一人の少年が、ベランダに置かれている蜜柑箱から、手元のざるに蜜柑を一山ほど 移している。 首の後ろでひとまとめにくくられた髪を前に垂らしながら、ともすれば中学生と間 違われそうな容姿を持つ、その少年の名は弥雨那希亜、自称「魔女の系譜の魔法使い」 である。 彼は白い息を吐きながら、蜜柑を移し終えると部屋の中へと入っていった。 「は〜い、蜜柑盛ってきましたよぉ〜」 一年先輩のルームメイトである軍畑鋼に希亜はそう言いながら、ベランダへの扉を 閉める。 既に正月も4日になり、そろそろ世間は動き始めていたが、学生は未だ冬休みを満 喫する。 この部屋の寮生2年の軍畑鋼と1年の弥雨那希亜も、その例外ではなく冬 休みを満喫していた。 宿題やレポートを片づけられた者達の特権と言えるだろう。 「こたつも蜜柑も、弥雨那ちゃんにはいつもすまないっスねー」 「私は美味しいのを売っている場所を知っているだけですから、この蜜柑自体は軍畑 さんのお金で買ったものですしぃ、感謝されるいわれはないんですよぉ」 希亜は軍畑の言葉に答えながら、ベランダから部屋に入った彼は竹製のざるに盛ら れた蜜柑を片手に、部屋の中央に置かれた炬燵へと歩いて来る。 実際、この炬燵も買った訳ではなく、ゴミをリサイクルした物だった。 まだ十分 に使える物を捨てている程には、世間は裕福だと言えるだろう。 軍畑はその炬燵に入りながらに原稿用紙に向かっていた。 今彼が描いているのは 漫画のラフ、要するに鉛筆等による下書きの事である。 「やっぱり炬燵は暖かいですね〜」 のんびりと炬燵に入る希亜も、軍畑と向かい合ってノートPCのキーを叩く。 それからしばらくそれぞれに原稿用紙やノートPCに向かっていた。 外には灰色の寒空からしんしんと雪が降っている。 部屋の中は鉛筆が線を引く音、 キーを叩く音HDDのアクセス音、そして時折かわされる二人の会話だけがあった。 不意に希亜の視界が変わった。 たった一瞬だが全てが空に包まれていた、視界だ けではなく、ほぼ五感全てが空を感じていた。 それもいつもの空とはどこか違う空 を。 「…ん、弥雨那ちゃん、どうかしたっスか?」 「いえ…、ちょっとトイレに行って来ますね」 そう言ってふよふよと希亜は部屋から出て行くのだった。 「何かあったみたいッスね…」 ルームメイトの確信めいた言葉が部屋に広がる。 そして軍畑が再び原稿用紙に向かおうとした時、廊下をドカドカと駆け上がってく る足音が聞こえ、それは真っ直ぐにこの部屋の前まで来てピタリと止んだ。 一瞬の静寂が広がる。 「何スか?」 「希亜おるか!?」 軍畑の言葉と、勢いよくドアを開けて問う猪名川の言葉が重なった。 「…弥雨那ちゃんならトイレに行ってるッスけど、何かあったんスか?」 「希亜の婆ちゃんの婆ちゃん… ちゃうわ、曾婆ちゃんが危篤やってさっき電話があっ たんや」 「マジっスか?」 「当たり前や!」 その二人の言葉の直後、寮の近くの空からだろう大音響が響き渡った。 「…聞いとったみたいやな、希亜」 サウンドバリアを貫く瞬間の大轟音が辺りに広がる。 そんな現象がただ、寮の上 空で起こった。 現象を起こしたのは希亜自身なのだろうと、由宇も軍畑も確信して いた。 箒乗りの 魔法の話 その三 子猫と希亜と綾芽の空 小一時間後、寮管理人室。 どてらを羽織ってぼんやりと炬燵に入ったままに蜜柑を食べる由宇、蜜柑は先ほど 希亜&軍畑の部屋から奪ってきた物だ。 ニュースが流れているテレビを見るでもなく、彼女は蜜柑を剥いていた。 そんなときに電話が鳴った。 「なんやろ… はい、試立リーフ学園学園寮管理人室です」 『あ、管理人さんでしょうか』 「はい」 『私、弥雨那希亜の姉の「アっちゃんかぁ、久しぶりやなぁ、ウチや猪名川の由宇や。 