「ここ……は……」 ジンは弱々しい声を挙げた。 身体の中から力が消失している。 遊輝は彼を見下ろすと、小さくため息をついた。 『案ずるな……ここはねぐらじゃ。動いてはならぬぞ……妾が多少無理に力を使った故、 今お主の身体は妾に体力の殆どを奪われておる』 ジンは薄く目を開けて周囲を見渡し、そこが自分の部屋であることに納得した。 しかし、その表情は至って暗い。 「俺は……負けたのか」 『浅薄なことを申すでない。ヤツの正体を知り、不意さえ突かれねば対等に戦っておった』 遊輝の言葉を遮るようにがん、とジンの腕が畳を叩きつけた。 畳に穴が空き、ぱらぱらといぐさが舞う。 その煙の中でジンは手で顔を覆っていた。 「不意を付かれたのは俺の慢心があったからだ……くそっ……くそぉっ………」 『主……泣いておるのか』 「うっせえっ!」 その言葉に遊輝は肩を竦めると、畳に腰を下ろしてジンを眺めた。 「まぁよい……己を省みるを成長には必要じゃ。妾はここにおる故…安心して休むがよい」 「な……に……?」 風見は絶句して図書館受付に立っていた。 ロビーは一面血の海である。 それもただの血ではなく、青かったり黄色かったり、緑色だったりする物も混じってい る。そしてそこから臭う胸の悪くなるような廠気がこれがまっとうな生物の体液でないこ とを証明していた。 あちこちに散らばる肉片の中にはまだひくりひくりと蠢いている物さえある。 「これは……まさか」 「恐らくは君の想像通りだろうね」 まさたは風見の背後で呟いた。 風見はごくりと唾を飲み込むと床にかがみ込む。 「本当に……これは図書館地下に巣くっていた邪妖なのですか?」 「うん……ここはまだいい方だ。地下の方は壁や天井まで血塗れで猛烈な毒気を吐き出し てる。耐性のない一般生徒が近寄るとまず間違いなく10秒持たないだろうね」 図書館地下に出没する邪妖の大抵は古来よりこの地に伝わる妖魔ではない。 かといってマルティーナを創造した際に異界より現れた妖魔でもない。 クトゥルフ神話に伝わる異形の者がその大半を占めていた。 地下のどこかに次元の綻びがあるのだとか、禁書ネクロノミコンを求めて彼方から来る のだとか、館長まさたが盗掘避けに異界より召喚したのだとも云われている。 特にこの館長なら、どんな不思議なことでも平気でやってしまうため全く違和感がなか った。歳も取らずずっと一年生のままここで恋人と暮らしている男。謎の多いこの学園で も特筆すべき存在の筆頭に上がる人物だった。 「とりあえず地下はしばらく封鎖するとして……もっととんでもないのは、この邪妖の死 体……キルリアン反応が激減してることですね」 「え?」 まさたは肩をこきこきと鳴らしながら、邪妖の死体を眼で示した。 「つまり……地下から現れた『何か』は、こいつらを滅ぼすと同時にその気を大量に吸収 した……ってこと。そのために本来不死であるはずのクトゥルフモンスターが力を失って 滅びてるんですよ」 クトゥルフ邪神系のモンスターに死はない。それ故に古代の王も全世界に満ちていた彼 等を倒すために別の宇宙へのゲートを開いて彼等を追放せねばならなかった。 風見はぞっとして再び邪妖の死骸に目をやった。 「……そうすると……その『何か』は少なくともクトゥルフ邪神の配下数十匹を相手にす る戦力を持ち、なおかつ連中の力を奪ってさらに強大化してるという……」 SS使いにとってはクトゥルフモンスターを相手取るという事は決して敗北を意味しな い。それどころか大抵の場合、モンスターを易々と倒せてしまう。 しかし一度に数十匹を相手取るとなっては、やはりそれは尋常の強さではなかった。 