朝、校門前。 まだ登校してくる生徒もまばらな早い時間帯。その門の前にじっと立っている人物 が二人いた。 一人は白衣を着た悠朔、一人は黒衣を身に纏うハイドラント。二人とも言葉を交わ してはいなかった。 (にしても、最近陰陽師として修練しているそうだが。…妙な物だな) 朔を見るハイドラントの感覚に、朔を中心に渦巻く何か力のなれの果ての、言って みれば澱みのような物が入って来る。 (呪詛になり切れていない、何かの思念のような物か? いつもと比べてかなり強い が…) 感じ取ったハイドラントも、それが力の澱みのような物だとは感じたが、それが朔 にどう言った作用を及ぼしているかは計りかねた。 とは言え、朔のそんな様子は珍しい物ではなく、比較的よく見かける物だった為に、 ハイドラントはそのことを気にせず、一応朔の方へ注意を向けながら綾香の到着を待っ てみるのだった。 それからしばらくして。来栖川のリムジンがその重厚な外観に反して静かに二人の 前に止まった。 「おはようパパ」 元気良く声をかける綾芽に続いて芹香が姿を現す。 「え? お話は放課後に伺います?」 コクコク。 「そうか、助かる」 「何か相談事か?」 「個人的な事だ」 ハイドラントの質問ににべもなく答える朔。 その返事に、朔が抱えている問題が、どうすればハイドラントにとって有効に扱え る物になるか。だがそんな思考へと沈もうとする直前に来栖川芹香と目があった。 それは眼力という様な直接的な視線ではなかった、だが静かに迫り来る大河の洪水 のような力強さがそこにはあった。 ハイドラントはその視線から逃げるように綾香の方へ目を向けるが、当の綾香はこっ ちに気付く事もなく綾芽と話しをしていた。 「お早うございます」 どこからともなく空から降りてきた希亜はそう挨拶を交わし、綾芽の方へと漂って 行った。 これ以上朔をからかうつもりもなく、綾香との会話ももてそうになく、所在なくなっ たハイドラントは仕方なくこの場から立ち去ろうと背を向ける。 「あれ? ハイド、どこ行くのよ」 唐突に綾香から声をかけれ、脊髄反射の速度で再び振り返るハイドラント。 「な、なんだ?」 「姉さんの講義、休講無かった?」 「ああ、無かったと思うが…」 「何よ、歯切れが悪いわね」 「今日はまだ見ておらん」 「なんだ、じゃあ行きましょうか」 「ん、ああ。そうだな」 綾香を先頭に、一行はぞろぞろと校内へと入って行く。その中で芹香は先程とは違 い、優しい眼差しで綾香の方を見ているのだった。 放課後、オカ研部室内の小部屋。 「はい? 神社を回って、調査した結果です?」 コクコク。 いつものように芹香の蚊の鳴くような声を集中して聞き取り、反芻するかのように 確認する朔と、それが間違いでないことを頭を縦に振り答える、そんなやりとりが繰 り返される。 「……とても歴史のある古い神社でした?」 「まぁ、そうだな」 拍子抜けしながらも、朔は芹香の次の言葉を待つ。 「……神社に入れない直接の原因は、神社の御神体による物だと考えられます。です が、今回の事態を誘発したのは朔さん自身に問題があるからと推測しました?」 コクコク。 「それは、どよコンの時にルミラと接触したことに関係があるのか?」 「はい? あると言えば、ありますがそれはきっかけに過ぎません?」 コクコク。 「そういえば希亜も何か調べていたと思うが、そっちについても先輩は知っているよ な?」 フルフル。 「そうなのか?」 「え? あの子が調べていた文献からは、関係する事は何も出てこなかったと聞いて いますが、あの子が何を求めていたのかは分かりません?」 「まぁ、文献から関係することが出てこなかったのは、事実なんだよな?」 コクコク。 「ん? もう一つ分からないことがあります?」 「それは?」 「……廃墟になった神社を見たという事ですが、なぜそのような物を見せたか、その 理由が今一つ分かりかねます?」 「理由か、見当はついているのか?」 「……メッセージ、もしくは警告です?」 「何を伝えようとしているかは?」 そんな朔の質問に、ただフルフルと、力無く首を横に振って芹香は答えた。 「そうか」 つまり芹香もそういう捉え方が出来ると言うだけで、具体的に何を指し示した物な のか、それを理解している訳ではないことを朔は理解した。 「それで、さっき先輩が言った、俺自身の問題とは、どんな物なんだ?」 「ん? …それは、制御し切れていない力が澱んで、予期しない魔法や、オカルトを 呼び込みやすくなってます?」 「それは、本当か?」 コクコク。 「……今のところ多分日常に影響は出てないと思いますが。放っておくと、それ自体 にあなたが侵されます!?」 コクコク。 「何とかなるのか? 先輩なら方法は分かるのか?」 「え? 対処療法もありますが、根本的に処置するならば、努力が必要です?」 「努力?」 「……はい、知ではなく識で、理屈ではなく本能で感じてもらいます?」 コクコク。 「何をだ? 先輩」 「自分自身を」 それは久々に聞く、ハッキリとした芹香の言葉だった。 同放課後、漫研部室。 「じゃ、備品買いに行ってきますね〜」 既に足りなくなっていたり、その消耗具合からそろそろ購入時期にさしかかってい る備品を、一通り調べてリストアップした希亜は、いつもどおりにのほほんと由宇に そう告げた。 「今日はちゃんと行くんやな」 「一区切りつきましたからね」 「ならええんやけど、悠朔の方はまだなんやろ?」 「そですよ」 いつものようにのほほんと答えて、希亜はふわりと窓の外へと飛び出す。手にはい つものようにRising Arrowを持って。 「まぁ、気ぃつけてなー」 「は〜い」 のほほんと返事を返し、希亜は宙に浮いたまま箒に腰掛け、ふわりと飛んで行った。 希亜が外へ飛んで行った数分後、部室のドアが開かれた。 「失礼します」 「悠朔のとこの綾芽やないか、どないしたん?」 入ってきた綾芽のいつも通りの緋袴姿に驚くこともなく、由宇は尋ねていた。 「希亜、来てませんか?」 「希亜やったら、今備品の買い出しに行っとるで。少ししたら戻ってくるさかいに、 待っといたらええわ」 「はい」 部室棟、廊下。 事態は悠朔に選択を迫っていた、一つは芹香に頼り対処療法を繰り返す方法、一つ は自身を知る方法。 悠朔は芹香の言葉を反芻してはいたが、その意味を今一つ掴めずにいた。だが、一 つ気付いたこととがある。後者の方法だと、自身を知った後の事が触れられていない。 確証はないにしても、芹香が何かを隠しているのではないかと考えないでもない。 知ではなく識で、理屈でなく本能で自身を知るという芹香の言葉。