テニス大会Lメモ激闘編(上) 投稿者:悠 朔

 背後では四季の敗北宣言を受け入れるか否か、その論議が交わされている。が、それも
時間の問題だろう。
 喧騒冷め切らぬテニスコートを後に、白衣の少年はゆっくりとした歩調で歩み去る。
 ――予想の範囲内……かな?
 どちらが勝つかに関しては予想しなかったし、予想が立つ組み合わせでもなかった。
 ただ柳川祐也が只者でないことは知っていたし、だからといって己のライバルと定めた
ハイドラントが、そう簡単に屈する訳が無いとは思っていた。
 だから、EDGEと四季。この二人の活躍が明暗を分けると考えていた。この二人がど
のようにパートナーをサポートし、また独力でどのように活躍するか。その結果如何で勝
敗は決まるだろう。
 そう思っていた。
 ある意味では正解だったとも言える。
 が、少年の予想はあくまでテニスをして、という大前提での話だ。
 ――あれはテニスじゃなくて格闘技だ……。それも違うか? まぁ、少なくともテニス
でなかったのは確かだな。
 この勝負の様子を今更語ることは愚かであろうから割愛するが、少年はそれを思い返し
て盛大なため息を吐いた。
 正直半ば呆れ、そして半ば感心している。
 どのようなルールを突き付けられようと己の我を押し通す。
 らしいと言えばあまりにこの学園らしい二人の姿に、一種畏敬と賞賛の念さえ抱く。
 ――それが出来なかったから、俺は……。
 少年の進む先には校舎がある。向かうのはその一室。少年のパートナーが身体を休めて
いる保健室へと、静かに歩いている。
 少年の名は悠朔。
 ミックス・テニス大会への参加者の一人である。


テニス大会Lメモ激闘編
                                 『参加の理由』
                                  「思いの形」


 いい天気だった。
 おまけに、窓から流れ込んでくる風は心地よく、睡魔をその供としていた。
 保健介護教諭の相田響子女史は机に肩肘を付いたまま、うつらうつらと櫓を漕いでいる
し、カーテンで仕切られたベッドの方からは静かな寝息が聞こえてくる。
 そんな空間にカラカラとローラーの回る乾いた音が響き、出入り口の扉が開いた。
「ん?」
 試合の観戦を終え、保健室へと戻ってきた朔はふとその頭上に疑問符を浮かべた。
 出ていく前と比べて気配が足りない。
 ――退院? したのか?
 誰がいなくなっているのかはすぐにわかった。
 ギャラと安部貴之だ。
 だから、納得する。
 ――あの二人なら顔を合わせ辛いだろうからな……。目が醒めた時点でさっさと退散し
たのかもな。
 居眠りをしている相田教諭の脇を抜け、パートナーである来栖川綾香が休んでいるベッ
ドへと近付く。
 彼女が身を休ませねばならなくなった理由を作ったのが、阿部貴之とギャラだった。試
合中の、作為的な事故。
 朔が誰よりも大切に想う女性を傷付けた二人。
 だが意外にも、彼はその事にもう怒りを感じたりはしていない。ただ、無性に悔しいだ
けだ。それ以上でもそれ以下でもない。
「…………」
 カーテン越しに、穏やかな寝息がかすかに聞こえてくる。
 そこからどうするべきか判断に窮し、朔の動きは止まった。
 寝顔を覗き見るようなまねをするのは失礼だろうし、綾香も嫌がるのではないかと考え
たからだ。
 かといって目を覚ます前に立ち去るのもまずい。
 綾香の体調が気になるのもそうだが、彼女は試合を見て来いと言ったのだ。結果を気に
しているだろうし、それを教えるのはパートナーを務める自分の義務であるはずだ。
「……さて困った」
 ポツリと呟く。