今どないしとるん?」 『…由宇。 希亜の事なんだけど、一週間ほど帰れないから』 「それはかまへんけど、何かあったん?」 『うん、曾お婆ちゃん。 今亡くなるの』 「…なんやそれ」 『分かるんだって、自分の死期が。 私はあんまり面識無かったから、そんなにショッ クはないんだけど、希亜は曾お婆ちゃん子だから…』 「ほうか」 『うん、色々忙しくなるからまたね、関西の即売会にはいるから』 「分かった、アっちゃんも元気でな」 『うん』 久しぶりに聞いた知人の声が途切れ、陳腐な電子音の連続音に変わる。 やがて受話器を置き、由宇は再び炬燵に入った。 記憶の中の彼女は、もっと口数の多い春風のような人物だった。 でも、電話口の 彼女は何か他人行儀で、口数も多いという訳ではなかった。 「アっちゃんかて、ショック受けとるやないか」 呟かれた由宇の前には、剥かれたままの蜜柑があった。 数日後、夜、寮管理人室。 「はいもしもし、試立リーフ学園学園寮管理人室って、アっちゃん。どないしたん?」 『さっき希亜が飛び立ったからその連絡』 「なら、30分ぐらいで着くな」 『多分ね』 「そういえば、希亜はアっちゃんの事話さへんなー。 こっちの友達にも姉貴がいる なんて話したとこ見た事無いで」 『そう』 「…アっちゃん?」 『何? 由宇』 「どうしたんやアっちゃん、こないだもそうやったけど今日はもっと口数少ないやん か。 ウチは知っとんやで、あんたが落ち込んどるの」 『…私の事でもあるんだけどね』 「なんや?」 『希亜の事なんだけど、あの子の住所変わったから、手続きの仕方教えてあげて』 「それはええけど、なんかあったんか?」 『うん、でもこれは言う訳にはいかないから。 ごめんね。 でも、希亜が話すのな ら問題ないから』 「…まぁええわ、手続きの事はばっちり面倒見たるから心配せんでええで」 『ありがとう。 そう言えば由宇ちゃん去年の暮れ帰ってこなかったでしょ』 「ちょっと、こっちでいろいろあってなー。 来年は帰るから、な?」 『もう、こっちのみんなも楽しみにしてたのに』 「ま、まぁ色々あったんや」 『そう言う事にしとくわ、じゃそろそろ切るね』 「ああ、またなー」 『そうだ。 あの子まだ泣いてないから』 「…アっちゃん?」 そう呟いた由宇の耳には、切れた電話の陳腐な電子音だけが聞こえていた。 「泣いてへんて、どういう事や?」 数十分後、希亜&軍畑の部屋。 「戻りました」 「なー」 ベランダから入って来た希亜と、彼に抱えられた青御影のようなやや青みがかった グレーの毛並みを持つシャム猫の子猫が、それぞれに帰還と来訪を告げた。 「お帰りっス弥雨那ちゃん… て、どうしたんスかその子猫?」 軍畑の視線の先、コロコロと鳴る陶器製の鈴を首輪に付けたその子猫は、希亜の足 下にピッタリと寄り添っている。 「ちょっとあって、私の手元に置く事になりました。 使い魔予定のクラムです」 「なー」 クラムと呼ばれた子猫は軍畑に向かって一鳴きしシッポを立てた。 「…なんて言うんスか? 弥雨那ちゃんは魔女の王道を行こうとしているんスか?」 「曾祖母の遺言でして… これ以上はちょっと」 言いにくそうに、と言うよりは何かから逃げるように視線をはずす希亜に軍畑は深 く追求する事もなく。 「まぁ、そこにいると寒いっスから炬燵にはいると良いッスよ」 そう言って彼を迎え入れるのだった。 感覚がない事が分かった。 正確には五感はあるのだが、まるで実感がなかった。 どこか、空を飛んでいる。 希亜の知らない空を。 見た事もない箒に乗って、見た事もない格好をした魔女達と共に。 だが、どこかで懐かしさを感じていた、それを感じさせるものも分からすに… ホワイトアウトした視界に身をよじった直後、自分がベッドの中にいる事に気付い た。 