裏を返せば彼女は 朔自身の知らない朔を知っていると考えられる。 だが逆に、それを知らないままで朔自身が知らない部分を知る、という結論に彼女 の思考がたどり着いたとも考えられる。 「どっちが真実に近いか、か…」 呟いた朔が視線を窓の外へと向けると。少し遠くに、ふよふよといつもの箒に跨っ て、階下の漫件の部室へ戻るだろう希亜の姿が見えた。 「試してみるか?」 そう言葉に出して思考を進める。 神社の廃墟を見たのが警告やそのほかのメッセージというなら、それがいったい何 なのか確かめなくてはならないだろう。何となくではあるが、神社に試されているよ うな気がしないでもない。 仮に試されていないとしても、いったい何を示唆した物なのか、それを知る必要が あると朔は考えたのだった。 漫研部室。 およそ紙に絵を描く道具の種類では、美術部の物より種類だけは豊富なこの部室。 その部屋の中でこの机は異質であった。 ボールペンはおろか、鉛筆すら転がっていない。希亜の使っているこの席は、昔か らある中古の事務机で、これまた中古のデスクトップパソコンがおかれていた。少な くとも満足に絵が描けるようなスペックではない。 パソコンの隣には品質管理入門や実験計画法、Free-BSDリファレンスブックとか、 少なくとも絵を描くための物ではない事が分かる物のみで構成されている。 その机の上には現在、備前焼の量販品の湯飲みが湯気を上げていた。 「希亜君って、いつも備品の管理しているみたいだけど。具体的には何をしているん ですか?」 「この漫件の備品の管理と経理やな、使っているんはこの中古のパソコンや」 「ふーん」 そう返事を返しつつ、彼が机に座って中古PCをたたいている姿を想像してみる。 眼鏡をかけた魔法使いが、傍らの猫に帳簿をめくってもらいながら、ディスプレイ と睨めっこしている姿が浮かぶ。 綾芽がそんな妄想を抱いていると、隣の席に着いた由宇が話し始めた。 「去年の四月の末やったんよ、希亜がここに入ったんは」 「そうなんですか」 そう曖昧に返事を返した綾芽。彼女は昨年度の入学式直後の勧誘の嵐の時期には、 まだ学園にいなかったので今一つピンとくる物はなかった。 「ちょくちょく寄っては来てたんやけどな。あの子の師匠とウチの所と折り合いつけ るのに時間かかったんやろ」 「そうなんだ」 「オカ研との兼部をするときも、結構悩んだみたいやけどな」 「そう言えば、そんなこともありましたね」 そのころの彼とのやりとりを思い出しながらに、綾芽は返事を返す。 会話が途切れ、お互いにお茶をすする。「ほう」とでも言うような、ほっとして出 てくるため息のような物も、それぞれにこぼす。 ゆったりと過ぎて行く、放課後の一時がそこにあった。 綾芽はふと、窓の外を見る。 「早く帰ってこないかなー」 「もう帰ってきたみたいやで」 由宇は綾芽とは反対の方、つまり廊下側の部室の入り口を見て綾芽に答える。 綾芽が振り返ると、すぐに戸が開きそこから見慣れた箒の舳先がにゅっと部屋に入っ てきた。入ってから舳先の水平翼に見える部分を開くのもいつもの事だった。 そのまま戸が開ききると、箒に3つ程、両手に2つの買い物袋を下げた姿の希亜が、 箒に跨ったまま中へと入って来る。 「戻りましたー。今日は、大物が多かったですよ〜」 まるで他人事のようにのほほんと言い捨て。次いで綾芽に気付いた。 「あ、いらっしゃい。珍しいですね、綾芽さんがここに来るのは」 「だって、まだパパの事終わって無いじゃない」 「そですね」 そう短く答えた希亜は、何かを考えるような様相で買ってきた物を棚へと入れ始め た。 そんな希亜の様子に、綾芽はそのまま希亜の側へ寄る。 「だから、希亜君なら次に何をしたらいいか、少しは分かるんじゃないかと思って」 「それなら芹香さんの所の方が良いと思いますよ。少なくとも私よりかは何倍も参考 になるはずです」 「…そうだけど、希亜君放っておくと何するか分からないし…」 棚へと入れる作業を止め、綾芽に向き直ると、希亜は困ったように言う。 「…そぉ〜んなに、危ない人に見えます?」 「だって、私がふるった長刀の刃を握るんだもん」 「あれは、貴女だからですよ」 「なぁ、チョットエエカァ?」 「「何でしょう?」」 二人の世界に入りそうな希亜と綾芽に、こめかみを押さえながら声をかけた由宇だ が、見事にハモった返事を返されて、思わず脳裏に「あ、あかんかも」と言葉がよぎ る。 由宇が何を言わんとしたか、なんとなく気付いた希亜は「まぁ」と言葉を区切り、 由宇と綾芽を見てそのまま作業に戻る。 「朔君の事なら大丈夫でしょう。信じてあげて下さい、芹香さんと、そして何より悠 朔さんの事を」 棚の荷物入れを下ろしながら、何てこと無いんですよ、とでも言うように希亜はさ らりと言うのだった。 そのまま作業を続ける希亜だったが、ふと澱んだ魔力のような何かを側に感じて手 を止めた。 振り向いて綾芽達の方を見ると、由宇は半ば笑いながら希亜の背後を指さしている し、綾芽は困惑の表情を浮かべていた。 「おまえ、恥ずかしくないかそういう台詞は…」 横からかけられた声に、澱みの正体が朔だったことに納得しつつ希亜は振り向くと。 「どうしました、今日はぁ」 と、のほほんと朔に言った。 「つまらん奴だな。まぁいい、ちょっと神社まで送迎を頼みたい」 驚かない希亜に、朔はそう悪態をつきつつもそう返す。 「…良いんですか?」 少しの間を空けて簡潔に返した希亜は、ただじっと朔の瞳の奥を見つめる。 「正確には、神社の手前で良い」 「では、模型店あたりでいいですか?」 「良く知っているな。そこで頼む」 「今、備品を入れてしまいますから」 「分かった」 ごそごそと箱や袋から棚へ、いろいろな道具を入れて行く。そんな希亜から離れて、 朔は綾芽達の方へ寄る。 「しかし、ええんか?」 「何がだ?」 「まだ神社には入れへんのやろ?」 「確かめたいことがあってな、もう一度この目で何かを見極める必要がある」 「大丈夫だよね?」 「まぁ、何かあったらフォロー頼む」 「…珍しいなぁ。あんたがそんな風に言うんは」 「誰にだって始めてはある」 「ええっ!? パパって色々な呪いとか受けている事も多いし、それに最近力もだだ漏 れだったから、てっきり訓練か何かと思ってたけど。 …違ったんだ」 驚いて一人納得するように呟いた綾芽の言葉に、朔は驚き訪ねる。 「ちょっと待て綾芽! 色々な呪いとか力がだだ漏れとかって何の事だ!?」 「例えば、前にパパが『最近運が悪い』って言ってた時があったでしょう?」 「ああ、バケツに足をつっこんでとれなかったり、目の前を見たこともない黒猫の親 子に横切られたりした頃の事か?」 