Lメモ魔王大戦「硝子の現実」『第六幕   "前哨" ヒトツの願い』  投稿者:悠 朔

 別れの時が近付きつつあった。
 離れたくない。
 傍らに眠る、この愛しい人と。
 ――だがそれでも……。
 だからこそ、行かねばならない。
 もう一度、出会うために。
 もう一度、想いを重ねるために。
 横たえていた身体を起こし、最愛の人の寝顔を覗き込む。
 安心しきった顔。
 決して失いたくない、己の半身。
 ――この女性(ひと)を護るためなら、この命を賭けたとて惜しくはない。
「約束するよ。必ず帰ってくる……。必ず……」
 半ば自分に言い聞かせるように呟いたそれは、誓約。
 己に課した、誓いの約束だ。
 名残を惜しむように、そっとその頬に手を沿える。
「ん……。信さん……」
 眠ったまま、甘えるように擦り寄ってくるこの人を、ただ愛しいと思った。
 もう一度、この手に抱きたいと願った。
 静かに軽く、唇を重ねる。
 その願いを、その思いを失わぬために、彼にはなさねばならない事があった。
 どれほどのリスクをその身に課す事になろうと。
 いつかこの時を笑って思い出せる時が来るように。
 いつか友をこの手にかけた事を償えるように。
 ――自分は生きたい!
「もう時間はない……。自分に残された時間は……残り僅か……」
 眠り姫を起こさぬように、音を立てないように気遣いながら、ベッドから下り、衣服を
纏う。
「帰ってくるよ。……必ず!!」
 もう一度、誓いの言葉を口にして、岩下信はその部屋――第一保健室――から夜闇に包
まれたの廊下へと、身を滑り込ませた。


 いつしか足音も完全に消え、信がそこに居たという痕跡が気配とともに消える頃。
 ベッドの中から、すすり泣きが漏れ出した。
「うっ……ううっ……」
 彼女――藍原瑞穂――にはわかっていた。
 これが永遠の別離になるかもしれない事が。
 もう二度と会う事が適わないかもしれないのだという事が。
 だから涙を流した。
 信に悟られないように今まで押し殺していた感情が、ポロポロと零れるように流れ出す。
悲しみを知られたくない相手が去った以上、それを押さえる必要などなかった。
「……別れを惜しむ事は出来たか?」
 他に誰も居ないはずの部屋に、男の声が響く。
 息を呑む瑞穂が横たわるベッドの脇に、男の姿が現れる。
 影が立ち上がったかのように。
 二次元の物体から三次元の物体が、湧き出るように現れる。
 結城紫音。
 影を纏い、影を操り、影を刃とする者。
 かつては結城光に取り憑き、そして宿主を殺す事で彼はその肉体を手に入れた。闇の領
域に踏み込んだ、亡霊と呼ぶべき存在。
「貴方は……」
「助けを呼んでも無駄だ。岩下が戻ってくるよりも、貴方を連れて私が姿を消す方が早い」
 言って、紫音が右腕を真横に上げる。
「!?」
 途端に、瑞穂は異様な感覚に襲われた。
 カクンと、力が抜けたようだった。
 四肢が言う事を聞かず、身体が思うように動かせない。
 にも関わらず、主の意志に逆らい、身体はスッとベッドの上に立ち上がっていた。
「な……」
 一糸も纏わぬ姿を晒し、瑞穂の顔が朱に染まる。
 が、紫音は一顧だにしなかった。
「闇よりも近くにあり、決して消す事が出来ないもの。……それが影だ。従者であるはず
の影に乗っ取られる気分はどうだ?」
 ――操影術!?
 オカルトにおいては来栖川芹香に劣るとはいえ、単純な知識においては瑞穂に比肩する
生徒はこの学園に居ない。
 ――でも! そんな!?
