いらだった面差しが、廊下の彼方を見遣り、此方を睨み、頭部の動きにあわせてツ インテールが宙を舞う。 メドゥーサもかくやという視線の先にさらされた生徒たちが、一瞬の凝固の後にそ そくさと今来た方角へ逃げ去っていく姿などは気にも留めた様子はなく、ぐるぐると 全周囲漏れなく見渡した少女は最後に、上方、天井をひとしきり眺めて、眼差しを眼 前の窓の向こう、裏山の裾に広がる裏庭へと戻した。 ようやく落ち着いたようにも見える、しかしそれでもただ立ち尽くしているのでは 気が休まらないらしく、思い出したように両の耳が動いているのは、サバンナの草食 獣のようにわずかでも集音性を高めようという儚い努力の現われなのだろう。 周囲には、彼女同様得物を手に立哨する姿に焦燥感を滲ませる、或いは朝方からの 重労働に、もはや疲労感もあらわな十数人の風紀委員。長いアズエルの廊下の一角に、 バリケードまで築いて警戒する彼らの布陣の中心に、『臨時反省房』とプレートを掲 げた教室があった。 風が、やや強かった。 いくら耳を澄ませても、飛び込んでくるのは今のうちにと下校を始めた生徒たちの 駆け足気味の靴音と、彼らの間で飛び交う興奮を隠さぬ大小の声音、それに勢いを増 した北風が力強くガラス窓を叩く音ばかり。 唐突にこの場の指揮官に任じられた少女は苛立たしげに、ブーツの踵をリノリウム の床へと強く打ち付けた。 「音がしなくなった!」 ただでさえ、目付きの悪さには定評のある眼光に一層凶悪な光を乗せて、ツインテ ールの少女が唸る。 「……よーやく、落ち着いたんですかね?」 少女の唸りはほとんど独り言のようなのだが、だからといって誰も反応しないと余 計に期限を悪くするんじゃないかと懸念したらしい。触らぬ神に祟りなしとばかり知 らん振りを決め込む面々の中、不幸にも一番彼女に近かった一人がおずおずと問いか けて―――ぎろりと怒りの篭った一瞥を受けるや、すごすごと背後へと引き下がった。 そのまま、手にしたAKライフルを抱きかかえるようにしていじけてしまった彼の 様子など、もはや少女……岡田の知ったことではない。予想だにしなかった展開のた めに、不幸にして妙に重要そうなポジションに据えられてしまった不満を満面に表し ながら、しかし彼女の思考は今自分たちが置かれた状況に関して(正確性は別として) 検討を重ねているさなかであった。 昨日朝、登校時に行った大規模強制連行の結果、指導部と敵対勢力―――反対派の 一般生徒を含む―――の関係は極端に悪化している。 こと反指導部の急先鋒となりつつあった巡回班は敵意を隠さず、まだ大規模な衝突 にこそ進んでいないものの、昨日から今朝に掛けて主に巡回班側のゲリラ的な襲撃の 形を取って発生する小規模な衝突は、もはや数え切れない数に達していた。 この混迷の一途をたどる情勢に裁定を下すべき監査部はといえば、この期に及んで 有効な手立てを打てていない。 もちろん、指導部の行為の正当性に対する審査を中心に、本格的な抗争勃発を避け るべく当事者間の対話を呼びかけるなど精力的に活動はしている。 ではその結果はといえば、現状が率直に彼らの努力に対して諸勢力が与えた見返り を指し示しているだろう。 当然のことともいえるが指導部はあらゆる協力を拒絶し、あらゆる指導に反発し、 あらゆる対話の呼びかけを完膚なきまでに黙殺した。 このような事態を想定して、他の諸勢力を取り込む形で成立したはずの監査部だっ たが、その神通力は最初から効力を失ってしまっている。 監査部にメンバーを送り込む組織の一つである巡回班が、先述のとおり指導部の非 道に憤って完全に監査部の手綱を振り切ってしまっていたからだ。 今頃とーるは頭を抱えていることだろう。 合従政策による数的優位によって指導部の暴走を牽制する、それが監査部結成の第 一目標であったのは疑いようがない。 だが同時に、無軌道な暴発を抑えるという意味では、反対勢力諸派のそれも同様に 抑制の対象だったはずである。究極的な破局を避ける意味において、最初の一手をど ちらが仕掛けるかは問題ではない。 