「雅史、一緒に帰らねーか?」 「雅史ちゃん、今日は部活ないんでしょ?」 放課後浩之とあかりにそう声をかけられたとき、雅史はあからさまに動揺し た表情を浮かべた。何事か物思いに沈んでいたらしく、しばらくの間呆然とし た様子で二人を見上げた後、ややぎこちない笑みを浮かべて軽く頭を横に振っ た。 「ごめん、ぼーっとしてて、聞いてなかったんだ。もう一度、言ってくれるか な?」 「おいおい、志保の様子が元に戻ったと思ったら、今度は雅史が謎の不調かよ」 ったく、しかたねーなと呟いて、浩之は先ほどの言葉をもう一度繰り返す。 「今日はお前、部活ないんだろ? じゃぁさ、一緒に帰らねーか、って聞いた んだよ」 「実力テストも終わったし、志保とかよっしーくんとかも誘って、みんなで町 に出ないかって」 「え? …………あ、うん。そ、そうだね」 雅史はよくわからない返事を返し、何故か視線を逸らした。すぐに二人に視 線を戻し、観念したように頷く。 「うん、そう言う事なら、僕も一緒に行くよ」 あまりに挙動不審な雅史の態度に、浩之とあかりは思わず顔を見合わせた。 「おい、調子が悪いんなら、無理するんじゃねーぞ」 浩之が、不審がると言うより友人を案ずる様子で言う。 「そうだよ、雅史ちゃん。調子が悪い時は、無理に私たちにペースを合わせる ことはないよ」 熱はないみたいだね。あかりは幼なじみの額と自分の額に手を当てて頷いた。 だが、その表情はやはり心配げだ。 そんな二人の幼なじみの思いやりが、今の雅史にとっては何より苦痛だった。 「いや、ほんと大丈夫だから。体のほうは何ともないよ」 親友を裏切っているという思いに駆られながらもなんとか表情を取り繕い、 雅史は二人に苦笑して見せた。なおも何事か言葉を掛けようとする二人を遮る ように、すばやく言葉を続ける。 「二人とも、校門の前で待っていてくれないかな。まだちょっとやる事がある んだ。十分もかからないから」 そう言われれば、浩之たちに雅史を止め立てする事はできない。浩之はあき らめたようにため息をついた。 「じゃ、俺たちは先に校門前で待ってるからな。ほんとに無理はすんなよ…… 行くぞ、あかり」 「あ、うん、浩之ちゃん。じゃぁ先に行ってるね、雅史ちゃん」 教室を出て行く間際、あかりは再度気遣わしげな視線を雅史に向けた。それ に気づき、雅史はいつもの柔らかい笑みを浮かべて見せる。 (…………ああ、いつもの雅史ちゃんだ) その笑みを見て、ようやくあかりはいくらか安心した様子を見せた。そのま まあかりの姿が視界から消えるのを確認してから、雅史は重苦しいため息をつ いた。学ランの襟をまくり、苦悩の表情で第一ボタンの裏ボタンを見つめる。 そして、小さく、血を吐くような声で呟いた。 「ごめん、浩之、あかりちゃん……………………志保。僕は、みんなを裏切っ ている」 「あれ? 雅史の奴はどうしたんだ?」 校門前に現れたのが浩之とあかりの二人だけであるのを見て、YOSSYF LAMEが尋ねる。浩之のほうもさっぱり訳がわからないといった表情で肩を すくめた。 「わかんねーよ。昨日までの志保といい、雅史といい、なんだってんだか」 「なにか、思い悩んでるみたいだったけど」 再び心配になったのか、あかりが気遣わしげな表情で補足した。「ふぅん」 と気のない相槌を打ち、よっしーは浩之を横目にしながらにっと笑って茶化す。 「まー、悩みが多そうな奴ではあるよな。道ならぬ恋のこととかさ」 「……よっしー、てめー!!」 「っととと、誰も浩之と雅史の恋仲なんて、一言もいってないって」 「思いっきり言ってやがるじゃねーか!!」 よっしーの軽口に怒って浩之がつかみかかる。いつものノリ、いつものじゃ れあい。その光景に、あかりの表情もやや和らいだものになる。 