「馬鹿な! そんなはずが……!」 パンデモニウムの中枢部。 柳川の叫びが、胎動する闇を震わせる。 「いや、あの気配は確かにリズエルの守護者。同族の気配を、この我が間違う はずもあるまい?」 答えたのは、炎。 ダリエリのエルクゥそのものである、生命の炎だ。 揺らめくその生命の光が、苦悩する柳川の顔を照らし出す。 「何故だ……何故、あいつが……ジンが生きている!? 『凌辱者』を解放し たのだぞ! それが何故……!」 「さあな」 ダリエリの返事は素っ気ないが、柳川は気に止めなかった……元々、その問 いは独白のようなものだ。 「生きていたとして……何故、俺の邪魔をする? 俺は『最後の審判』を成就 しようとしているのだぞ!? それを邪魔する理由が何処にある!?」 「我の知ったことではない。我はただ、ありのままの事実を告げただけ……さ て、奴に躰を破壊されたのでな。新たな躰にエルクゥが宿るまで、しばしの時 間がかかる。それまでの間、我は眠らせてもらうぞ」 一瞬、炎が輝きを増すとダリエリは消え失せた。 照らすもののなくなった柳川に、闇がまとわりつく。 闇の中でただ一人、柳川は頭を抱えて蹲(うずくま)った。 「何故だ……何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ! 何故だっっっっ!」 答えるものはいない。 闇はただ其処に漂い、審判の刻を待つ。 パンデモニウム頂上部。 破壊されたその部屋に白い少女は『繭』を作り、己が王室とした。 『繭』と呼ぶよりは、『内臓』と呼ぶのが相応しい。 脈動する赤い肉壁。そこに浮かび上がる数多もの血管。 さらに言うならば、此処は『子宮』と呼ぶのがより相応しい。 そして、その胎内に宿るのが、白い少女。 八匹の白蛇を躰に巻き付けた、紅の瞳をもつ少女。 全裸の少女は肉で造られた玉座に座り、白蛇たちの愛撫に身を委ねていた。 白蛇の一匹がちろちろと彼女の耳朶を舐める。 別の一匹は彼女の乳房に囓り付く。 別の一匹は彼女の太股を這う。 別の一匹は彼女の秘所を弄ぶ。 ――おぞましく、淫靡で、神聖。 それが今のパンデモニウムの主人。 清廉だった以前の主人とは、対極に位置する存在。 『凌辱者』。 それが、彼女。 「ジン……」 恍惚とした表情で、少女はその名を呟いた。 「ジン……」 呟いて、近付いてきた白蛇の口腔を貪るように口づける。 昂っているのか。 少女の秘洞から溢れる蜜が、其処を這う白蛇の鱗を濡らす。 「フゥー……」 熱い吐息を洩らし、少女は玉座の一角に手を触れた。 刹那……其処には苦悶に喘ぐ死人の顔が浮かび上がった。 「くすくすくすくす……」 少女は微笑みながら、死人の顔を優しく撫でる。 そして…… 「いぎゃああああああああああああああああああああ!」 爪を立て、死人の顔を引き裂いた。 絶叫をあげる死人に構わず、少女は彼を弄び続けた。 眼球は抉(えぐ)られ、舌が引き抜かれる。 頭蓋が砕け、脳漿が飛び散る。 しかし、そうまでなっても彼が死ぬことはない。 死ぬことが出来ない。 死人は二度死なない。 彼の絶叫に呼び覚まされるように、玉座を埋め尽くすように……否、この王 室総てを埋め尽くすように、死人たちの顔が浮かび上がる。 誰も彼もが、苦悶を、絶望を、悲嘆を、その顔に浮かべて。 無数の死人たちが同時に絶叫した。 むしろ、吠えた。 死人たちの悲鳴はコーラスとなって、この城の主を讃える。 此処は死が終焉する場所。 人はただ、犯されるためだけに苦しむためだけに、永遠を生かされ続ける。 そして彼女が完成されたとき、そのときこそ…… 「………………ンッッッッ!」 死人たちの苦悶の中、少女は絶頂を迎えた。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 『望まれぬ生命』 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― ――勇鬼―― 夜。 