 が、呟いてみたところで問題が解決されるわけでもない。
 そうやって突っ立ったまま、しばらくぼんやりと風に揺れるカーテンを眺め続ける。
 思索に、更ける。
 テニス大会への参加がいつのまにか決まっていた事。それを知って驚いた事。球技は苦
手だからとハイドラントに押し付けようと考えた事。優勝賞品を知って動揺した事。
 そして参加を決意し、綾香と練習をした日々。
 そうやって回想していると、後ろで椅子が軋む音が聞こえてきた。
「……あら? え〜と……名前なんて言ったっけ?」
「悠朔」
 目を醒ました相田教諭の問いに、振り返りもしないで素っ気無く答える。
「ああそうそう。さっき来栖川さんを連れてきた人よね?」
「……まぁ、そうなるか」
「あ〜。気が付いたら寝てたわ……。で、キミはそんなところに突っ立って何をしてるの
かな?」
「若い女性が異性に寝顔を見られればいったいどのような反応を示すかを考えて、この後
どうするべきか思考しているところだ」
「ふ〜ん……」
 ゴソゴソと服を探る音。
 次いでキンッという金属同士を打ち合わせるような音と、シャカッという金属をこすり
合わせる音。相田教諭が大きく息を吸い込み、吐き出す。
 再び金属音。
 恐らくジッポライターあたりを閉じた音だろう。
「保健の教諭が保健室で煙草を吸うのはどうかと思うが……」
「硬い事は気にしない。どうせ人間いつか死ぬんだから、健康ばっかりに気を使うのは損
よぉ?」
「……そういう問題でもないように思うがな」
「面白味の無いコね〜」
「ただ単に私が煙草の匂いが嫌いなだけだ。気分を害したなら謝ろう」
「……だったらせめて、人の顔見て話さない?」
「フム」
 言われて、身体ごと向き直る。
「あと目上の人に対しては敬語か丁寧語を使った方がいいわよ」
 口の端にタバコを咥えたまま、器用に話す。
 大らかな笑みが似合う女性だと、そう思った。
「尊敬できる人間が相手なら、そうする事にしている」
「ってことは、私は尊敬できる相手じゃないってワケか……。教師相手にキミも言うわね。
参考までに聞くけど、キミが敬語を使ってる人って?」
「今のところ誰も居ないな。一応西山さんには丁寧語を使うようにしているが……」
「…………」
 相田教諭は両手を腰に当てると、大きく嘆息した。
 居ないというのが予想通りの返答だったと言う事だろう。
 それに気付いて、訂正を入れる。
「別にこの学園に尊敬する人が居ないと言っている訳ではないんだがね……。これも性分
だ。気にしないでもらえると助かる」
 相田教諭はわずかに顔を顰めた。

 相対する白衣の人物。
 それが引き金になり、ふと記憶がよみがえる。
 ここと同じような白い部屋。
 同じように棚に並んでいる薬品。
 そして、相田教諭と同じように白衣を纏ったその部屋の主。
 NTTT。
 学園のカウンセラー。主に精神的な負担を取り除く、珍しい保健教諭。専用の部屋を持
たない彼と会ったのは、千鶴先生の受け持ちの保健室だった。
「無理をして完璧を求めるのは、止めた方がいいね。あと、人は万能ではないってことを
理解した方が楽になれると思うよ」
「完璧?」
 別にそんな事を考えた事はなかった。
 これまでただ、自分に出来る事をやろうとしてきただけのはずだ。
「尊敬する人はいくらでもいるって、言いましたよね?」
「ああ」
「でも、その人に会って敬語を使おうとすると抵抗がある」
「そうだ」
「簡単な心理ですね。つまり、自分より優れた人物。たとえそれがどのような形であれね。
そういう人物を、君は本心から尊敬している。だが、同時にどうしても許せないものがあ
る。そのせいで本心で認めていても、言動ではそれを否定しようとする訳です」
「許せない……もの?]