だが、何時もならその光景に口やかましく干渉しているはずの志保が口をつ ぐんで下を向いているのを見て、あかりは再び表情が心配げなそれになる。 「志保……ひょっとして、雅史ちゃんが何を悩んでるのか、知ってるの?」 志保はそのあかりの言葉にぎょっとした表情になった。あわてていつもの笑 みを浮かべ、その場を取り繕う。 「ばっ、何言ってんのよあかり。あたしが雅史の事知る分けないじゃない」 ここも、何時もなら志保ちゃん情報とやらで適当な事を推測して見せるとこ ろだ。やはり、何かあったのだろう。だからといって深く詮索するのはためら われた。時が来れば、そのうちあちらから話してくれるだろう。 「そう……」といったきり再び視線を浩之とよっしーのじゃれあいに戻したあ かりを見て、志保は内心安堵の溜息をついた。 (けど雅史……あの事で、やっぱり何か無理を言われたんじゃないのかな) 雅史はそんな事ないと笑っていた。しかし。 「遅れてごめん、みんな!」 雅史の声に、場の全員がいっせいにそちらに注目した。集中する視線を受け て、雅史は一瞬きょとんとした表情を浮かべる。 「…………えーと、なにか僕したかな?」 「…………全然いつもの雅史じゃないか」 はにかみながら頭を掻く雅史を見て、よっしーは小さく浩之に呟いた。 「あ、ああ…………どうもこっちが深く考えすぎてただけ見たいだな」 浩之はしかし、それでも納得いかないといったように首を傾げて答える。 「どうしたの、みんな? 遅れてるんだから、早くいこうよ」 「…………誰のせいだと思ってんだよ!」 「ご、ごめん浩之」 いつものノリ、いつものじゃれあい。すべては普段と変わりなかった。だか ら、志保の変調も雅史の変調も次第に周囲の記憶から失われていった。ただ、 当人たち―――特に親友への裏切りを宿命づけられた雅史の記憶を除いては。 三日前、夕暮れ時の通学路。 背後に誰かつけてきているような気がする。そんな恐怖心に襲われて、長岡 志保ははっと背後を振り返った。 「…………!!」 まただ。ここ数日、いつもつけてきている連中だ。連中の正体もわかってい る。もちろん顔を見たこともないし、毎日同じ顔ぶれというわけでもない。だ が、連中が属している組織の名前ははっきりわかっている。こんなあからさま な脅しをかけてくるのは、ヤツらしかいない。 …………リーフ学園風紀委員会生徒指導部。 志保が風紀委員のとーるに請われ、気楽に監査部の仕事を引き受けた直後か ら、毎日下校中に視線を感じる。背後を振り返れば、黒色のコートにサングラ スという如何にも時代がかった姿の彼らがいた。 遠巻きに見ているだけではなく、近寄って脅迫染みた言葉を投げかけてきた こともある。 人に言うことは出来なかった。生徒指導部は決して尻尾をつかませるような へまをしない。学校の中にいる限りにおいて、志保の身は安全だ。なぜなら、 そこにはあかり、ヒロ、雅史の親友たちを筆頭に、数多くの仲間たちがいるか ら。普段面倒くさがりな悠朔や、口うるさいシッポたちも、志保の身に危険が 及べば助けてくれることは間違いなかった。 だが、一歩学校を出ればどうか? 人通りの多いところを歩いているうちは ともかく、住宅街の静かなところへ入ればどうだろう? そこに守ってくれる 仲間はいるのだろうか? いるはずもない。志保は、この事をまだ仲間の誰にも伝えていないのだから。 誰にもまだ助けを求めていないのだから。 志保は自分が狼少年であることをある程度自覚していた。今までの積み重ね から、たとえ助けを求めたところでそうそう信用はしてもらえまい。打ち明け て、信用されず、そしてその事が生徒指導部に知られた場合…………あまりに 危険な博打だった。 あかりに打ち明けようとしたこともある。今日のお昼休みの事だ。