ただ、どちらにしてもその破局の一方の中心となる指導部を主に睨み据え、その挑 発に安易に応じてしまわないよう反対勢力の手綱を取り、足並みを揃えて指導部の暴 威と対峙する……もちろん、監査部長に保科智子という少女を据えることによって、 ディルクセンに心理的圧迫も加えるという小技を効かせて。 そんなとーるの構想も、今となってはむなしい。 指導部と巡回班は、まるでマッチポンプのように事を爆発的な勢いで拡大させつつ ある。 そう、それは現在進行形だ。 状況は今も雪達磨式に拡大している。留まる様子など欠片も見せず。 一人が殴られれば二人を殴り返し、一箇所の拠点を襲撃されれば三箇所の敵拠点に 同時襲撃を敢行する。指導部は巡回班のシンパと見られる学生を無差別に拘束し、一 方の巡回班も風紀委員はどのグループに属する委員なのかなどは一切区別せず、すべ からく敵として対処していた。 報復の連鎖、流血の応酬。 授業中、休み時間、そして放課後、はたまた教室内であれグラウンドであれ中庭で あれ時場所の一切を区別せず繰り広げられた彼らの闘争は、まるで70年代の大学キ ャンパスのような情景だった。 今日は朝から三つある保険室のどれもが満員御礼だ。千鶴先生の第一保健室すら、 風紀や巡回班員、その支持者、巻き込まれた生徒でごった返し、始終今しもこの世が 終わるかのような悲鳴を外部に漏らしている。 もちろん情勢の悪化に伴って運び込まれる人数は増えていて、救護疲れから顔色が 校舎裏の地面よりもどす黒くなった相田響子女史など、そろそろ介護される側に回り そうな様子である。 衝突のひとつひとつを取れば、人数から見ても激しさから見ても小競り合い程度に 過ぎない。降り積もれば鬱積した熱がいずれ発火することもあるだろうが、すぐさま どうにかなるようなものではない。 だが、それらが異常としか言いようのない時間的密度で発生するとなると、話は全 く違ったものになる。 紙やすりで木材を磨くことを考えれば分かりやすい。 ゆっくり、緩やかに磨けば木材の加熱も微々たるものだ。 だが、力任せに勢い良く磨けば、やすりも木材も素手で掴むのが難しいほどの熱を 放つことがある。 多くの者が、今回の『摩擦』は火事に至る代物ではないかと危惧していた。 もちろん、事態の無秩序な発展には何らかの思惑を見て取る向きも少なくはない。 だが、ここまで激化した抗争だ、いつシナリオの書き手の思惑を踏み越えないとも 限らない。誰も筋書きを描ききらぬままに正面衝突へと発展すれば、一体どうなるこ とか――― それほどまでに悪化していた抗争が、この一時間ほど唐突に収まっている。 何しろ朝七時ごろから八時間ばかり、断続的に暴力の応酬が展開されていたのだか ら、いい加減小康状態に入ってもおかしくはない。 仕掛け手である巡回班が理性を保っているのなら、独力で風紀を打倒できるなどと 考えてはいないだろう。であるならば、ここらでひとつ刀を引いて、交渉事を持ちか けてきてもおかしくはないはずだ。 察するところ、シナリオの書き手、つまり巡回班局長きたみちもどるはぎりぎりの ラインで手綱を引き絞ってきたらしい――― 事態に関わる者の幾人か、特にリズエル地下反省房に篭る指導部首脳はそう推測し た。『戦争論』を記述したプロシア王国の軍事学の大家、クラウゼヴィッツが述べた とおり、暴力は交渉の一手段に過ぎないのが常識だからだ。 他に機能を持たない単純な暴力装置など、ただの道化に過ぎない。 かつての新撰組がそうであったように。 なんらかの結果を導き出さなければ、今度の騒動はとんだドタバタ劇、いや結局の ところ小所帯であるがゆえに総戦力では風紀に劣る巡回班にとって、壮大な喜劇仕立 てのレクイエムになってしまう。 だから、この抗争はいつかは小康状態に入るだろうし、そこから始まる交渉でどの ように巡回班を陥れるか―――ディルクセンやたくたくら指導部首脳にとって、関心 の焦点は最初からそこにあった。 指導部の本領は、多くのものが連想するような数的優勢に拠るリアルパワーなどで はなく、むしろことが政治的に運ばれたときに発揮されるなりふり構わぬ姦計にある。 きたみちごとき単細胞、謀り欺き罠にかけて無力化させるのは容易いこと。無駄に事 を長引かせ、戦力を摩耗させる愚を犯す必要などどこにもない。 