意識が少しばかり認識範囲を広げ、それまで見ていたものが夢だとおぼろげながら に確認した。 「…夢かぁ〜」 辺りを見渡す、レースのカーテン越しに冬の朝日が部屋の中に深く入って来ている。 「どこの、空だったんだろう」 まだ目覚め切らない頭でぼんやりと呟いた希亜だった。 お昼前、学園内校舎屋上。 コロコロ。 「なー」 首輪についている陶器製の鈴が鳴る。 ブレザータイプの制服の上に、彼の言う魔法使いの正装である濃紺の背中で大きく 分かれているマントを羽織った希亜。 その彼の膝の上で、青みがかったグレーの毛並みを持つ子猫が、丸まっていた体を 伸ばすように頭を上げてひと鳴きしたからだ。 「どしたの?」 希亜は膝の上の子猫に触れるでもなく、視線を膝の上の子猫へと落とした。 その子猫の頭の先、視線の先に一人の生徒がいた。 ゆっくりとした仕草ではある がこちらに向かって歩いて来る。 「来栖川芹香さんですよ、クラム。 こちらの方の魔女と言えるでしょう」 希亜がそう説明しながら、そっとクラムの頭に手を乗せると、クラムはまた彼の膝 の上で丸まるのだった。 芹香はそのゆっくりとした足取りで希亜に近づいてくる。 そうしてようやく目の前まで来ると、彼女が口を開く前に希亜が口を開いた。 「この子の事についてなら、今は答えられません。 ただ、私の大切なものの一つで す」 「では一つだけ? 使い魔なのですか?」 希亜は彼女の言葉を確認するように呟くと、目を閉じしばし思案にふける。 「とても近いものですよ、私の血筋ですから」 希亜は答えてから瞳を開き。 「でも今は、私がそばにいる必要があるんです」 芹香は「そうですか」と、少し残念そうな表情を見せるが、そのまま言葉を続けた。 「え? 綾芽が探しています?」 コクコク。 「参ったなぁ」 希亜はすぐに立ち上がってこの場から離れようと思ったが、膝の上のクラムの存在 にその行動を取る事はできなかった。 「クラム、行こうか」 そんな希亜の呼びかけにクラムは耳をピクンと動かしただけで、相変わらず丸まっ たまま希亜の膝の上を独占していた。 「しょうがないなぁ」 やや諦めるように呟く希亜の様子を芹香は微笑ましく思い、希亜に綾芽には私から 言っておきますと言付け、その場を離れていった。 今日は3学期の始業式であり、大量の生徒の中に紛れてか、希亜は朝から綾芽に会っ てはいなかった。 会いたくない、と言う事は微塵もなく。 ただクラムの相手をしていたら、いつの 間にか探されていた訳である。 「何の用なんでしょう」 年の瀬に彼女の。 正確には彼女がパパと言って慕っている、希亜の一年先輩に当 たる悠朔の実家の神社で、彼女らと一緒に手伝いをしていた。 途中ハイドラントご一行の自滅的なハプニングもあったが、元旦のお務めの終わり に夕食をご馳走になって、希亜はそのまま神戸の実家へと戻っていた。 以来、綾芽とは顔を合わせてはいなかった。 何度か電話をしたぐらいである。 「とは言え、そろそろ顔を見たくなりますねぇ〜」 希亜自身、綾芽の事はある意味とても気にかかる人物だった。 それが「好き」という、衝動を呼び起こす想いである事を間接的にとは言え指摘さ れ、しばらくは動揺する事もあった。 希亜自身が感じている、彼女の影の部分が気にはなりにこそすれ、それも含めて好 きである事を、現在は快く思っている。 未だに告白をしていないのは、そんなに焦らなくて良いと思うからだ。 たとえ周りから見れば言わずもがなな事であっても… ふと思う、希亜自身恋心に気付いたのは初めてだったかもしれないと。 今まで身内以外には極力自分の力を隠していた、子供の心が残酷を通り越してどれ だけ自分本位であるのか、彼はいじめという実体験を持って知っていた。 