それは日差しがきつくなる新緑の頃の話だった。 まだ学園初等科に入学して間もないマルティーナ達が何より最初にやらなければならな かったこと……。 それは、人間達と触れ合うことだった。 じりじりじりじりじり…………。 まるで空がレンズになって光を集めているかのような暑さ。 生まれて初めて迎える初夏の日差しを避けるかのように、マールは木陰に座りこんでい た。 HMにも温度を感じる機能はある。 あまりにも高温に晒されすぎると体内の循環系冷却器が熱を帯びてしまい、回路の冷却 が上手く作動しなくなる。その際のダウンから脳内回路を保護するために運動系回路が一 時的に機能低下を起こさせ、何らかの形でのクールダウンを要求する。 早い話、人間だろうがHMだろうが熱くなると涼を求めるということだ。 もっともこの暑い最中も平気な顔をしてサッカーに熱中している者もいるが。 「パース!」 「ルーティ、いっけぇ!」 「オッケー!ゆっけぇ、必殺シュート!」 小気味いい音を立ててけっ飛ばされたサッカーボールは小さなキーパーの手を割って見 事にゴールに突き抜けていった。 「やったあ!ラス五分逆転っ!」 マールは薄い微笑みを浮かべると、持っていた本を静かに閉じた。 スポーツが得意なルーティは既にクラスに溶け込んでしまっていた。 休み時間になると、男子と一緒にボールを抱えてグラウンドに飛びだして行く。女子に も声を掛けられて縄跳びをしたりする。最近ではルーティを争って女子と男子で取り合い が生じているようだ。 学園に入る際、美加香や長瀬主任から言われた最初の課題である『友達作り』は大成功 に終わっているらしかった。 ティーナも持ち前の明るさと話術でいつの間にか女子の輪に加わっている。 マールはそんな特技を持つ妹たちを誇りに思う。そして、同時に妬ましいとも思うのだ。 何故、私にはルーティみたいな運動神経やティーナみたいな魅力がないのだろう、と。 もちろんマールは十分に分かっている。そんなことは言ってみても仕方がないことなの だと。一つの心から生まれた三つの魂である自分たちは、自分以外の二つには決してなり 得ないのだと。 それでもマールは夢を見る。ルーティや、ティーナになる夢を。活発に、みんなに囲ま れて、過ごして行く毎日を。 「姉さん、サッカー終わったよ。さ、帰ろ!」 ルーティの声でマールは我に返る。 ふっと笑みを漏らして、マールは頭を振りながら立ち上がった。 何を馬鹿なことを言っているんだろう。 私には、こんなに可愛らしい妹が居るのに。 マールはスカートに付いた泥を払って、本を胸に抱きしめて、言った。 「ええ。それじゃ行きましょうか」 「姉さん、それにしても外は暑いんだねぇ」 「そうね、研究所は精密機械用に低温設定してあるから……」 マールは笑いながら相槌を打ち、くすくすと笑い出した。 怪訝そうにルーティが姉の顔を覗き込むと、マールは微笑みを浮かべながら言った。 「ううん、私達が暑いなんて言ってるようじゃティーナはもっとへばってるだろうなって 思って」 「そーだなー…あたしや姉さんは稼働回転数が多いから耐熱機能が強いけど……ティーナ は純粋家事用だもんね」 そう言ってルーティが振り向いた瞬間、姉は仰向けにくらっとよろけていた。 「ね、姉さん!?」 慌ててルーティはマールを抱き留めてぺちぺちと顔を叩いた。 幸いにも程なくマールは目を開け、自力で立ち上がった。 「大丈夫……あんまり暑いからちょっと眩暈がしたですよ」 「ほ、本当に?大丈夫?何だったらあたしが姉さん背負っておうちまで……」 泡を食ってわたわたと肩を揺するルーティに少し笑いかけ、マールはルーティの頭を撫 でた。 「本当に大丈夫よ。有り難う、心配してくれて」 その言葉に、ルーティは幼い子供が母親に向けるような表情を向けた。 