星は無い。 月も無い。 あるのはただヨークが落とす影だけ。 総てを飲み込む影だけだ。 影は深く深く、原初の恐怖に根差すように、心の中に染み込んでくる。 其処から逃れる術はない。 影は断罪者の如く徹底的に無慈悲だ。 だからこそ、美しい。 この汚れきった世界の夜空などよりずっと。 影に畏れ憧れ、千鶴はヨークを見上げている。 あの上に彼女の罪がある。 罰を与える刻を待つ、彼女の罪がある。 彼女の罪、『凌辱者』。 ジン・ジャザムの欠片。 世界の生存のため、彼女が犯した罪の証。 彼女の生存のため、彼女が犯した天使の純潔。 「許して……許して、ジン君……」 何千回何万回繰り返しただろう、その言葉。 「帰ってきて……私のところに……ジン君……」 与える喜びよりも 与えられる喜びの方が楽だった。 だから、逃げた。 そして、失った。 ――柏木千鶴……貴様は決して許さぬ。 ――ジンを愛さず、ジンを殺し…… ――ジンを凌辱し続ける貴様は……! 「っっっっっ!!」 頭を抱えて蹲る。 ――五年前に覚悟は決めていたのだろう? 今更、何を恐れる? ――刻は戻らない。そして止まるわけにもいかない。 ――ジン・ジャザムは……死んだのだ。 止めて! 止めて止めて止めて! 責めないで! これ以上、責めないで! 「許して……許して、ジン君……」 何千回何万回繰り返しただろう、その言葉。 言葉の還る場所は無く、ただ彼女の中を駆け巡る。 救いを求める言葉が、彼女を苛み続ける。 夜。 星は無い。 月も無い。 あるのはただヨークが落とす影だけ。 総てを飲み込む影だけだ。 影に畏れ憧れ、ゆきはヨークを見上げている。 紋章が焼け付くように熱い。 紋章が哭いているのだ。 護れなかった記憶が拳を苛んでいるのだ。 脆弱な己の拳を憎んでいるのだ。 「ヨーク……総ての悲劇は彼処から始まった」 かつて雨月山に血華を咲かせたもの。 柏木家に鬼の血の呪いをもたらしたもの。 世界を破滅に導いたもの。 そして今、世界に審判を下そうとするもの。 「ジン先輩……貴方が何を考えているか、僕には分からない」 拳の熱さは既に痛みへと変わっていた。 だが、その痛みが今は心地よい。 この痛みを感じている間は、彼は守護者で在り続けられるのだから。 灼熱の拳を左の掌に叩きつける。 「ただ守護者には永遠に変わらない単純(シンプル)な意味がある。そうです よね、ジン先輩……」 今度は拳を天に。 ゆきの拳から放たれた電撃が夜闇を引き裂く。 電光に紋章に、ゆきは静かに誓った。 「初音ちゃんは……僕が護る」 夜。 星は無い。 月も無い。 あるのはただヨークが落とす影だけ。 総てを飲み込む影だけだ。 影に畏れ憧れ、初音はヨークに祈っていた。 「ヨーク……お願い……私の声を聞いて……」 心を繋いだヨーク。 彼女の友達。 だが今ヨークを支配しているのは、世界を憎む者。 彼女の祈りは届かない。 初音は胸元にぶら下がっているペンダントを握り締めた。 蒼く静かに輝く、彼女のお守り。 叔父の賢治が彼女に与えた、大切な思い出の結晶。 「叔父ちゃん、守って……お姉ちゃんたちを、ゆきちゃんを……みんなを守っ てあげて……」 ……祈ることしか出来ない。 いつも自分は祈るだけだ。 みんなが苦しんでいるとき、傷付いているとき、何も出来ない。 そんな自分があまりにも悔しすぎて、みんなを守れるだけの力が欲しくて、 それすら祈るしかなくて。そんな自分が大嫌いで。 彼女は、泣いていた。 夜。 星は無い。 月も無い。 あるのはただヨークが落とす影だけ。 総てを飲み込む影だけだ。 影に畏れ憧れる皆を、M・Kはただ一人見守っていた。 どうしようも無い歯痒さに耐えながら。 柏木邸の夜は、それぞれを想いを秘めて、更けていく。 ・ ・ ・ 隆山の上空に浮かんだヨークを見て 再び崩れ逝く世界の慟哭に気付いて 来栖川の使者を目の前にして Leaf学園を生きた者たちの想いは様々であった。 それは決意。 それは拒絶。 それは憧憬。 それは憎悪。 誰もが絶望していたわけじゃない。 誰もが明日を信じられたわけでもない。 だが、彼らは皆、等しく生き抜いていた。 この五年間を、どんなカタチであれ、必死に、壮絶に、悲痛に。 そして今、五年前の大罪が姿を現したとき。 彼らは決断を迫られていた。 ――闘争か、贖罪か。 ・ ・ ・ 黒い太陽が浮かぶこの空に陽光の恵みを望めるはずもないが、それでも世界 は、美しさを保ち続けていたのだろう。 夜の優しい風が吹き抜ける此処、花に囲まれたこの庭はそれを証明するに充 分だと彼女は思う。 もし救済が与えられたのだとしたら、この庭がそうだ。 この小さな小さな世界が、自分たちが手に入れた、ありったけの幸福なのだ と。 だから、これ以上は望まない。 例えふたり、見つめるものが違っていたとしても。 同じ刻の中に生きられなくても。 この安らぎの中で世界の美しさを信じ続けられるのなら 私は笑っていられる。 「浩之ちゃん」 彼女は、自分の押してきた車椅子に座る青年の名前を呼んだ。 車椅子の青年は応えない。 眠っている……夢でも、見ているのだろう。 いつものことだ。 そして、彼の安らかな寝顔を覗き込んで、彼女が酷く優しく微笑むのもまた いつものことなのだ。 眠りから覚めて、 それでも青年が見るのは、夢なのだろう。 それが五年前の痕。 そして救済。 何も思い出さず、何も哀しまず、この庭で夢を見続けることがきっと。 彼の一切は忘却の彼方にある。 「浩之ちゃん」 彼女はもう一度、彼の名前を呼んだ。 もちろん応えはない。 そう、応える必要など無い。 応える必要なんて。 「そして……貴方たちは、あかり様のこんなちっぽけな幸福まで踏みにじる気 ですか?」 庭の入り口で、彼はスーツ姿の男たちと対峙していた。 彼に表情は無い。 冷たくすらない。 「一人でも多くの能力者が必要なのです。ギャラさん、貴方ほどの人なら気付 いているでしょう。今、柳川祐也を止めねば世界は……」 男は最後まで言葉を続けられなかった。 ギャラの拳が男の顔面を殴り飛ばす。 男は鼻血を吹きながら、その場に崩れ落ちた。 動揺する他の男たちをギャラは睨み付ける。怒りと侮蔑を込めた視線で。 「貴方たちは……来栖川はいつも勝手です。五年前、あかり様から藤田様を奪 っておいて、今度は何を奪う気ですか?」 「……しかし!」 「帰りなさい。ここは貴方たちが踏み入って良い場所ではありません」 ギャラの背後に、鈴の付いた鎌を持った道化師が現れる。 創鬼術。 ギャラの力の一つである。 力を解放したSS使いに一般人である彼らが適う道理はない。 スーツの男たちは、大人しく引き下がるしかなかった。 「……あかり様」 ギャラは後ろを振り返った。 そこには、車椅子に座って眠る藤田浩之に微笑みかける神岸あかりの姿があ った。 「…………」 ――あの笑顔が、自分に向けられることはない。 ギャラは自嘲の笑みを浮かべた。 (まるっきり道化ですね) どんなに奸計に長けていようが、億の幻影を操れようが、彼女一人振り向か せることの出来ない自分。 廃人以下の自分。 救いようもなく滑稽だ。 そんな自分は、道化こそが相応しい。 「では……道化は踊るべき舞台へ向かうとしますか」 妙に芝居がかった素振りで、向こうにいるあかりにお辞儀するギャラ。 幻影を操る力に長けたこの男は、自分の存在もスーツの男たちの存在も、彼 女に全く悟らせることなく、この場を去った。 (笑いかけてくれなくても良い) ギャラは想う。 (私は道化……だから『笑われて』さえいれば良い) 自分を貶めてでも君に笑顔をもたらす。 それが道化の役目だ。 ・ ・ ・ 覚えている。 肉を斬り、骨を断ち、臓腑を抉ったあの感触。 覚えている。 躰中に降り注いだ血の生暖かさ。 覚えている。 鼻腔を突き刺すような血の臭い。 覚えている。 全身で覚えている。 この手で絶った生命の記憶。 ――良いんですよ……。 彼は言っていた。 視界を埋め尽くす鮮血の向こう、穏やかな笑みすら浮かべながら。 それは失われたはずの『彼』だった。 世界に調和をもたらす『天秤』としての彼ではなく、同じ少女を好きになっ た彼だった。 ――私は……松原さんを悲しませた……。 その名前を口にしたとき、彼の笑みが酷く痛々しいものに変わった、ような 気がした。 ――だから、これで良かったんです。貴方が気に病むことは…… そして ――何も……無…… 彼の躰は崩れ落ちた。 自分はただ呆けているだけだった。 彼を断った刀を手にしたままで。 その後のことは覚えていない。 自分を取り戻したときは、従妹の少女に抱かれながら、ただ子供のように泣 きじゃくっていた。 自分で地面に打ちつけたのだろう、砕けた血塗れの拳が痛かった。 ――結局、自分は主役になれなかったのだ。 力を得ても、それにただ振り回されただけで、浮かれていただけで。 踊らされて、それに気付いたときは遅くて、泣いて、憎んで、絶望して。 それなのに…… それなのにまだ、自分の傍らにはあの刀があった。 <……どういった風の吹き回しですか、主?> それの放った声は、彼を夢のように暗く沈んだ回想から目覚めさせた。 神社の祭壇。 其処に祀られた一振りの日本刀。 彼に語りかけたのは、それだった。 五年前まで彼とともに戦場を駆けた、彼の相棒。 妖刀『運命(さだめ)』。 彼は黙ってそれを手に取った。 <私を封じたのは主でしょう? それなのに何故?> 『運命』は責めるように、自分の主人――佐藤昌斗に問い続ける。 『運命』の言うとおりだった。 五年前、昌斗が友人のT−ster−reverceを斬ったとき、彼は確 かに『運命』を拒絶したのだ。 学園が消滅した後、彼は従妹の隆雨びづきの神社に引きこもり、『運命』を 封印して、この五年間を過ごしてきた。もう何物にも触れないように。 その彼が今、『運命』を手にしている。 <主……> 昌斗はやはり答えない。 代わりに鞘から『運命』を抜いた。 美しい、洗練された刀身が、光もないのに輝いて見えた。 昌斗はその刀身を、ただ黙って見つめ続けていた。 『運命』も、もはや問うことを止めた。 ただ刻ばかりが流れていく。 そして長い、長い、沈黙の果てに『運命』はただ一言 <……衰えてませんね、主> とだけ告げた。 『運命』のその言葉に、昌斗はようやく答えた。 「ああ……結局、捨て切れなかったから」 拒絶したはずなのに 憎んだはずなのに 絶望したはずなのに それなのにまだ、『運命』は彼の手に馴染んでいた。 「昌兄」 神社を出た昌斗を、隆雨ひづきが待っていた。 彼女の纏う巫女服の白が、闇に映える。 ひづきは昌斗の腰に『運命』を認めて、静かに問いた。 「行くんだね?」 昌斗は頷いた。 「五年前の決着を着けるために……?」 ひづきの問いに、今度は首を横に振る。 「決着が着くかどうか……俺には分からないさ」 言って軽く笑う。 「もっと憎むかもしれない。もっと絶望するかもしれない。今度こそ本当に総 てが嫌になるかもしれない……俺には分からないさ」 「…………」 紫の瞳が、真っ直ぐに昌斗を見つめていた。 その輝きの奥に、たくさんの想いを秘めながら。 昌斗はそれを知っていた。 だから、応える。 「でも、必ず帰ってくる」 ひづきが微笑んだ。 その答えだけで充分だった。 ・ ・ ・ いつも思う。 比奴らは一体何処から湧いてくるのだろうと。 世界が崩れ、大勢の人間が絶えようと、比奴らの数が減ることはない。 斬っても斬っても斬っても。 潰しても潰しても潰しても。 