お昼休み であれば、第一購買部前のパン争奪戦の混乱を整理するために多くの風紀委員 が出払ってしまい、監視も薄くなる。志保なりに考えをめぐらせての事だった。 だが、いざ打ち明けようとしたとき、いないはずの松原美也―――生徒指導部 長、ディルクセンの妹―――が、自分を見つめていることに気づいた。彼女は 笑っていた。嫣然と、にこやかに。しかし、その瞳だけは、ほんのわずかな笑 いも浮かべていないことに気づき、志保は結局あかりに悩みを打ち明けられな かった。 その後、情報特捜部に行った時も、職員室に行った時も、彼女は常に視線を 感じつづけていた。そして、誰にも打ち明ける事が出来なかった。 それは今も続いている。 「…………!!」 背後を気にしつつ歩を早めていた志保の視界に、追跡者がだんだん距離を詰 めはじめて来たのが移った。大声で人を呼ぼうか。そう思うが、断念する。生 徒指導部の暴虐は聞き及んでいる。捕縛したものに暴行を加える事などざらで、 反抗的な生徒を拉致して洗脳しているのではないかとの専らの噂だ(もっとも、 この噂は志保自身が誇張を交えて振りまいた噂が、さらに尾鰭がついて志保に 帰ってきた物であったのだが) 下手に騒げば何をされるかわからない、とい う恐怖が、志保の取ることの出来る行動を縛っていた。 だが、危機はすぐに過ぎ去った。追跡者が距離を詰め始めてから二分もせぬ うちに、志保は自宅の門をくぐる事ができたのだ。 「もう、嫌っ…………なんだってのよ、あたしが何したってのよ!」 玄関に飛び込み、ばたんっ、と音を立てて扉を閉める。震える手で鍵を閉め、 志保はそのままひざを抱え込んで泣き崩れた。 「長岡さんに、何したんや?」 生徒指導部の事実上の本拠、リズエル地下反省房管理室に、風紀委員会監査 部の保科智子が訪れたのは、その翌日の放課後の事だった。 「何の事だ? いきなり乗り込んで来て何事かと思えば」 智子の詰問にも眉ひとつ動かさず、ディルクセンは平然と言い放った。その 言葉に智子の表情がよりいっそう険しさを増す。 「誤魔化さんといて! 長岡さんの様子見とったらアホでもわかるわ。どんな 陰湿な脅しかけてるんか知らんけど、それが男のやることなんか!?」 「何の事かわからんと言っている。本当にな」 厳しく糾弾する智子に対し、ディルクセンはあくまで無関心そのものの対応 を返す。 「大体な、今のお前の言葉……『どんな陰湿な脅しかけてるんか知らんけど』 ってな。そっちでも調べがついとらんのだろうが。長岡の周りで何が起こって るのか」 「それは、長岡さん自身が『何でもない』とか、応えをはぐらかせるから…… ……」 痛いところを突かれ、智子は思わず言葉に詰まった。その様子を見てディル クセンはやれやれとため息をつく。 「お前は、頭は良いのにどうも直情径行でいかんな。人を糾弾するなら、証拠 ぐらい揃えてくるものだ」 俺のようにデマゴーグに頼るのでなければな、と彼は内心続けた。目の前の 少女は確かに頭は良いのだが、短期で直情な性癖から、駆け引きというものか らはとんと無縁な人物だった。それをフォローするためにとーるは藍原瑞穂や 冬月俊範といった人物を招聘したのだろうが、この様子だと智子は志保の様子 にいてもたってもいられず怒鳴り込んできたのだろう。そうでなければ、一人 でここに来るなどとは考えられない。 「長岡の様子がおかしいというが、失恋でもしたんじゃないのか?」 そうでなければ、成績が下がって留年が現実のものになってきたか。彼はき わめてつまらなさそうに言った。 もちろん、彼はそのどちらもが真実ではないことを知っている。なぜなら、 志保の変調は彼自身が画策し、その遂行を永井に命じたものなのだから。 元はといえば、お前を守るためなのだ。彼は思う。