実際に、今の彼女にとってはマールは母親以外の何者でもないのかも知れなかったが。 マールは眼を細めて掌で日差しを遮りながら、呟いた。 「外がこんなに暑いなんて……ティーナが心配だわ」 姉さん、他人の心配してる場合じゃないでしょう!? ルーティは口から飛びだし掛けた言葉を必死に飲み込んだ。 この人はいつもそうなんだ。 自分よりも他人のことを一番に考えてしまう。そして、自分を卑下して哀しい表情を見 せる……そのくせみんなに向ける顔は優しいままで。 そんな優しすぎる姉を見ていると、自分の身を投げ売ってでも支えて上げたくなる。 だからルーティはいつでも姉妹のことを考えて密かに心を砕いているのだった。 「ティーナなら大丈夫だよ、あの子は要領がいいからきっともう家に帰ってるか……」 「あっ、倒れてる」 「……………え?」 マールが指さしたところを見ると、ティーナがベンチに倒れていた。 自主的に寝転がっている、と言う方が近いようにも思えるが。 姉たちの声を聞きつけ、ティーナはう〜〜と呻りながら声を挙げた。 「あ〜〜、お姉ちゃ〜〜ん」 「なっ……ティーナ、あんたこんなところで何やってんのよ!」 あんたがそんなだから姉さんが要らない気を使っちゃうのよ! 後半の台詞はぐっと堪えて、ルーティはティーナに叫んだ。 もちろんティーナはその本心を知る由もなく、うるさそうに一つ上の姉に目を向ける。 「あんまり暑いから寝てたの!ボクはどっかの筋肉だらけの乱暴者と違って繊細なの!」 「誰が繊細なのよ、こんなところでおへそ出して寝っ転がってるくせに」 「筋肉少女には出来ないサービスカットだよーん☆」 訳の分からないことを言いながら、ティーナは体を起こした。 そして、マールに向かってすりすりと甘えるように身体をひっつけて行く。 「ねぇ、お姉ちゃん、ボク喉乾いた〜動けない〜暑い〜疲れた〜〜!!」 「そう……困ったわね」 なにやら本気で困っているマールを見かねて、ルーティは半眼で呟いた。 「甘やかしちゃダメだよ、ティーナはいっつもだだこねるんだから」 「べーーっだ、ルーティお姉ちゃんには甘えないもーん!マールお姉ちゃんとの問題だも ーん!」 舌を出して悪態を吐くティーナに、ルーティはむっとした視線を向けた。 ティーナから見れば単なる姉の意地悪か、さもなければ長女を独占される嫉妬としか見 えていないが、ルーティは本当はティーナも大事だと思っている。 しかし、ティーナがマールを困らせているのを見るとルーティはついついティーナに冷 たくしてしまうのだった。やっぱり長女を一番心配している。 マールは腫れ物を見るような眼で妹を見ているルーティに向かって掌を突き出した。 ちょうど70円が乗っている。 「ルーティ、あなた50円持ってる?」 「あ、うんあるよ」 そう反射的に言ってルーティは財布から50円玉を取り出して姉に投げてよこした。 それを不器用にキャッチして、マールは自動販売機に向かっていった。 「えーっと、ウーロン茶でいい?」 「ボクコーラがいい!」 「ダメよ、水分補給するのに炭酸じゃ……」 そこまでやりとりがあってから、やっとルーティは姉が何をしようとしているのかに気 付いた。 がちゃこん、という音と共に自動販売機から350mlの缶が落ちてくる。 ティーナはじたばたと足をばたつかせてえー、えーと文句を言った。 「やだよ、ウーロン茶なんておじいちゃんが飲むみたいなの!コーラが駄目ならサイダー でもオレンジでもよかったのにー!」 「あっ、ごめんねティーナ」 「えーん、オレンジ飲みたいー!飲みたいったら飲みたいーっ!」 ルーティは頭に血管マークを浮かべながら密かにティーナの後ろに回り込むと、唇の間 に指を入れて思いっきり引き延ばした。 「んー?