「それもそうだけど、最近は聞かないと思ったら。今度は自分で穢れているって言う し」 「穢れている? そうか?」 「うん。希亜が、っ! ……えーとぉ」 希亜の名を出してしまい、そのまま口ごもる綾芽は、助けを求めるように希亜へと 視線を投げかけるが。 その視線の先の希亜はしっかり聞いていたらしく、棚に向かって突っ伏していた。 そのままゆっくりと頭を上げ、綾芽へと視線を移す。 「ごめんなさい」 そう言って、まるで両手をあわせて拝むように謝る綾芽と、 「聞かせてもらおうか?」 冷たく希亜を睨み付ける朔の視線。 その両方を受けて、希亜は静かに深く、嘲るでもなく、ただ力無く笑顔を浮かべて 口を開いた。 「私の言葉など届いていないのに、何を聞こうと言うのです? 時間の無駄ですよ」 「そんなことは俺が決めることだ!」 「まぁ、いいでしょう…」 強い口調で言い切った朔に、希亜は表情一つ変えることなくそう答え。備品を片づ けてそのまま部室備え付けのキッチンに向かい、薬缶に水を入れ火にかけた。 無言で、黙々とお茶の準備をする希亜。その隣に歩み寄った綾芽は呟くように話し かける。 「希亜、怒ってる?」 「大丈夫です、今はね」 「ほんとに?」 「はい」 「…少しは、怒ってるでしょう?」 「怒るというよりは、これから何が起こるかを心配してるんですよね」 「そうなんだ、よかった」 「良くはありませんよぉ。今回もし行くことになったらその先の事は、予測も立ちま せん」 「それって、危ないんじゃ」 「あの人が見極めると言った以上は、何か情報のような物を掴みかけているんでしょ う、それを試すのも方法です。なにより、私に朔さんは止められませんよぉ」 「それは、そうだけど…」 正攻法で止めようとして、一撃で朔に沈められる希亜の姿が、あまりにもリアルに 脳裏に浮かんだ綾芽は渋々そう答える。 単に能力だけならば、希亜にはスターダストをも防ぎきる絶大な防御能力があるの だが、綾芽はそこまで希亜の事を知っているわけではないし、希亜にしてみてもそん な力を発動させる事もなく、綾芽の想像通りになっていただろう。 「だからまぁ、こっちに出来る事をするまでです」 「うん、そうだよね」 薬缶から上がり始めた湯気を見て、希亜は薬缶の蓋を開けザバザバと番茶の茶葉を 半分ほど注ぎ込む。 「からすのえんどう?」 茶葉に混じって見え隠れする、炒られて黒っぽくなっている小さなさやつきの豆を 見た綾芽は思わず呟く。 「ふじまめらしいですよ。ふじ豆入り土佐番茶ですから」 「高知まで行って買ってきたの?」 「はい、高知市内の市場でしか売ってないみたいなので」 答えてから、薬缶の水が良く沸騰しているのを見て、 薬缶から上がり始め希亜は ガラス製の丸いティーポットにザバザバと番茶の茶葉を半分ほど注ぎ込む。 火を止め、そのまま熱湯をティーポットに注いてゆく。 注ぎきると残り湯をポットに移し、ティーポットと茶こしと、自分の分の湯飲みを お盆に乗せた。 「じゃあ、行きましょうか」 希亜はそう言ってお盆を手にし、朔と由宇が話している方へと歩き出す。 「大丈夫かなぁ」 これから行われるだろう希亜と朔の問答に、一抹の不安を感じながら綾芽もその後 をついて行くのだった。 「ん? また番茶にしたん?」 芳醇な番茶独特の香り、それに気付いた由宇の問いかけに、希亜は頷いて答えた。 「ほなウチもいただくで」 そう言って、希亜が持ってきたお盆の上に、既に空になった自分の湯飲みを置く。 側面に大きく「どや」と書かれているのはご愛敬と言うべきだろう。 「もう少し待って下さいね、少しおいた方がいい味になりますから」 「任せるわ」 「俺ももらうぞ」 「ではお盆の上にコップをおいて下さいね」 そう言って、希亜はキッチンタイマーをセットした。 既に自分の席には悠朔が座っていたこともあって、希亜は窓を背にするように立ち、 「何から話しましょうか?」 そう言って、朔からの質問を待つ。 朔は希亜の席に座ったまま、希亜の方へ向き、 「偉そうに。まぁいい、まずは綾芽の言っていた色々な呪いについてだ」 毒づきながらに、そう問いかける朔に対して、希亜は半ば脱力したように口を開く。 「いやぁ、こっちも本気で気付いていない、とまでは思わなかったんですけどねぇ。 前に私が『お払いとかした方がいいですよぉ』って言った時期がありましたよね?」 「そうか?」 「言ったと思うんですが…」 即座に疑問で返されて、記憶をたどる希亜だが、どうも上手く思い出せないらしく、 頭の上にクエスチョンマークを浮かべては消している。 何となく希亜の言った言葉で、思い出した綾芽は、 「多分それって、わたしに言ったんじゃないかな。パパの事話している時にだと思う けど…」 自信なさそうに言った。 「んー、悠朔さんにも言った気がするんですが、そっちは気のせいでしたか」 「気のせいを言ったことにするなよ」 「そですね。 …でも、気付こうともしない。それを貫くなら、私は質問に答える必 要がないんですけどねぇ」 「観測しなければ、無かった事と同じだろ?」 「その辺の判断はしませんよ、私と今のお前さんでは観測できる系と事象が違いすぎ ますから」 「そうか、とりあえず質問に答えろ。答えたくないなら、そう言えばいい」 「分かりました。ではお答えしません」 それは間髪入れずに返された、あまりにもあっさりした返答だった。 「もう聞かん」 辟易として希亜に言った朔は、視線をキッチンタイマーへと移す。 希亜もその様子に「そですか」と無関心に言わんばかりで、特に気にとめてはいな い様に見えた。 「希亜! どうして答えないの!? パパの事見捨てるの!?」 希亜が返答を断った事に気が気でない綾芽は、悲鳴のような言葉を希亜にぶつけて いた。 部室の皆の視線が綾芽に向けられる。少々騒がしい程度では気にはしないのだが、 先程の綾芽の声は悲鳴じみていたために、部員の気を引くには十分すぎた。 部員達からの視線に気付き、我に返った所で希亜に名前を呼ばれ、 「ごめんなさい」 と、そう短く答えた綾芽に、希亜は真っ直ぐに視線をあわせて、なお綾芽の瞳の奥を のぞき込むようにしたまま、 「答えを与えるのは、私の役目ではありませんから」 そう残念そうに答えるのだった。 「道化かお前は」 見ているのも馬鹿らしくなったのか、朔は希亜にそうツッコミを入れるが、 「必要であればねぇ」 いつもどおりにのほほんと返された言葉に、朔は処置無しとばかりに頭を振るのだっ た。 ピピピピッピピピピ… まるで見計らったタイミングで、キッチンタイマーが時間 を知らせる。 