「劣ってる自分自身ですよ」
 言われた意味を理解した途端、激昂した。
 ふざけるなと、そう思った。
 だが、だからといってこれといった行動を取った訳ではなかった。
 納得したからだ。
 ――俺自身は自己嫌悪の塊。姉貴は自己犠牲が身に染み付いてる……。自身を軽く見て
いるという点では、さほど変わりはない……か。離れて暮らしてたのに、変なところだけ
よく似た姉弟になってしまったもんだな。
「……なるほど」
 やや嘆息混じりに呟く。
「おや、間違ってましたか?」
「ムカついたよ。ということは、貴方は正しい事を言ってるんだろうさ」
「もう少し自信を持つ事ですね。そして、自分を許してやる事です」
「ここに来る人間全員に言ってるのか? そのセリフ」
「まさか。誰に対してでも同じ事を言ってるようではカウンセラーは務まりませんよ。と
は言えあなた方の年頃なら、ただ自信を持てと言うだけで解決することは比較的多いです
ね。まぁ、あまり気にしない事ですよ」
 刺激し過ぎないよう言葉には注意しながら、言いたい事はしっかりと言う。
「……もしカウンセラーというものが、みんな揃って貴方みたいな口のきき方をするのな
ら」
「するのなら?」
「カウンセラーは世界で一番ムカつく職業だ」
 NTTTは笑っていた。

 ――俺と、Runeと、相田教諭と、NTTTと、柏木校長……か。白衣を着てる人間
にロクな奴は居ない、とまでは思わないが……あまり良い話を聞かないのは確かだな。 
 とりあえず目の前で座っている女性に関してはあまり顔を合わせた記憶が無い。噂も、
良いもの悪いもの含めてほとんど聞いた覚えが無い。その理由の大半は、やはり保険医と
言えば柏木千鶴校長――さらに高校一年生兼任――の悪名が知れ渡っているからであろう。
「ま、いいけどね」
 最初の印象通りというべきか、意外とあっさりと、相田教諭は朔の言葉を聞き流した。
「ところで阿部先生とギャラくんは? 居ないみたいだけど……」
「さあ? 私が戻ってきたときにはすでに居なかったようだが?」
「…………」
 ジト目。
「……なんだ?」
「まさか……キミが?」
 相田教諭も一応、綾香の怪我の経緯は治療のときに聞いている。
 そして彼女の目の前に居る少年と綾香の関係は、この学園ではかなり有名だ。
「うたたねしているだけの人間に気付かれずに、大の男を二人、どうやって運び出せと言
うんだ?」
 朔は少し不機嫌そうにその問いに答えた。
 ――俺は暴力や破壊の権化か?
 自問してやはり、そうした行動を取ってしまう己を嫌悪した。
 外れている気はあまりしない。
 気分はドロ沼だ。
「そ、それもそうよね〜。じゃ、どこに行ったか……」
 もともと悪い目つきが輪にかけて悪くなった事に脅えたのだろう。
 相田教諭の声がどもった。
「わかる訳がないだろう。さっき言ったように、ここに戻って来た時にはもう居なかった
んだからな」
「困ったわね。もうちょっと寝とかないとダメなのに……」
「治療は済んだんじゃないのか?」
「治療はしたわよ? でも怪我で体力落ちてるし、時間が経てば具合が悪くなるかもしれ
ないでしょ? 経過観察はしといた方がいいんだけどねぇ」
 まぁそこまでする必要があるようなものでもなかったけど。と、口の中で付け足す。
 ギシッと椅子を軋ませ、相田教諭は椅子から立ち上がった。
「しょうがないわね。ちょっと捜してくるわ。しばらくここにいるでしょ?」
「それは、そのつもりだが……」
「留守番、お願いね」
「いいのか?」
「なにが?」
「教師ともあろう者が無防備に眠っている妙齢の女性と、すぐに見境をなくす年頃のケダ
モノを残して出ていっていいのかと、そう聞いてるんだが?」
 腕を組み、ふんぞり返った態度で言う朔。
 さすがに相田教諭の顔が引き攣った。
「それ、貴方自身と来栖川綾香さんの事よね?」
「他に誰が居る」
 迷い無く断言。
「……ま、いいんじゃない? 少なくとも貴方は女の子の寝込みを襲うタイプには見えな
いし」
「教師から見ればただのガキかもしれないが、私だって一応は男なんだが……?」
「……ああいうことを平然と言える時点でタダ者じゃないと思うけど。……ま、それはと
もかく。私も一応人を見る目は持ってるつもりだからね。貴方を信用するわ」
「信用に足る人物とは、とても思えんのだがな……」