まるで蛆虫のように、必死に生きる人々の影から、比奴らは湧いてくる。 こんな屑どもに吸わせる空気の余裕など何処にも無いというのに。 ……もし、自分に出来ることがあるとすれば。 比奴ら、外道どもを目に映った片っ端から狩り殺してやることぐらいだ。 暗い衝動に身を焼く快楽に溺れながら、YOSSYFLAMEは最後の獲物 を見下ろしていた。 スラムの一角。周りには既に狩った獲物たちの死骸。 アンモニア臭と血臭が鼻につく。 だがそれすらも、今のYOSSYには心地よい。 「後はお前さんだけだぜ」 「ヒィィッ!」 獲物の口から悲鳴がこぼれた。 彼の獲物、外道。 いつだって社会に巣くう、人間の屑どもだ。 この獲物もまた、今まで彼が狩ってきた外道同様、死んだ魚のような澱んだ 目を恐怖に見開いていた。 こういう輩が追い詰められたとき、次に吐く台詞は大概知れている。 今回もまた例外ではなかった。 「た、助け……ッ!」 ――スパンッ いい加減、この手の命乞いは聞き飽きている。 だからYOSSYは最後まで聞くことなく、獲物の首を跳ね飛ばした。 栓を抜いたシャンパンのように首が飛び、血が吹き出る。 「……ふん」 つまらなそうに鼻を鳴らし、刀に付いた血を軽く振って落とす。 ビチャビチャと血が地面に飛び散った。 ……いつまでこんなことを続けているんだろうな。 周囲の骸を見回して、YOSSYはふと自問した。 ……永遠に? これからもずっと、こんな黴臭い影に潜んで、この暗い衝動だけを糧に、外 道を狩り続けて……永遠に……永遠に……。 YOSSYは嗤った。 望むところじゃないか。 結局は自分だって屑だ。 狩る者も狩られる者もゴミ溜めがお似合いなのだ。 だから、堕ちるところまで堕ちれば良い。 ……堕ち続ければ、在りし日の輝きに苦しみこともなくなるだろう。 そしてYOSSYは、更なるスラムの暗がりへと去ろうとした。 そのとき。 この血生臭いスラムの一角には、あまりに相応しくない、間の抜けた笛の音 が響き渡った。 「な、なんだ?」 ぷあらら〜ら〜ら ぷぁら ぷぁららら〜 「……チャルメラ?」 それ以外の何物でもなかった。 暗く重く澱んだスラムの空気が、一気に吹き飛ぶ。 「………………」 リアクションの取りようがなく、ただただ唖然とするYOSSYの前に、や がて一台のラーメン屋台が姿を現した。 屋台を引いているのは、若い男だ。 「お久しぶりです……いやあ、こんなご時世なものですからなかなか儲からな くって。どうです? ひとつ食べていきません?」 屋台の男が言って微笑む。 その顔にYOSSYは覚えがあった。 「ディアルト……」 屋台の男は頷いて、辺りを見回した。 恐怖と絶望を張り付かせて、転がる屍の山。 「まだ……こんなことをしていたんですか」 「…………」 責めるようなディアルトの口調。 しかしYOSSYは何も言わない。 「影に潜んで、人を殺して……いつまでこんなことを続けるつもりですか。 これ以上、自分を痛めつけたって何の意味もない……」 「お前には関係ないことさ」 冷たく言い捨てて、YOSSYはディアルトの横を通り過ぎようとした。 そこにディアルトは思い詰めたような表情で、そっと告げる。 「やはり……広瀬さんのことですか」 ディアルトの喉元に冷たい怒気が触れる。 YOSSYの刃が突きつけられていた。 「それ以上、余計なこと言ってみろ……殺すぞ」 鋭い視線がディアルトを射抜く。並みの人間ならそれだけで心臓が破裂する ほどの激しい眼光だ。 しかしディアルトはその眼光を正面から受け止める。 むしろその視線に侮蔑すら込めて。 「全てが嫌になって逃げ出したガキが粋がってんじゃねぇですよ。何もかもを 五年前のせいにして……結局てめぇが可愛いだけじゃないですか」 「――ッ!」 白刃が煌めく。 ディアルトは咄嗟に首を逸らし、それを避ける。 首筋に一本の赤い筋が走った。 