「さぁ、お茶が入りましたよぉ」 のんびりとした動作でキッチンタイマーを止め、希亜はそのままそれぞれのカップ や湯飲みにお茶を注いでいく。 「なぁ希亜。ウチには希亜が何したいんか分からんのやけど?」 「由宇さんには、説明してませんでしたね」 「訳聞かしてもらえるんやろな?」 「いいですよ。ただし事が終わるか、それとも悠朔さんに届かないようにしていただ けるのなら。 …ですけどね」 「本人がいる前でそう言うことを言うか?」 「ん〜。でもお前さんは私が隠し事をしている事自体は、知っている訳ですから」 「そうだが」 「まぁ、とりあえず一杯どうぞ」 「まったく…」 それぞれに、まだ熱めのそれを啜る。 「ちょっと粗野だけど落ち着く香りだね」 「番茶やからな」 「で」 落ち着いた雰囲気の中で、唐突に朔は希亜に向かって言う。 「神社の手前までは飛んでくれるんだろうな」 「良いですよ。お前さんが何を見に行くのかは知りませんが」 「教えるつもりもない」 「…はい。ただ、芹香さんには伝えておいた方がいいでしょうね」 「なぜだ?」 「あの人なら、万が一にも対応できるでしょうから」 「その時はその時だ」 「そんなの…」 希亜の言葉にあっさりと返した朔に、綾芽は言葉を濁らせた。少なくとも決めた事 を必要もないのに曲げる朔ではない事は、綾芽も知っていたからだ。 「準備が出来たら、またここに来て下さい。私もする事がありますから」 それは極めて事務的な言葉だった。いつもののほほんとした希亜の声がまるで嘘の ように、それは陽動の全くない声だった。その声に朔は「分かった」と、立ち上がり ながら短く答え。さっさとこの場を離れて部室から出ていった。 それを見届けた希亜も自分の仕事をすべく、先程まで朔が座っていた席に座り、中 古PCの電源を入れた。 「少し話しましょうか」 「ええで」 由宇の肯定の意味の言葉を聞き、希亜は振り向くことなく口を開く。 「まずは四日前。彼は実家の九鬼神社に帰るつもりで、神社の手前までは順調に帰っ たのですが。そこでどこかへ飛ばされてしまいました。想像ですが、時間を経てこち ら側に戻ってきた彼は、心神喪失に近い状態にまで追いつめられて、無意識のうちに 寮まで戻ってきたのでしょう」 「だからここんとこおかしかったんやな」 「彼がどこへ行って、どんな体験をしたかは私には観測できませんでしたが、彼が飛 ばされる時間に、ご神体からかなりの力が出てた事を、神社の大木が記憶していまし た」 「希亜には何があったか話さへんかったん?」 「全く。私は漏れ聞こえてくる片縁から推測しているだけですから。 …それで、こ れは推測なんですが。あの人の周りには、あの人から溢れ出た力のなれの果てが澱ん でオカルト的な事象を引き起こす可能性が高くなっています。それでご神体は彼を神 社に入れなかったと、私は推測しているんですけど…」 「気になることがあるんだ?」 「見極めると言うワードが、それだと該当しないんですよね」 「飛ばされた所で、何か見たんやろう。それで、それが何を意味するのか見極める。 と言うところや無いかな?」 「由宇さんすごーい、それに違いないよ」 「これは話し作る時のセオリーやからな。現実とは違うし、分かっても意味無いわ」 「でもそれだと、また別の危惧も生まれてきますね」 「どういう事や?」 「試しているのが御神体側だったら、最悪消滅という感じでしょうか… 神様の考え は人間には判断できませんからねぇ」 「あんまり悪い方へ考えんでもええやん」 「それでも、考えずにはいられないんです。最悪だけは回避したいですから」 「苦労するなぁ」 「まぁ、半分は自分の為なんですけどね」 「ほんなら、気張るんやな」 「で、もう一つの要因と見られる事も話しておきますよぉ」 「なんや、まだあるんか」 「はい。元々は悠朔さんの魔術的側面の所有者は私ではなかったんです、それで元の 庇護… と、言うか所有者の方に戻ってもらうために、原因を真っ直ぐに追求せずに、 外堀を埋めるように調べ物をしていたんです。できれば私など頼りにならないと、そ う思ってもらうのが良いんですけどね」 「元の所有者って誰や?」 「来栖川芹香さんですよ」 「何となく分かってきたような気がするんやけど。そもそもどうして希亜が悠朔の所 有者になったんや?」 「原因はいくつかあるんですけどね。話しやすいからと言って、私にいくつかの魔術 的なことで質問していた事とか、私が昔言ったことを現在も実践している事とかもあ りますし。彼自身が現時点において、少なくとも呪術に対しては、守られなければな らないほどに弱い側面があるんです。また、それに気付くことが出来ないと言う物も 原因の一つです」 「なんやハッキリせぇへんなぁ」 「でもきっかけはハッキリしてますよ」 「なら早よぅ言い」 「あの人は上位魔女の前で『私の庇護者は希亜だ』と、そうとれる言葉を告げたんで す」 「そらあかんわ」 そう言いつつ思わず天井を仰ぎ見る由宇。 「そうだったんだ」 一瞬の間の後、綾芽はそうぽつりと呟いた。 「なんや、今回の件は二人の自業自得かいな」 「因果は巡るものですからねぇ」 「それにしても… 来栖川芹香はどないしとんや?」 「さぁ、推測は出来ますが。それが当たっているとは思えませんので、答えられませ ん」 「芹香さん、困ってたよ。『難しい問題です』って」 「無口なお姫さんやからな。一応聞かせてもらうで、希亜の考えを。あんたの事や、 下手な考えでも一つや二つはあるんやろ?」 「それは芹香さんの事についてですか?」 「いんや、これからの予定や」 「なら説明することは簡単なことですよ、あの人の本心と口から『自分の庇護者は芹 香だ』と言わせる事ですから」 「…ほんまに、説明するのは楽やな」 のほほんと言う希亜の言葉に、由宇はやや呆れながらに答えた。 「そんな事出来るの?」 「ちょっとずつですが、その方向に進めていますよ。あの人に半ば突き放すような事 をしているのもその一環ですし」 「えらい計画的やな…」 「今回の件自体は、完全な予測の範囲外でしたけどね」 そこまで説明したところで、中古PCはようやくログイン画面を映し出した。 黒バックに白い文字のみで構成されるその画面に、IDとパスワードを打ち込む。 ログインして、そこからさらにコマンドを打ち込むと、一瞬画面が乱れ今度は誰も が見たことがあるだろう、アイコンやバーで構成される画面が現れた。 アイコンをクリックしてブラウザを立ち上げ、ブックマークからサイトを呼び出す。 「こうして見てると、希亜が魔法使いだって事忘れちゃいそう」 そう言った綾芽の視線の先の希亜は、幾つかキーボードとマウスを操作している。 