テニスL『あとは野となれ……』(前) 投稿者:悠 朔

 そもそもの問題は対戦相手なのだ。
 そう、悠朔は考える。
 柏木梓という、鬼。
 これに対抗する手段がこちらに一つとしてない。
 この現実に抗する手段を見つけ出さなければ、次の試合では万に一つの勝ち
目もない。
 次の試合だけではない。仮に上手く勝ち上がったとしても、準決勝でも、決
勝に至っても、まず同じ事態を迎えるだろう。
 それが戦闘巧者である事を自負する、朔の意見だった。
 繰り返しになるが、柏木梓は鬼である。
 柏木耕一や柳川祐也のように見た目の変身こそしないものの、身体の構成そ
のものを変えること自体は変わらない。
 常人を超越した身体能力から打ち出される弾丸。
 これを止める術を、朔達は持たない。
 というより、先の試合で持ち合わせを失ってしまったのだ。
「言っとくが、これはお前の責任でもある」
 決勝抽選会より明けての放課後。
 対策を練る為、兼、見舞いの為に訪れた来栖川家の居間で考えを述べた後、
来栖川綾香に朔は問答無用でそう宣言した。
 見舞いと言っても学園には来ていたし、病気でもない。元気と言えば元気な
ものだ。ただ一点を除けば。
「ど〜してよ?」
 不機嫌そうにぶ〜たれる綾香の――包帯でぐるぐる巻きにされた――腕を、
朔は指差した。
「その腕……。決勝トーナメントまでに完治するのか?」
 極め付けに不機嫌そうに、問う。
「う……」
 綾香はたじろいだ。
 魔術、魔法、気孔、医学的治療。
 それらを駆使したところで完治するとは言い切れない。一度ズタズタになっ
てしまった腕が、そうそう治るものではない。
「"合気"の使用、今後一切禁止な」
 恐ろしくにこやかな笑みで、朔は念を押した。
 相手の力を受け流し、その力を己のものとして転用する格闘技の概念の一つ
を"合気"と言う。単純に力に抗するだけのカウンターなどではなく、大地の力
である重力、相手のバランス、重心移動など、様々な要因を用いる高度にして
シンプルな技法。
「そんなっ! それじゃ梓に勝てな……」
「中途半端な技を万全でもない状態で無理を押して使って失敗して、腕をまた
壊して、それで準決勝を戦うつもりか? 次は鬼と同等の身体能力を持つ獣人
か、仙人と組んでる松原葵だぞ。状況に変わりが無いとさっき言っただろうが」
 声を荒げている訳でもない。
 ただ、普段笑みなど見せない人間が、額の青筋とともに完全に固定した笑顔
で淡々と言葉を紡げば、そこに迫力が宿るのは当たり前過ぎる。
 そもそも相手と接していない状態でその"合気"を使おう、という発想が朔に
は無い。それを成功させたその時点で、彼女は朔の先を行っている事を証明し
ている。
 朔には同じ真似は出来ない。
 だからといって、綾香にやらせる訳にもいかない。
 獣人であるXY-MENは勿論だが、朔はT-star-reverseの、というより仙人の能
力を高く評価している。"合気"は日本独特の進化を遂げた概念ではあるが、大
陸に伝わる武術をその本流としていると言えなくも無い。
 気孔の扱いは仙人の十八番。それこそ弟子入りしたいほどだ。
 彼が何をやってきたとしても、おかしくは無い。
「格闘技の練習をサボってたお前の慢心が原因だ。と言っとくぞ。もう一回」
 先の決勝戦。完璧で余裕のあるお嬢様。その仮面が剥ぎ取られ、全力で戦う
姿を晒したからこその勝利だった。
 だから、綾香から反論の言葉は出ない。出しようが無い。
「ま、原因は大体わかってるから深く追求はしないけどな。……つまんなかっ
たんだろ? 去年のエクストリーム。総合格闘技を謳って大々的に開いた大会
で、まともに戦える相手がいなけりゃそりゃヘコむわなぁ」
 言って苦笑する。
「強すぎたんだよな、お前。俺だって去年の大会の時のお前と戦えって言われ
たら、すっとんで逃げるね」
 おどけた様子で腕を振る朔を、綾香は鋭い視線で睨みつけた。
「……弱くなった、って言いたいの?」
「落ち着いた分だけ凄みが減ったのは確かだろうな。……火が灯りだしたのは
学内エクストリームを過ぎた辺りからだったか。それでもまだ足りなかった。
しょうがない。"お前"は"人間"が"格闘技"で戦える相手じゃなかったんだから