指導部が組織化されているからこそ、そんな首脳部の雰囲気は確実に下部組織を蝕 んでゆく。この抗争はそう長引きはしない、今の時点では決着も付かない、そんな風 説は風紀委員の士気を低め、必然的に積極的に反攻に出るより堅実に部署と戦力を守 り抜くことを選択させた。 ディルクセン派の風紀委員ですらこの状況なのだから、監査部系や広瀬系の風紀委 員のやる気のなさといえば推して知るべしというところである。 その当然の観測が岡田メグミにとっては気に食わない。 もとより攻撃的な性格だ。詰られたら詰り返す、殴られたら殴り返す、うじうじ守 勢に回るなど到底我慢できるはずがない。 特に最近敵対的な態度を取ることが多くなった巡回班員に鼻持ちならない想いも抱 いていたから、これは借りを返すチャンスと内心小躍りすらしたところだ。このまま 有耶無耶に終わってしまうのは、どうしたって納得がいかない。 (それに…………) ふて腐れた顔つきで、岡田は人差し指に絡めたひとふさの髪を引っ張った。 (なんか、変だ。このままじゃ、終わらない気がするんだけど……) 確信があるわけではない。言葉にも出来ない。 形の定まらない何かが、胸の中にわだかまる。 彼女は風紀委員で生徒指導部メンバーとはいってもそれほど場慣れしているわけで はないし、学生離れした戦略眼を持っているわけでもなかった。 逆にそれだからこそかもしれない。 彼女は巡回班の無差別テロ染みた行動が、まったく何かの目的を持っているものの ようには見えなかったし(上層部は示威行動だと見ていたが)、そんな無目的な動き をするほど彼らは愚かではないとも、漠然とではあるが感じ取っていた。 まだ、これが終わりではない。そんなはずが、ありえない。 口にはしない、だがその確信が深まりこそすれ、少しばかりも薄れないことを岡田 は自分でも奇妙なほど冷静に自覚していた。 だからこそ、廊下の先に唐突に彼が姿を現したとき、驚きを最小限に、十分以上の 警戒心を持って対応することができたのだ。 「きたみち…………先輩」 掠れがちな彼女の声に、にわか部下の一人が欠伸を派手な咳に切り替え大慌てで振 り返った。硬質なブーツの足音と金属の触れ合う音が慌しく連続し、踊り場へと続く 廊下に深みのある人の壁が築かれてゆく。 「……さすが、巡回班の局長さんはいい度胸よね。たった一人で、いったい何の用な のよ」 「剣呑だね。こちらは用件があってやってきたというのに」 飄々と言ってのけるきたみちに、岡田は何処かしら引っ掛かるものを感じて探るよ うにねめつける。 そのわずかな沈黙を、上級生への遠慮とでも見たのかもしれない。 ことさら威圧的な胴間声を上げ―――それだけで、彼がチンピラ同然の小物と知れ る―――、一人の指導部員が岡田の脇を抜けてきたみちへと歩み寄った。 大胆に近づいて見せたのは、彼の手に得物がないことを目敏く見て取ったからだ。 一見無防備、それでも最低限きたみちの拳撃の間合いはきっちりと外し、彼は下卑 た笑いを浮かべて罵声を上げる。 「用件だとぉ? ふざけんな、今朝からの騒ぎを引き起こした学賊が、何をふざけた ことぬかしてやがる!」 言い捨てると、今度は一転して彼の両眼と口元から笑いが消えた。 代わってきたみちを見据えるのは、どこまでも乾いた無機質の眼光。 「それとも何か? 自分の犯した暴挙に今更ながらおののいて、わざわざ自分から反 省房に入りにでもきてくれたのか?」 「まさか。真撰組の用といったら、一つしかないよ」 告げて、きたみちは悪戯っぽく目を細めて笑った。 それだけのやり取り、それだけのしぐさだ。しかし、その場にいた者たちは、決し て聡くはなかったが愚鈍でもなかった。 何より、この奇想天外な学園での波乱万丈な学生生活が、いやおうなく彼らの感性 を鋭敏にさせる。 言葉ではなく、ほとんど目にしたことのないきたみちの翳のある笑みが、風紀委員 に深い疑念―――そして直感的な警戒心を抱かせた。 じり、と無意識に間合いを開く。 たたずむきたみちが微動たりともしないことを確認し、表情の読めない彼の面差し から裏に秘めた何事かを嗅ぎ取ろうと試みる。 まさか、と思わないでもない。 