表示が何度か切り替わったところで、レシートを見ながら今日買ってきた物の名前 と値段を打ち込んで行く。 「いつもこうやっているんですか?」 「そや、希亜の親父の影響ちゅう話しや」 二人の目の前で、早くはないが黙々とキーボードを打つ希亜。 「にしても、何で具体的な手段に出ないんやろか。いくら悠朔が孤独や言うてもなー」 「パパが孤独?」 「そや、損得勘定優先で、悪く言えば自分の都合のいいように道具としてしか相手を 見てへん。なんや自分以外信じてへん感じやな。そういうんは孤独と同じや。悠朔っ て心配してくれる人はおっても、本人はそれに気付きもせえへんみたいやしなー。孤 独なところはまるで昔の希亜みたいやなー、なぁ希亜」 何となく、由宇は何となくいつものノリで話しを振ったつもりだった。 だが希亜はキーを打ち掛けの指を完全に止め、重く「ごめん」と答えるのだった。 「な、なんや? まだ治ってなかったんか?」 「…どういう事?」 「言うてもええか? 希亜。 …ウチの方がちゃんと説明できる思うけど」 「そですね。でも、これだけは私が説明しますから」 「分かった」 由宇はきっぱりと返事を返すと、今一つ話しについていけない綾芽に向かい、 「ウチは中学の希亜から知っとるから、今の希亜見てるだけで満足やねん」 そう楽しそうに言うのだった。 「…そうなんですか?」 「そやで、中学の頃は今の希亜が別人に見えるくらいやったからな。なー希亜」 「由宇さん、意地悪…」 「まぁ、本人が話す言うとるんやから。話すまで待ったり」 「はい」 20分後、九鬼神社近郊、模型店前。 亜音速で飛んで来た希亜と悠朔の二人は、九鬼神社付近の模型店の無駄に広い駐車 場に降り立っていた。 Rising Arrowをペンダントに戻した希亜に、 「分からん奴だな」 と、朔は呟くように言った。 「何がですか?」 「お前の行動原理だ」 「多分、分かってしまえば何てことはないと思いますよ」 のほほんと、さも当然のように答える希亜。 「ふん」 「芹香さんには?」 「一応伝えてきた」 「嘘ではないみたいですね。気をつけて」 「分からなん奴だな」 確かめるように朔はそう言っていた。 朔は希亜が自分のこの様子を楽しんでいるのではないかとも疑っていた。だが「気 をつけて」と言った希亜の表情は、少なくとも嘘をつくような物ではなかったし、自 分の気持ちを押し殺した能面のような物でもなかった。 隠し事をしてなおそれを告げない。そんな希亜の目をじっと見つめ、ややあってき びすを返して歩き始めた。 希亜に背を向けて歩き出した朔に、希亜は何を言うでもなく手を振っていた。 朔に対して、心配することは山ほどあった。だからと言って少し突き放すように接 している今の希亜に、彼について行く選択肢は存在しなかった。 「さて…」 「なー」 「…どうなるか、予測がつきませんねぇ。 ……一番苦手なんですが、信じて待って みますか」 朔の後ろ姿を見ながら、クラムの声に答えるように呟くのだった。 九鬼神社付近。 もうじき神社に到達する。この先のゆるい右カーブを曲がった先にまず鳥居が見え る。 …はずだと自分に言い聞かせる。 走りたい衝動を抑え、ゆっくりと歩いてカーブを曲がって行く。 「何も変わった事はないよな…」 生暖かい風が朔の背を押すように流れていくのを感じた直後、頭上からけたたまし い羽音が響く。 思わず空を見上げた朔の視界に、何十羽もの大型の猛禽類の姿が入る。 だが、それらが鷹だと視認した直後、それらは霧散するかのように空に溶け込み消 えてしまった。 「今の……」 今のはいったい何だったのだ、そう言おうとして言葉が途切れた。 「どこだここは!」 足下には今まで歩いていたはずの、古いアスファルトの舗装はなく。山道とも獣道 とも言えるような踏み固められた道があり。辺りには家は一軒も見えず、周囲は深い 森に覆われていた。 「今度は、何だ!?」 そう悪態をつくが、返事などあるはずはなかった。 ご神体がそれらを見せているのではないかと、芹香は言った。 朔は自分が試されていると思ったから、何かを伝えようとしていたと思ったから、 見極めるためにここに来た。 だが朔は今、手つかずの自然の中にのびる一本の道の上に佇んでいる。 この状態に、思わず途方に暮れそうになるのだった。 歩くこと数分。 道はあれからはなだらかな登りを経て、今は比較的平坦な森の中を蛇行しながら続 いている。 辺りには原生のままの植物が生い茂り、鳥や動物の鳴き声も耳に入ってきている。 (この先に答えがあるのだろうか) そんな朔の問いかけに答えるわけではなかったが、ふとその耳に水の流れる音が入っ てきているのに気付いた。 (川、というよりはせせらぎ程度の小川か?) 道からはずれ、その水音の方へと足を向ける。 灌木をかき分け、少しばかり下った先に小川のせせらぎが見て取れた。 見たところ、特に変わったところのない山間の小川であり、朔の目を引きつけるよ うなモノは何も見あたらなかった。 仕方なく引き返すために再び灌木をかき分け、踏み固められただけの山道へと戻る のだった。 九鬼神社付近。 「あの先あたりで境界を越えますね」 ブレザータイプの制服を着て、鍔の広い濃紺の三角の帽子に、同じく濃紺の背中で 大きく割れたマント、そんな彼の言う魔法使いの正装で希亜は神社前のカーブにさし かかっていた。 「にしても、人員規模とは折り合わないほどに立派な神社ですねぇ、ここは」 魔法を発動して感覚を鋭敏にし、空間に存在する精霊の差異から、神社自身が自ら の領域とする境界を見取った希亜はそう言って、希亜は神社へ向かって歩き続ける。 目の前に見えている道が、山沿いに続く緩い右カーブへと差し掛かる。 それは朔が跳ばされた現場でもあった。 そんな事は知らない希亜は、神経を研ぎ澄まし、ゆっくりとした歩調で、その山縁 の緩いカーブを歩いて行く。 自身の足音と心音を合わせるかのように歩いて行く。 肩にへばりつくように寝そべっているクラムは、特に何を気にした風もなく、その 長い尻尾を気ままに振っていた。 「なー」 「通り過ぎましたね」 結局、希亜の感覚は何の変化も捉えることなく、その場所を通り過ぎていた。 「領域内進入で判別しているわけではなさそうですねぇ。相手は完全に朔君を認識で きると言う訳ですか」 歩きながら誰に言うでもなく言葉を呟き、そのまま鳥居をくぐり階段へと足を進め る。 希亜が階段を上りきると、足下まで届く長い髪の人物が一人、白袴姿で境内を竹箒 で掃いているのが見えた。 