な。それでも坂下あたりが良い勝負をしたが、勝ってしまった事で、お前は熱
の持って行き場所を失って取り残されてしまったわけだ」
 負けた坂下好恵が弱かったわけでは決してない。
 朔から見れば彼女は化け物の部類に入る。
 単に綾香の規格がそれ以上に狂っていた。それだけと言えば、ただそれだけ
の話だ。
「……どっかで負けていれば良かったのに、絶対的強者っていう地位に自分を
追いつめてしまった」
「そんな、つもりは……」
「お前にはない、だろうが……実際にそうだった事ぐらいわかっているだろう」
 少なからず落ち込む綾香に、朔は容赦無く追い討ちをかけた。
 特に春先の綾香の練習量の少なさは、格闘家としては異常だ。
 家に帰ってから一日2時間程度。
 放課後はセリオと街を散策して、習い事の日にはセバスチャンに追い掛け回
される。部活にも出ていた様子がほとんどない。
 日々みっちりと部活に参加している好恵や葵とは、あまりに大きな隔たり。
 ――負けなかった事が、いっそ哀れでもあるか。
 絶対者が孤独だ、というのは意外と正解なのかもしれない。羨ましい限りな
悩みではあるが、そんな事も思う。
 好恵との戦いで苦戦した事。それすら綾香にとっては喜びだったのではない
かと、朔は思った。
「お前の不幸はエクストリームという会場で、好敵手に出会えなかったことだ。
が、他競技とはいえその驕りに気付いたなら、今自分が何をすべきかくらいは
わかるだろう」
 指摘され、悔しげに顔を歪めた後、綾香は出した結論を口にした。
「サボってた分練習しろって言いたいの?」
「馬鹿かお前は」
 それを極め付けに不快そうに、一刀両断に切って捨てる。
「その腕でなにをどう練習するつもりだ? 試合どころかアスリートとしての
生活まで捨てるつもりか?」
「で、でも」
「でももクソもあるか! いいか、ちょっとでもテニスの練習なんかしやがっ
たら、今度は問答無用でお前を張り倒して俺は棄権するぞ。お前が今やらなき
ゃならない事は、その腕を試合までに治す事。それだけに決まってるだろうが」
 とにかく朔は機嫌が悪かった。
 言葉は選ばない。
 言い方はキツイ。
 さすがに綾香の頬が引き攣った。
「言いたい放題……」
「あん?」
「憶測ばっかりの話を言いたい放題言ってくれるじゃないの! だったら何?
あなたには梓の剛球を打ち返す算段でもあるっていうの!? まさかと思うけ
どツインサーブみたいに相手がヘバるのを待つとか言わないでしょうね」
「同じ手が通じるほど、甘い相手でもないだろな」
「だったらどうするか、言ってみなさいよ!」
「知るか。これから考えるしかないだろが」
 ブチッ。
 自分の言いたい事だけ喚き散らし、相手の意見はしゃあしゃあと聞き流す。
その不真面目な態度に綾香の堪忍袋の尾が切れた。
「こっのっ!」
 普通の女の子ならここで手近なものを掴んで投げつける、というところだろ
うが、良くも悪くも綾香は普通の女の子ではなかった。
 一人の名のある格闘家。
 そう豪語するのは伊達ではない。
 立ち上がりながら拳を固め、ファイティングポーズを取り、そしてそこで顔
を真っ青にしてブルブルと身体が小刻みに震わせながら、硬直した。
「……!! ……!!」
「……だから言ってるだろうが。そんな身体でどういう練習をするつもりだ、
と。本来なら長瀬の爺さんと結託してでも病院に放り込みたいところだ」
 急に無理な動きをしたせいで激痛に見舞われ、涙目になって痛みを堪える綾
香を眺めながら、朔は落ち着き払って紅茶のカップに手を伸ばした。
「対菅生誠治、柏木梓戦がまともな試合になるかは、お前が腕を完治する事と、
俺が柏木のパワーに対抗できる手段を得るのが最低条件だ。違うか〜?」
 軽い調子でそう言って、朔は紅茶の香りを堪能した後で口に含んだ。
 相変わらずここで出される紅茶は薫り高く、美味い。よほど茶の淹れ方に精
通した人物が居るのだろう。
「そういう事だから、動かず静養してるように。暇があるんだったらコイツで
も見てろ。ちょっと前の世界大会のビデオだ。位置取りなんかの参考にはなる
だろう」