自分じゃ金も払わないくせにわがままぶっこいてるのはこの口かぁぁ〜〜?」 「むひーっ、おねえちゃんいひゃいいひゃいーーーっ!」 「当たり前だろ、痛くしてんだからっ!」 さすがにマールもわがままだと思ったのか、平然とタブを起こしてにっこりと妹たちに 笑いかけた。 「さ、ケンカせずに三人で分けましょ?ね?」 負けを認めないといつまでも口びろーんをされると悟ったティーナがふるふると頷き、 ルーティもようやく手を離した。 その瞬間、背後でがちゃこんがちゃこんと音がして三人は思わず振り返った。 マールが自動販売機に近付いて見ると、受け口にオレンジジュースと紅茶が入っている。 おそるおそる、と言った風にマールはジュースを取ると、はっとした風に自動販売機を 正面から見つめた。 それから、にこやかに笑って深々と礼をし、言った。 「どうもありがとうございます」 ルーティとティーナは突然のことに硬直していた。 マールはそんな二人の手にジュースを渡し、自動販売機の方を仰ぎ見た。 「あの方がこの二つ、下さるそうですよ。さ、二人ともお礼して」 ルーティはぎょっとしてマールを見つめた。 姉さんは会話したんだろうか、あの下等なAIと。 もちろんルーティにはそんな機能はない。だが、姉ならばそんな事が出来てもおかしく ないような気もする。何故なら、姉は世界最高の頭脳を持つ機体の雛形として作られたの だから。心のない頭脳回路とも会話が出来ても不思議ではないと思えてくる。 横を見ると、ティーナは早くも順応して「ありがとう自動販売機さん!」と礼を言って いた。単に何も考えていないだけかも、と少しだけ考えてしまった。 慌ててルーティも「どうもありがとう!」と頭を下げた。 りーんごーんがぁーんごぉぉーん 三人でジュースを飲んでいた憩いの時間を邪魔され、マールはちょっとムッとした顔で 時計台の方を向いた。 「あのチャイム、いつまで調律狂わせておくんでしょうね」 「さあ……上級生が言うにはあの時計台ってLeaf学園が出来る前からあるんだって」 ルーティが応えると、ティーナが得意そうに顔を輝かせて声を挙げた。 「そうそう、あの時計台で昔失恋の結果……」 「あーはいはい、幽霊話はいいから」 ルーティがすげなく応じると、ティーナは頬を膨らませて姉を睨みつけた。 「ロマンがないなぁ、ルーティお姉ちゃんは。素敵な恋なんて出来ないよ」 「幽霊信じてなくても恋愛くらい出来るわよ」 「あーあ、これだから運動バカは……マールお姉ちゃんは分かってくれるよね?」 ティーナは素早くマールに話題を振った。 しかし、返事はない。 「……お姉ちゃん?」 ティーナが再度声を掛けると、マールははっとして自動販売機から眼を引き剥がした。 「あ、な、何?」 「……どうしたの?なんかヘンだよ?」 いつもなら「ヘンにヘンって言われちゃ立つ瀬がないね」などと意地悪を言うルーティ も、今度ばかりはマールを心配そうに見つめていた。 マールは慌てたようにばたばたと手を振って立ち上がった。 「そんなことないですよ!ちょっと自動販売機さんが気になっただけで……」 そう言いながら、マールはいそいそと自動販売機に近寄っていく。 そして、側面に張られたステッカーを見てわあっと声を挙げた。 「クルスガワコーポレーション……あなたも来栖川製品なんですねぇ!」 ルーティが後ろから覗き込むと、確かに来栖川のロゴマークが貼られている。 だが、ルーティはそのステッカーにどこか違和感を感じていた。 『KURUSUGAWA CORPORATION N2251』 「姉さん、帰ろう」 自分がびっくりするほど冷たい声を出して、ルーティは呟いていた。 びくっとしてマールは振り返る。 自分の横でティーナも強ばった顔でマールを見つめていた。 