「恐らくね。あと……どうもこのやり方を見たところ……『何か』は鋭い刃かそれに準じ た攻撃部位を持っているようです」 まさたの言葉に風見は首を傾げた。 「刃?」 「そう、それも……恐らくは何らかの魔力を持った刃。『妖刀』と呼ばれる刀が備えてい るような、圧倒的な邪気ですよ」 妖刀…………。 風見の脳裏に一瞬白い輝きが浮かび、すぐまた消えた。 まさたはちらりと風見の方を見やって、首を傾げた。 「どうしました、風見君?」 「いえ……何も。ちょっと頭痛がしただけです」 「ならいいんですがね……あと少し気になるのが、死骸の傷が刃による傷だけじゃなく、 陰陽術を使った痕跡が残っていることなんですが……まぁ『何か』の特殊能力が酷似して いるだけのことかも知れませんからね」 陰陽術。 「風見君?」 「いえ……何でもないんです。それで……館長は犯人は何だと?」 風見は頭を抱えながら、苦しそうに呟いた。 まさたはそれを見つめながら、至って冷静な口調で言った。 「そうですね……やはり『妖刀』でしょう。そして『妖刀』は宿主を支配し、陰陽術を使 用させる能力を備えているようです」 風見の眼に一瞬冷酷な光が宿った。 「それで……あなたに……心当たりは?」 「………………」 一瞬の沈黙。 張りつめた空気が二人の間に漲った。 風見は拳で何かを握るかのような手を組み、軸足を微かに移動させている。 まさたは右手に持った書物のエンブレムに親指の先を当てていた。 やがて、まさたが口を開く。 「いいえ……知りませんね」 「そうですか……それは、よかった……」 風見はそう答え、背中を向けた。 そのままゆっくりと歩き出す。 まさたは風見の言い残した『よかった』と言う言葉の意味を問うこともせずに、その背 中を見つめていた。 風見が消えてから、まさたは微かな息を吐いた。 それは安堵。もしくは嘆息。 「これでいい……貴方を倒すのは私では有り得ません。貴方は……風見ひなた、貴方は自 らの手で乗り越えねばならないのです。貴方に課せられた苦役を、そして未だ超えられぬ 過去の記憶を……」 まさたはそう呟いて、再び室内に眼を戻した。 「……また、喚ばなくてはなりませんね……まぁもっとも今晩あたりは喚んでも無駄のよ うですが」 そう呟いた矢先、突然後頭部に鋭い衝撃が走った。 ざきしゅっ! 「がっ!?」 「まさたにゃん!こんなに汚してどーするにゃ!お掃除するのはゆかたにゃよ!?」 爪を立てた怒れる恋人の姿を見て、まさたは血を吹き出しながら手をばたつかせた。 「ちょ、ちょっと待った……!これにはワケがーーーーーーっ!!」 「まさたにゃんのばかばかばかばかばかばかーーっ!!」 「うわーっ!?」 「……ジン・ジャザム。……なんだ、いないのか?」 「先生、ジンさんは大怪我で動けなくなったそうです」 「鬼の霍乱ってヤツか……」 そう言うと長瀬教諭は出席簿にチェックを入れた。 「それでは授業を始めるーーーっ。全員、教科書175Pを開いて……」 それだけのことだった。 血を。 血を啜れ。 月の光を受け、女を犯し、童を括れ。 咎人も。無垢なる者も。富貴なる者も。貧なる者も。邪なる者も。聖なる者も。 陰なる者も。陽なる者も。人も。妖も。鬼も。 全てを殺し、血を啜れ。 そしてお前は鬼になる……最も邪悪な鬼になる……。 風見は荒い呼吸を上げながら廊下を進んでいた。 頭が割れるように痛い。こんなに自分の「生」を、そして「死」を間近に感じたのは久 しぶりだ。そう、あの来栖川で妖魔と闘った日々……。 あの時何故自分は闘えたのだろう。訓練を受けたとはいえ、若い少年がやすやすと妖魔 と闘えるものか。 