 テキパキとした動作で、片手で黒いリュックの中からビデオを抜き出し、テ
ーブルの上に置く。
 もう一度紅茶の香りを堪能し、残りを飲み干してソーサーに戻すと、涙目の
綾香と視線が合った。
「雷が落ちるのが怖いからもう行くが、くれぐれも無理な運動なんかはするな
よ」
「……一遍死んできなさいっ!」
 まあ、罵声としては上品な方ではないかと思う。
「女の子がそういう事を言うもんじゃないな。じゃあな、しっかり治せよ」
 苦笑して、朔は席を立った。


 割と暗示にかかりやすい方なのだろうと、来栖川家を出た後で朔は思った。
 こちらの話術に嵌って、かつては自分がそうであったかのように錯覚を起こ
したのだから、そう思って良いだろう。練習時間が一時期少なかったのは確か
だが、実際に彼女が増長して慢心していたなどという事実を確認していた訳で
はない。
 綾香が言うように、語った大半は憶測に基づいたものだ。それをある程度理
論立てて言い切る事で、錯覚を起こさせたに過ぎない。
 或いは実際にそうだったのかもしれないが、朔にとってはそれはどうでも良
い。再三再四に渡って忠告したように、静養させるのが本来の目的だ。
 とはいえ、あれほどの大口を叩いたのだから、最低限梓に対する方策を完成
させておかなければならないだろう。
「パートナーの責任、というやつかな」
 現在は怒り心頭であろう彼女が期待しているかどうかはともかくとして、そ
れは朔が己の意思でやらなければならないと定めた事。
 まずはデータの洗い直しと戦力分析からだ。

 とりあえず自分達のアドバンテージは、綾香が趣味の範囲ではあれどテニス
経験者であった事。二人とも運動神経に関しては一般より抜きん出て優れてお
り、大会が始まるまでに形になる程度に練習を積んでいた事。
 大会のメンバーの中ではどちらかと言えば正統派のテニスプレイヤーである、
と思う。
 対する菅生誠治と柏木梓。
 誠治は工作部所属で様々な自作の工作機を試合で用い、展開を有利に運ぶ手
助けをしている。梓はその生まれ持ったパワーを生かしきって試合を展開して
きた。こちらも基本的には奇抜な技などを用いてくるタイプでは無い。
 朔としては警戒したいのは誠治の方なのだが、それより前に梓のパワーを封
じなければ試合にならない可能性がある。
 誰がなんと言おうが、朔達は非力な部類に入らざるを得ない。
 無論、これは超常的な力を振るう者達の中では、だが、ベースがただの人間
に過ぎない朔と綾香では、力においては鬼に対抗しえないのもまた明白な事実
だ。
 ツインサーブ――二人の力を一つに束ねたOLHと斎藤勇希の、"愛"のツー
プラトンアタック――を満足に打ち返せなかった事でも、それは証明されてい
る。となれば、梓は最初のうちから力押しでゲームを進めるかもしれない。相
手の弱点を突くのは勝負事の常道だ。
 ――気孔で剛招来を使えれば話は違ってきたんだろうが……。
 防御は回避による機動力。
 斬撃は技量。
 それが朔のスキルスタンスである。
 腕力強化は脚部瞬発力強化に特化した朔にとって、身体能力強化でも苦手な
部類になる。というより、そもそも脚力以外は効果があるのか無いのかすらわ
からないレベルだ。
 やはり、まず梓のパワーを押さえ込む必要がある。
 朔は梓がまだ練習をしているであろう学園へと、再び足を向けた。


 最初は陸上部の方だろうと踏んで運動場に行ったのだが見当たらなかった。
困った事に熱心にテニスの練習を重ねているらしい。
 ますますアドバンテージが減っていく。
 トーナメントに残った中で選手が二人揃って重傷というのは、朔と綾香くら
いのものだろう。
 そう、綾香ばかりではない。
 朔とてOLHの渾身の一撃を受けている。表に出していないだけで、練習な
どしていられる状態にないのは同じなのだ。学園一の闇使いの攻撃が、そんな
軽いものであるはずが無い。
 せいぜい言って、綾香よりはマシ。
 その程度だ。
 となれば、出来る事は限られてくる。
 自分達の力を伸ばせないなら、相手の足を引っ張るしかない。


 殊更目立つ位置に立ち、梓と誠治の練習の様子を眺める。
 彼らが練習の相手として選んだのは、柏木楓と西山英志だった。肉親の縁を