今まで始めるのは常にこちらの側だったし、彼はその種の積極的に騒動を愉しむ類 の人物ではないという判断……ともいえない希望的観測があったから。 だから、今回もそうだと思い込んでいた。 適当に双方煽りあい、相手の交渉にも乗ってやるように見せて、それが一定の時点 まで進むに及んで、大義名分を以ってこちらが仕掛けるか、それともこちらのスケジ ュールにあわせて彼らを追い込み暴発させるか。 そのいずれかが、この一連の抗争劇の結末だと心の中で嘲笑っていた。 そして彼らのスケジュールには、この時点でのスタートに際しての記述などまるで 存在していないのだ。 しかし、用件は一つしかない。きたみちはそういった。 そう、この無制限抗争の状況下において、彼らの用件といえば一つしかない。 彼らが巡回班であり、我らが風紀委員会である以上用件はそれ一つのほかにあろう はずもない。 それが証拠に、ほら―――きたみちの瞳はほんの少しの笑みも宿していないではな いか。 とっさに彼は腰のホルスターに手を延ばし……液体窒素でも吹きかけられたかのよ うに不自然に動きを止めた。 驚愕に揺れる、大きく見開かれた彼の双眸。 その先に立つのは、数メートルの距離を瞬時に詰めたきたみち、そしてまるで魔法 のようにそこに湧き出した、彼のシンボルともいえる逆刃刀。 「僕らの用件は、ね―――切り込みさ」 指呼の距離にて告げるその面に、先ほどの笑みなどもはや微塵も残されていない。 義憤と呼ばれる類の怒り、あるいは自己の立つ道への信念から来る軽蔑ともいえよう。 彼の神速もさることながら、努めて抑制されたために一層鬼気たるものを増したそ の面差しが、指導部員をして自失させた。 「ぅ……く、そぉ……!!」 それでもぎりぎりで踏みとどまり、きたみちをねめつけ返して54式拳銃―――ト カレフTT30の中国製劣化版コピー―――のグリップを握ったまでは立派だろう。 だが、所詮はそこまでだ。 銃口がきたみちを指向するどころか、ホルスターから引き抜くにすら至らない。 白光を曳いて逆刃刀が跳ね上がり、鈍い音とくぐもった悲鳴が連続した。 一矢報いることなど到底敵わず、胴を薙がれたリーダーが白目を剥いて地にくず折 れる。 「捕らえろ! 押さえ込め!!」 とっさに岡田が叫んだのと、風紀のうち数人が携えるAKMから放たれたゴムスタ ン弾が跳ね回るのがほぼ同時。 その一瞬前、すでにきたみちの姿は宙を舞う。 高く、背後へ―――無防備に。 それと気づいた者のうち、銃持つものが彼の姿を銃口で追い、スタンバトンを振り かざす者が予想される着地点へと走る。 あまりに杜撰、あまりに驕慢。 こちらを舐めきっているとしか思えないその動きに、討手は顔を怒りと嘲りが複雑 に入り混じったように歪ませる。 だが。 相手を馬鹿にし過ぎているのは、むしろ自分たちなのだということに彼ら自身は気 付いていない。警戒していた岡田ですらそうだ。 それは何も、たかだが一般生徒では幾ら群れようと、SS使いに力において抗しよ うもないなどという愚かしい議論ではなく。 仮にもきたみちは校内巡回班という一党派の首魁たる人物だ。 それが敵対グループに切込みを掛けるのに、単身で乗り込むものだろうか。 答えは、否。 「真撰組! 切っとばせぇっ!!」 わぁ、と周囲で歓声が上がった。 きたみちに意識を奪われていた風紀にしてみれば、何時の間にそれらが現れたとも 知れない。 まったく湧き出したの表現も相応しく、竹刀や木刀を振りかざした山吹色の法被姿 の少年らが数十人、校舎の左右から押し寄せてくる。 完全な奇襲だった。 数に倍する敵が、不意に伸びきったわき腹を襲ったのだ。 陣を整える間もあらばこそ、振り返り、驚き、立ちすくみ、次の瞬間には間近に迫 った巡回班員の振り下ろす鈍器に次々と打ち倒されていく。 応援を待つ間などどこにもない。たちまちのうちに風紀勢力が一掃されると、彼ら は床に倒れる連中になど一切眼もくれず目的地へと突き進む。 いつの間にかその場に集った『巡回班』の人数は、明らかにその前日まで風紀他の 諸勢力が把握していたそれを上回っていた。衣装や得物もまちまちだ。