぱらぱらと屋根の細かい残骸が降り落ちる中、むっとした熱気の中に、三人
は立っていた。誰一人として、地に伏せたり、血を流してはいない。
「あちちち…」
 ひどく長く思えた沈黙を最初にやぶったのはひなただった。
「だ、大丈夫ですか。ひなたさん」
「あーあ、制服がやぶれちゃったよ」
「そりゃ、そうですよ。熱衝撃波を手で弾き飛ばすなんて、普通はできないこ
とをやるからです」
 −−普通はできないことをやるからです。だって?
 ハイドラントは自分の驚きを必死に内に隠しながら、立ち尽くしていた。
 そんなことは最初っから最後までできるはずが無いのだ。
 いや、しかし…。
 そうとも言い切れないか…。
 そう、彼女なら或いは…。
「まあ良い。座って茶でも飲んでいけ」
「『君が野を駆けるとき、それは大空を舞う鳥のやうに軽やかで、なによりも
自由だ』」
「だから読み上げるなぁぁぁっ!」
 今度こそ、全力で放たれた攻城戦術級魔術が情け容赦なく、第二茶道部の部
室ごと、何もかもを吹き飛ばした。もちろん、愛のポエムも一緒に…。


 ずずんっ!

 その地を揺るがした衝撃は一瞬で止み、佐々木沙耶香はちょっと辺りを見回
してから、なにも起きてないのを確認して、少し首を傾げると、手に持った三
冊の分厚い本を持ち直して、目の前の建物に足を踏み入れた。
 その直後、ちょうどLeaf学園図書館の入り口辺りからは、校舎「アズエル」
の向こう、その上のほうに立ち上がる紅蓮の炎が見えた。

 Leaf学園図書館。
 それはこの世界における人類に残された数少ない秘境の一つ…と言っても誰
も否定しないだろう。
 世界のあらゆる知識を閉じ込めたとさえ言われるその図書館には、書かれな
かった書籍まで存在しているという。
 その図書館の中でも、一般生徒に許可された範囲では、奥のほうにオカルト
関係の書籍が集まった一角がある。
 来栖川芹香嬢のために作られた一角である。
 沙耶香はちょっとした用事のためにそこに向かっていた。芹香に頼まれた、
秘薬の原料となる薬草がどこに生息していたかを、つい忘れてしまったのだ。
「でも、どうしてあんな魔術の準備をしているんでしょう?」
 ふと、一人呟く。
 芹香が魔術の実験をするのはいつものことだ。
 大掛かりな仕掛けを用い、そしてよく失敗もする。
 でもここまで大きな仕掛けを用意しているのを沙耶香は見たことが無かった。
 以前に、一度だけこのクラスの魔術を使ったことがあるらしいが、その時の
記録はすべて一般生徒には明らかにされていない。
 いわゆる「SGY大戦」と一般的に呼称される事件でのことだ。
 その際での犠牲はLeaf学園での歴史を揺るがすほどだったという。
 それと同じことがまた起きようとしている?
 沙耶香はそんなことを考えて苦笑した。
 どうも自分は心配性過ぎる、と、思ったのだ。
 −−あれ?
 ふと、沙耶香は目の前の光景に違和感を持った。
「智波…さん?」
 雪智波がそこにいた。
 普段はオカルト研究会にも滅多に顔を出さぬ智波が、である。
「あ、沙耶香さん…」
 智波は少し決まりが悪そうに、開けていた本をさっと本棚に戻した。
 −−あそこは、確か呪術とかの本が集まっていたところだと思うけれど…。
 沙耶香はそう思ったが、口にはしない。
「そういえば、智波さん、知っています? 芹香さんがなにか魔術の実験をな
さるそうですよ?」
「あ、そうなんだ。何時くらいに始まるのかな?」
「それが、ちょっと準備に手間がかかってるんです。今も、必要な薬草の生息
地を調べに来たところです。きっと今週中にはなんとかなるんじゃないですか?」
「今週中、か…。手伝うよ。なんて薬草だい?」
「え、っと、芹香さんからメモを預かってきてるんです」
 そう言って、沙耶香は懐を探ろうとする。しかし、三冊の書籍を手に、それ
をするのは彼女にとって少々酷なことだったらしい。バランスを崩し、本を床
にばらまいてしまう。
「あ、ごめんなさい」
「あ、拾うよ」
 二人の声が重なって、二人は同時に同じ本に手を伸ばした。
 思わず本を引っ張りあうような形になって、二人は慌てて、手を放す。と、
当然重力に捕らわれたその本は、自然と床に再び落下した。
「あの、さ……」
 落ちた本を拾おうとはせずに、智波が小さく呟いた。
「沙耶香さん、死、ってどう思う?」
「死、ですか?」
 腰をかがめて、沙耶香が本を手に取り立ち上がる。
「そうですね。死とは失われることなのではないでしょうか?」
「失われる?」
「はい。魂とかの存在を私は否定しません。けれど、生きているあらゆる人に
とって『死』を迎えた人は失われてしまいますから…」
 少し寂しそうに沙耶香は言った。
 俯き加減のその表情に、つややかな黒い髪が一本ずつ流れる…。
「でも、死んだ人はどうなるんだろう?」
「そうですね。どうなるんでしょうか?」
「…………」
「…………」
「あ、沙耶香さん。薬草はいいの?」
「…そうでした。えっと、メモは」
「ほら、本を持っててあげるよ」
「すみません。ありがとうございます。えっと、ありました。これです」
 ぴらっ。と、沙耶香がめくったメモ帳には、ただ「草」と書かれていた…。
「…………」
「…………」
 重い沈黙が辺りを覆う。
「わ、私、芹香さんに聞き直してきます」
「じゃあ、俺は中庭で一眠りしてくるわ。手伝えなくてごめんな」
「はい、お気持ちだけで十分です。それでは」
 すたすたと、少し急ぎ足にその場を去る沙耶香を見送って、智波はふと、本
棚のほうに目を向けた。
 そして小さく呟く。
「そう言えば、俺を殺すのって誰なんだろう?」