そんな日々だったから、一時は他人を信じる事を止めていた。 それは彼の姉が絵 本制作を始めて関西での即売会にて猪名川由宇と知り合い、彼が由宇と知り合いにな る頃まで続いていた。 まだ一人前でもなく、だからと言ってもう幼いとは言えない、そんな中学の多感な 時期に、彼は由宇に出会った事に幸福すら覚えていた。 初めて一族以外で、この常 人離れした力を持つ彼を、まったく特別扱いしなかった事に。 だから、この年の離れた人物には、感謝してもしきれないほどの感情を持っていた。 それをあまり表に出さないのは、思い出す度に感謝出来るように、いつも心を閉ざ さないように決めたからだった。 彼にとって、彼女由宇の背中はとても大きかったのである。 たとえいつもは関西 のおばちゃんであっても… ぼんやりと思考していたのか、ふと気付くと希亜の視線が膝の上のクラムの視線と 合っていた、空の碧が溶け込んだような瞳から向けられるそれは、心なしか優しいま なざしに感じた。 だがその視線はすぐに別の方へ向けられた、同時に青御影のような毛並みの耳もピ クンとその方向を向く。 希亜もその視線の先を見た。 「ああ、初めてだったね。 悠綾芽、私が一番好きな人。 多分ね」 やってくる彼女の事を説明しながら、パタパタと走ってくる彼女の姿を見ていた。 久しぶりに見た彼女はやはりいつものスタイルだった。 鞄を片手に白い羽織に緋 色の袴姿、神社などで見かける巫女に学生用の鞄を持たせたと言えば分かり易いだろ うか、そんな格好だから少々離れていてもよく分かる。 膝上のクラムはそんな彼女の様子をじっと見ている。 「希亜君、もう探したんだから」 そんな事を言いながら希亜の目の前で止まると、ポニーテールを揺らすように怒っ たんだぞと緋袴姿でポーズを取る綾芽。 「ごめん、この子が放してくれなくて」 「さっき芹香さんから聞いたんだけど、クラムってその子の事?」 「うん、しばらくは側にいてあげないといけないから」 「ふーん、芹香さんから聞いたけど。 魔法使いらしくなってきたね希亜君、お姉ー さんはうれしいよ」 そう楽しそうにおどけるように言った綾芽に希亜は快く思うのだった。 「ねえ、抱いても良いかな?」 そんな綾芽の申し出に、希亜は膝の上のクラムに訪ねる。 「クラム、いいかな?」 そんな希亜の質問にクラムはぷいっとそっぽを向いて答えた。 「…ごめん、ダメみたい」 「うぅー、そんなぁ」 「やっぱり人見知りするみたいだから」 「…うん」 目の前の綾芽の視線が未練がましくクラムを見つめる。 「さて、中に入りましょうか」 まるで「しょうがないなぁ」とでも言うかのように、苦笑を交えてそう言い、希亜 はクラムを抱えて立ち上がる。 すぐにクラムは希亜の腕を駆け上り、肩に寝そべるように乗っかった。 「か… かわいい〜」 魔法使いの容姿の少年の肩に乗る子猫に、綾芽は思わずそう言うが。 当のクラム は綾芽からぷいっと頭を背ける。 「ううっ」 残念そうな綾芽のその声に希亜が幾つが思考を巡らせるが、それらをとりあえず追 い払い。 「行きましょうか」 そう言って希亜は、子猫クラムに未練を残す綾芽に促すのだった。 希亜から言わせればクラムは、静かな猫だった。 元々人から見れば気まぐれな生物を素体にしたのだから、もう少し猫っぽくても良 いはずなのだが、気まぐれと言うよりは、あまりにも希亜に懐きすぎていた。 まぁ、少々目を離してもちゃんと側にいるという利点もあるのだが。 前を行く彼の肩に子猫が乗っている、シッポをひらひらと揺らしながら。 別に何かに気を取られるでもなく、物静かに前に向けられている頭。 青御影のような色合いの、ふわふわの体毛に包まれた全身、その中でピンと立った 耳に朧気に見えるまだ赤い表皮、その耳がピクピクと動き周囲の音を聞き分ける、長 いシッポはひらひらと揺れてバランスを取っていた。 