監査部長を引き受けたお 前を永井の奴が殺しかねなかったから、長岡をスケープゴートにした。 実利的にも保科を消すより長岡を消すほうが効率的だった。あいつには独自 の巨大な情報ネットワークがある。お前は、とーるが俺に監査部に対する実力 行使を思いとどまらせるために迎えただけだからだ…………そう思いたい。 永井に殺しという手段を思いとどまらせるのにも苦心した。精神的に圧迫を 加え、自分から退任を願いださせる。それだけで、わかる奴にはわかる。生徒 指導部にたてついた者がどう言う運命を迎えるか。自分から願い出さなければ 良し、もし自分から願い出さなければ………… 「アホか、それやったらなんであんなになにかに怯えた様子見せとんねん!」 智子の一喝が、彼の思考を中断させた。不意を突かれ、耳の置くがキーンと 鳴っている。ディルクセンは顔を顰め、怒りの表情で自分を見下ろしている智 子を見上げた。 「そんな事はこちらの知ったことじゃない。もし監査部が生徒指導部に苦情が あるなら、きちんと前後関係に関して調べ上げ、書類を通して申し立ててもら おうか」 迷惑そうに言ってから、もちろんこちらも調査はさせてもらう、と彼は付け 足した。そのいいかげんな態度が、さらに智子を激昂させる。 「もうええわ、話しにならへん!」 身を翻し、出口に向かう。一度だけ足を止め、振りかえった。 「…………先輩がここまでえげつない奴やったとは、思わんかったわ」 わずかに寂しげな言葉。 「保科…………監査部を、辞めるつもりはないか?」 その保科の口ぶりが、ディルクセンにそんな言葉を口走らせた。 「その……なんだ、お前には似合わんぞ」 敵に回したくなかった。当たり前だ。自分が好意を寄せている異性を、好ん で敵に回す奇特な男はそう多くない。だからといって、自分の信念を捨ててま で、彼女に取り入ろうとも思わない。プライドと自分の信念への狂信が、それ を許さない。であれば、相手が折れてくれる、その一点に望みを掛けるしかな かった。 そしてもちろん、ディルクセンは保科が簡単に信念を曲げるような人物では ないことを重々承知していた。そんな女性であれば、そもそも好意を抱いたり はしない。 「アホなこと言わんといて。引き受けたからには最後までやるんが筋ってもん やろ」 予想通りの反応。ディルクセンは無言で眼鏡のずれを直し、両手を顔の前で 組んで、ようやくの事で「そうだな」とだけ言った。 それきり黙り込んでしまったディルクセンを前に智子はかすかに落胆の吐息 をもらし、再び出口へと向かおうとする。瞬間、彼女の背中に柔らかい何かが 押し付けられ、続いて背後から左右の手が胸の前で組まれた。さらに、耳に息 のかかる距離で、背後の誰かが小さくささやく。 「"Monchlein,Monchlein,du wahlste einen schweren gang"」 「!!!」 驚いて背後の人物を跳ね除け、智子は前方に転がるようにして飛んで距離を 取った。 「”僧侶よ、僧侶よ、汝は艱難の道を選びたり”」 背後の人物、松原美也はにこにこ微笑みながら先の言葉を日本語に訳した。 「それにしても、やっぱり保科さんってプロポーション抜群よね〜、羨ましい わぁ」 「まっ、松原さん!?」 とっさに胸を押さえ、顔を真っ赤にして智子が叫ぶ。 「あ、あんた、自分で百合やないってゆうとったんとちごたんか!!」 「あら、そんな事言ったかしらね?」 しれっと答える美也の姿に、智子は半眼でディルクセンの方を見やった。そ のディルクセンはと言えば、胃のあたりを押さえて机の上に突っ伏している。 「ふふふ、大丈夫よ。わたしは橋本先輩本命だから、むやみに手を出したりし ないから」 「大丈夫、ってなぁ……」 智子はひどい頭痛を覚えた。