いつか……いつかどこかで、妖魔と闘っていたことがあったのではないか……? 痛い。頭が痛い。頭の中で誰かが囁く。 気分が悪い。むかむかする。最低だ。 「ひなたさん?」 風見はびくりと肩を立てると、声に向かって振り返った。 その表情には迸るような殺気と敵意…そう、鬼気と呼んでいいような何かが漲っている。 美加香はそのあまりの毒気に当てられ、立ちすくんだ。 「ひ……ひなたさん……?」 風見は声を掛けたのが美加香だと気付くと、表情を緩めた。 「なんだ、みか(さ)か」 ズキン。 違う。こいつは美加香だ。 「えっ?」 美加香が聞き返すと、風見は頭を振って微笑んだ。 「どうした、美加香?」 その表情は今までになく優しく、美加香は何故かどぎまぎして口ごもった。 「あ、あの……一時間目が始まってもひなたさんが図書館から帰ってこないから捜しに行 ってこいって緒方先生が……」 「あ……ああ……そうか。授業か」 風見は立ち上がろうとして、力無くよろめいた。 美加香は驚いて慌ててその身体を支える。 「す、すまん」 風見は美加香の方を向いて礼を言って……美加香の表情が二重写しになり、頭を振った。 一つはブレザーを着た美加香。もう一つは着物を着たみか……。 「ぐうううううっ!!」 「ひなたさん!?ひなたさんっ!!誰かっ!」 美加香は突然呻りだした風見に驚き、大声で助けを呼んだ。 「何だっ、どうした!?」 たまたま近くに人がいたらしく……何故こんな時間に一年校舎にいるのか分からないが ……その人物は駆けつけてくれた。 「おい、どうした!?……何だ、風見と美加香ちゃんか。どうしたっていうんだ?」 敵!? 風見……と、その中の者……は強力な陽の気を感じてはっと顔を上げた。 「あ、天神さん!大変です、ひなたさんが急に調子が悪くなって……」 天神。 大丈夫だ、落ち着け。味方だ。 天神……そう。天神、昂希……いや、貴樹……天神貴樹は同僚じゃないか。 「どうしたんだ、風見……なっ!?」 風見の顔を見た天神はぎょっとして口ごもった。 そして次に美加香の方を向いて猛剣幕で詰め寄る。 「美加香ちゃん、こいつ何があった!?」 「何って……別に……」 戸惑う美加香に、天神はぎりっと奥歯を噛みしめた。 「鬼の相が出ている……いつもの陽の気が感じられない。美加香ちゃん、今すぐ岩下さん とセリスさんを呼んできてくれ!封じないと危険だ!」 「はっ、はい!」 何故だ。 何故……天神、お前が我を封じる……。 お前も鬼を狩るために闘う仲間ではなかったか……? その思考を境に……風見の意識は闇に呑まれた。 ハイドラントは二年校舎エディフェルの屋上から校庭を見下ろしていた。 風がゆっくりと頬を撫でて行く。その温かさと引き替えに、ハイドラントは一日、また 一日と憂いを積み重ねて行く。無為な時の経過が心を苛立たせ、自らに向かって呟きを続 けるのみ。 「また……一人散った」 ハイドラントはぽつりと呟いた。 昨日、ジンが斬られたときから気を察知する感覚が鋭敏になっている。 溢れんばかりの邪気を有する者の存在に精神が共鳴しているのか。 現在、ハイドラントは学園内の何処にいても邪気の放出……つまり、殺陣を感知できる ようになっていた。 「ヤツは……俺を呼ぶか?」 「いいえ」 落ち着いた声がハイドラントの発言を否定した。 「あれはマスターを呼んでいるのではなく、鬼全てを狩ろうとしているのよ」 「狩猟者を狩る……か」 「それに…今マスターが感じた『邪気』はお兄ちゃんのものじゃないわ」 その言葉に、ハイドラントは興味深げな表情を浮かべて振り向いた。 「ほぉ……てっきり風見のものだと思っていたがな、日陰」 ハイドラントの背後に立っていたのはブレザーに身を包んだ日陰だった。 