「それで? 今度はなにが起こるというのです?」
 電球の代わりに蝋燭が照らす、薄暗い、というよりは完全に暗いその部屋の
中で、壁にもたれ、Runeは部屋の主を見つめた。
「…………」
「運命の掛け違い? どういうことです?」
 長い髪が、彼女が動くたびに艶やかに揺れる。それは蝋燭の光の揺らぎとあ
いまって、微妙な色彩の黒で、部屋の黒に馴染んでいる。
 やはりこの人は美しい。
 そう、Runeは思った。
「…………」
「ああ、その本なら読みましたよ。世界には決して必然とは思えない偶然がた
くさんあるって奴ですね。その偶然は、さらなる偶然によって必然に見える。
これを人は運命と呼ぶ」
 ふと、芹香がそれまでずっと地面に何かを書いていた手を止め、Runeを見上
げた。
「…………」
「時として、それさえも無視してしまう人がいる? 運命さえも?」
 芹香がこくりと肯いた。
「…………」
「本来なら起こるはずでなかった出来事が起ころうとしてる? まるでそれが
起こらないことこそ運命であったことを知っていたかのような口調ですね」
 芹香の目がじっとRuneのそれを見詰めた。
「…………」
 やがて、先に目をそらしたのは芹香のほうだった。
「そう言えば、あなたの飼い猫ですがね」
「…………」
「…知っていましたか…」
「…………」
「なるほど…。確かに死期を迎えた猫はどこかに行ってしまうものだと聞いた
ことがありますよ」
 そして、Runeは再び、芹香の目を覗き込んだ。
「ところで、自分の生徒のことはご存知ですよね?」
「…………」
「そうです。その智波のことですよ。この巨大な魔術はまさかとは思いますが
…」
 Runeの言葉に芹香はゆっくりと首を横に振った。
「…………」
「彼女を止める気ですか? 止められると?」
 芹香はわずかに俯くと、手に持った杖をぎゅっと握り締めた。
「…………」
「…同感です。それでもしなきゃいけない時がある…。そしてその為に……」
 コクン。
 芹香は小さく肯いた。
 Runeは小さく首を振った。
「仕方ないですね。手伝いますよ」
 そう言ってRuneは部屋の片隅に行くと、床に何やらを書き始めた。