「暮れに手伝いに来ていた方でしょうか」 何度か出入りしていれば気付くものだが。九鬼神社の全業務を、朔の姉であるはじ めが行えるはずもなく。事ある毎に氏子さん等に手伝いを求めていたりしているのを 希亜は知っている。 家業としてみるならば、もしくは単純に従業員問題のみで捉えるならば、働き手と して朔の存在が必要であることは自明の理ではあった。 逆に地域との一体感という点では、この人員的ピンチを活用しているとも言える。 今境内を掃いているのも、近所の氏子の一人であると、以前にはじめから聞いてい た。 向こうがこちらに気付いたのを会釈で返して、希亜は住居側の玄関の方へと歩いて 行く。 カラカラと社務所の戸が開けられる音に視線を向けると、ちょうどこちらを見て手 を振るはじめが見て取れた。 「さて、どうしたものでしょうか」 そう呟いて希亜は社務所側のカウンターの前に向かって歩いて行く。 「どうしたの? 今日も調べ物?」 「いえ。朔君、帰ってきませんでしたよね?」 「うん。 ……まだ帰ってきていないよ」 はじめのひどく沈んだ言葉が希亜に返ってきた。 「ここに何かを見極めるために来たらしいのですが、やはりどこかへ飛ばされたよう ですね」 希亜は自身のうかつさに気付いてはいたが、それを悟られまいとただ淡々と言葉を 返した。少なくともこういう事になるのを選んだのは、希亜自身だと自分に言い聞か せながら。 まだ朔がここに帰って来れない事で、はじめがどれだけ心配しているかは。目の前 のはじめの落胆した表情を見るまでもなく分かっているだけに、希亜は言葉を続けら れなかった。 「…ねぇ、ちゃんと帰ってこれるのかな?」 はじめは力のない口調で、希亜に訪ねる。 朔が跳ばされた先で、彼が何を見ていたのか知らないだけに、希亜にはどうなるか が全く見当をつけられない。同時に落ち込んでいるはじめを励ますような言葉も材料 も、希亜には見あたらなかった。 「こう言うのは冷たいんですけど。本人にその気があれば、必ず帰ってきます」 それは希亜にとって、自身が現在の朔に対して全くの無力である、そう宣言するの に等しい言葉だった。 希亜自身にしても、朔が帰って来る事を願ってはいた。帰ってこなければ、それが 綾芽の平穏を脅かすものだから、と言う理由が多分にあることも自覚している。 だが、もしかしたらこのまま朔が神隠しにあうのではないか、とも考えているのも 事実だった。 とは言え、現時点で出来ることは、信じて待つ事だと結論を出していた。 「だから、信じて待ってあげて下さい」 しっかりとした口調で希亜ははじめにそう告げた。 「そっか、そうだよね。私が信じてあげないといけないよね」 「はい」 少なくとも先程までよりは明るくなったはじめに、希亜は明るく返事を返す。だが 無力な自分に歯がゆく思うのか、彼の左手は固く握りしめられていた。 オカ研部室。 部屋の一角で芹香は、水晶玉を前に、静かに朔の様子を感じ取っていた。 もう一時間ほど前になるだろうか、朔が神社に近づいた瞬間に水晶玉からの映像情 報は途切れ、現在では朔の心の様相を感じるだけになっていた。 暗に現世に存在していないことを指し示すそれに、芹香にしても一瞬は動揺したが、 今この場にいる自分ではどうしようもないことに悲観することなく、ただじっと朔の 存在を感じ続けているのだった。 先程からずっと側にいる黒猫、エーデルハイドも身じろぎ一つせず、じっとのその 目と耳を水晶玉に向けていた。 「どこまで行っても、山道か」 際限なく続く森の道に、そう悪態をつきながら立ち止まった。 既に一時間は山中を歩いているだろうか。 誰一人として人に会うこともなく、半ば獣道のような山道が続く。途中沢伝いに道 が続くところもあったが、滝が見えた所で道は沢から離れていた。 この場からも、見渡す限り森の中であり。鳥のさえずりや、木々の枝葉が風に揺ら れる音が方々から聞こえてくる。 「本当に何もない森だな」 自然の森の中にいると言う実感を深く感じながら、同時にこれが見せたかった物な のかどうかと、疑問に思わないでもない。 希亜が言うように「ご神体に意志があれば」という前提があるが、朔は考えあぐね ていた。 (この先に何かあるのだ? 本当はこの先も果てしなく森が続くのではないか?) そこまで考えて、何か忘れていることに気付いた。 「…上から見渡せば何か見つかるかもしれないな」 なぜ今まで気付かなかったのだろうかと内心苦笑しつつ、どこからともなく呪符の 束を取り出す。 意識を集中し印を結んだ。いつもの練習のように全力で行えば、少なくとも一羽は 飛んで行くだろう。そう考えての物だった。 直後、朔の体内よりも深くから、何かとてつもなく大きな力が全身を駆けめぐり、 意識がその力に埋め尽くされた。 全ての思考が止まり、どれほどの時間が経ったろうか。少なくとも本人にとっては、 永遠とも思えた時間が過ぎ去っていた。 限界まであがった鼓動と、不自然に小刻みな息にようやく気づく。 恐怖もしくはそれに類似した状態に陥っているのだと、そう分析した所で深呼吸す る。 何とか落ち着こうと、状況整理に勤める。既に術式は中断されてしばらく経ってい た。 あの瞬間、自分の心の奥底とでも言うべき、とても深いところから全身を駆けめぐっ た、とてつもなく大きな何か。それは言葉にするなら、自分では到底制御しきれない 膨大な力だと思えた。 以前、力を管理する第四人格までもが同時に現れた時にも、膨大な力を制御してい たはずだが、それは恐怖を感じさせるほどの事はなかった。 第三の人格である久遠という人格とその力を思い出したが、同時に久遠相手にそこ まで恐怖するだろうかと思い悩む。 「今のはなんだ!?」 思わず叫んでしまう朔だが、それに答える者がいるはずもない。ただ辺りには鳥の さえずりだけが広がっているのみだ。 無意識に額を拭った手が、粘り着く汗を感じ取る。 「いったい、何だっていうんだ…」 問いかけは、ただ虚しく森に広がって行った。 九鬼神社の境内を後にして、希亜は参道の階段を下りていた。 その制服のポケット中には、安産と交通安全のお守りが入った袋が入っている。 それは九鬼神社の社務所で、はじめから朔へと渡すために購入した物で、はじめの 手によって袋に入れてもらった物だった。 希亜はそれらに手を触れずに、朔へと渡すつもりでいた。 同時にはじめにはこの事は告げてはいなかった。もし相手がはじめと朔のつながり と判断して、余計な要因を増やさないように、という安全策として告げずに購入した のだった。 神道に疎いから、と言う理由もあったのだが。良かれ悪しかれ、朔に対して実家の 存在をアピールさせる道具になると考えていた。 