テニス大会Lメモ激闘編(下) 投稿者:悠 朔

「……言ってくれるじゃないか」
 悠朔は瞳に強烈な怒りを宿し、激甚を堪えながら鋭く呟いた。
 ずるい、卑怯、汚い等という感想を貰うのは別に構わない。むしろ誇れる。それは相手
を出し抜く事が出来た証なのだから。
 だが、来栖川綾香が放った言葉。
 大道芸、というそれは、明らかに侮辱だった。
 一朝一夕で為せる技ではない。努力と修練の果てに体得した技術を見世物――それはそ
れで優れた技術だとは思うが――のためのものと侮蔑をこめて同列視されれば、平静では
いられない。
 いられる、はずがない。
「一応言っておくが、この大会においてテニスと定義されるのは大会のルールに準じたも
のだ。……極端に言えば標準的なテニスルールの大まかな部分だけを残し、あとは進行に
差し障りがなければ何をしても良い、というな」
「だから……なによ?」
 かすかに戸惑いを含んだ綾香の声。
 朔から表情が消えた。
 代わりに瞳に宿ったのは酷く冷淡な、侮蔑の色。
 あるいはなにも宿してなど居なかったのかもしれない。だとすれば、それはただ、相手
を観察するだけの視線。
「大道芸……ね」
 呟いて、苦く笑う。
 というか、朔としてはそうするしかなかった。
 価値観があまりに違い過ぎる。
 怒りが心頭に達し、それを過ぎて訪れたのは寂寥感だった。勝ちにこだわるという点の
みで言えば、それがために学園一の鬼畜と呼ばれる風見ひなたとおそらく良い勝負だ。二
人とも己の価値を強さにしか認めていない。敗北はアイデンティティの崩壊を意味する。
自ずと、渇望するようになる。
 勝利を、ただ。
 ただただそれだけを。
 たとえそれがどのような手段によってもたらされたものであろうと、関係ない。負けれ
ばなんの意味も無いのだ。
 理解されないということがこれほど悲しいものだとは、朔には思いもかけないことだっ
た。
 ――理解……されたかったのか? 俺は……理解されるよう、努力したか?
 ククッと、笑いが零れる。
 朔は突然理解した。
 自分が誰の理解も求めていない事。誰も信用していない事を。
 想い人である綾香にさえ。
 己の心の狭さに、腹が立つ。
 ――もうどうでもいい……。
 酷い脱力感が襲う。
「そこまで言われてはしょうがないな……。残念ではあるが、楽しい経験だった事を良し
としよう。どこの誰が手引きしたのか知らないが、見つけたら感謝したいところだな」
「……え? なに……が?」
「大会運営委員には棄権すると伝えておくよ。怪我の治療を急ぐ必要はないから、ゆっく
り養生するんだな。じゃ、俺はこれで……」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよっ」
「……何故?」
 立ち上がろうとするのを押しとどめられ、朔は心底不思議そうな顔で尋ねた。
「何故って……なにいきなり無茶苦茶言ってるのよ? そりゃ、その……私の言葉も……
過ぎたものだったと思うけど……だからって……」
 後半の言葉には力はない。
 が、誤りを誤りと正直に認められるのは彼女の美点だろう。
 それも今は何の役にも立たないが。
 悲しいかな、それを聞き入れる気が、相手になかった。
「気にするな。どっちにしろそうするつもりだった。お前の言葉はきっかけのひとつだと
はいえ、気に病むほどのことじゃない……」