しかし、それまで微笑を浮かべていた美也の表 情が一転して冷たく鋭いものに変わるのを見て、彼女もまた表情を引き締めて 身構える。 「級友として忠告しておくけど。手を引くなら今のうちよ? ウチは必ずしも 人数も多いし、一枚岩でもないわ…………あまり派手な事をしでかすなら…… ……ね?」 急進的な人物が、智子に実力行使に及ぶかもしれない……そう、志保が現在 そういう状況下にあるように。 そんな美也の言外の脅迫に対し、智子は毅然とした態度を取った。 「出来るもんやったら、やってみぃ。そんな脅し程度に屈してたまるかいな」 あの三人組と喧嘩しとった時のほうが、よっぽど堪えたわ。せせら笑い、挑 発的な視線で美也の瞳を見る。 「……ふぅん、そうなんだ。せっかくの忠告だったのにねぇ?」 対する美也もまた冷たい炎の灯る視線で智子を見つめ、二人の間には一触即発 の空気が漂った。 「……止めんか、二人とも」 にらみ合いが30秒も続いただろうか、呆れたようにディルクセンがにらみ 合いを続ける二人に声を掛ける。 「美也、お前は見まわりの時間だろうが。保科、お前も美也の言うことに構う な。まだやる事もあるのだろう?」 その言葉に、二人はとりあえずにらみ合うのを止めた。だが、互いの敵意が ディルクセンにもはっきり伝わってくるほどに放たれている。そのまま彼には 声も掛けずに退出していく二人の後姿を見やりつつ、彼は溜息をついた。そし て、誰もいないはずの背後を振り返り、重い口調で言葉を掛ける。 「永井。長岡の件、お前の好きにしろ。殺し以外なら何をしても構わん。立ち 直れないほどに、傷つけてやれ」 「ったくよぉ、最初からこうすりゃよかったんだよ。お前がくだんねぇ感傷で 躊躇してやがるから、保科の奴にも嗅ぎ付けられるのさ」 気配を微塵も感じさせず、永井はそこに姿を現していた。悪意に満ちた笑み を浮かべ、ディルクセンの傍らへと歩み寄る。 「へへっ、実行部隊の連中が喜ぶぜ。なんせあの女、面だけ見てりゃぁ上玉だ からよ」 「甘く見て、しくじるなよ。下手をすれば、情報特捜部あたりの連中が一緒に いないとも限らん」 昏い笑みを浮かべる永井を見て、ディルクセンは一抹の不安を覚えた。どう にもこの男には相手を軽く見る癖がある様に思える。これでは重要なことを任 せるには心許ない……もっとも、あとで手切れする事を考えれば、この程度の 小物であることは歓迎すべき事なのかもしれないが。 「心配すんなよ。あいつは付けねらわれてることを誰にも喋ってねぇ。情報特 捜部だの監査部だのの方にも動きはねぇ。そこらへんはきちっと情報を押さえ てるって」 永井はにぃっと笑って頭上を見上げる。 「おい、聞いたな? ……思う存分やって来い」 その言葉を受けて、天井裏の気配が消えた。もっとも、ディルクセンには気 配の有無などわからない。ただ、知らぬ間に管理室の通風孔(当然センサーな ど警備装置が取り付けられている)に潜んでいる永井の配下に、警戒心を募ら せただけの事だ。 「んじゃ、ここで朗報が来るのを待つとしましょうか? 生徒指導部長閣下?」 自分も監視対象に含まれているという事実に憮然とした表情を浮かべるディ ルクセンに、永井は慇懃無礼な態度で言った。 志保は今日も一人で下校していた。すでに日は西に大きく傾き、周囲を下校 する生徒の姿もまばらだ。今日も誰にも打ち明けられなかった。あかりや保科 は気遣う素振りを見せてくれたが、自分の置かれている状況を説明しようにも、 必ずその場には生徒指導部員の目が光っていた。結局今日も一人だ。志保は慎 重に人通りの多い道を選びつつ、背後の様子をそっと窺う。 いた。黒のコートにサングラスの男が二人。あからさまに怪しいその姿に、 夕食の買出しに来たおばさんがずざっと道を開けている。 「……なによ、あたしになんの恨みがあるってのよ!」 