「操影術は……言葉通りただ影を操るだけのはずじゃ」
「それは初歩の技だ」
 愕然とする瑞穂に、紫音が冷徹に告げる。
 そのあいだに瑞穂の足は歩み始め、身体がその端から落ちる。操られるだけの足は、衝
撃を殺す手段を取らなかった。
 しかしその痛みすら感じない。
 完全にコントロールされている。
「何故……何故私に時間を与えてくれたんです?」
 瞬きすらも封じられた中で、口だけが自由だった。
 その事が逆に、瑞穂の心を落ち着かせていた。
 もうどうしようもないのだと。
 逃れる術は無いのだと、知ってしまった事で。
 魔神久遠遙の手で連れ出された時、自由になったのだと思った。
 その時自分の前に立っていたのが魔王オロチではなく愛しい人だと知った時、苦痛は終
わったのだと思った。
 しかしそれは、紫音の手の平の上で踊っていただけだと、今思い知らされた。
 ――だったら、何故?
「簡単な事だ」
「え?」
「必要なのは聖女の資質であって、穢れ無き聖女ではない」
「!!」
 涙が零れた。
 絶望ではなく、怒りの為に。
 どうしようもなく悔しかった。
 その怒りは恐怖を上回った。
 愛する人との繋がりを、"穢れ"と称する者達に捕らえられる。その憤り。
「わかっていたことだろう?」
 わかっていた……のだろうか?
 そうなのかもしれない。
 いつかこんな日が来ると、漠然と、でもずっと長いあいだ、不安を感じ続けて来たよう
な気がする。
 絶対的な力を持つ信の庇護下にあってさえ、それはずっと消えなかった。
 ――信さん。……あなたが帰ってきたとしても、その時私は、出迎える事は出来ないん
ですね。
 もう二度と会えない。
 その想いが感情のうねりとなり、両の瞳からとめどなく零れ落ちる。
 ――でも……せめて誇りに思おう。動くことのままならない身体なら、せめて瞳に力を
込めよう。私は……私は庇護を求めて、信さんを愛した訳じゃないから。その想いだけは
誰にも汚す事の出来ない事だから。
「私は謝らないからな」
「え?」
 唐突に、彼はそう告げた。
「謝る事は……私の取った行動を否定する事だ」
 何故そんな事を今言うのか。
 そう問い質す前に、瑞穂は紫音が広げた両の腕に抱かれ……影に消えた。



Lメモ魔王大戦
                                 「硝子の現実」
                      『第六幕   "前哨" ヒトツの願い』


 新月の闇。
 光源のない夜の帳。
 その天蓋を飾る、瞬く星々。
 天后の不在が端女の存在を明確にし、主の無い空を華麗に彩る。
 それを見上げる一対の瞳。
 諦観する賢者と称するには、それは諦めの色が強すぎた。
 だが運命に流される己を自嘲する者にしては、その瞳の輝きは強すぎた。
 奇妙な、均衡。
 どちらに傾いても崩れてしまう、危ういバランス。
 その瞳は天空のただ一点。ひとつの星に注がれている。
 全天で最も明るく輝く、真白い星に。
 その瞳の持ち主は何をするでもなく、ただ静かに佇んでいる。
 それは祈りを捧げているようでもあり、何かを待っているようにも見える。
 それはどちらも正解であり、そしてどちらも誤りだ。
 彼は祈りが届かないことを知っている。
 だから、待つだけ無駄だということもまた、彼は理解していた。
 それでも彼は、来るはずがないとわかっていながら待ち続けている。
 裁きの刻が訪れるのを。
 業火の中に身を置く時を。
 だから見上げ続ける。
 焼き尽くす者の名を冠する、シリウスを。
 明かり一つない学園の中庭で。
 そこに立つのは彼にとって辛い事だった。
 心が壊れそうな、いっそ壊れればいいと思うほど。
 だがその願いとは裏腹に、中途半端に強い心は壊れてくれない。
 魔がどれほど跋扈しようとも、神が裁きを下さないのと同じ様に。彼の願いは成就され
ない。
 ただ時だけが移ろい行くのみだ。
 だから彼は静かに待ち続ける。
 その場所に、変化が訪れるのを。