 理由が酷く我が侭なもののような気がして、気が引けたんだけどな。
 そう言ったあと、それこそどうでもよさそうに言葉を付け足す。
「どのみち、この状態じゃろくなチームワークを期待できないだろ。負けが目に見えてる
んだから同じ事だ。怪我を理由にすれば、運営委員も納得するだろうさ」
 突き離した。
 酷く無責任に。
 なにも説明しようとしないままに。
 今回のテニス大会は男女ダブルス(ミックス)の形式で行われている。選手の交代など
認められていないし、一人で参加する事も不可能だ。朔が止めると言っている以上、これ
を押しとどめない限り、綾香が継続して参加する事は不可能になる。
「あのさ……。私は、納得しないわよ」
 鉄面皮を装いながらいらつく朔を前に、のほほんと、綾香は言い切った。
「ここで勝手に下りたりしたらぜ〜ったい、許さないからね?」
 微笑みさえ浮かべて。
「説明ぐらいはしろ、ということか?」
「私を納得させる自信があるならそうすればいいんじゃない? とは言っても、私は身体
が動く限り参加するつもりだし、そのためにはあなたが必要だって事も忘れてもらっちゃ
困るわ」
 つまり綾香はどうあっても次の試合を棄権する気はないということだ。そして、共に参
加した責任を取れと、言下にそう言っているのである。
 フム、と朔は肯いた。
 それを見て、少し綾香の表情が翳る。不安そうに。
「私の言った事……怒ってる? だから?」
「いや。だからさっき言ったようにそれはどうでもいいんだ。確かに一瞬腹が立ちはした
けどな。理由はやはり我が侭……かな。俺の意地の問題……と言ってもいいかもしれない
が……」
 ガリガリと頭を掻く。
「言っても多分、お前にはわからないだろ」
「……あっ、そぅ」
 綾香の視線が酷く冷たい。
 が、それも仕方ないと諦める。
 ――言ったところで、納得する訳が無いだろう。
 結局のところ、朔が気に入らなかったのは朔と綾香にとっての第一試合――彼らはシー
ドだったので、対戦相手のギャラ、阿部貴之組にとっては第二試合だった――の経過だっ
た。
 苦戦したのが気に入らない、というのではない。
 彼らは十分に強かったし、実力以上の力を発揮するために策も弄し、立派に戦った。
 最初はおちゃらけた態度で油断を誘い、結果、朔達は敗北する寸前だった。
 甘く見てしまった。労せずして勝てる相手だ、と。綾香がそのせいで怪我をした事も、
朔の心を暗雲で覆った。
 もしその心情を綾香が知ったなら、きっと怒っただろう。彼女はただの女の子ではなく、
一人の格闘家でもある。他人の庇護下にあることを良しとするような人物ではない。
 ――だから……どう考えてもこれは、俺の我が侭……だよなぁ。
 意趣返しにやっきになり、試合を見失った。怪我人を延々とコートに立たせっぱなしに
してしまった。揚句、綾香がフォローしてくれなかったら、今ごろ看護ベッドで高いびき
をかいていたところだ。
 激情にかられ、勝利を最優先させる事も出来ず状況に振り回され、まんまと敵の思惑に
はまるところだったのだ。
 ――情けなくて涙が出る。
 言い訳のしようもない。それは朔にとって恥以外のなにものでもなかった。
 ――俺に資格があるのか? 相手を軽んじ、延いてはテニスを馬鹿にしてしまった俺に、
大会に参加し続ける資格が……。
 朔にはわからなかった。
 だから迷い続けている。
 様々な迷いを内包しつつ。