そんな子猫が希亜の肩に、がしっ!と爪を立ててはいるが、まるで寝そべるように 捕まっているのである。 子猫って、こんなに無条件でかわいいんだと思う事を越えて、綾芽の視線は前を歩 く希亜の肩の上の子猫に釘付けだった。 「使い魔はね、その魔法使いを象徴する事もあるんだよ」 幼い頃に聞いた曾祖母の言葉を反芻する。 「そーなんだ」 「っ!」 綾芽の声を聞いた希亜は驚いて思わずその場で立ち止まった。 次の瞬間、自分が 思考の中へ深く入っていた事に気付いたと同時に、無意識の呟きを聞かれた事に思考 も止まった。 「わっ!」 後ろからの綾芽の悲鳴、そして希亜は追突した綾芽に背中を強く押された。 突然 立ち止まった希亜に、クラムに注意が行っていた綾芽がぶつかったのだ。 倒れる希亜の肩からクラムが離れる感触、同時に希亜の足は突然の事に動きもせず、 そのままの勢いで希亜は床に倒れた。 「痛い〜…」 「ごめん。 でも、急に止まらないでよぉ」 いつも以上に気の抜けた声で倒れている希亜と、謝る綾芽。 希亜はとりあえずふわりと浮き上がる。 「なー」 そんな鳴き声を上げ、クラムは希亜のブレザータイプの制服を駆け上がり、何事も なかったかのように再び肩に乗った。 「むぅ〜」 脱力するようなうなり声が希亜の口から漏れる。 「また、考え事?」 「あ〜、はい」 「何を考えていたのよ」 「この子の事を、少し。 この子は猫とぉ…」 思わず言葉を止めた希亜。 「どうしたの? 猫と何?」 「私の系統は、不浄を地でゆくものです。 話すのって問題ありますか?」 一応悠朔の実家の神社の手伝いをしている訳であり、巫女装束をしている綾芽に希 亜は訪ねる。 神道では不浄、言ってみれば汚れることはタブーだからだ。 「あ、大丈夫だよ話すくらいなら」 「この子は使い魔です。 今はまだ私の魔力を使って体の整合性をとり続ける必要が あります。 それでこの子は私の曾祖母の思念と…」 希亜の口調が固く重くなって行く。 ふと視界に入った希亜の手が、何かを握ろうとしたまま震えているのに綾芽が気づ いた。 「私の作る法規の制御装置でもあるアズレグラス、そして…」 綾芽が希亜のその様子に気づいた直後、 「そして私によくなついていた子猫のクラムを使って、作り出しました」 希亜から告げられた言葉に、綾芽は違和感を覚えていた。 その違和感は次の希亜 の言葉で具現化した。 「私が殺したんです! 私が。 あんなに懐いていたのに、あんなに無垢で無邪気な 命を、私が殺したんです」 自分を責めるがごとくまくし立てる希亜を止めようと綾芽が希亜の両肩を掴んだ。 「ちょっと、希亜君! 希亜君しっかりして!」 少なくとも綾芽が知っている希亜は、確かにどこか危うさを感じさせる所はあって も、こんなふうに脆さを感じさせるものは無かった。 「私はもう、生き物を飼う資格なんてないんです!」 相変わらずパニックに陥っている希亜を止めようと、綾芽がその手をふるおうとし たその時、希亜の顔をやや青みがかったグレーの何かが叩いた。 「痛っ」 思わずのけぞる希亜。 「えっ何?」 驚く綾芽の目の前で、ピシパシとしなやかに打ち付けられ続けるのは、希亜の肩に いる子猫のしっぽだった。 そして、その子猫クラムはとどめとばかりに前足の爪をにゅっと突き出し、その爪 で希亜の頬をひっかいた。 「痛い」 どこか遠くで呟くような、そんな無彩色な希亜の声が綾芽の耳に聞こえた。 「もういいよ、クラム」 少なくとももう正気に返ったのか、希亜の言葉からは荒れる様は感じられなかった。 綾芽はそれを確認するように希亜に声をかける。 「大丈夫?」 頬に浮かび始めた赤いひっかき傷をさすりながら、希亜は視線を上げ。 