「ふんっ!」 跳躍し、YOSSYとの距離を取る。その際に背中に差していた彼の獲物― ―倭刀を抜いた。 倭刀を構えて、YOSSYと向かい合う…… 「!?」 YOSSYがいない。 戦慄が躰を動かすよりも速く、斬撃が彼の胸を裂いた。 血が吹き出す。 そして斬撃の後を追ってくる轟音。爆風。 (音速!? 冗談じゃない!) 吹き飛ばされそうになる躰を必死に留める。 そこに次の斬撃。 「ぐはっ!」 胸と背中から血を流し、ディアルトは今度こそ宙を舞った。 遠くの壁に激突する。コンクリートに罅が入った。 「ぐっ……!」 「失せな、ディアルト。ラーメン屋風情じゃあ俺の動きは見切れねぇよ」 動きを止め、YOSSYは告げる。 だがディアルトは壁にもたれ掛かったまま、薄ら笑いを浮かべている。 「そっちこそ……たかがチンピラ風情……ですよ。こっちはね……必死に、懸 命に日常を生きてきたんですよ……『日常を生きる』……そんな当たり前な苦 痛を貴方には分かるまい!」 倭刀を杖に、ディアルトは起き上がった。 足元がふらつく。傷口が熱い。 でも倒れるわけにはいかなかった。 「日常を生きれるだけ幸せじゃあないか。一度、闇に堕ちた奴は二度と日の当 たる場所には出られないのさっ!」 再びYOSSYの姿が消えた。 遠くで、近くで、大気が震え、衝撃波で壁や地面が砕ける。 ディアルトを惑わせ、決定的な隙が生じたところを斬りかかるなのつもりだ ろう。 しかし、ディアルトは構えすら取ろうとしなかった。 ただ俯きながら、肩を震わせている。 「だから……貴方は何も分かっちゃいない……!」 「トドメだッ!」 正面。 YOSSYの刀がディアルトを切り裂くまでの時間、刹那。 瞬きほどにも満たない時間、ディアルトは動いた。 「勢ッッッッ!!」 ただ倭刀を振り下ろすだけ。 型も技も存在しない、ただがむしゃらな斬撃。 だが渾身の力が生んだ倭刀は……神速! YOSSYの斬撃とディアルトの斬撃がぶつかり合う。 空間そのものが砕け散ったかのような爆音が轟いた。 そして。 「……はい。出来ましたよ」 ディアルトは今だ地面に倒れているYOSSYの横に、作ったばかりのラー メンを置いた。 「伸びないうちに食べて下さい。勿体ないですから」 「……ここまでメチャクチャやっておいて、よく言う」 言うとおり、YOSSYの躰はまさにズタボロだった。 躰中から血が流れている。脇腹の骨も何本かやられたようだ。 持っていた刀はへし折れて、残っているのは柄の部分だけだ。 「ふん、お互い様ですよ」 しかし、ディアルトはそんな様のYOSSYを見ても動ぜず、冷ややかに告 げる。確かにディアルトも応急手当の包帯まみれで、酷い様だった。 「それに自業自得です。聞き分けのない子供はおしおきしないと。働くお兄さ んを馬鹿にしちゃいけません」 「…………」 相変わらずの、スラムにそぐわない妙な空気が流れていた。 それは二人が共有するLeaf学園の空気だったのだろうか。 いつもそうだ。 あの学園はいつも自分の一番近い場所にあって、捨て去ってもなお、ふとし たキッカケで無遠慮に、無慈悲に甦る。 暖かな記憶で自分を苛む。 「知っていますよね、ヨークのこと」 「…………」 「随分と自分を虐め続けていたんしょう? でも、もう痛みに逃げるのは終わ りにしませんか。立つべきは今なのですから」 「勝手なこと、ごちゃごちゃヌカしてんじゃねぇ」 そこでYOSSYが口を開いた。 顔を苦渋の色に染めながら。 今にも泣き出しそうな子供の顔にも見えた。 「分かった風な口を聞くな……お前に、俺の何が分かるっていうんだ……!」 思い出してしまった、彼女の記憶。 生意気な女だったと思う。 宿敵であったとも言える。 だけど……決して嫌いではなかった。 嫌いであるはずがなかった。 ――失って、何もかもが変わるくらいなのだから。 