頼ったというのもあるだろうが、英志の動きは格闘技を基本としているだけに
綾香に通じるものがある。楓の動きの速さは単純に朔以上。コンビネーション
の巧みさでは、朔達の遥か上に居る。
 次の対戦相手を想定しての練習であれば、まずこれ以上の人物はいないだろ
う。
 ――この調子で試合になったら、9割がた負けるかな? たまらんね、実際。
 今は梓がメインでゲームメイクをしているらしい。
 緩急を織り交ぜ、その中でここぞと言う時にスマッシュがコートに突き刺さ
る。サポートにまわっている誠治の読みも的確で、隙らしい隙が伺えない。
 英志を綾香に。楓を朔に見たてて試合展開を予想してみると、驚くほど二人
は的確に自分達の動きをトレースしている事がわかる。自分達ならこう動くと、
そう考えた位置にほぼ寸分違わず自分達以上の速さで入り込み、ボールを返す。
 むしろ二人の理想的な動きを表しているといっても過言ではないかもしれな
い。
 それなのに、英志達は押されている。
 勿論練習であるし、梓達が自信を持つのも目的であるはずだから、楓達が圧
倒的に勝利する、などという展開にはしないだろう。
 見よう見真似で動きをトレースしているだけだから、実際には細かな点で異
なっているのが当たり前だ。
 楓は朔よりも身長で大きく劣るし、鬼の力を使ったとしてもその分非力だし
角度がない。
 英志は綾香よりもパワーがあるが、綾香のスライスは英志が打ったものより
もバウンド後の軌道が鋭く、地を這うように低い。
 それらを差し引いても、試合は梓達に有利に進んでいる。
 実際にどうなるかはともかく、苦戦する事だけは間違い無い。
 半ば物思いに耽りながら練習を観察していると、一段落したのか四人はコー
トの中央に集まり討論を始めた。脇でボードに何か書き込んでいた日吉かおり
と秋山登もそれに加わる。良かった点、悪かった点などを指摘しているのだろ
うが、距離が離れているのでここまでその会話は届いてこない。
 しばらく討議した後、六人がまたコート内に散る。
 それを四度ほど繰り返すと、テニスコート使用の限界時間になった。


 女子のクラブハウス前に設置された水汲み場の縁に腰を下ろし、梓が出てく
るのをのんびりと待つ。
 偵察は目立つ位置でやっていたから気付いていただろう。練習が終わったあ
とで誰かが何かを言ってくるかと思ったが、そういう事も無かった。今も同様
で、ここに居る事自体、あまり誰も気にしていないようだ。
 試合まではまだ間があるし、選手同士を接触させない方法は基本的に無い。
 が、精神衛生上であれば、あまり望ましい事でもない筈なのだが。
 ――これから俺がやろうとしているような類の事を、しないとも限らないし
な。
 そうしてしばらくして。物思いに耽る朔の耳が、クラブハウスの中から少し
騒がしい声と足音を捕らえた。
 ドアを開けて、かおりを先頭に、梓と楓が姿を現す。
「よう」
 朔は気軽に片手を挙げて、そう挨拶をした。
 梓の表情に、わずかな険が宿る。
「少し話があるんだが、構わないか?」
「……あたし?」
 視線を受けて、やや不審げに梓が尋ねる。
 朔は頷いた。
「ちょっと、梓先輩に何の……」
 かおりが不機嫌を前面に押し出して文句を言おうとするのを、梓が片手で制
した。
「何?」
 問う梓には答えず、朔は梓の傍らの二人に、それぞれ視線を向ける。
「……姉さん。私は校門で次郎衛門が待っていると思いますから、先に帰りま
す」
 察した楓がそう言い残して歩き出す。
 反射的に頷いて、梓は呟いた。
「次郎衛門?」
 ふと空を見上げる。
 茜色に染まり、夕闇に沈もうとしている空。
「……ああ、そういう時間か」
 一人神妙な顔で納得すると、かおりに視線を向ける。
「ほら、あんたも先に帰んな」
「でも、梓先輩」
「いいから」
「……はい」
 しぶしぶとかおりは頷くと、楓に続いて校門の方へと歩いていった。勿論の
事、朔の傍らを通り過ぎる時の視線は凶悪の一言ではあったが。
「……お〜怖」
 それを見送るともなしに見送って、朔は苦笑いを浮かべた。
「それで、何の用だって?」
「……頼みが、ありまして」