 やれやれと肩を竦めながら朔が嘆息する。
「能天気なコトだ」
「少なくとも来栖川さんに信頼されてるのは確かでしょ? 私から見ても、素直じゃない
点以外は合格点よ」
 朔は不機嫌そうに舌打ちした。
 ハナからそんな行為に及ぶ気はないにしろ、こうもはっきり断言されるのは気分的にな
んとなく楽しくなかった。特に信頼されているなどと正面きって言われるのは、体中がむ
ずがゆくなってしょうがない。それが憶測による言葉だとしても。
「アラアラ、赤い顔しちゃって〜。カワイイとこあるじゃない。……そんじゃ、あとよろ
しくね〜」
 パタパタと上履き代わりに使っているらしいスリッパを鳴らしながら、相田教諭が保健
室を後にする。
 頭をガリガリと掻き毟りながら、朔はポツリと呟いた。
 大らかで能天気でずけずけ物を言う。
「やりにくい教師だな……」
 だが、決して嫌いなタイプではない。
「さて……」
 ふと気付いたかのように、周りを見まわす。
 が、捜しているものは見つからない。
「椅子は……相田教師のだけか」
 戻ってきた時に占領しているのもなんとなく気が引ける。
 ――と考えるという事は、それなりにあの人物を認めたという事か……。
 が、かといって立ちっぱなしというのも少し疲れる。普段ならどうということも無いが、
テニスの試合をこなしてから、ゆっくりとは休んでいない。
 朔はしばらく躊躇した末に決断した。ゆっくりとカーテンを開け放ち、綾香のベッドの
枕元に腰掛ける。
 ――顔を覗き込んでると、野生の衝動に目覚めそうだからな〜。
 情けない表情で、朔はため息を吐いた。
 ――脈拍数上昇。やや発汗有り。視点は定まらないまま移動中……。おお、動揺してる
動揺してる。
 苦笑が浮かぶ。
 こういう時、頭のどこかは妙に冷静で、客観的に眺めている自分が居た。それがないの
は何も考えられないほど動転している時くらいだ。
 端から見る滑稽な自分自身に呆れ、笑う。
 とりあえず視線は外に向け、白衣の懐からリンゴと果物ナイフ。白い、底の浅い皿を出
し、リンゴを剥き始めた。
 ――剥く……。というと、服を剥ぎ取る……。
「だぁっ!! 何を考えてるんだ俺はっ!?」
 一瞬浮かんだ淫らな想像を、無理矢理頭の中から放り出し、しっかりとリンゴに視点を
定める。
 そよぐ風の中、シャリシャリと皮を剥く音だけが響き渡る。
 いつもなら丸噛りするのだが、それでは時間を潰せないと思ったのだ。
 それに、何かに集中していれば、余計な事を考えなくても済む。ノッケからいきなり失
敗しかけたが、強引に記憶から削除。
 ――俺は何も考えない。何も考える必要がない自動皮剥き器だ! いいから集中してろ、
このグズッ!
 心の中で罵声を発しながら器用にナイフを操り――正確にはリンゴを操り、となる。リ
ンゴの皮剥きのコツはナイフを固定してリンゴを回す事にある――リンゴの皮が唐突に剥
き終わる。ゴミは足元のごみ箱の中に落とした。
「…………」
 しばし黙考した朔は果物ナイフを懐にしまい、次いで刃渡り30cmほどの軍用ナイフを
引き抜く。
 軽く構え、リンゴをヒョイと宙に放る。
 白刃が一瞬で三度煌いた。
 リンゴを放ると同時に手に取った皿の上に、綺麗に六等分されたリンゴがストンと落ち
た。いや、落ちたという表現は適切ではない。リンゴにはほとんど衝撃を与えることなく
受け止めた、と言うべきだろう。
「フム……」
 満足げに肯くと、それぞれの芯を切り取り、捨てる。
 リンゴ剥き、完了。
 また少し考える。
 ――思ったより時間潰しにならんな、これ。
「……ゴツいナイフ取り出して何をするかと思ったら」
 肩越しに振り向けば、瞳を開き、微笑んでいる綾香の顔があった。
 鉄面皮の裏で動揺を必死に押し殺し、
「起きたのか。……要るか?」
 言って、皿を持っている方の手を少し上げる。
「頂くわ。あ、イタタ……」
 綾香が身体を起こそうとして顔をしかめ、お腹を押さえた。
「痛むか?」
「……ちょっとね」
「無理はするなよ」
「しないわよ。いただきま〜す」
 勢いをつけて身体を起こす。
 ヒョイッと手を伸ばしてリンゴを掻っ攫い、そのまま口に運んだ。
「あら、美味し」
「それは重畳」
 朔はクスリと笑い、一度大型ナイフを手の中でクルクルと弄ぶと、懐へと戻した。
 ――会話が弾まないのはまだ動揺している証拠だろうか?