「お姉ちゃん、帰ろう!早く!」 そう言って、長女の手を無理矢理引っ張っていこうとする。 「ちょ、どうしたの二人とも!?」 「いいから!帰ろう、早く!」 「ボクも疲れちゃった!ねっ、おうちにかえろっ!」 いつになく息の合った妹たちの主張に、マールは困惑した顔で自動販売機を振り返った。 「すみません、また来ますから!」 そして、そのままマールは自動販売機の前から引きずられていった。 それからルーティにとって気の抜けない日々が始まった。 昼休みや放課後、マールの姿が教室やグラウンドから見えなくなったのだ。 そして捜して見ればいつもマールは校舎裏の自動販売機の横に座っている。 それも、いかにも楽しそうに。 その手の中にはいつも自動販売機で買ったらしい缶が握られていた。 マールは確かにルーティの眼にも生き生きして見えた。 あのそよかぜに吹かれて緑の草と一緒に紅い髪をなびかせて笑う少女は、グラウンド隅 の木陰で孤独に本を読んでいた少女の姿ではない。 しかし、それは明らかに正しくない姿のようにルーティには思えた。 マールはにこにこと笑いながら自動販売機に向かって語りかけている。 話の内容はどうって事のない普通の内容だ。 最近読んだ本のこととか、昨日見たTVのこととか、生まれて初めて知った驚きのこと とか……。 だけど、それは自動販売機に語りかけるようなものじゃないはずだ。 (分かっているでしょう、姉さん!) ルーティは茂みの中に隠れ、心の中で姉の背中に向かって叫ぶ。 ヘンなんだよ、それは。 姉さんはそれを人間の友達に向かって話さなくちゃいけないんだよ。 たとえ自動販売機が答えを返していてくれるのが姉さんに聞こえたとしたって、自動販 売機は成長しないんだよ。他の所に行って、いろんな事を知ったりしないんだよ。 いつまでもそこにいて、オウム返しにあなたの話を聞いているだけなんだよ。 (何で気付いてくれないの、姉さん!) 今でさえ孤立している姉さんがそんなことしてたんじゃ、いつまでも友達出来ないまま だよ。それどころか、変な噂が立っちゃうよ! (お願い姉さん、もうそこには行かないで!) ルーティにとっての日々は十日ほど続いた。 その間、ルーティはひたすらに昼休みのスポーツの誘いを断ってマールの監視をするこ とになった。 ティーナも姉の異変に気付いているらしく、二人きりになったときの話題も自然そのこ とばかりにならざるを得なかった。 ルーティはひたすらいかにして姉をそれとなく諭すことが出来るか、幼い心で必死に考 え続けた。しかし、どうあってもそれは得くことが出来ない命題だと思えた。 そして答えが出ない内に、緊張状態は違った方向から崩れることになった。 その日の晩、美加香は深刻な顔をしてルーティに訊いた。 「ねえルーティ、最近お姉ちゃんが何にお金使ってるか知ってる?」 ついに来たか、とルーティはどきりとして固まってしまった。 美加香の手にはマールのお小遣い帳が握られている。 十日ごとに使ったお金をかき込んで、申請しなさいと三人に渡したものだ。 「これを見るとなんだかマール、一日240円使ってるみたいなの。小学一年生には10 日で2400円はちょっと多すぎるし……何に使ってるの、って訊いても言わないのよ」 姉さんらしい、とルーティは困る一方でおかしいような気分になった。 だが、美加香の顔を見ているとそんな気分もいっぺんに吹き飛んでしまう。 (姉さん……一体何やってるのよ!) ルーティはごくっと唾を飲み込むと、ふるふると首を横に振った。 「ううん、あたし知らないよ」 「……そう。なら、仕方ないわね」 美加香は以外とあっさり諦めて、小遣い帳を脇に挟んだ。 そして、ルーティの頬を両手で挟むとそっと額に口付けた。 