「頼み? あんたがあたしに? 試合に負けてくれ、とか言い出すタイプじゃ
なかったと思うけど?」
「ええ。頼みたい事はまったく逆ですから」
 真剣な表情を作り、頷く。
 意図的に、普段の飾らない言葉遣いを隠して言葉を選ぶ。
「逆?」
「綾香が試合に出ないよう、説得してください」
「……は?」
 梓は一瞬呆気に取られ、次いで呆れたように笑った。
「無茶言いなさんな。あの娘が出るって言ってるんだったらあたしなんかに」
「貴方でなければ止められません」
 途中で言葉を中断させ、朔は断言した。
 怪訝な視線を向けてくる梓に、
「……貴方だけが、綾香にとって対等以上の女性だ」
「対等以上って……あの娘には芹香が居るだろ?」
「芹香先輩は保護すべき姉であり、対等とは言い難い。否定的な意見なら、た
とえ親のものだろうが素直に聞くような奴じゃない事はご存知でしょう。精神
的なものだけではなく、実力的にも対等以上の人間の手で納得させなければ、
あいつは止まりません」
「……そんなに腕、悪いのか?」
 不安げに翳った表情に、諾の返事を返す。
 今無理をすれば、二度と元に戻らないかもしれない。もしそうなっても責任
は持てない。
 医師が言っていたそのままを告げた。
「……それにしたって筋違いじゃないか? なんであたしに言うんだよ。自分
で止めればいいだろ。パートナーなんだから」
「俺では……私では無理だ」
 苦虫を噛み潰したような、そして泣き笑いのような顔。
「もうすでに一度、棄権しようと提案して、却下されました。強攻策を取れば、
私は生涯彼女に恨まれるでしょう。……どうも私は、それに耐えられそうにな
い」
「逆に生涯感謝されるかもしれないとしてもか?」
「かもしれません。が、私は尻尾を巻いて逃げるあいつを見たくないとも思っ
ています」
「矛盾だね」
「ええ。だから、貴方に頼んでいるんですよ。それが私にとっての、最大の妥
協点ですから」
「なるほど」
 少しの間梓は考え、答えた。
「……確約は出来ないよ」
「でしょうね」
 頼んできておきながらさほど期待していない、という態度に、梓が僅かに鼻
白む。
 それを察して言葉を足した。
「出るも出ないもあいつ次第でしょうから。努力していただけるのなら、それ
以上求めるものなどありません」
「……な〜んか引っかかるけど。ま、いっか。用件はそれだけ?」
「はい」
「んじゃ、帰るわ」
 朔が頷くのを確認し、梓は校門に向かって歩き出した。
 それを見送るともなしに見ていた朔に、ふと梓が振り返る。
「ああそうだ。言い忘れたけどさ、どんな事情があろうが試合になったら容赦
しないからな」
「期待してます。手加減などされたら、私があいつに怒られる」
 その答えに満足したのか、梓はケタケタと笑いながら歩いて行った。

 ――ま、こんなもんだろ。
 朔は一人嘆息した。
 梓にとって綾香は身内と言って良い付き合いがある。
 その身内の将来に影響を与えるかもしれない状況にあれば、いくら強がった
ところで試合では精彩を欠くだろう。
 が、
 ――梓の性格から考えたら、吹っ切るまでにだいたい3ゲーム差程度かな。
 試合まではごちゃごちゃと考えるかもしれないが、始まってしまえば余計な
事を考えるのを止めるだろう。
 そう踏んだ。
 ――逆にいえば、3ゲームの差がついて追い詰めるまでの間は有利に試合を
運べると言う事だ。
 特に、梓が綾香相手にパワーヒットを打つのを躊躇すれば、必然的に朔がそ
れを捌く事になる。
 スマッシュは弾速によって、相手が打ち返す体勢を作りにくいというのが利
点だ。
 自分のほうに来る事はわかっているのだ。後は完璧に打ち返す体勢を作りさ
えすれば、どれほどのパワーがそこに宿っていようとも所詮はテニスボール。
打ち返せないものではない。
 まず梓のパワーを押さえる。
 それは良い。
 が、これだけでは長く見積もっても3ゲームの差が開くまでしか持たない。
ほどほどのリードを状態を維持して終盤に持ちこめれば望みも出てくるかもし
れないが、均衡状態でいきなり梓が吹っ切れでもしたらジリ貧に陥るだけだ。
躊躇する梓を綾香が叱責する、などという展開も充分考えられる。
 決定打となる武器が必要だった。