恐怖心で早くも半ばパニックに陥りかけ、志保は前方に視線を戻して足を早 め……そして思わず硬直した。前方にも黒コートの男。慌ててすぐ側のわき道 に飛び込む。 冷静に考えてみれば、これが大失敗だった。いくらなんでも、追跡者たちは 人通りの多い商店街では仕掛けてこないはずだ。ならば、前方に黒コートの男 たちがいても構わずすり抜け、その先の交番なり何なりに駆け込めば良い。あ るいは、デパートや駅など人だかりで追跡者を撒くか。冷静なときなら判断で きていただろう事が、恐慌状態の志保には浮かばなかった。 志保が人気のない一角に追い詰められるまで、わずかに十分ほどの時間しか かからなかった。どこをどう曲がったかもわからない。彼女が十字路やT字路 に差し掛かったとき、必ずその一角は、追跡者が先回りして封鎖されていた。 無我夢中、どこをどう曲がったのかもわからない。結論として、彼女はマンシ ョンの工事現場に追いこまれ、逃げ場を失っている。 「こ、来ないでよ!! 近寄ったら、大声を出してやるんだから!」 迫ってくる二人の追跡者を前に、志保は最後の虚勢を張った。だが、叫んだ ところでどうにもならないのはわかっている。工事現場は広く、周辺はモデル ハウスの展示場で、平日の今日はほとんど人気がない。叫んだところで、すぐ には人は駆けつけてこないだろう。志保は周囲に視線を走らせ、必死に逃げ道 がないか探す。 (…………二人?) そこで、志保は追跡者の数が一人足りないことに気づいた。追跡者の様子を 窺えば、彼らも仲間が一人来ていないことに不信感を抱いている様子で、しき りに時間を気にしている。 その隙を突けないか。志保は注意深く相手の様子を観察した。 駄目だ。相手もほかに気を取られてるからといって、彼女をみすみす見逃す ほど間抜けではない。きっちりと彼女の行動を封殺するように、その位置を取 っている。 こうなると、三人目の敵がここにたどりつけていない原因が、彼女の味方に よるものである事を祈るしかない。 そして、すぐにその祈りは聞き届けられた。 不意に、追跡者の一人がくぐもった悲鳴を上げた。その後頭部にサッカーボ ールが直撃している。かなりの勢いで激突したらしく、男はそのまま地面に昏 倒した。 「志保!!」 「雅史!?」 工事現場の入り口から彼女の名を呼んだのは、紛れもなく雅史だった。志保 に向かって駆け寄ってくる雅史に対し、残った一人が身構える。普通にぶつか れば雅史に勝ち目などない。志保はとっさに近くに立てかけてあった建材に体 当たりした。 「うっ、うああああぁぁぁぁぁっ!?」 建材は狙いあまたず男に直撃し、彼を大地にたたきつける。それを確認する 余裕もなく、志保は雅史に駆け寄った。 「志保、逃げるよ!」 「えっ?」 何事か礼を言おうとしていた志保は、雅史の言葉に訳がわからないという表 情になった。暴漢は全員倒したのではなかったか。雅史の視線を追って恐る恐 る振りかえると、最初に後頭部に一撃食らって昏倒していた男が早くも立ち上 がりつつあった。 「早く、逃げるわよ!」 「えっ、ちょっと、志保!?」 それを見るや否や、志保は雅史の腕をつかむとわき目も振らずに逃げ始める。 「野郎……舐めやがって、待ちやがれ!!」 「まて、追うな!!」 頭を振って意識をはっきりさせた男が二人を追おうとするのを、建材の下敷 きになった男が呼びとめた。 「ざけんな、トーシロ相手にやられっぱなしとあっちゃ、俺たちが永井さんに 殺られんぞ!?」 サッカーボールの男が血相を変えてわめき散らす。だが、下敷きの男はそれ に対して至極冷静に応じた。 「大丈夫だ、こうなる可能性も最初から考慮されてる。ともかく、今は永井さ んに現状を報告するのが先決だ」 そう言って、彼は自由になる上半身の内ポケットをまさぐる。