巡回班愛用の 竹刀長刀の類を手にしたものがいるかと思えば、鐵パイプや角材、はたまた第二購買 部で仕入れたのだろう、銃器を手にしたものまでいる。 その装具に統一感のまるでない彼らはまるで、圧制に立ち上がった革命軍の義勇兵 といったところか。 彼らの目的地であるところの教室、その入り口に掛けられた『臨時反省房』なるい かがわしいプレートは、押し寄せる人ごみの中から伸びた腕の一本によってもぎ取ら れ――― この日、半日続いた風紀委員会と校内巡回班の一連の抗争は、校内数箇所の空き教 室に設置された指導部運営の『臨時反省房』に対する一斉襲撃を以ってほぼ収束した。 後日、情報特捜部がフランス革命におけるバスティーユ襲撃に喩えた『反省房解放 事件』。 この後勃発する、『第四次風紀動乱』の先触れとして記憶されることとなる事件で ある。 『風紀動乱Lメモ:学園ハ発火セリ――Side A――』 爆発的に沸き起こった閃光に続き、重く、低く、竜の咆哮の如く全身を打ち抜くよ うな音が、それに見合うだけの衝撃を伴い数百メートル四方へと轟いた。 炎がひときわ大きく膨らみ、暴力的な突風―――爆風に煽られた畳が天に高く舞い 上がる。 浜辺に打ち寄せる波のように、炎が障子を下から上へと走り去る。 皮膚たる和紙を瞬時に焼き尽くされ、骨組みだけになった障子もまた、赤より紅い 鮮血色の焔の中に消えてゆく。 星降る夜空に煌々と照らし出される、今しも焼け落ちんとする純和風の屋敷。 この屋敷が建てられたのは、そう古い昔のことではない。だが、まだ若い日本建築 の屋敷は、その主が掲げた義と、それに賛じて集うた若者たちの意気を受け、若々し いなりにその質素ながらも力強い構えを見せていたものだ。 やがて柱も梁も炎の舌に絡め取られ、ぐしゃりと屋根が無様に潰えたその姿からは、 もはや往時を窺い知る術はない。 「無茶苦茶だ」 もう何度目かになるだろう、舌打ちばかりが虚空に消える。 燃え盛る屋敷―――きたみち父娘の起居する校内巡回班屯所から一キロ近く離れた 三年生校舎アズエル。その最上階に位置する生徒会室からすら、闇を焦がす炎と星明 りを遮る黒煙ははっきりと眼にすることができた。 そして、燃え落ちる屋敷を取り囲む、数百人に達しようかという人の群れの姿も。 最新の大型ワークステーションが並び、外部からの攻撃を考慮して壁面に複合装甲 が施され、果てはNBC防御を考慮して外気より高く与圧されたハイテクルームのジ ャッジ本部ほどではないが、この生徒会室も標準的な空調設備ぐらいは備えている。 秋深い夜の気温は冬の厳しさを窺わせつつはあったが、室内温度を25度に保たれ たこの部屋にいる限り、夜気に身を刺されることはないはずだ。 もちろん25度という室温は暑さを感じさせるものでもない。湿度も今日はそう高 くはないし、彼を取り囲む物理的環境は快適そのものといって良いはずだ。 だが、何故だろう。 滑り落ちる氷のように冷たい何かが、岩下の背筋を掴んで離さない。それでいて、 彼の背とこめかみは噴出す汗が河を作り、シャツの襟首と背中をぐっしょりと濡らし ている。 「腹いせに放火だなんて、彼らは何を考えてるんだ。ここは、学園の敷地だぞ」 「踏み込んで家捜しした時の失火、だそうだよ」 巡回班側が仕掛けたブービートラップの可能性も高い、らしい。 そう続けたセリスに、窓辺の岩下は形容しがたい表情を浮かべて向き直る。 時代が半世紀ほど戻ったような錯覚さえ受ける外の光景には、もはや興味はないよ うだ。椅子にもたれ、ぼんやりと正面のホワイトボードを眺めていた視線を岩下へと 移し、そこで見つけたモノに自然と苦い笑いが浮かんだ。 「わかってるよ、信。こんなのは、この学園の人間なら誰にだってわかる詭弁さ」 軽く気合を入れて、身を起こす。 しばらく椅子に座ったままだったために少しばかり凝りの生まれた四肢を伸ばし、 セリスは憂いに翳った眼差しを白板上の記述に走らせる。 今回の襲撃では、巡回班側のゲリラ的奇襲を警戒した風紀の主力が各拠点に分散し て守備に当たっていたために、急速に戦力を糾合して反省房への強襲に戦術を切り替 えた巡回班が完全な勝利を収めるに至っていた。 