「お休みなさい、ルーティ」 その言葉を残して、美加香はきびすを返すと部屋を立ち去ろうとした。 ふっと、横顔が…母親に見えた。 一度も見たことがない、いるはずのない、母に。 「待って!」 我知らずルーティは叫んでいた。 立ち止まり、こちらを向く美加香にルーティは叫んでいた。 「姉さんはね、……!」 「これがその問題の自動販売機ね……?」 美加香は初等科の校舎裏に設置された自動販売機の前に立ち、手にした書類と比較して みた。書類にはこの型の自動販売機の詳細図が描かれている。 「別にどうってことないただの自動販売機みたいだけど……」 サイズ、幅、形状、ボタン柄にいたるまでごく普通のクルスガワコーポレーション製自 動販売機である。売っているものもありきたりの清涼飲料水だ。特に珍しいものではない。 そして、単なる自動販売機は当然HMと会話できるような高等な頭脳回路を持っては居 ない。もちろん美加香もマールにそんな装備を付けた覚えはない。 実際にはオプションシステムの中にはあらゆる精密機械の制御回路に命令する事が出来 る、といったものも存在する。しかし、それはあくまでもオプションであり、現在のマル ティーナには装備されていない機能のはずである。そもそもそれにしたって相手が同じH Mなどでない限りは対等の会話が成立するはずもない。 「どうなってるのかなぁ……考えたくないけどマールの頭脳にミスがあるとか……?」 そんなことを呟いてから、美加香はぶるぶると頭を振った。 ありとあらゆる悪い想像の中で最悪の部類に入る類である。 美加香はため息をついて、自動販売機から身を離した。 と、その眼が自動販売機の横に止まった。 『KURUSUGAWA CORPORATION N2251』 ありきたりの製品ナンバーを示すステッカーである。 確かにこの自動販売機の型は2251型、間違っては居ない。 だが、美加香の脳裏で何かがちくりと動いた。 何か引っかかる……それが何かは不明だが。 来栖川コーポレーションのマークの横には来栖川グループのエンブレムが貼ってある。 その後ろにはうっすらとNが飾られており、これは製作者の……。 美加香は背後に靴音を感じて素早く振り向いた。 紅い髪の少女が機嫌良さそうにこちらへ歩いてくる。 ……マールだ。 美加香は素早く茂みの中へ飛び込んだ。 ルーティに聞いたとおり、マールはまずジュースを買うと機嫌良さそうに自動販売機と 話し始めた。 「こんにちわ、N2251さん。今日は青空が広がっていいお天気ですね」 もちろん自動販売機は返事を返さない。 しかしマールはまるで返事があったかのように虚空に向かって相槌を打つと、ジュース に口を付けて唇を湿らせた。 「ええ、やっぱりお天気がいい日は気持ちいいですね。お布団が干せるからふかふかのお 布団で眠れるし……お日様をたっぷりと浴びたお布団って本当に気持ちいいんですよ」 「えへへ、羨ましいですか?でもダメですよ、私のお布団はあげませんから。え?もう、 強がり言っちゃって」 端から聞いていれば確かに会話のように聞こえる。 しかし、実際にはマールは自動販売機に向かって相手のない一人相撲をしているだけだ。 (やっぱり……マールにはバグがあるの?) ふと、会話が止んだ。 一陣の風がマールの髪を吹き上げさせる。 眼を閉じてそれを受け止めてから、マールはにっこりと笑って言った。 「あなたも私達みたいに動けたらもっと一緒にいられるのにね」 (マール……) 背中がとんとんとつつかれ、美加香はぎくっとして振り返った。 そこには、唇に人差し指を当てたルーティがしゃがみ込んでいた。 「どう、美加香さん?」 「……重症だわ」 美加香は即答した。 疑いようもなく、マールにはバグが生じている。 一体何が原因なのかは分からない……ともかく、それはすさまじいバグのようだった。 