「綾芽さん、この子は曾祖母でもあるんです」 痛みのために少しばかり涙に濡れたままの希亜の瞳は、いつも通りのほほんと綾芽 の瞳の向こうを見ていた。 「希亜君の曾お祖母ちゃん?」 「はい、名はクラム・ユーナ。 私の師と同じグエンディーナの人でした」 あっさりと返事を返した希亜はそのまま言葉を続ける「あ〜、でもこの事は、秘密 にして下さいね」と。 同日夕刻、五月雨堂、住居側。 いつの間にか希亜の右肩の上に寝そべるようにへばりついているクラム。 健太郎の目の前で、一人と一匹は夕日の差し込む部屋の中でぼんやりと外を見てい た。 のほほんとした希亜と、その右肩の上で寝そべって目を閉じているクラムに、まる で程良く枯れた老婆と飼い猫を思わず見いだしてしまった健太郎が、希亜には失礼か なと考えた矢先に希亜の声が届いた。 「そう言えば健太郎さん、バスケットってあります?」 「えっ? ああ、バスケット?」 「はい、この子の寝床に使いたいんですけど。 古いもので良い物があればと思って」 そんな風に話している二人の後ろ、部屋の外から小猫を、希亜の肩にへばり付くよ うに寝そべっているクラムを警戒してか、スフィーは部屋に入って来れなかった。 依然として猫を恐れるスフィー、そんなふうに部屋の様子をうかがっている姉の後 ろ姿に気付いたリアンは声をかけた。 「どうしたの? 姉さん」 「あ、リアン」 スフィーの後ろから現れたリアンが、希亜の肩に乗っている子猫に気づいた。 そ のまま彼女はじっとその子猫クラムを見る。 クラムは頭を動かすでもなく、シッポをピンと立て、そのまま左右に二三度振った。 「どうしたの?」 シッポを振ったクラムの方を向いて希亜が言う。 「その子、希亜君?」 そのまま希亜は振り向き。 「はい、想像の通りですよ」 そう事も無げに言った。 「使い魔ですか… 希亜君とは少し違う空を感じます」 「えー? …ほんとだ、少し懐かしい感じもするんだけど… なんだろ、この感じ」 「そですか。 ところで健太郎さん、さっきのバスケットの件ですけど、もしあった らお願いできますか?」 「バスケットって言うけど、色々あるよ」 「大丈夫ですよ、健太郎さんが見つけた物で、良いですから」 「本当に良いのか?」 「ええ、健太郎さんはクラムを見ましたから、どのくらいの大きさの物がよいか見当 はついたはずです。 それに私は知っているんですよ」 事も無げにそう言いきった希亜に健太郎は、 「知ってるって何を?」 と、至極当然の質問をした。 「それは、秘密です。 言ってしまうとありがたみもなくなりますから」 「占いでもしたの?」 「そんなところです」 実の所希亜は、健太郎の目利きと人格を最大限に頼りにしただけであった、希亜自 身はあまり占いもしないし、予言なんか全くの範疇外だからだ。 ただ、占いをした事にした方が、後々説明する手間も省けるのでそうしただけであっ た。 見た事もない様式の建物。 その中で行われる、どこかで見たような様式の術式。 何かの箒を作っている事だけが、理解できた。 感覚がない事が分かった。 正確には五感はあるのだが、まるで実感がなかった。 だがその中で、心の深いところをくすぐられるような、懐かしいと言える空の記憶 に触れているのを感じていた。 目が覚めた。 先ほどまで見ていた夢がゆっくりと記憶から消えてゆくのを感じつ つ、希亜は幾つかの思考を巡らす。 なぜあんな夢を見るのか。 あの夢は何をしているのか。 なにより懐かしいと感じる空に触れている、あの感覚が希亜には理解できなかった。 少なくとも、この空の記憶に触れるのとは、また違った感覚を覚えていた。 朝霞の残る中、向こうからリムジンが走ってくる。 