 また少し焦る。
「……でもリンゴなんてどうしたの?」
「え? ああ、怪我人や病人への見舞いは果物か花と相場が決まってるからな。幸い、第
一購買部で売っていない生物はほとんどない。たまにドドリアが無い事に感謝したくなる
くらいだ」
「果物の女王様ね。味は最高だっていうけど……」
「匂いは強烈だそうだからな」
「ゴリラの大好物だって聞いた事があるわね。一度仕入れるように頼んでみようかしら?」
「勘弁してくれ……」
「どうして?」
「匂いがきついものは総じて苦手なんだ。例えばニンニクはダメだし、キムチなんかも近
付きたくない。別に俺が食べる訳じゃないにしても、50m以上離れてても匂うという話
を聞くとさすがに恐い」
 綾香は屈託無く笑う。
 ホッと一息。
 ようやく肩から力が抜けたような気がした。
 他にも他愛のない、どうでもいいような会話を続ける。
 今はそれが楽しいし、それでいいように思う。
 ――ま、俺にとっての幸せは、こいつの笑顔を近くで見る事だしな……。
 それ以上は、望まない。
 多くを望むのは欲張りというものだと、そう思っている。
 こういうところがまったく進展もせず、破局もしない理由と言えるのだが。人間一度安
定を得てしまえば、それを失いたくないと思ってしまうものなのだ。
 暫くそうしていて、ふと思い出したように綾香が尋ねた。
「そういえば、ハイドの試合どうだった?」
 それに応えるように、朔が少し顔を顰める。
「……ハイドラント達が勝った。というより、負けなかったというべきかな」
「どういうこと?」
「今から説明する」

 ・
 ・
 ・
 ・
 ・

「……とまあ、そういう展開だったわけだ」
「なるほどねぇ……」
「アイツらしいと言えば、それまでなんだがな」
「かもね」
 少しの感慨を抱いたのか、そこで少し会話が止まった。
「……綾香」
「ん?」
「大会の事で少し話がある」
「なに?」
 キョトンとした顔。
「これまで俺達は普通に……ごく普通のルールでのテニスの練習をしてきた。個人技で言
えばスライスやスマッシュの打ち方。それに磨きをかける方法。二人の呼吸を合わせるの
にも苦労したな」
 何を今更と思いながらも、綾香は肯いた。
「……幸い、というべきか、球遊び程度とはいえお前がテニスの経験があったのは助かっ
た」
「まぁ、長い休みに遊びに行くトコの中にはテニスコートがあるとこもあるしね」
「で、率直に言おう。この大会、優勝を狙うのはさして難しくない」
「え?」
「テニス経験者がほぼ全員……。特に県大会以上に出た事がある選手が敗退している。俺
達のキャパシティ――運動能力――なら、残り大半の選手を圧倒する事は決して不可能じ
ゃない。組み合わせにもよるが、充分優勝を狙える」
 俯き気味だった朔が顔を上げ、綾香と視線を重ねる。
 二人の声も。

「これがただのテニス大会なら」

 重なる。
 綾香はクスッと、朔はニヤリと笑みを浮かべた。
「観戦してた限りじゃ、普通にテニスをしてたところはないわね。……姉さんくらいかな?」
「俺の記憶でもそんなもんだ。……で、対抗策をいろいろ考えてみた」
 ゴソゴソと懐を探り、テニスボールを取り出す。
 それを両手の人差し指と親指で摘み、
「本物は、ど〜っちだ?」
 問うたその時には、両手にそれぞれボールが摘まれていた。
「……え?」
 どちらの手にあるのも、なんの変哲もない、ただのテニスボール。そう見えた。
 視線を落とす。
 影がない、などというお約束な展開は勿論用意されていない。
 朔は右手に持っていたボールを布団の上に落とした。
 ボールは布団で鈍く跳ね、止まる。
 右手に目をやれば、まだボールが摘まれたままでそこに存在していた。
「どれが本物だ?」
 また問う。
 朔が取り出したのは、確かに一つだけだった。
 しかし、今綾香の前には三つのボールが存在している。
 ――どういうこと?