そして、困惑 した表情で、後頭部の男を見上げた。 「すまん、ズボンのポケットに携帯を入れてるみたいなんだ。とりあえず、こ の建材をどうにかどけてくれないか?」 「……はぁぁぁぁぁ…………」 工事現場に一陣の風が吹いた。着々と、冬は隆山市に近づいてきているらし い。 その翌日。地下反省房に、新たな客が訪れていた。 「志保を狙うのを、止めてください」 それが聞き入れられなければ刺し違えるほどの覚悟で、雅史はディルクセン にじか談判を挑んだ。 あの事件の後、雅史は志保から監査部入りの後に彼女の近辺で起きた事情を すべて聞かされ、愕然とした。なぜ自分や浩之に相談しなかったのかと質し、 自分たちの身の回りに張り巡らされた監視の目に驚愕した。 そして、彼女らしくもなく弱音を吐く(それでも監査部を辞めるという一言 はついに聞かれなかったが)志保に対し、雅史は思わず「自分に任せて欲しい」 と言ってしまった。だから今、ここにいる。 決死の覚悟の雅史の言葉に対し、ディルクセンはこともなげに一言答えた。 「ああ、いいだろう」 「…………えっ!?」 あまりにあっさりと得られた回答に、雅史が信じられないという表情を浮か べる。そんな雅史に対し、ディルクセンはうざったそうにもう一度言った。 「いいだろう、と言ったんだ。聞こえなかったか?」 それとも理解できんのか。そう言いたげなディルクセンに対し、雅史の表情 があかるいものになりかける。 しかし。 「ただし、ひとつ……いや、二つ条件がある」 ディルクセンの瞳が眼鏡の奥で鋭く光った。その瞳の奥にあるものが、雅史 の背筋を凍りつかせる。ふと気づくと、いつのまにか雅史の背後に永井が薄笑 いを浮かべながら突っ立っていた。 「……条件?」 ここで臆せば一気に付け込まれる。雅史は勇気を振り絞り、毅然とした態度 を崩さない。 (ふん、薔薇鬼畜と言われても、芯まで腐っているわけではない、か) ディルクセンは、多少彼を見なおす思いだった。しかし、これなら尚の事効 果的だ、と内心ほくそえむ。 「なに、簡単なことだ。まず一つ目。今回のことは、お前も長岡も一切他言無 用の事」 これは予測していた。というより、当然の事だろう。問題は、次の要求だ。 雅史は無言で頷く。 「ふむ。では二つ目。長岡や他の監査部メンバーと接触する可能性のある場合 ……つまり、特に学園内においては常時、これらのうちのどれかを常に着用す る事」 そう言ってディルクセンが小袋から机の上に広げたのは、いくつかの学ラン 用の裏ボタンと、ボールペンだった。雅史は決して馬鹿ではない。切れ者とい う訳でもなかったが、これらの小物を決して本物そのものなどと思うほど愚鈍 ではなかった。 「僕に…………スパイになれ、と?」 「そう言うことだ」 背後でブゥン、という低い音がして、部屋の隅に置かれたテレビに光が灯っ た。ディルクセンがそれを顎で指し示すのに従って背後を振り返った雅史の目 に、ブラウン管に映る志保の姿―――恐らく生中継―――が飛び込んでくる。 その傍らでは永井が携帯電話を手ににやにやと陰湿な笑みを浮かべていた。そ の手の携帯電話の意味は、聞くまでもない事だ。 「君には拒否権がある。ただ、拒否権を行使した場合、君の友人たちの未の安 全は保証できない」 そう言い放つディルクセンの顔には表情がなかった。それが、雅史にディル クセンが本気であることを強制的に理解させる。そうなれば、彼にとって選択 肢はなかった。親友を思うがゆえの、親友に対する裏切り。矛盾するその必然 が、雅史の心を痛めつける。良心の呵責から数分逡巡し、やがてただ一言、震 える声で回答をつげた。望まない回答、望まない裏切り。血反吐を吐くような 思いでその言葉を口にする。 「………………………………Yes………………………」