人間になじめない心が架空の人物を生み出したのか。 それともやはり、マルティーナには初めからムリがあったのだろうか? 考えにふけろうとした美加香が見ると、ルーティは不安そうな顔で美加香を見上げてい た。 「美加香さん……やっぱり、姉さん壊れてるの?バグがあるの?」 「…………………………」 「やだよ…バグがみっかったHMはフォーマットされた上でデバッグかけられるんでしょ? そのときに、全てのメモリーを失っちゃうんでしょ?今まで経験した全てのことも、西山 お兄ちゃんのことも、あたし達のことも忘れちゃうんでしょ?そんなの…やだよっ!」 足下にすがりついてきたルーティを、美加香は為すすべもなくぼんやりと見つめていた。 ルーティはうっうっと泣きじゃくりながら美加香の足に顔を擦り付けた。 「そんなの、もう姉さんじゃないよ……!お願い、姉さんを消さないで!あたし、姉さん が好き!あの優しい姉さんがいなくなるなんて、絶対に……絶対にやだっ!」 美加香はそっとルーティの頭に手をやると、ゆっくりとしゃがみ込んだ。 ルーティの目の高さに目を合わせ、穏やかに微笑み掛ける。 「大丈夫……護ってみせるわ。あなた達は私の……」 (娘だから) その台詞はどうしても言えなかった。 言う資格はないと自覚していた。 だから、美加香は代わりにルーティをぎゅっと抱きしめた。 (今度こそ、追放かしらね……) それでもいいと思っていた。 それを発見したのは風紀委員会の下っ端だった。 その晩も、いつも通りの晩だった。 暑くも冷たくもない、そんなうすぼんやりとした世界の中。 葉桜の下を彼はいつも通りに不平を呟きながら歩いていた。 全く風紀委員などはいるのではなかった。 委員長は人使いが荒いし、夜間巡回しなくちゃ行けないし、委員の中には……そう、 「草」とか言ったか、そんな不気味な連中が混じっているし……。 何よりもこの夜中に校内をうろつかなくては行けないのが辛い。 普通の学校なら宿直に任せておけばいいものを、この学校の場合本気で夜の内に何かを 企もうとする輩が居るから始末に負えない。 風紀委員ははあっとため息をついて、我が身の不幸を嘆いた。 今日の担当区域は初等科だった。 高等部に比べるとまだしも危険は少ないと言えるだろう。 彼は校内巡回を終え、校舎裏に回ってきたところだった。 そして彼は不幸にも聞いてしまったのだ。 あの、低く重い足音を。 驚いた委員は、一瞬逃げ腰になりながらも自分の職務を思い出して勇気を振り絞ってラ イトを向けた。 「誰だっ!?」 そこに照らされていたのは自動販売機だった。 本来なら驚くべき事ではなかったろう。空耳とも思えたはずだ。 残念ながらその自動販売機には鉄骨で作ったような足が二本短く突き出ていた。 「何……!?」 新しい来栖川警備保障のロボット……いや、工作部か科学部の実験作品……。 それとも外部からの何らかの干渉……。 数種のパターンが彼の頭をよぎった。 そして、「敵」にとってはその間だけで充分だったのだ。 釣り銭取り出し口から突き出た金属孔から火花が散り、委員を直撃した。 「ぐっ……ま、待て……!」 吹っ飛ばされた委員は力が抜けて行く手で警報スイッチを押した。 途端に周囲に甲高い緊急信号が鳴り響く。 初夏の葉桜の下の広場、夜を引き裂かんばかりに。 だが、それも少しの間のことであった。 自動販売機の釣り銭切れランプがチカチカと明滅すると、その音はゆっくりと下がって 行き、やがて聞こえなくなった。 「そんな……何故だっ……」 その言葉を最後に、委員は意識を失った。 後には何事もなかったような静けさが満ちる。 しばしの沈黙の後、重い足音はゆっくりと遠ざかっていった。 まるでこの静寂を惜しむかのように。 (後編に続く)