こうしている限りでは服装・容姿とも一般生徒と何の変わりもない。 ただし日陰の足下には影が出来ていなかったし、よく見れば地面より数センチほど浮い ている。浮遊しているのではなく、質量というものが存在していないようだった。 「精神体で登場とは……ご苦労なことだ」 「まぁ……ね」 日陰はそう言って、微かに笑った。 元々精神存在であり、風見の肉体を通してこの世界に具現する日陰は風見の意識がない ときに精神体として世界に存在することが出来る。 ただしその場合には一切世界の物体に直接的に影響することは出来ず、魔術の使用はお ろか空気を振動させ喋ることもできない。ハイドラント等の特殊な人間と精神感応で会話 するのが関の山であり、全く驚異にはなり得ない。攻撃することは出来ないが攻撃される こともない無害な存在なのである。 実際に風見が意識を失ったときには肉体をのっとった方が便利なために精神体が現れる ことは滅多になかった。風見本体が動けない場合を除いてではあるが。 「何か伝えたいことがあるのだろう?」 ハイドラントの質問に、日陰は軽く頷いた。 「マスター……お兄ちゃんの邪魔をしないで」 その言葉に、ハイドラントは眉を振るわせる。 「聴けんな。ヤツの邪気は俺にとっても脅威だ……狙いには俺も入るのだぞ。それに」 「それに?」 「……。それに、だ。ヤツの気は完全に邪悪というわけではない……手を組めるような存 在ではないのだ」 マスターの命令に日陰は黙り込んだ。 ハイドラントは再び視線を校庭に向け、遠い眼をした。 「……成程。今巻き起こっている邪気はヤツのものとは異質だな。何者か…もう一人妖刀 を振るっている奴がいるか」 そう独りごちる。 ハイドラントは既に図書館に現れた者が妖刀使いであることを知っていた。そしてその 人物の大方の目星も。 リストラしたとはいえダーク十三使徒の諜報能力は侮れない。 ハイドラントはやがて日陰の方を振り向いた。 「しかし今暴れている奴の邪気は風見に比べてお粗末に過ぎる。……夕べジンを斬ったの は風見の方なのだろう?」 日陰はゆっくりと頷く。 ハイドラントはふうっとため息をついてから眼を山々の方に向けた。 雨月の山と呼ばれている場所に。 「なあ、日陰……風見はどうしたんだ?いくら妖刀を手に入れたとはいえ……あの邪気は 風見本人からも感じられるぞ」 「………引きずられてるのよ………過去に」 その言葉にハイドラントは怪訝な表情を浮かべた。 「昔あいつの家族が死んで……という奴か?」 「……それよりも前。もう既に終わった時代、終わった人生、終わった死の記憶………」 少し考えて後、ハイドラントは眉をひそめた。 「妖刀の本来の所持者の想いに取り込まれた……ってことか?」 日陰は大きく息を吐いて頭を振った。 「ちょっと違うわ……取り込まれたのではなく、思い出してしまったのよ。あの本来妖刀 でも何でもない太刀を媒介として」 ハイドラントは日陰の言わんとする真意に気付き、息を呑んだ。 「お前、それじゃあの妖刀を持っていたのは風見の前世……」 「愚かよね……今更復讐したとしてもあの時お兄ちゃんが護りたかったものが返ってくる わけじゃない。それでもお兄ちゃんは……昔お兄ちゃんが演じていた者は……そうせずに はいられないのよ」 被せるように放たれた日陰の言葉に、ハイドラントは息を吐いた。 「永劫を生き、輪廻を見つめてきたお前には人の生死など小さなものに思えるだろうが…」 日陰は敢えてそれにコメントしようとはしなかった。 彼女の使えるマスターも人の身であることを知っているから。 