「……そうですね、分かりません」 少しの沈黙の後、ディアルトはそう答えた。 屋台を片付け始める。 その手を休めないで、ディアルトは続けた。 「でも一つだけ分かっていることがあります。それは……今もなお貴方の心に は、Leaf学園の想い出が燃えているということです」 いや、それはきっとみんな同じなのだろう。 だから私も…… 「お代と器は、また今度にお願いします。じゃあYOSSYさん……待ってい ますよ」 少しだけ優しく笑って、ディアルトは屋台を引いて帰っていった。 夜のスラムにYOSSYだけが取り残される。 ラーメンは既に伸びきっていた。 ・ ・ ・ 隆山市には鶴来屋が用意した、Leaf学園生徒たちの集団墓地がある。 もっとも、ほとんどの墓の下には彼らの骸はない。 五年前に失われてしまった。 あるのは名前の刻まれた墓標と、残された者と。 墓とは生者とってこそ意味がある。 もう夜だというのに、ある墓の前には人影があった。 「ほら、お供え物持ってきたよ……るーちゃんの好きだった千鶴パン」 「……それは違うんじゃない?」 健やかと太田香奈子。 かつての暗躍生徒会の仲間同士だ。 その二人が、やはり暗躍生徒会の仲間だったRuneの墓に、手を合わせて いた。 健やかは香奈子のツッコミにちょっとだけ困ったように笑うと、視線を再び 墓へと戻す。親友の墓を見つめるその瞳に何が浮かんでいるのか、香奈子の位 置からそれは窺えない。 「健やか君は……どうするつもり?」 唐突に香奈子が尋ねた。 何が、と聞き返すまでもない。 柳川のことだろう。 健やかは少しの間だけ、うーんと悩むような素振りを見せたが、すぐにいつ もの笑顔を浮かべる。 いつもそうだ。 この青年はこの何でもない笑顔で、いつも人を安心させる。 苦しみの中にいれば尚更に。 そして返ってきた答えもまた、何でもない、優しいものであった。 「るーちゃんはさ。何だかんだ言って、Leaf学園を愛していたんだよ。 だからね……今度は守ってみせないと、って思うんだ」 二人が月島兄妹の墓の前まで来たとき、そこには既に先客がいた。 「Hi−wait君」 名を呼ばれた先客が二人の方を振り向いた。 Hi−wait。 やはり健やか、香奈子と同じく、暗躍生徒会に所属していた男だ。 「君も来ていたんだ」 旧友との再会に顔を綻ばせるわけでもなく、無愛想な表情のまま、Hi−w aitは頷く。 彼も随分変わった、と健やかは思う。 いや五年前の悪夢を味わって、何一つ変わらなかった者などいるはずもない が、そんな中でも彼の変貌は大きい方だった。 それは顔に残った大きな痕もそうだが、それよりももっと、悲痛な何かを独 りで抱えている者だけが持つ雰囲気が、彼をここまで変えて見せるのだろう。 そんなことを考えていた健やかの横をHi−waitは通り過ぎた。 「ちょっとHi−wait君、せっかくだから一緒に……」 「墓参りならもう済んだ。あとはただ独りの為だけに祈る」 「ひなた君の為に……かい?」 Hi−waitの足が止まる。 そしてやはり素っ気なく答えた。 「違う。未来を……いや過去を、『事実』を剥奪された……そんな奴を弔う墓 など無い」 「えっ?」 それ以上は何も答えず、Hi−waitは再び歩き出した。 最後に一言、 「Leaf学園でまた会おう」 とだけ言い残して。 もう誰も。 もう誰も君のことは覚えていないだろう。 僕だって君の名前も顔も忘れてしまった。 ……君は、在るはずもない君だから。 刻の流れがこの道を進んだ瞬間に 僕らの未来が、君の未来と違った瞬間に 君は否定されたのだから。 でも僕だけは、君が在ったことを忘れはしない。 世界が記憶を失おうと 刻が記録を消し去ろうと 君は確かに此処に在ったのだ! だから誓おう。 此処は君を否定した世界なれど 此処が君の愛した世界ならば 「僕は僕の正義を遂行する!」 ・ ・ ・