 手品……ではなさそうだ。
 魔術による幻覚。
 それが一番近い気がする。
「これ……じゃない?」
 迷った後、綾香は布団の上に落とされたボールを選んだ。
「正解。何故わかった?」
「本物はって言ったから……三つのうち二つは幻よね?」
「ああ」
 肯くと同時に、手にあった二つのボールが消え失せる。
「ボールの重みで布団が沈んでるわ。幻に重さがあるわけないから、本物はこれしかない
って思ったのよ」
「御明察。……気功術の応用だ。と言っても誰にでも出来るものでもないがな。うちの流
派では舞陽炎と呼んでいる。……魔術を用いないでこれと同じようなことが出来るのは、
俺の知る限りならディアルトだけだな」
 敗退してくれて助かった、と、朔は肩を竦めた。
「あいつは物質化するが、俺は気で幻を操る。幻術士ほど多彩にって訳じゃないし、いろ
いろ制限があるが、試合で相手を誤魔化すことくらいなら充分可能なはずだ」
「でも、相手のコートに気や魔術を打ち込むのは反則でしょ?」
「打ち込む必要はない。相手コートに入る寸前で消す」
「……なるほどね」
 綾香は納得顔で肯いた。やや浮かない顔で。
 テニスは高速弾の応酬だ。一瞬でも迷いを作れば対応に失敗する可能性が格段に上がる。
「作り出せる幻はいくつまで?」
「7。さらに打つ人間……まぁ俺自身の事だが、これをコピーすれば7×7で49になる。
それをやるとさすがに疲れるけどな」
 制限のひとつは発動する瞬間、手近にコピーする対象があること。
 この技法はあくまで複写であり、創造ではない。
 もうひとつは幻に複雑な動きをさせるには、ある程度の集中が必要になる事。
 これは今回さほど問題にならない。
 ボールはほぼ直線に飛ぶだけだし、打つ人間をコピーする時は、複数の人間が打つとい
う行動を見させて惑わせるのが目的だ。むしろ幻は完全に同期している方が望ましい。
 分身はサーブ以外では使えないだろうが、幻を見極められずにいたなら、取れる可能性
は相当低くなるはずだ。
 たとえ幻と本物を見切ったとしても、自分めがけて飛んでくる軌道のボールを無視する
のは難しいだろう。
 身体が竦めば、あとはボールがコートに突き刺さるのを見送るだけ。
「見た目だけでなら見破られない自信は充分ある。……工作部がマス・スキャナー――質
量計測器――でも造ってこない限り、だけどな。使用回数の制限はさほど気にする必要は
ないと思う。なにしろ出すのはほんの僅かな時間だけだ。さほどの苦にもならないだろ」
「……欠点は?」
「音は作れない」
「とすると、分身する方は見破られる可能性は結構高いのね」
 朔は肯いた。
 綾香は彼の方を見てさえいなかったが、それはそれとして有効性を検討してみる。
「でも分身を見破るために攻撃を仕掛ける事も出来ないし、気や魔術を叩き付ける訳にも
いかない。……察知の魔法も通じないわね」
「ボールを気でコーティングすればな。……気配の察知に卓越している人物なら、あるい
は見抜くかもしれないが」
 髪をいじり枝毛を捜しながら、綾香がまた肯く。
「気をボールに込めて弾丸にするばかりが芸じゃないって事だな。俺にとっては特別な訓
練も要らない、楽な技術だ」
 やや得意気に朔。
「でも残念な事ながら、お気に召さないようだな」
 一転して肩を落とし、嘆息する。
 どうやら苦心して考えた案は、彼女を喜ばす事が出来なかったらしい。
「……ゴメン」
 微苦笑して、綾香はペロッと舌を出した。
「謝るなよ。こういう時に謝罪されると、受け入れられない馬鹿な案を出した自分がどう
しようもない無能に思えてくる」
 苦い表情。だが別に怒っている訳でもない。