代わりに日陰は呟いた。 「だからあの太刀には魔力なんてなくて、ただお兄ちゃんと昔演じていた者との精神を結 ぶ鍵の役目をしてるだけなのよ。今、お兄ちゃんを乗っ取っている奴は私の力とお兄ちゃ ん自身の力、殺した妖魔の力を得てかなり強力になっている……殆ど本体を倒すのは不可 能。もし狙うとしたら太刀さえ破壊すればお兄ちゃんは前世の記憶を忘れて元に戻るわ」 「つまりそれは……俺に、そうしろと?」 日陰は苦い笑みを浮かべて、頷いた。 「お兄ちゃんを最後に殺したのはイルク……ジンに『よく似た』男よ。そして一緒にいた 遊輝にも相当恨みがあるはずだから……今晩あたり狙いに行くはず」 「俺は……奴等が死した後に太刀を破壊すればいい…そう言いたいのか?」 無言の肯定。 ハイドは邪悪な笑みを浮かべると、入り口の方を向いて叫んだ。 「そういうわけだ、巡回班!今の傷ついたジンと力を封じられた遊輝では風見は止められ ん……あとはジャッジに告げ口するなりジンを逃がすなり好きにしろ。ただし、その場合 お前の可愛い娘は確実に死ぬと思え!」 屋上入り口から現れたきたみちはその言葉に唇を噛みしめた。 日陰はその光景を横目で見ながら、我知らず呟いていた。 「……この光景を……あたしは遥か昔に見ている……」 夜が来た。 夜が来たぞ。 陽に生きる者に恐怖を、陰に生きる者に歓喜を与える素晴らしき刻が。 目覚めよ。目覚めるのだヒュウガ……闇に生きる鬼のうち、真に鬼たる資格を持つ者よ。 深闇色の夜、あの美しい月の照らす夜、真の恐怖と至高の殺戮を見せてやるがいい。 目覚めよ、我が眷属……! 風見はベッドから身を起こすと、はっきりと意志を持った眼で周囲を見渡した。 保健室のようだが、実に居心地が悪い。結界の中に閉じこめられているようだ。 ベッドの四隅にジャッジ特製の封魔結界が張られている。 だが風見は冷笑を浮かべると、拳を二つ胸元に並べた。 それを次第に離していくと……間には青白い光が棒状に生まれていった。 拳の動きを止めても、光はそれ自身意志を持つように2m近くまで伸びていった。 十分に伸びたところで、風見は光に向かって叫んだ。 「来たれ我が分身……『露』!」 空気を激しく振動させた鋭い音が夜の保健室に響き、光が太刀に実体化する。 そのまま太刀を抜き放つと、風見は気合いを込めてそれを大きく振り下ろした。 「割ぁぁぁぁぁっ!!」 結界を張っていた呪符が四散し、風見を阻んでいた壁が消失する。 「なんだっ!?」 見張りが異変を聞きつけたらしく、早くも保健室のドアが開く。 目を丸くするSOSに向かって、風見は叫んだ。 『陽たる瞳は陰なる夜を見ること能わず!!』 風見の目が漆黒に輝き、SOSの眼を貫く。 言霊の影響を受け、SOSはそのままばたりと床に倒れ込んだ。 ふっと風見は軽く息を吐き、窓に向かって歩き出した。 「安心しろ……仲間は殺さん」 寝息を立て始めたSOSにそう呟いてから、風見は窓を切り裂いて夜に身を踊らせた。 廊下からけたたましい足音が聞こえてきたが、既に後の祭りだった。 度し難い愚行という言葉が人生に存在するのなら。 そしてまたそれを直前まで認識することが出来ないものであったなら。 今、きたみちもどるが犯そうとしている行動は異例中の異例であったろう。 「俺って本当に馬鹿だよな……」 自嘲気味の呟きも、その額面通りの意味を持っているわけではない。 敵に恨みがあるでもない。ジンに恩義があるでもない。 ただ、それでもきたみちは刀を持ってここに立たずにはいられない。 血が呼ぶのだ。時々抑えがたく高鳴る狩猟者の血が。 月が呼ぶのだ。あの母なる場所を連想させる星が。 