 ずっと、思っていた。
 強くなりたい。
 誰にも脅かされぬほどに。誰をも圧倒できるほどに。
 己の意志を貫き、生きるために。
 敵を屠る牙さえあれば。敵を切り裂く刃があれば、守れると思っていた。自分が守りた
いと望んだものくらい。絶対ではなくても、その程度の強さは備えていると、そう思って
いた。
 無知が生んだ、傲慢な己惚れ。
 ギャラと貴之との試合中、己の油断を悟った時、朔は愕然とした。
 全力を以って敵と相対していなかった事に。
 集中力を持続できなかった事に。
 それは明らかに弱さに繋がる。
 テニスはあくまでスポーツだ。負けたところで死人が出る訳ではない。敗者が蔑まれる
訳でもない。だが、それでも勝負事である事には変りはない。精神的な強さは、他人と競
うものにおいて最も重要視されるもののひとつだ。
 ――心が弱くなってる……? 以前よりも?
 強さだけを渇望して、そうして生きてきたつもりだった。
 かつて、守れなかった大切なもの。
 あんな想いはもうしたくなかった。己の弱さが原因で何も守れず、何も救えなかった、
あんな想いだけは、もう二度と。
 ――それなのに!!

 手の届く場所に居たのに、守れなかった。

 絶望的な重圧となって、その思いが朔の心に圧し掛かる。
 ――俺はどうすればいい? お前なら……答えられるか? 綾香……。
 今、何よりも大切だと、守りたいと思った人。
 それを為せないなら、ここにいる己になんの意味があるのか。朔はそれを見失っていた。
 言葉にしない思いには、無論彼女は答えない。



「どうもわからんな」
 内心の葛藤を押し殺し、暫く沈思した後で、朔はそう呟いた。
「どうしてそこまでこだわる? 仮に優勝したとしても、お前にとってそれほど益がある
とは思えないが」
「そう? 優勝賞品は鶴来屋の二泊三日宿泊権でしょ? 充分凄いじゃない」
「その言葉。とても本心とは思えんな」
 言下に一蹴する。
 なにしろこの少女は天下に名だたる大企業、来栖川グループの御令嬢なのだ。確かに一
般ピープルにとっては温泉旅行はちょっとした贅沢だろう。だが彼女にしてみれば、それ
がたとえロイヤルスイートであろうとも、さほど日常とかけ離れているとは思えない。
 これはあくまで質素な日常を送っている朔から見ての事ではあるが、何度か赴いた経験
がある来栖川家の様子を見れば、あまり間違っていないだろう。
「生活環境の厳しい雛山家ならいざ知らず……」
 実質高校生である理緒が支えている雛山家は、事実この学園に在籍する二人とも――理
緒と良太――が大会に参加している。
「まぁ賞品が目当てだって言うなら俺もその程度の貯えくらいあるし、謝罪の意味も込め
て旅行の資金を出すくらいの事は……ど、どうした? 綾香?」
 ギョッとして、絶句する。
 見ればボロボロと、綾香の両の瞳から雫が零れ落ちていた。
 平素より口数が少ないようなのが少し気にかかっていたが、まさかいきなり泣き出すと
は朔の予想外のことだ。
「……どうして?」
 囁くような、かすれた声で、綾香が問う。
「え?」
「どうして、そうなるの?」
「…………」
「あなたが気にしてるのは自分の事ばっかりじゃない。全然、私の事見てないじゃない。
……家が人より裕福なら出ちゃいけないの? 思い出を作ろうとしちゃいけないの? ホ
ントの事言えば別に賞品なんか欲しくない。私が参加しようって思ったのは、あなたと出
たかったからよ……。なのにどうして? どうしてそんな事ばっかり言うのよ?」
 呆気に取られ、朔は声もない。
 ハンマーで思い切り頭を殴られたような気がした。少なくとも朔が感じた衝撃は、それ
ほど大きかった。
 綾香は強い女姓だと、勝手にそう思い込んでいた。
 彼女の華々しい経歴が、それに拍車を掛けた。いつでも余裕を振りまくそのスタイルが、
彼女の本質を見失わせていた。
 そしてどこかで、その強さに甘えていた。彼女がただの女子高生であることを、完全に
失念してしまっていた。
 綾香の言った通りだ。
 他人にまったく目を向ける事をせず、愁うのは自分の事ばかりだ。綾香がどう思うかな
ど一顧だにしていなかった。誰より大切だなどと思いながら、その実、そう思っている自
分自身を可愛がっていただけだ。
 そして、自己満足を無理矢理押し付けようとした。
 彼女が怒るのも無理はない。
「わかったわよ。……もういい! 棄権するなら棄権するでいいわよ。でも! 今後私の
まわりをうろちょろするような真似は、二度としないで!!」
「綾……香……」
「出てってよ! 顔も見たくないっ!」
 絞り出すような呼びかけに対する、強烈な拒絶。
 涙を流したまま顔を背けたその横顔に打ちひしがれる。
 ここでまた自己嫌悪に浸るようだったら、もう救いはなかったろう。確かに彼は、彼女
に我を押し付けていただけに過ぎない。
 だがそれでも、彼女に向けた想いは、偽りの無いもの。
 だから間違えない。
 彼女が言う通りに行動すれば、より彼女を傷つける。その事をもう知っている。この学
園に来てからずっと、彼女だけを見てきたのだから。
 行動するのに不思議と躊躇はなかった。
 そっと手を伸ばし、その身体を抱き寄せる。
「ちょ……っと! なに……するのよ……。出てけって……言ったでしょ!?」
 彼女が言葉と態度で抵抗する。
 が、その力も、言葉の勢いも、決して強いものではない。彼女が本気だったなら、朔な
どにべもなく投げ捨てられていたはずだ。
「すまない……。俺が悪かった」
 素直に謝れない、彼なりの精一杯の謝罪の言葉だった。
 それがわかったのだろうか?
 そう告げた時、綾香の瞳が見開かれ、その抵抗が止まる。
 一瞬止まった涙が、また零れた。
 朔の胸に身体を預け、伏せた顔から雫が落ちる。
 たがが外れたのだろう。そこに居たのは鳴咽を漏らし、肩を震わせる、傷つきやすい年
頃の少女だった。
 泣き声は彼女の髪を撫で続ける朔の耳に、ただ痛かった。