「なー」 「う〜ん、多分そうでしょう」 そんな会話にならない会話を希亜とクラムで交わしながら、独りと一匹は車が止ま るのを待っていた。 程なく中から降りてくる、鞄を手にした緋袴の少女。 「希亜君お早う」 「お早うございます、綾芽さん」 実のところ、二人が校門で会うのは久しぶりだった、いつもは教室で一緒になる事 が多いからだ。 「お早うございます、芹香さんに綾香さん」 「希亜君、ママと芹香さんは先輩なんだから」 「知ってます」 そんなありふれた光景を、希亜は平凡な様相そのままに見つめていた。 二人は隣り合って校舎へと歩く。 「今日の授業ですけど、休講が一つあります」 「あ、そうなの?」 「はい、5時限目の特別講義、今日は民族社会学だったと思いますが、休講になって ますよ」 「そうなんだ。 希亜君はその時間どうするの?」 「部活の決算資料を提出に行きますよ」 「もう、そんな時期なのねー」 「決算ですからねぇ」 「お昼はいつも通りでいいの?」 「はい、ご一緒します」 5時限目。 お昼休みいっぱいまで綾芽と一緒にいた希亜は、一度部室に戻り書類を確認してこ こ学務課に来ていた。 事務員に書類を手渡す。 「はい、では少々お待ち下さい」 そう言って彼女は奥の方へと行き、そこの責任者に書類の確認を取っている。 「電芹、今日はこれで上がりだよね」 「はい、たけるさん。 早く書類を提出して帰りましょう」 希亜の後ろに二人、正確には一人と一体、図書館カフェテリアでおなじみの電芹と たけるのコンビがこちらにやってきていた。 そろそろ提出期限と言う事で、今年度の使用実績を含めた書類の提出が義務づけら れていた。 図書館カフェテリアか第2茶道部か、希亜からはどちらか見当はつかなかったが、 会話から彼女らも書類の提出にやってきたのだろうことが窺えた。 無論希亜も再三に渡るチェックの末提出に至っていた訳で… ふと希亜がその二人の方を見る、距離にして丁度1メートルぐらいだろうか。 希亜は同じ寮生である事から、軽く会釈をする。 それに気付いた電芹が、遅れてたけるが会釈をした。 別段親しい訳でもないが、顔を知っておりそして寮生という程度の間柄なので特に 会話がもたれる事もなく、希亜はカウンターの向こうに視線を戻し、彼女らも書類提 出の為に鞄から書類を取り出していた。 希亜の視線には、彼女らの方にやってくる南女史の姿が入る。 「あらあら、電芹ちゃんにたけるちゃん、予算申請の書類ね」 「はい、南さん。 一応規則ですのでカフェテリアと第2茶道部の書類をお持ちしま した、ご確認下さい」 「はい」 電芹から書類を受け取った南は、ぱらぱらと書類をめくりつつ一通り目を通すと。 「はい、確かに。 じゃあこれは提出しておくわね、ご苦労様」 「ではお願いします」 「失礼します」 それぞれに南に挨拶して二人はこの場から離れていった。 その様子を見ていた希亜が、再びカウンターの向こうへと振り向くと焦点が合わな かった。 焦点を合わせる。 「どうしたの?」 そこには至近距離でこちらをのぞき込む南の姿があった。 「…いえ、書類の確認待ちです」 「そう。 …そうだ、すぐに寮に戻るんでしたら、ついでに由宇ちゃんに渡して欲し い物があるんだけど」 「良いですよ。 ただし、書類の提出が早く終われば、ですけど」 「おねがいね」 そう言って仕事に戻ろうとした南だが、何か思い出したのか希亜の前に戻ってきた。 「どうしたんですか?」 「希亜君の実家の住所変更の件だけど、世帯主になってるわよ?」 「いいんですよ、遺言で私が管理人になることに決まりましたから」 「大変ね」 「まぁ、そうですね。 でも家族も親戚も手伝ってくれますから、大丈夫ですよ」 「じゃ実家の住所変更あれでいいのね」 「はい、よろしくお願いします」 「由宇ちゃんに渡す荷物持ってくるわね」 「は〜い」 結局希亜はその後10分程して書類の提出が無事終わった事を告げられ、由宇宛の 荷物を持って学務課を後にした。 