 二人は気づかなかった。
 部室の入り口の所で気配を消した沙耶香が全てを聞いていたことを…。
 ほんの偶然であった。
 立ち聞きするつもりなど無かった。
 それでも聞こえてしまったものはどうすればいいのだろう?
 知ってしまったことをどうすればいいのだろう?
 沙耶香は、芹香から預かったメモを手のひらで握り潰したことも気づかずに、
ゆっくりとその場を歩き去った。
 何処へ向かおうとか考えてなかった。
 ただ、逃げ出したかった…。


「ふ〜、お腹一杯だよ」
 空っぽになったお弁当箱を包みながら、ひづきちゃんが一息をついた。
「ひづきちゃん、良く食べるよね?」
「そっかな? 体動かしてるとお腹が減って仕方が無いんだよね」
「そっか、ひづきちゃんって格闘技をしてるんだっけ?」
「うん、そうだよ」
「どんな格闘技だっけ?」
「ん〜と、自己流だからなんて言えばいいのかな? ひづき流とか言っちゃっ
たりして」
「じゃあ誰からも習ってないんだ?」
「そうだよ、全部自分で勉強してやってるんだよっ」
「学業も同じくらい頑張ろうね」
「かおちゃん、ヒドイ…」
「そしたらそろそろ教室に戻ろうか?」
「うん。そだねっ! ……あああ〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!! あれはっ!」
 ひづきちゃんが突然大声を出して、飛び上がる。
 私はひづきちゃんの視線の先を追うまでもない。
「耕一先生っ!」
 ひづきちゃんが猛ダッシュで駆け出していくその先には、柏木千鶴先生と、
四季さんになにやら言い寄られているらしい柏木耕一先生の姿があった。
 先生も苦労してるよなあ。
 などと、妙にしみじみ思ってしまう。
 あそこにこれからひづきちゃんが加わってさらに凄い騒動になるのだろう。
 下手をすれば、この中庭一帯が戦場になりかねない。
 そうなったら困るので、私はひづきちゃんの分と、自分の分のお弁当箱を持っ
て、早々とその場を立ち去ることにした。
 とりあえず、まだ少し時間もあるし、教室よりも別のところに行こう。
 後から考えると、それは私のこれまでの人生でもっとも懸命な判断の一つだっ
たのかもしれない…。