特にこんな月の美しい夜には、薄まったはずの血が猛り狂わんばかりに自分を突き動か す。強者との闘い。より邪悪な者との闘い。 一抹の恐怖と自分を掻き消してしまいそうな興奮。 愛娘を家に隠し、きたみちは愛刀を携えて夜道に佇んでいた。 「……来たか」 目が細められ、頭の中で鬼の血が吠える。 ――時は満つ満つ、月赤く、妖しき夜が血に飢える―― どこかで聴いた歌だ。どこで聴いたのだろう。 ――月は血を忌み山へ墜ち、涙はこぼれて雨流る―― 古い記憶にある歌だ。陰惨で、邪悪な歌だ。 ――月血に染まり、天照らす、星神眺むる血の宴―― だがそれがそこでは子守歌だった。確か、雨月の山の近くで聴いたのだ。 ――天の果てにて鬼は哭く、静かに悲しく哭き叫ぶ―― そう、そこで我は出会ったのだ。護るべき者と、鬼に。 ――ああ華散るか夜に散るか、雨月の山に、血華が薫る―― 許すまじ。許すまいぞ、鬼よ。 我は狩る……全ての鬼を。散った華はもう元に戻らまいが、せめて……。 それが我に出来るたった一つの償いとあらば……。 「邪妖……滅ぶべし!」 風見は血に飢えた風の中で鬼の剣士と向かい合った。 「きたな、500年前の怨霊……たった一人で数十鬼を斬った伝説の鬼」 きたみちは興奮に震える手で刀を握りしめた。 月は紅く輝き、地上を照らしている。 今宵こそはきたみちのエルクゥが最も強く血を求める夜。 最高のコンディションで闘いに望めることをきたみちは感謝した。 「剣士、きたみちもどる……参る」 相手は相当の手練れのようだ。 本来剣術よりも陰陽術こそが強さの所以であったが、ここは戦士の誇りに掛けて最低限 の陰陽術を封じることにした。 風見は……ヒュウガは、太刀を抜き放つとそれを体勢を崩して支えるように構え、待ち の構えを取る。 「良い。この闘い……忘れぬ」 きたみちは勢いある踏み込みから一気に数メートル、低い跳躍でヒュウガに迫った。 かなりの神速剣ではあったが、ヒュウガも伊達に重く長い太刀を携帯しているわけでは ない。軸足を移動させて軽く刀を斜めにずらし、その斬檄を受け止めるのではなく逸らし た。 「器用な奴だ!」 ヒュウガの剣は太刀ではあるが、その本質は力ではなく技と速さにある。 ならばここは連撃ではなく一撃に重きを置いた方がよい。 そう考えたきたみちはバックステップで間合いを開くと、気合いを溜め始めた。 ヒュウガは目を細めて太刀を支えるように構え、再び待ちの体勢に入る。 きたみちはそれを見て、密かに舌打ちした。 (風見を斬るのではなく太刀を破壊するのなら……太刀で攻撃を受け止めて貰わないこと には倒せない。この際風見にも骨の2、3本は勘弁して貰うがな) 幸いきたみちの剣は偽逆刃とはいえ、もともと斬撃よりも打撃に効果を発揮する。 神速での跳躍からの攻撃ならかなりの破壊力を持つはずだ。 「はっ!」 きたみちは再び地面を蹴って相手の懐に潜り込むように低く跳躍した。 まずは風見の脇を狙って戦意を失わせるつもりである。 「甘い!」 しかし、ヒュウガはそれを見抜き太刀を軽く退いた。 そして次の瞬間、きたみちが懐に到達する寸前に爆発させるように太刀を返す。 わずかな時間で溜められた斬撃は、きたみちを軽々とふっとばしていた。 回転が込められた攻撃によってきたみちは壁に叩きつけられる。 どうやら太刀の腹で殴ったらしく、血こそ出ていないがあばら骨が折れるような衝撃が 内蔵を駆けめぐっていた。 きたみちがぺっと唾を吐くと、それはどす黒い赤みを帯びている。 その眼が灼熱色に輝き、狩猟者の本能が本格的に目を覚ました。 「けっ、やるじゃねえか……面白いぜ。それでこそぶち殺し甲斐があるってもんだなぁ!」 