 姿の見えない月が沈むまで、まだ時間はある。
 それは長いとは言えない時間。
 しかしそれが彼に許された時間。
 その時が訪れる前に、それまでには約束された変化が訪れるはずだ。
 そうして佇み続ける彼のもとに、それはやって来た。
 彼が待ちわびた約束された変化……ではない。
 比較的軽い、軽快な足音。
 ほぼ一直線に彼のもとへと向って来る。
 その気配には覚えがあった。
 だからか、彼はその音の方向を向こうともしなかった。
 ただ天を仰ぎ、その足音の到着を待つ。
 姿を現したそれは、一振りの刃を手にした若き剣士。
「ようやく、見つけたぞ……」
 やや乱れた呼吸を整えながら、憎悪に満ちた口調で剣士が呟く。
 そして呼ぶ。
「悠ぁぁぁぁっ!!」
 佇む者の名を。
「叫ぶなよ。聞こえているさ」
 振り返りシニカルな笑みを浮かべる悠朔に、佐藤昌斗は怒気を顔に浮かべたままその手
の中にある剣――意志持つ刃"運命"――を抜く。
「問答無用……か? 乱暴だな」
「まず倒す!」
<主っ! いくらなんでも一人でなんて無茶です! 退いてください!!>
 先程からずっと響き続けている運命の制止の声。
 しかし昌斗は耳を傾けない。
「五月蝿い!! 無茶だろうが乱暴だろうが……お前は危険だ!!」
「光栄だな。ま、やるだけ無駄だと思うが……」
「無駄かどうか! その身体で試してみろ!!」
 言葉と同時に銀弧を描く煌き。
「惜しい」
 それに対し、ぽつりと呟く朔は酷く自然に、ただ無造作とも言える動きで半歩退いただ
けだった。
 だがただそれだけの動作で、確実に喉を捉えると見えた刃は獲物を見失った。
「ちぃっ!」
 立て続けに、昌斗が刃を振るう。
 その筋は決して悪いものではない。粗削りなものではあるが、それは洗練された美技と
呼んで、なんら差し支えない。
 が、
「どうした? 私を倒すんじゃなかったのか? 退屈凌ぎに遊んでやるって言っているん
だ。私を楽しませてみせろ」
 昌斗が振るう必死の剣を嘲笑うように、後ろ手に腕を組み、踊るように身を躱す朔。
 かすっただけの浅い傷口から、思ったより派手に出血する。が、気にも留めなかった。
 彼の手にする"運命"はそこいらに転がっているナマクラ刀とは訳が違う。いかに魔神と
しての肉体を手に入れていると言っても、その刃で切り裂かれれば命は無い。
 そんな事はわかっている。
 わかっていながら、僅かな判断の狂いが死に直結するこの状況にあって、彼の表情には
余裕があった。この状況を楽しんでさえいた。
「己のみの力にこだわるのもいいが、護れぬままに失うのは愚の骨頂だと思わないか?
今のままでは到底届かない……。その事にいい加減気付け」
 苦笑を浮かべる朔。
「なんの話だっ!」
 それに構わず脇構えに"運命"を構え、
「お前のその刃、いったいいつまで錆びさせておくつもりだ? そう言っている」
「!」
 その言葉に一瞬、昌斗が動きを止めた。
 その食いしばった歯が、ギリッと嫌な音を立てる。
「……どこまで」
「ん?」
「どこまで知っている!!」
 言葉と同時に踏み込み、袈裟斬りに刃を振り下ろす。
「ほぼ総て……かな」
 小馬鹿にした笑みを浮かべている朔がそれをどうやって躱したのか、昌斗にはわからな
かった。
<主っ!! 退がりなさいっ!!>
 "運命"の悲痛な声。
 気付いた時には朔の顔は目の前にあった。
「ちぇぁあ!!」
 咆哮と共に、反射的に燕返しに刃を振るおうとしたのは、これまでの修練の賜物であっ
ただろう。
 ガクンッと引きつるような感覚。
 バランスを崩し転びかける身体に制動をかけ、なんとか踏みとどまる。訳のわからない
衝撃に動揺する暇さえ惜しんで刀を構えようとして、昌斗はそれが不可能である事を知っ
た。
 刃を握り締められた"運命"は、まるで万力に締められているかのようにビクともしなか
った。
「これは類希な魔剣だよ。……滅びの力を宿し、絶大な破壊力を有する刃。所持する者の
肉体を強靭に、あるいは"鬼"にすら匹敵するほど強化する魔的なポテンシャル。確かにこ