あまりに効率的に守備隊を各個撃破されたがために、指導部上層が増援の派遣を決 めるまでに、リズエルの本反省房以外の全ての反省房が破られたという快挙すら成し 遂げている。 反指導部の機運を抱く一般生徒の一群はお祭り騒ぎだという。先ほどまで行われて いたジャッジの会議では、メンバーから情報収集の結果が次々と上げられていたが… …ジャッジのシンパを含む反指導部派の盛り上がりぶりは相当なものらしい。 無論、巡回班の大戦果は指導部にとっての屈辱である。 きたみちの暴挙と自陣の不甲斐なさに怒り狂ったディルクセンが、永井に命じて指 導部と自派の風紀、それにシンパの一般生徒を動員して巡回班の屯所を囲んだのが18 時ごろのこと。 屯所は指導部が包囲した時既に、綺麗さっぱりともぬけの殻だったらしい。 家財道具の類はとうの昔に運び出され、きたみちもどると靜親子二人の生活の跡、 多くの班員が屯し互いに練磨した名残は微塵も残ってはいなかった。 ご丁寧に雑巾がけまでしていったようだ、との噂まであるほどに整った屋敷内を眼 にして、ただでさえ気の短いことで知られる永井が泡を吹かんばかりに激昂したのは 想像に難くない。 先日の最初の衝突からこちら、巡回班は本来の担当である隼に加えてたくたく率い る指導部保安防諜部の重要な監視を受けていたし、この包囲も反省房襲撃を終えた巡 回班勢力が屯所に戻ることを確認して間髪いれずに打った反撃の一手だ。 それをこうまでこけにして、余裕も露に逃走されたのではとても面目を保てるもの ではない。 捜索と称して壁を破り、柱を叩き折って憂さを晴らした指導部勢力が足音荒く屯所 から退出し、包囲陣の輪に戻ったわずか数分後。 屯所の一角、炊事場から突如黒煙が噴出して、瞬く間に敷地を真紅に包み込んだ。 それから今に至る三十分の間、ただの一度も包囲陣が消火活動を試みた様子はない。 それどころか、だ。 「……それにしても。連中、何を投げ込んでいるんだ?」 それは、先ほどから気になっていたことである。再び惨禍の現場に眼を戻した岩下 が、誰に問うでもなく小さく不審げにつぶやいた。 包囲陣の中から、いくつもの影が放物線を描いて炎の中に飛び込んでいく。 最初は蒔きか何か、可燃物を放り込んでいるのかと思ったが……大きさにばらつき があった。形状にも、薪とも思えないような輪郭に見えるものもある。 遠目、しかも夜となると次々に火事場に投げ込まれるそれらがいったいなんなのか、 判別するのは不可能だった。だから、岩下のつぶやきも独り言に過ぎない。回答が得 られるとは思っていない問いかけだった。 「……私物だよ」 だからこそ、こともなげに返った言葉に岩下は驚いたように再度振り向き―――そ して、続くセリスの言葉に360度回転して焼け落ちる屯所を凝視した。 「さっき、様子をこっそり見に行ってもらった桂木さんと吉田さんから連絡があった。 指導部に燃やされてるのは、私物だよ。今回の事件で姿をくらました巡回班員と、 そのシンパが教室に残した私物を焼いてるんだ」 指導部が、生徒の私物を焼いている。 その言葉の意味を岩下がじっくり咀嚼し、嚥下するまでたっぷり30秒超の時間を 要した。 その言葉の意味と、今も岩下の凍りついた眼差しの向こうで放物線を描いてなにか が火にくべられる光景を合致させるのに、さらに同じだけの時間がかかる。 「辞めさせなくては……!」 やがて、思考が現実に追いついた。 一時硬直してしまった脳神経と共に、呼吸することすら忘れてしまっていたらしい。 肺腑に残ったわずかな空気を搾り出すようにして掠れたうめきを発し、岩下は閉じた 指の合間から血が数滴滲み出すほどに力を込めて拳を握った。 ぎり、かみ締めた奥歯が嫌な音を立てる。 彼は、法の番人を名乗り、正義を掲げるジャッジのリーダーだった。 学園を正し、生徒を護り、弱きを庇って悪を討つことこそ彼らの使命。 むろん、彼らが『法の番人』を名乗ることを僭称だと非難するものも、学年を問わ ず少なからずいる。 その代表たるものこそが我こそ大義と唱える指導部一派であり、その勢力は拡大こ そ収まったものの、縮小の兆しもまた窺えない。 だが、他人の評価などは所詮、他人が主観のもとに下すものだ。 