「本気になったか。……イルクもそれくらい早く本気になってくれると良かったが……」 ヒュウガは今度は太刀を支えるようにではなく、太刀を持ち上げるように構えた。 これは待ちは待ちでも攻撃を逸らすことを目的にした待ちではない。 「おおおおおおっ!!」 きたみちは跳躍ではなく高速で走り寄ってきた。 「見えている!それでは我は殺せん!」 「抜かしなっ!」 きたみちは走っている途中で身を伏せると、ずざざざっと大きな音を立ててスリップし た。地面を削り取って煙を上げながらヒュウガの背後に低い体勢で回り込む。 (成功した!!) 神社などの玉砂利や砂浜、せめて地面が露出した場所ならと思ってやってみたが、上手 く行った。柏木家の周囲がアスファルト舗装されていなかったからこそ、狩猟者の血を引 きだしたきたみちの凄まじいまでのスピードがあってこその芸当だった。 この突然素早い動きは見切れず、攻撃してきたところで太刀を振り上げるはずだったヒ ュウガは意表を突かれた。しかもそこは死角である。 「何だと……!」 「おらよっ!」 ここぞとばかりにきたみちの得意な連撃が放たれる。 普通の相手なら死角からの十数発の攻撃で血塗れになって倒れていただろう。 しかし、ヒュウガの身体の元々の持ち主は風見。SS使いの中でもトップレベルの素早 さを持っている。 「くっ!」 きたみちの初撃がヒュウガの右背を薙ぐ。 しかし、なまじスピードがあるだけにその傷は浅い。 狩猟者の血に目覚めてもパワーが格段に上昇したというわけではなかった。 ヒュウガは素早く軸足を移動させ、死角だった位置をぎりぎり太刀の届く範囲に入れ替 えた。そのまま素早く太刀を回転させることで、二撃目のきたみちの剣をはじき返した。 強力な防御できたみちの手にしびれが走る。だがそこはエルクゥ、タフな体力でそれを 押さえ込むとまだ目は死角であることを利用して大きく飛び上がった。 「龍槌閃!!」 「ぬうっ!」 瞬速で上空という死角に舞い上がったきたみちの攻撃を逸らすすべを見つけられず、や むなくヒュウガは太刀を頭上水平に構えた。 すぐさまきたみちの打撃が太刀に響き、金属がみしりという音を立てる。 (ヒビが入った!) きたみちは勝利が近いことを予感し、会心の笑みを浮かべた。 それが油断となる。ヒュウガは太刀で攻撃を受け止めると、威力が殺された瞬間を見抜 いて上体を逸らし太刀を傾けた。そして勢い良く太刀を引く。 「武神奥義……『舞妖(ぶよう)』!!」 抵抗をなくして、バランスを崩したきたみちに容赦なく銀の閃光が浴びせられた。 「うぎゃあああああああっ!!」 きたみちは胸に強力な一撃をくらい、今度こそ血を吹き出しながら塀に叩きつけられた。 太刀にヒビが入っていたためその破片が星屑のように美しく夜に舞った。 ヒュウガは苦しそうに汗を吹き出しながら、肩で荒い息を吐いた。 「くっ……所詮人間の肉体で我が奥義は負荷が大きすぎたか……イルクの元に辿り着く前 に少しばかり大きな負担を強いられたようだ……。まあ良い」 ヒュウガは重い太刀を肩から突き出すように構えると、きたみちを睨み付けた。 「鬼は滅すまで……!!」 「ぐぅぅ……」 きたみちは唇から血を吐き出しながら呻いた。 油断した。獣化したからといってそれだけで相手を上回ったわけではない。 人間では考えられないほどの破壊力を込めた斬撃はきたみちの胸に大きな傷を作ったば かりか、その内蔵を酷く痛めつけていた。 最早立ち上がることも出来ず、きたみちは心が絶望に包まれるのを感じた。 (馬鹿な……こんなところで俺が負けるのか……!ここで死んだら靜、靜はどうなる…!) しかし、身体はどうしても立つことを許さない。 