「ふ〜〜〜〜」
 溜息はまだ夕方になっていない黄昏丘をそよぐ風にすらならなかった。
「どうして出番がこんなに少ないんだろうな。出たとしても、こんなのばっか
りだし……」
 佐々木沙留斗はそう呟いて、まだ真昼の空に向かって再び吐息を吐いた。
「姉のほうが出番多いんだもんなあ。姉が出てるときは出て来れないし……」
 膝を抱えるようにして座り、右手でぷちぷちと草を千切る。
 まだ日は黄昏てなかったが、彼は十二分に黄昏ていた。
「そもそも僕が出てきたのも、姉さんがいきなり逃げたからなんだよなあ」
 佐々木姉弟の事情は少し複雑である。
 そもそもこの世界には佐々木沙耶香と言う人物は存在しえなかった。しかし
セイベツハンテンベルツノガエルという蛙を沙留斗が、彼の兄分であるbeaker
によって、不慮の事故で飲み込まない限りは…。
 性別を一定時間毎に入れ替えてしまう能力のあったこの蛙により、沙留斗は
週におよそ、一日から三日、女の子。つまり佐々木沙耶香となってしまうので
ある。
 しかも彼らの精神は完全に別人のものであり、本来ならありえないそのよう
なことが何故起こったのかは、誰も知るところではない。
「あ〜〜あ、僕もちゃんとした出番が欲しいな」
 そう愚痴って、草の上に寝転がる。その時、雲一つ無い真昼の空に小さな染
みができた。
 刹那−−
 ぞくっ!!
 正常でない気配。
 沙留斗は飛び起きる。
 トレジャーハンターとしての、危険に対する神経がささくれ立っていた。
 −−まわりっ!?
「これはっ!?」
 沙留斗の周りで、今、異常な事態が進行していた。
 何も無かったはずの空間に染みができていくかと思うと、そこから異形な生
物が少しずつできあがっていくのである。
 それは黒い染みから、黒い獣へと変貌し始めた。
 強靭な筋肉に覆われた四肢、それは犬としか言いようがなかった。
 真っ黒い犬。
 そう表現するしかなかったにも関わらず、そいつの首は三叉に分かれていた。
「ケルベロス!?」
 魔術書によれば、地獄への門を守る番犬のはずである。
 地獄への不当な侵入者を排除するための生き物が、今現世にその姿を現そう
としているのだった。
 −−どうする!?
 逃げるか、戦うか。
 沙留斗は判断に迷う。
 たいていにおいて、この手の生き物の能力は文献において、間違って記述さ
れる。
 そう考えれば、一匹でも手間取ると思ったほうが良い。
『常に最悪のトラップが用意されていると思うこと』
 それがトレジャーハンターとしての、沙留斗の生存術であった。
 −−しかし
「なにがなんだか分からないけど、それが害を為すものならっ」
 沙留斗は懐から愛用のビームトンファーを手に取る。
「倒すっ!」
 沙留斗はまず自分から一番近くにいたケルベロスに切りかかる。
 高エネルギーの刃が生れ落ちたばかりのケルベロスの首を捕らえた。沙留斗
は腕の力で一気に二つの首を飛ばす!
「ぎしゃぁぁぁぁぁっ!」
 残った一つの首がとても生き物が放つ声とは思えないような絶叫を上げる。
 しかし、その声も一瞬で途絶えた。
 沙留斗が返す腕で、残った最後の首も切り落としたのだ。
 −−く、駄目か。
 沙留斗が周りを見回すと、今のわずかの間に無数の現出したケルベロスたち
に囲まれていた。
 一匹、一匹ならどうにかなるかもしれないが、これだけまとめて来られたら
終わりだ…。

 ひゅるぅぅぅぅぅぅぅぅっ!

 時として吹き抜ける風は、何かに踊らされ、不気味な音を上げるときがある。
 人の心身を凍りつかせるような、どこか寂しげで、しかし不気味な音。
 海の男たちを魅了したというセイレーンの歌声も、岩の隙間を吹き抜ける風
と波の音ではないか、と言う説もあるという。
 風を切る音とでも言えば良いのだろうか? 風だと思えばなんてことない音
だ。
 そもそも擬音が聞こえてしまって良いのかという疑念もあるだろうが…。

 セイレーンに魅了されたがごとく沙留斗は思わず空を仰いでいた。
 それは染みだった。
 さっきも見かけた。
 その染みが徐々に大きくなり、それが女の子だと分かるころには、その娘は
もう地面に激突するところだった。
 衝撃とは質量と速さの兼ね合いによって異なる。エネルギーについてなんて
中学で習う。
 人間大の質量が(この場合は人間そのものだが)引力による速度で地面に激突
した場合、どれほどの衝撃になるのか、沙留斗には想像だにできなかった。
 土煙が舞い上がり、沙留斗とケルベロスたちを覆い尽くした。
「ふ〜〜、ヒドイ目にあった」
 その声は唐突に聞こえる…。
 困惑、そして理解。
 生きていたのだ。落ちてきた少女は…。
「ぐぅるぅぅぅぅっ!!」
 ケルベロスたちの唸りが大きくなる。
 獲物、つまり沙留斗を引き千切る寸前で邪魔が入ったことに怒りを感じてい
るのかもしれない。