批判者にどのように見られようとも、いかなる謗りを受けようとも、彼らも含めた 学園を守り抜くという行為だけが彼らにとって価値がある。自らに課したその信念が、 わずかなりと揺らいだことはない。 だから、彼にとって焚書の現場に駆けつけて、その憎しみに満ちた愚かな振る舞い を即刻辞めさせることは何の疑問を挟む余地もない、至極当然の行為だった。 身を翻し、駆け出そうとして、ふと視線を自分の右の二の腕へと落とす。 ほっそりとした手が、彼の腕を強くもなく弱くもなく、ただその存在と意思をはっ きりと感じさせる強さで掴んでいた。 「貴姫君……」 当然、室内のメンバーは彼の後に続いて暴挙を収めに行くものだと思っていた。 それはあまりにもジャッジ創立の趣旨に沿う当然至極のことだだから、何故セリス が情報を彼に伝えなかったのかがわからない。もちろん、そんな岩下に、何故貴姫が 彼の腕を掴み引き止めようとしているのかも到底理解の及ぶところではなかった。 「今行っても、逆効果ではありませんこと?」 焦燥感と疑問が全身から滲み出る岩下を、彼女―――本来は彼と呼ばれるべき存在 は、苦笑を浮かべて見つめていた。 「彼らにとって、貴方が何者なのか……ね?」 言葉を区切り、貴姫はかすかに小首を傾げる。 眼差しは、岩下ではなくセリスへと向けられていた。その無言のサインに軽く顎を 引くことで応じ、セリスは淡々と口を開く。 「彼女の言うとおりだよ、信。僕たちは、昼間の騒動を看過した。理由は幾つもある けど、結果としてはっきりしているのはそれだけだから。 巡回班の仕掛けた戦いを無視して、指導部の報復をとがめだてしたら……」 そんなことは、セリスに指摘されるまでもなかった。 ジャッジがどう言葉を取り繕うと、生徒指導部はそれをジャッジによる巡回班荷担 と見なすだろう。もちろん、すでにジャッジのSOSと指導部の隼魔樹を中心に起き た一件がある。すでに実質的な抗争は始まっているともいえたが、表面的にはまだ互 いに中立を保っている、ことになっている。 今この状況で介入すれば、どうなるか。その微妙な関係に、致命的なダメージがも たらされるのは疑いようがなかった。最悪、その場でジャッジは彼らの攻撃を受ける かもしれない。学園最強の一角を担うジャッジとはいえ、流石に開けた場所で百人二 百人の数を相手取って無傷で済むかどうかは疑わしい。 いや、そもそも風紀と正面衝突を演じてしまった場合、ジャッジの主敵であるダー ク十三使徒がほくそえむ結果しか残らないではないか。 だが、だからといって。 「しかし…………くそっ!! ならどうしろっていうんだ!!」 手をこまねいている他にないというのか。 学園が、生徒の平穏な日常が今まさに荒々しく踏み荒らされていっているというの に、ジャッジは天秤の傾きを慮るばかりにかまけて、こんな司令部の奥底に引き篭も っているばかりで良いのか。 「ディルクセンも、きたみちも……ッ!!」 怒り狂ったオロチの咆哮も、その激情を叩きつけるべき相手をみつけられないでは 苦痛に満ちた絶叫に等しい。心の痛みを紛らすかのように、力任せに叩きつけた拳が コンクリートの壁面に巨大な陥没を作った。 「いったい連中は何のつもりだ!? 何を考えてる!!! 何様になったんだ!!!」 吐き出すようなその問いかけに、答えを出せるものなどいない。 セリスも、貴姫も、事態の予想を超えた流れを諦観と共に受け入れ、それと同時に 打てるだけの手を模索しているに過ぎない。いかに人並み優れていても、いかに魔王 をその身に宿す特別な者であろうと、彼ら自身は『並外れただけのただの人』なのだ。 神ならぬ彼らの能力には、おのずと限界がある。 この場合、彼らの反応力に致命的な制約を加えていたのは、企画力でも行動力でも もちろん戦力でもない。ひとえに小所帯ゆえの情報力の不足が、彼らの知勇共に他の いずれにも引けを取らないはずの能力を、著しく非効率的なものにしてしまっていた。 十名を超えるか超えないかの小所帯に過ぎないジャッジが、自己の耳目で集められ る情報にはおのずと制約がある。今までは一般生徒の情報提供や他の勢力からのリー ク(『嵐の戦争』でのアレだ)で対応してきたが……今のように、各勢力が自己の所 有する情報に関して隠匿を行うようになると、とたんジャッジは学園他勢力の動向を 知るすべを失ってしまっていた。 