「良い闘いだった……さらばだ、剣士!」 「待てえっ!」 か細いが凛とした声が響いた。 幼い少女が刀を手にヒュウガを睨み付けていた。 だがその手はぶるぶると震え切っ先が定まっていないし、重さで持つのがやっとという ところだった。少しでも力を抜くと今にも取り落としてしまいそうだ。 きたみちは本当に血を吐く思いで叫んだ。 「馬鹿野郎!何故来た、靜ああああっ!!」 「父様を……殺させないっ!!私が相手になるっ!!」 その言葉にやや戸惑った視線を向けていたヒュウガの目が細められる。 「成程……この童、貴様の子か。ならば……鬼の血を引いているという事だな」 きたみちの青い顔から血の気が引き、土気色になった。 「やめろぉぉぉっ!!そいつは見逃せ、俺を殺しやがれぇぇぇぇぇ!!!!」 「我はっ!全ての鬼を……滅するっ!!」 「父様、私はどうなってもいいから逃げてっ!!」 靜の涙声が静止した夜に響く。 「何言ってやがる、護るべきものがない人生に何の意味があるっっ!自分より大事な者を 見捨てて得た命に何の意味があるっっ!俺は……俺にはお前がいない人生なんて何の価値 もねえんだっっ!てめえっ!俺を殺せ、畜生ぉぉーーーーっ!」 太刀を振り上げたヒュウガの動きが止まった。 自分の意志ではない……何故か、この太刀を振り下ろすことが出来ない。 (何故だ……何故殺せぬ!?ただ鬼を殺す、それだけのことではないか!?) 我知らず額に汗が流れる。 呼吸が荒くなる。 我は……我は昔、これと同じ状況に立ったことがある……? 「どうしたんです、ヒュウガさん。こんな夜更けに……」(露だ) 「ヒュウガ兄様と私達三人で、ずっと一緒に暮らせたらいいのにね」(つぶらだ) 「お顔が怖いよヒュウガ兄様……どうしたの。お腹が痛いの?」(稲だ) 「村人に手を出すなあっ!私の身をくれてやる、だからみんなは……」(露だ) 「弔らう……弔ってやる!!お前の無念、この私が晴らしてやるっ!!」(そして……我) 「兄様、明日は何して遊ぼうか」(稲……我はあの時稲を……殺せなかった……!!) 「うがああああああああああああああああっ!?」 ヒュウガは絶叫を上げると、がくりと膝を突いた。 虚ろな目で銀色の太刀の刀身を見つめている。 「我は……私は……何をしようとした?これではあの時の鬼と同じではないか……。私の 大事な者を奪った鬼と……」 「父様っ!!」 「う……うおおおおおおおおおおおおおおーーーーーーっ!!」 きたみちは残っていなかったはずの力を汲み出して、ヒュウガの太刀を叩き斬った。 想像よりもあまりに軽く澄んだ音と共に……刀身が銀の光を散らせながら砕け散る。 ヒュウガの目が見開かれ、ばしっと身体から光があふれ出る。 前世の記憶との接点が封じられ、風見は風見本人に戻っていく。前世で備えていた本人 以上の力の余剰が元から紅く明るい夜を白く照らしていた。 そのヒュウガの顔はあくまでも穏やかで……。 「私は……鬼を憎むあまりに自ら鬼と化していたか……。地獄の鬼に……」 それから、抱き合うきたみち親子の方に手を差し伸べて、呟いた。 「有り難う……感謝する………」 その言葉を最後に光は消え失せ……風見はその場に倒れ込んだ。 その上にぱらぱらと粉雪のように太刀の破片が降り注ぐ。 「刀が………」 靜は呆然と呟いていた。 きたみちは潜在能力までも使い果たし、荒い息を吐きながらその光景を見つめていた。 「有り難う、か……」 風が吹く。 血を充分に吸った、紅い、紅い風が。 「だが……これで本当に終わったのか…………?」 紅い月は何も言わず、ただ地上を照らしている。 妖刀夜行 完