「理由は?」
「…………」
 綾香は顔を伏せ、沈思黙考。
 確かに大会のルールという条件下では、隙のない技能と言える。
 これを使えばどんな相手であろうと、かなり有利に試合を進める事が可能なはずだ。
 だけど。
 だからこそ。
「勝っても、喜べないと思うから」
「……ふむ」
 綾香の出した答に、朔は困った表情で肯いた。
 綾香自身は晴れやかな表情で、自分がそう言えた事を喜んでいるように見えた。朔の困
惑はさらに深まる。
 ――理解し難い答えだな。
 そう結論する。
 この大会に参加したのは優勝を狙ってのことだ。勝つために最良の手を選ぶのは当然の
事だし、ルールに抵触するわけでもない。
「何故、そう思うのか参考までに聞かせてもらえるか?」
「テニスって競技から逸脱してる……ように思えるし、ズルをしてるようでスッキリしな
いわ。そんなの」
「ズル? 別にルールに触れることをする訳じゃない。他の参加者がやっていることと、
なんら変わらないはずだ。違うのか?」
 カチンと、朔の心に触れたものがあった。
 しかし不機嫌に応じた朔以上に、綾香の機嫌は悪かった。
「違うわよ!」
「何が違う!?」
「テニスを侮辱してるわよ、それは!」
「なに、を……!」
「そんなこともわからないの?」
 眦を釣り上げた綾香自身、正直なところ明確な理由があった訳ではない。
 ただ邪魔だと感じてしまったのだ。相手と全力を尽くして戦うというのに、そんな小細
工をされては楽しめないと思ってしまったのだ。
 彼女は朔の提案を受け入れれば、勝てると無意識のうちに判断していた。
 彼女が労するまでもなく、勝ちを手にする事が出来る。それほどに強力な手だと判断し
ていた。
 それはもしかしたら誤った認識かもしれない。
 だが、自分の手柄でもないのに楽に勝つ方法などというものを受け入れるには、彼女が
これまでに築いてきた功績は大きすぎた。
 それはテニスという分野ではなかったが、スポーツを愛する少女のプライドは許さなか
った。
「私はテニスをするために参加してるの! 大道芸で勝ちたいわけじゃないわよ!」
 気付いた時、彼女はそう言い放っていた。

                                  (後編へ続く)

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悠朔   「引退表明してからの復帰第一弾! 第一弾は部活編のはずだったとか、風紀
     動乱の続き書くつもりだったとか、魔王大戦はどうしたとか、合宿編進まない
     ねとか、下は書いてないのかなどという言葉はまったく聞こえないのであしか
     らず」
来栖川綾香「……。ま、私は関係ないからいいけど。いきなり仲が険悪ね……」
朔    「……はて? テニス編ではラブラブのはずだったんだが。どこでどうなった
     らこうなるのやら」
綾香   「あれじゃない? 『余裕がない綾香なんて綾香じゃな〜い!!』って言って
     たの」
朔    「あ〜、それもある」
綾香   「も?」
朔    「どうも綾香が可愛いと言えないし、自分にひたすら都合のいい話ってのも面
     白くない。で、適当に動かそうとしたら、面白い方向に勝手に進んでくれたん
     で、こいつはいいやって書いてたような……」
綾香   「……改正はうまくいったの?」
朔    「毎度の事ながら、綾香の魅力を表現し切れてないなぁ。もうちょっとなんと
     かできる技量があればいいのに……」
綾香   「ともあれ、後編に続きます」
朔    「期待してお待ちあれ……」