「我ながらくだらない暗示だと思うけど、無いよりはましかなぁ」 思わず呟く。 「なー!」 「くだらなくはない? でもねクラム、私は人を信じる事なんて出来ないんですよ…」 まるで抗議するかのように鋭く鳴いた子猫クラムに、希亜はいつもより悲しそうに 返事を返す。 直後、希亜の悲鳴が辺りに広がった。 「爪立てなくても良いじゃないですかぁ」 涙をこぼしながら、引っ掻かれた痕に手を当ててそう言うが。当のクラムはつんと すまして爪をなめている。 「言いたい事は分かりますが、これは精神外傷ですから、どうにもなりませんよ」 「なぁー!」 「努力はしているつもりなんですけどね…」 「なぁおぉぅ」 「そうですね」 途中の踊り場を通り過ぎ、さらに階段を下り続ける。既に辺りは夜の帳が降り、雲 間から差し込む月の光が、一人とその肩にへばりつく一匹を照らし出していた。 そのまま無言で階段を下りきり、広場を抜け鳥居をくぐり車道に出る。 「一応は、試しておきますね」 そう言って、希亜は平然と車道を歩き出す。 目の前に見えている緩いカーブへと進む。 神経を研ぎ澄まし、ゆっくりとした歩調で希亜はその山縁の緩いカーブを歩いて行 く。 左手には山肌、右手には用水路と水田が広がっている。 ただそれだけだった。 「通り過ぎましたねぇ」 結局というか、やはりというか、希亜の感覚は再び何の変化も捉えることなく、問 題の場所を通り過ぎていた。 「なー」 「何もなかったですね」 ただ、確認するように呟いた希亜は、そのまま歩き続ける。 「とりあえず朔君が現世に帰ってくれば、広域検索で分かると思うんですけどね」 とは言え、希亜はその魔法が使えるわけではない。 「いつものように、地域の大木に聞いてみますよ」 そう言って、辺りに人がいないことを確認して、希亜は魔力を爆縮させる。 それが破壊のベクトルを持つなら、自身と周囲を時間の概念をかけることもなく消 し去る、それほどの絶大な魔力。それが爆縮し、虚無へと弾け跳ぶような感覚が希亜 自身にも伝わる。 発動した魔法のベクトルは情報の共有。本人曰く「精霊達と語るための魔法」は、 本来文字通り人間とは違うコミュニケーション形態をとる精霊との、円滑なコミュニ ケーションを成立させるための魔法である。 だが希亜の魔法特性とでも言うのだろうか、その効果が強力に暴走し、精霊と言い 難い者達までもコミュニケーションが可能になる範疇に納めることが出来ていた。 その強力さは暴走魔法とまで名付けられ、師であるスフィーやリアンもあきれ果て るほどで。攻撃魔法を含めて、少しでも暴走した場合に危険が考えられる魔法は、師 の名において使用を禁止されている。 同時にネックもあった、これは希亜が一般的な魔法を使う場合全てにおいて同じ事 が起こるのだが、発動時に絶大な魔力を使用してしまうのと、効果終了後に必ず気絶 してしまうのだ。この事は二人の師匠も希亜の魔力特性上の必然としているので、こ の先も改善の余地はなさそうである。 さておき、魔法が発動した希亜の感覚は、いきなり雑踏の中に放り込まれたような、 様々な意志の雑音の中にあった。 それが方々で交わされている、それぞれの方式のコミュニケーションだと確認する と、必要な会話が成立しそうな相手を捜すべく再び歩き出すのだった。 人工物の全くない原生の森林と山々、そしてどこまでも青く澄んだ空が、朔の視界 を支配していた。 あれから術を使うのをあきらめ、その代替手段として高い針葉樹の上に登っていた。 辺りを見回すと、森林で覆われた広大な丘陵地の向こうに、谷間と川沿いの開けた 一帯が見て取れた。そのまま遠くに目をやる。 「どこかで見たような山並みだな…」 呟き記憶を探る。 結論はすぐに出た。景色はあまりにも九鬼神社を取り囲む山々に似すぎていた。敢 えて相違点を見つけるならば、所々木々の植生が違うのと、崖崩れを起こしていると ころが一カ所見えることだろうか。 「ここは敷地内なのか?」 朔にはそうとしか思えなかった、今見ている景観は微妙な位置的な相違点と、植生 や崖崩れ以外はほぼそっくりそのまま、九鬼神社の自分の部屋から見える景観と同じ だと言えるからだ。 斜面の傾斜から神社のあるだろう方向を見渡すが、そこには灌木と草が覆い茂るな だらかな斜面しか見あたらなかった。 あまり認めたくない思考が浮かび、朔は思わず唸っていた。 「まさか大昔の敷地内にいるとか言わないだろうな… いや、人類がいない場合の敷 地内という可能性も… むう」 浮かんでは消えるいくつかの思案が朔の脳裏をぐるぐると回っている。 「明日の授業までに帰れるとは思えんな」 そう呟いた直後、遠くの丘にうっすらと黒い靄のような物が立ち上った。まるで踊 り狂ったように舞うその靄のような物をよくよくのぞき込む… 「鳥の群か、すごいな」 珍しい物を見た、そう思った直後朔の五感が危険を告げた。 さらに視界いっぱいの森から、鳥が一斉に羽ばたき空へ飛び上がる、その数は数千 羽になるだろうか。 空が霞むほどの鳥が、けたたましい羽音を残しして、空へと舞い上がって行く。 「何か来るのか?」 悪寒が体を通り抜ける、恐怖が背中に張り付いているような感覚。 先程術を使おうとして襲われた恐怖よりは生やさしい物の、確実に何かが迫ってく るという実感が朔の脳内に鳴り響く。 空からはけたたましいまでもの鳥達の声が聞こえるが、森からは一切の音が消えて いた。 だが朔はひどく冷静に、悪寒がやってきた方向を凝視する。 直感で感じたその方向、山の稜線のはるか向こうの空に光る物が見えた。 昼間の空でも認識できる光っている物体という事以上には、距離がありすぎて分か らない。 そのうちに、その光る物体は心なしか大きくなっているような気がした。 こちらに向かってくる。そう思うと同時に、ぞくりと、朔に張り付いている悪寒が 脈動する。 それは空気が電離するほどの摩擦を受け、オレンジ色の光を放ちながら、音速をは るかに超える速度で、こちらに落ちてくる物体。 「隕石か…」 既に逃げ出すほどの時間も無く。朔は山の稜線を掠めて落ちてくる隕石を見据えて いた。 それが森の中に吸い込まれると同時に、衝突による爆発が広がる。 森が引き剥がされ、空が震え、身構える間もなく、朔は衝撃波に吹き飛ばされ、不 意に意識が途切れた。 比較的神社付近を歩いていた希亜の感覚の中に、何かが急に現れたという一つの意 識が入ってきた。すぐに複数の意識がそれに対して問いかけや返答を交わし始める。 その中に相手の容姿や状態に関するイメージがあり、それを拾った希亜はほっとし て息を吐いていた。 