 土煙がゆっくりと晴れてきた。

 少女の姿が露になる…。

 −−唖然−−

 そこから現れた少女は、無防備にも両手を使って、ばさばさになった髪の毛
を、ポニーテールにまとめているところだった。
 無数のケルベロスたちの怒りの視線を無造作に受け止めて…。

「可哀想な子達…」

 −−え?

 沙留斗がその言葉を理解する前に、均衡は破られた。
 まるで意思の疎通を図っていたかのようにケルベロスたちが一斉に少女に飛
び掛ったのだ。
「しまったっ!」
 沙留斗は慌てて少女を助けようとビームトンファーを構え、ケルベロスたち
に挑みかかろうとした。
 そのとき…。

「生まれてきてしまったのね。この苦痛の満ちた世界に…。安楽の満ちた世界
から…」

 ケルベロスたちの騒ぐ音をすり抜けるかのようにその声は沙留斗の耳に届い
た。

「種に引かれたのね…。私の責任だわ。だから…」

 その音を沙留斗は聞いたことがあった。
 侵入者を石の壁でゆっくりと押しつぶすトラップにかかった生き物の肉が、
骨があげる悲鳴の音だ。
 耳を塞ぎたくなるような絶叫。意味のない叫び…。

「私の手で消してあげる…」

 次の瞬間、すべてのケルベロスが、まるで見えない手に押しつぶされたかの
ように消滅した。

 ぽんっ、ころころ……。

 元が何だったのかなど考えたくも無いような拳大の塊が地面をはねて転がり、
止まった…。

「あ、あ、あ、あ……」

 その感情を沙留斗は知っていた。
 知り尽くした感情だと思っていた。
 完全に制御しきっていると思っていた。

 思い込んでいた…。

「心配しなくていいわよ。貴方を今殺す必要は無いから…」

 彼女は天使を思わせるような笑顔で沙留斗に笑いかけた。

 それは恐怖…。

「あ、でも見られちゃったか」
 少女はやはり変わらない天使のような笑顔で沙留斗に笑いかける。
「種を回収するまでは誰にも見つかる気は無かったんだけどね」
 −−殺される?
 それはある種の確信ですらあった。
「た、種って?」
「そうね、種を狙ってまだまだ小さいのがたくさん現れそうね。万が一という
ことがあっては困るし、貴方にはちょっとお願いを聞いてもらおうかしら?」
「な、なにを?」
「エーデルハイド…、いいえ、今は雪智波って名乗ってたわね。この生徒を知っ
ているかしら?」
 当然知っていた。
 同じクラブの後輩だ。ただ、かなりの幽霊部員ではあったが…。
「彼を守って欲しいのよ。せめて今日が終わるまでは…」
「…どうして?」
 冷静を装うのは難しかった。
 全身は震えたがっていたし、足は今にも力を失いそうだった。
「理由は言わないわ。それにすぐに貴方はそれを疑問にも思わなくなるわよ」
 彼女はにっこりと笑うと、沙留斗の頬に手をかけた。
 沙留斗は決して背が高いほうではなかったが、それでも彼女はかなり上向き
にならなければ、そうすることができなかった。
 そして、そんな無理な体勢であるにも関わらず、沙留斗は動くことができな
かった。
「貴方は三十秒眠り、目覚めると何も覚えてないわ。私と会ったこと、ここで
あったこと、それでも彼を守らないといけないと思う。理由を疑問に思うこと
も無く。今夜十二時までよ」
 その声を聞いて、それを疑問に思う間も無く、沙留斗は意識を失っていた。