だから、それは当然のことだろう。 彼らがきたみちの行動を予測できなかったのも。 指導部の報復に鈴をつけることができなかったのも。 そして次に火を噴き上げた戦火を未然に防ぐことができなかったのも。 誰もが言葉を失ってから、それがたったの十秒後のことだったのか、一分後だった のか、それとも十分だったのか。 重苦しい空気は体感時間をとても長く感じさせて、後になっても彼らはその間のこ とをはっきり思い出すことはできなかった。 かすかな排気音とモーターの駆動音。入り口の自動ドアが横へと滑る。 長短定かならぬ、しかし重量感溢れた空気を破ったのは一人の闖入者。 「……も、もう一人……」 荒い息、途切れがちの声、その向こうに現れた男の様子は、策を失い呆然とした感 すらある周囲の関心を集めるには十分だった。 「考えの読めない、お、男が……」 「冬月君……」 暗い廊下に浮かび上がる青ざめた顔、すぐには声を上げることもできかねるほど乱 れた息が、新たに起こった変事の重大さを何よりも雄弁に物語っていた。 肩を落とし、必死に息を整える彼を、岩下もセリスも急かしたりはしなかった。普 段は冷静沈着な彼が、これほどまでに慌てふためくのだ。よほど火急の用件なのだろ う、何事が起きたのか一刻も早く糾したいのはやまやまだが、この状態で問うたとこ ろでまとまった応えが得られるとも思えない。 無言のまま、貴姫が水差しの水をコップに注いで、冬月へと差し出した。 冬月もまた言葉を交えず、ただ目線で礼を告げて、それを一息で飲み干す。 空になったコップを片手に、深呼吸を一つ。 「落ち着いたかい?」 「……ええ、何とか」 セリスの問いかけににこりともせず答え、彼は周囲を見渡した。その場にいるメン バー一人一人の顔を、視線がゆっくりと巡っていく。 岩下からセリスへ、セリスから貴姫へ。マルチや風見ひなた、赤十字美加香、ディ アルト、それに彼のパートナーである綾波といったメンバーの姿がない。吉田桂木同 様に、まだ情報収集&巡回班探索から戻っていないのだろう。 それを確認して、冬月の青褪めた顔色がさらに翳ったように見えた。 再度大きく息を吸い、吐き出す。 もったいぶっているわけでは、無論ない。 彼にそうさせるだけの重さが、激しさが、その報告の中に篭っている。 「…………ダーク十三使徒が……」 「ダーク十三使徒が!?」 空気が張り詰める。 予想通りの反応。 冬月はこくりとうなずき、もはやためらわず、デルポイの祭壇にてアポロンから託 宣を受けた神官のように厳かに告げた。 「先刻、十三使徒の部隊が……巡回班の動きに呼応するように、リズエルの指導部反 省房を襲撃したんです」 ……その瞬間。 岩下とセリスは、足元の床が底なしに崩落していくような錯覚を覚えた。 物理的な崩落は、無論起きてはいない。 精神的な滑落も、この学園を守るという気概に満ちた彼らには無縁のものだ。 衝撃は一時のもの、いかなる打撃にも彼らは決して屈しない。一時の落胆から立ち 直れば、すぐにもまた問題に向き合う靭さを彼らはもとより備えている。 打たれようと、弾かれようと、彼らを彼らとして確固たる地歩を与えるのは、高く 掲げた正義の御旗。 その旗竿がへし折れぬ限り、どれほど強力な一撃も恐らくは彼らを屈服させること は敵わないだろう。 だが、確かに、なにかが音を立てて崩れ出していた。 もはや止めようもない勢いで破砕して行くそれがいったい何なのか――― 彼らがそれに気付くまでには、まだ数日の日数を要することとなる。 ______________________________________ ほんっと、お久しぶりのでぃるくせんです。 なんつーか、相変わらずLメモしてません(爆 まぁ、最初からLメモしてなかったので今更な感もしますが……これからも 変わらないんだろうなぁ(遠い眼 次は動乱と関係ないの一本上げて、それから動乱Lをと交互に書けたらいいなとか。 毎月一本、月刊ペース。 無理ないペースでがんばれ俺(そして再び数年もぐる(何 そんなこんなで、あらためてよろしくです。