の刀をもってすれば、なんの素養もない人間であっても魔を討つ事が出来るだろう。だが、
かつてSGYがこの学園を襲った時、お前はこの刀を持っていなかった。……違うか?」
「…………」
「お前が本来持つべき刀は……いったい今何処にあるんだろうな?」
 刀は引かなければ斬れない。どれほど強く握り締めようと、せいぜい薄皮が切れる程度
だ。
 なんとかしてその手を開かせなくてはならないが、蹴りを出すには密着し過ぎている。
 この状況で如何にして攻撃に転じるか。
 その手段を模索する昌斗に、朔はまた苦笑を浮かべ、肩を竦めた。
「強情だな。あれもまた、お前の力だろうに」
「……お前の言う通りだ。こだわってるさ! あいつは……あいつは俺の手で! 俺の力
で取り返さなくちゃならないんだ! あいつはかけがえのない、俺の家族なんだ!!」
 しばし睨み合う。
 読み取ることは出来た。
 その意志の強さを。
 決意の深さを。
 だが、だからこそ、朔は教える気になれなかった。
「そして失うのか? お前の言う、かけがえのない存在を。くだらないこだわりのせいで。
俺を殺す事さえ出来ないお前がハイドラントを殺す? ……出来の悪い冗談だ。贅沢なん
だよ……。今ハイドラントを殺したい奴が何人居ると思う? その程度の腕で、叶うと本
気で思っているのか?」
「…………」
 答えない昌斗に呆れたように、朔はため息を吐いた。
「玉砕主義は愚か者のすることだろうが……。お前が相手ならいいかと思ってたが、そう
すると約束も守れなくなるしな。気が変わった。この刀の力を自身のものだと勘違いして
いるところも気に入らん」
「なに?」
 ヴォン……!
 昌斗の問いに答えるように、空間が鳴った。
 歪んだ、と言ったほうが正しいか。
 不意に二人の頭上。虚空に浮かびあがった、真円に近い黒い穴。
 昌斗の両足が持ち上がる。重力の法則に逆らって。
 ――落ちる!?
 まさにその通りだ。空に向かい、その穴に向かって、昌斗は落ちようとしていた。
「う、うあああああああああああああ!?」
 悲鳴を上げる昌斗の周囲の塵や木の葉が風に巻かれ、虚空へと吸い込まれていく。
 朔が握る"運命"。
 それを掴んでいる腕だけが、今の昌斗を支えるものだった。
「ひづきのことはYOSSYあたりが知ってるはずだ。浩之ももう目を覚ましているはず
だしな。……お前が守ろうとするものには、お前が思う以上の価値がある。それがどれほ
どの意味を持つか、少しは考えるがいい」
「ひ……との命の価値を、お前がどうこう言える立場か! 神にでもなったつもりか!?」
「神だよ」
 さらりと、朔は言い放った。
「この一年間、私は常に私自身の神――絶対者であり続けた。選択する権利は常に己のう
ちにあるのだから当然だがな」
「何故……殺したっ!!」
「お前には関係ない」
 誰を、という主語は含まれていなかった。だがそれで朔の表情が消えた。それまではそ
の余裕の表情を決して崩そうとしなかったというのに。
 わずかに逸らしたその顔が、一瞬泣いているように見えたのは錯覚。
 その筈だというのに、昌斗は次の言葉を紡げなかった。責める事を躊躇した。
「力を持つという事にはそれ相応の理由がある。お前に世界を救うほどの力があるなら、
お前はそれを為すべきなんだろう。昼に言ったはずだぞ? ヒーローはお前だとな。真に
魔を滅したいと願うなら、お前はお前の持つ力総てを活用するべきだ」
 そして朔が、握り締めていたその手を放す。
「……じゃあな。せいぜい頑張るがいいさ」
「う、わっ! あああああああああああああああ………………!!」
 "運命"諸共、闇の中へと昌斗が消えると同時に、悲鳴も途絶える。
 それまで激しく響いていた風の音も止み、動くものはもう、なにもない。
 それを認めて、朔はため息を吐いた。
 約束の時間はまだ先であるらしい。
 ――それまでに、こういう闖入者がまた訪れなければいいが……。
 静けさを取り戻した中庭で、朔はまた視線をシリウスへと戻した。