 意識を失った沙留斗のそばで、日陰は最後の身だしなみをもう一度確かめた。
「うん。これで良し、と」
 服の裾をぽんぽんとはたき、埃を飛ばす。
「まずはマスターを探さなくっちゃね」
 日陰が軽く地面を蹴ると、もうそこに彼女の姿は無かった…。

 日陰は気づかなかった…。
 彼女が消える時、沙留斗の体が女性のそれに変化し始めていたことに。
「…どう、いうこと?」
 沙耶香はゆっくりと体を起こした。
「芹香さんも、今の娘もいったい何を……」
 日陰の魔術は完璧ではなかった。いや、完璧でありすぎたのかもしれない。
沙留斗の記憶を奪うことには完全に成功していたものの、彼の肉体を共有する
沙耶香にまではその魔術は効果を表さなかった…。
「良く分からないけど…」
 −−彼女に命令されたからじゃなく−−私が智波さんを守らなきゃ…。


 校舎ってどうして入り口が一つしかないんだろう?
 ふと、疑問に思う。
 当然本当に入り口が一つしかないわけじゃない。非常口とかがたくさんある…。でも、普通に生徒が使う入り口は一つだけだ…。もちろんそれ以外の扉が閉ざ
されているということも、そこにしか靴が無いということもあるだろうけど。
 普段、そういう扉って内側からしか見ないのも不思議だ。
 いつも校舎の中から、あまり気にも留めずに非常口を目にしている。
 出口は知ってるのに、入り口は知らないのってヘンだ…。

 そういうわけで私はいわゆる裏口の扉を背に腰掛けていた。

 あまり手入れされてない地面から雑草が生えてきている…。
 そうか、もう春先なんだ…。
 なんだか不思議だ…。
 この場所からはあまり空が見えない…。
 …すぐそばに校舎があるから、空が半分隠れているんだ…。
 −−なんだか…、
「昼からの授業、出たくないって顔してるな」
「え?」
 私はびっくりして周りを見回す。
「や、南条さん」
 そこには少し苦笑気味の雪君が立っていた。
 クラスメイトだ…。
 あんまり目立たない人で、そういや教室でもあんまり目につくことが無い…。
「雪君…、どうしたの? いきなり」
「当たってたろ? 授業出たくないのって」
「いいじゃない。雪君だって出たくないときくらいあるでしょ?」
「まあね」
 そういや、雪君は時々さぼってたような気がする。
 あんまり気にしてなかったから、よくは覚えてないけれど。
「雪君はどうしてこんなところにいるの?」
「南条さんこそ…」
「私は……」
 私は非常口の話をしようとして、やっぱり止めることにした。
 こんなことを話しても笑われるだけだと思ったのだ。
「どうだって良いでしょ?」
「そうかもね。…俺は、出口の向こう側がどうなってるか、見てみたかったん
だ」
「え?」
 私と……同じ?
「普通誰も知らないよね。非常口の向こうがどうなってるのか、なんて。気に
もしてないと思う。普段開かれることの無い扉の向こうがどうなってるのか、
それが知りたくなったんだ」
「へ、ヘンなの」
「そうかもね…。まあ、確かに変だろうな」
 そう言って雪君は私の隣に座る。
 腕と腕が触れ合いそうな距離で、彼は私を見て、微笑んで、言った。

「でも変になるのも仕方ないのかもしれない。だって、俺はもうすぐ死ぬんだ
から…」


「一つだけ聞かせてもらえませんか? どうして貴方は智波を殺すんです? 
確かに智波の魔力は大きい、その上さらに増大する傾向がある。でも、これっ
ぽっちも制御できちゃいないんです。それがいったいなんの脅威になると?」
「…………」
「もう芽が出てる…? 花が咲いたら終わり…? 貴方はいったい何を話して
るんです?」
「…………」
「それは、智波が大木の芽だと、そう言うわけですか?」
「…………」
 Runeの問いに、芹香は肯くことも、答えることもせずに、ただ、魔術の準備
を淡々と進めていく。
「…………」
 Runeも諦めたのか、今度は床を掘り始めた…。