夜、寮の食堂。 丁度ピークの時間帯にさしあたっていた。 男女両方の寮から寮生がやってくる、そんなごった返す食堂の中、傍らで食事を取っ ている川越たけると、いつも通りに雑談しながら時間を過ごす。 彼女自身は食事を取る必要はない、食事代わりにバッテリーに充電するのだが、充 電自体はここでは行う事はあまりなかった。 彼女、通称電芹と呼ばれているそれは、無論生物ではない。 耳には、曰く「人間 との識別用」とのセンサーがあり、それがその目論見通りに人間ではない事を主張し ている。 その存在を広く指す名前は世間一般に広くホームメイドの名で知れ渡って いた。 その人よりも格段に鋭敏なセンサーに、気になる会話が流れ込んできた。 「…で私には、あれらを感じる事が出来ないんです」 「でも弥雨那ちゃん、オイラ達と変わることなくコミュニケーション出来るじゃない スか」 「そう言う反射的な事ではなくて、私が目を閉じて、それらを感じられるかと言う事 …」 声の質から誰の言葉かすぐに分かった。 一連の会話の流れからして、以前カフェ テリアで聞いた内容とほぼ同じ事だと判断していた。 それは客観的に言えば、暗にHMはただの機械だと、そう判断出来る物でもあった。 とは言え、今の彼女はそう言う事で落ち込んだり、深く考えたりする事はなくなっ ていた。 だから「彼はそう言う物の考え方をするんだな」と判断するにとどまっていたし、 彼自身の言葉が彼がただそう感じるだけで、実際にそうであると言う保障や確証はな い事が、彼の口から今紡ぎ出されていた。 ふと傍らのたけるのお茶が飲み干されている事に気付き。 「たけるさん、お茶入れてきますね」 「うん、お願い」 そう返事を受け取ってから彼女は、自動給茶機へと足を進めるべく立ち上がった。 それよりほぼ同時か、やや早くに立ち上がった人物がいた。 件の人物、弥雨那希 亜だった。 二人はほぼ同時に自動給茶機の前に来て立ち止まった。 「「どうぞお先に」」 二人の声が同時にお互いにかけられる。 「あ〜」 言葉がハモった事に思わずそう声を上げた希亜、彼がやや見上げるようになる彼女、 電芹は彼の視線を感じとりどうぞと仕草で促すのだった。 希亜はばつが悪そうに無言でコップをセットし、ほうじ茶のボタンを押す。 「もし、気を悪くしているのでしたら、償いはします」 唐突に彼は呟いた。 「え?」 そんな戸惑うような電芹の声に、希亜の言葉が続く。 「私には、あなた方の心の機微は感じ得ないから。 誤解の無いようにこれだけは伝 えておきたい。 私のあなたに対して抱いてるイメージは、ただの女子寮生で。 あ なた方に対して抱いているのは、道具であり友人であり機械である、その全てであっ てどれか一つじゃない事。 それだけです」 決して早くはないが、簡潔に言い終えた。 彼は既にほうじ茶の注がれたコップを 取り出し、彼女に会釈をして元の席の方へと戻っていった。 夕食後、たける&電芹の部屋。 「…という訳なんです」 人間で言えば、心にもやもやを抱えているという物だったのだろうか、電芹は部屋 に戻るなり食堂での一件をたけるに話していた。 「なんだかよく分からないけど、それって別に電芹に直接言う必要なかったんじゃな い?」 「そうかもしれませんね、でも…」 「?」 「…実は私も弥雨那さんの会話をずっと聞いてましたから。 もしかしたら気付いて いたのかもしれません」 「一度じっくり話を付けなきゃ、電芹にはちゃんと心があるんだから」 そう意気込むたけるだったが、慈しむつもりでついいつものようにチョークスリー パーを決めてしまった電芹の前に決行は遅れるのだった。