「あ〜もう、まだるっこしい! 泣いてすがってくる女の子目の前にして、ここで抱きし
めるだけにとどめる、普通? 押し倒せとは言わないけど、唇奪うくらいの事してみなさ
いって〜の!」
 保健室の入り口を数cm開けて覗いていた相田教諭が、中の様子をもどかしそうにそう評
した。
 良識有る教師の取るべき行動ではない。が、学園の東スポ娘、長岡志保や、潜伏のカメ
ラマン、デコイの師匠と噂される人物である。実際片手間にフリーライターの真似事をし
ているなどとまことしやかに囁かれるハイエナに、良識など求める方が間違っている。の
だろう。……多分。
「だいたい……出れば学園全体で公認のカップルでしょうに、な〜んで進展しないかな?
この二人は?」
 優勝賞品が温泉旅行にペアでご招待、とくれば、大半の認識はそうなるだろう。相当特
異な例を除いて、少なくとも好意のかけらも持ち合わせていない人物と参加するようなイ
ベントではない。
「無理無理。パパにそんな甲斐性あるわけないもん」
 少しの怒気を含みながら、それに答える声。
 驚愕して下を見てみれば、いつのまに潜り込んだのか、自分とほとんど同じ姿勢の悠綾
芽がうずくまっていた。悠朔と来栖川綾香の娘で、未来からやってきたと主張する少女だ。
「パパは根本的なところで臆病者なんだから。……ま、今回はパパにしては上出来じゃな
い?」
 仮にも娘――自覚の無い悠朔と来栖川綾香にとっては妹みたいなものではあるが――に
ここまで言われては立つ瀬も無いが、事実だからしょうがない。
 彼は自分が気に入った相手に嫌われるのを極端に怖がる。特に、綾香に嫌われる事を。
 だから許可された距離までしか近付かない。
 勝手に相手の感情を推し量り、己の分を越える事が、恐ろしい。
 臆病者と綾芽が評したのはそれ故だ。
「…………」
 さらにその下でボ〜っと中を覗き込んでいた綾香の姉、来栖川芹香が、ゆっくりと上を
見上げると、ボソボソとコメントを述べた。
 少し困惑しつつ。
「え? 見つかってます? ……あやぁ」
 相田教諭がそれを受けて天を仰ぐ。
 背を向ける形で座っている朔は気付いていないようだが、綾香は様子を伺いながら、ド
アに向ってかすかに手を振っている。
 朔には見つからないように。
 とりあえず、三人は手を振り返した。ドアの隙間に向って。
「…………」
「悪戯が大成功した時の目です? ……なるほど。きっと内心は得意満面なのね、来栖川
さん」
「ママの方が何枚上手なんだか……」
 綾芽は脱力して、呟いた。
「ファイト、パパ」
 応援は、あまり実を結びそうに、無い。
 哀愁漂う涙目の彼女を称え、今はまだ……ということにしておく事にしよう。



「もう棄権するなんて馬鹿な事は言わない。……それから、あとひとつだけ」
 綾香の泣き声も収まり、頃合いと見たのだろう。
 三人にも、綾香の現状にも気付いていない朔は、大真面目で告げる。
「一緒に参加してくれて、ありがとう。心から感謝する」
「……うんっ」
 顔を隠したままであったけれど、綾香は嬉しそうな声で肯いた。
 多分それだけは、演技で無かった。

 めでたくもあり、めでたくもなし。

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朔 「約束通りラブストーリーと相成りました」
綾芽「……知らないって、幸せよね」
朔 「ん? なにか言ったか?」
綾芽「ん〜ん。なんにも?」
朔 「……その憐れみに満ちた視線が、なんだかとっても非常に気になるが、とりあえず
  よしとしよう」
綾芽「実はまだストーリーは続くのです……」
朔 「……おや?」

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