「マスター、みーつけたっ!」
 日陰は駈けずり回ってようやく見つけた彼女のマスターに飛びついた。
「…………」
「あれぇ? マスター?」
 日陰はつんつんとハイドラントのわき腹をつついてみる。
「犬神家の一族ゴッコ?」
「……違うわぁぁぁあああああああっ!」
 ハイドラントは器用にも、上半身が地面に埋まっていたにも関わらず、飛び
上がるとぜーぜーと息をついた。
「もう少しで窒息死するところだったぞ」
「ふつーはその前に打撲で死ぬと思うけど…」
「なにか言ったか?」
「ううんっ、なにもっ!」
 日陰はぶんぶんと首を振る。
「それより頭は痛くない? マスター」
「いや、大した事は無い。それよりお前が出てくるとは何かあったのか?」
「…石頭……」
「何か言ったのか?」
「…なんでもないの! それよりマスター、お願いがあるんだけど…」
「また、なにかしでかす気なんだな?」
 ハイドラントは呆れたような顔をして見せるが、日陰は彼の瞳こそがまるで
悪戯を思いついた子供のように輝き出したことに気づいていた。
「うん、ちょっと世界を滅ぼす下準備だよ」


「ちょ、ちょっとっ! 何を言ってるのっ!?」
 そう叫びつつも、どことなく私は雪君が言ってることが嘘で無いと気がつい
ていた。
 だって、そうでもなければ彼が私に言葉をかけるなんて思えないからだ…。
「どうも、今晩辺りに死ぬみたいなんだ、俺」
「な、なによそれっ! どうしてっ!」
 −−どうして、私にそれを話すの?
「初めから決まってたことなんだよ。俺の命は一年だって…」
「どういうこと? 雪君、私、全然雪君の言ってることが分からないよっ!」
 私は何時の間にか雪君の服の袖を強く掴んでいた。
「……冗談だよ…。ごめん…」
 雪君が後悔してる表情で顔を背けた。
「ウソっ! 私分かるもんっ! 雪君がさっき言ったこと全部本当なんでしょ
っ!?」
「南条さん……」
「やだよ、私。そんな見殺しになんてできないよっ! 絶対にヤダ!」
 私の手が雪君の腕を服越しに掴んでる。感情がどうしようもないほど高ぶっ
てる。でもどうしようもなかった。
「話してよ。全部、話して。私にならできる何かがあるかもしれない…」
 私はじっと雪君の目を覗き込んだ。
 緑色の瞳が私を見つめている…。
「…うん。だったら何から話そうか……」
 私が、映っていた…。


 人生においては実のところ選択肢など存在しない。
 過ぎ去った過去を見つめ、そんな方法もあったのか、と、気づく一本の道か、
 その時にできた最良の選択という定められた道だ。
 選択肢があったとして、最良のもの以外を選ぶものが何処にいるだろうか?

                  「ある一つの終末へと至る道程」より




 次回、Lメモ異録「偽書・ある一つの終末へと至る道程」第二話


 貴方のために何かをする人が、その何かに見合った見返りを求めるなら、そ
の人は信用できる。
 求めないなら、その人はすでに見返りを得ている。
 そのどちらでもない時は、その人は貴方の敵か、貴方を愛している。

                  「ある一つの終末へと至る道程」より

 私にできること、もう、なにもないのかな? 雪君…。
 なんでも、どんな事でも良いから…。

 良いんだ。
 俺はあの人に、同情してもらいたくて、生きてるわけじゃないんだから…。


−−−−アトガキとか言うもの−−−−

 やっと出来上がりました。
 第一話だけど。(^^;
 とにかく難産。
 初のまともなLメモ「偽書・ある一つの終末へと至る道程」第一話をお届け
します。本来なら二ヶ月ほど前に終わってるはずの話なのですが、お許しを。
 物語は三月下旬のある日となっております。

http://www6.big.or.jp/~tearoom/entrance/