「出てきたようです。悠朔さん」 安堵した希亜はクラムにそう言うと、悠朔の現れた場所へと足を向ける。 ふと開けた視界の中、もやの中に見え隠れしてハッキリとは見えないが、石で造ら れた人工物のような物が見えてきた。大きさは人が屈んだ程度のそう大きくはない物 だ。 自分が体を動かしている感覚はなかったが、不思議と違和感を感じることもなく、 そのまま浮遊するように近づいて行く。 少々朽ちてはいる物の、紛れもなく人の手が作り出した石造りのそれは、不思議と 社のように見えた。 ゆっくりとその周りを正面へと回ると、水で磨き上げられたような光沢を持つもの の、それ以外には何の変哲もない背の高い石が鎮座していた。 何となく手を伸ばそうとして、その手がないことに気付く。 だがそれに恐怖や違和感を感じる前に、朔の意識は急激に霧散し始めた。 まるで激流に流されるが如く、抗うことも出来ずに、朔の意識は薄らいでいくのだっ た。 広大な九鬼神社の敷地のはずれ、山沿いの畑のあぜ道に朔は倒れていた。 ここまでをRising Arrowで飛んできていた希亜は、朔に遭遇する直前に、神社の方 から朔に向けられている何かを感じたが、それが何かは結局分からなかった。 とりあえず朔の生存を確認すると、箒から降りて座り込んだ。 「少ししたらお願いしますね」 「なー」 使い魔である子猫クラムの返事を聞いて、現在使用している魔法、彼の言う精霊と 語る魔法を解除する。 すぐにやってくる強烈な意志の霧散に抗うことなく、希亜はその場で気を失った。 辺りには二人の静かな呼吸音が広がる。 仰向けに倒れて気を失っている朔と、三角座りで気を失っている希亜。 二人の様子を見比べたクラムは、何事もなかったかのように空を見上げ「なー」と 一鳴きして、生後二週間程度の子猫そのものの体を宙にふわりと浮かばせた。 そのままふよふよと希亜の前まで漂うと、迷うことなくくるりと回って、勢いをつ けた尻尾を希亜の顔面にたたき込んだ。 「……、……う、う〜。酷いよクラムぅ」 「なぁおぉぅ」 得意げに一鳴きするクラムに、眼鏡を外し涙目で希亜は訴えるが、ふとクラムが宙 に浮いていることに気付いた。 「飛べるようになりましたか〜」 うれしそうに希亜は言ったが、クラムはその頭をふるふると左右に振り、ふよふよ と辺りをゆっくりと漂って見せた。 「まだ浮遊に近いんですね」 その希亜の言葉を聞いて、ふよふよと悠朔の方へと進むと、クラムはその前に降り 立った。 希亜はその様子を見て、ゆっくりと立ち上がる。 「さて、荷物を一つ寮まで届けますか」 いつものようにのほほんとそう言って、Rising Arrowを宙に静止させる。 「抱え上げるのが大変ですね」 「なー」 「抱え上げるのではなくて、共に浮かせればいいんですか?」 「なぁおぅ」 「やってみます」 いつもの無意識に浮遊する行為ではなく。意識的に朔の体を範囲内に置いて、空へ と解き放つ。 ふわりと自身の体が浮かび上がると同時に、朔の体がごくゆっくりと地面から離れ た。 「出来るもんですねぇ」 うれしそうに言う希亜は、そのままRising Arrowに跨ると、朔を自分の後ろに座ら せた。 ここまで来れば、今度はRising Arroeの機能でしっかりとホールドしてもらえる。 もっとも魔力源は変わらないが。 「クラム、行きましょうか」 箒に飛び乗り希亜の肩まで駆け上がると、クラムはいつものようにして、へばりつ くように希亜の肩に寝そべるのだった。 朔のホールドと、クラムが肩につかまっているのを確認し、 「では、帰ります」 そう言って、音もなくこの場から夜空へと飛び出した。 夜、来栖川邸、綾香の部屋。 「あら姉さん、どうしたの?」 ノックの音に戸を開けてみれば、姉の芹香がティーポットを持って佇んでいた。注 ぎ口から湯気が立ち上っているところを見ると、いれてからすぐに来たことがうかが える。 「入って姉さん、休憩にするから」 そう言って戸を開き芹香を招き入れた。 「綾芽、休憩にしましょう」 「はーい、ママ」 ティーポットを片手に芹香は部屋へと入る。視線の先、テーブルに広げられたノー トや参考書が二人が勉強をしていたことを物語っていた。 綾芽と綾香の手によってすぐに片づけられたテーブルの上に、ティーポットが置か れる。 「部屋からお菓子持ってくるね」 「座ってて姉さん、今カップ出してくるから」 二人はそう言って、それぞれにこの場を離れてゆく。 芹香の視線の先、小さな食器棚の前にいる綾香は、三つのお揃いのマグカップを取 り出している。綾芽が部屋から帰って来るにはもう少しかかるだろうか。 程なく芹香の目の前に戻ってきた綾香は、持ってきたマグカップをポットの側に置 くと、芹香に向かい合うように席に着いた。 「なぁに?」 「……悠朔さんについて、どう思っているのですか? って姉ぇさん!」 「綾芽からもいろいろ聞いているけど、今回のは悠朔自身の問題でしょ? だったら 私が出る幕なんて無いわよ」 「……綾芽がやきもきしているって?」 「それは知ってるけど。姉さんは私と悠朔をくっつけたいの?」 フルフル。 「じゃあ何よ」 「……友達が困っているのに、話の一つも聞かないのはどうかと思った。って…」 「あいつから話すとは思えないわよ」 「……それもそうですね?」 「でしょ。それにあの子、希亜もいろいろ調べているんでしょう。大丈夫じゃないの?」 フルフル。 「え? 違うの?」 「……あの子は、それだけで行動しているわけではありません?」 コクコク。 「綾芽もいるのに、悠朔にとって悪いことを考えている訳じゃないわよ」 「……そう思います?」 「やっぱり。でも姉さんとは違う事を目的にしていると考えたらいいのね?」 コクコク。 納得した綾香は、綾芽がお菓子を持って部屋に戻ってくるまで、自分に好意を寄せ てくれているだろう物達への愚痴を止めることはなかった。 そんな饒舌な綾香に、芹香はぼんやりと「あなたはどうしたいのですか?」との質 問を抱えたまま、相槌を返しながらに、綾芽が戻ってくるのを待っていた。 ノックの音が聞こえた。次いで戸が開かれ、お盆に盛られたお菓子を持って綾芽が 部屋に入ってきた。 「ずいぶんかかったわね」 「ゴメンね、ちょっと手伝ってもらっていたから」 そう言ってテーブルの上にお盆を置き、綾芽は綾香の隣の席に着いた。 「あー、彼女変わり者だからね」 彼女というのは、綾芽専属になっているセリオタイプのHMの事だ。 「でも、よくしてくれるよ」 「そっか、彼女を薦めて正解だったわね」 「うん、ありがとうママ」 綾香と綾芽がそんな話しをしている間に、芹香が紅茶を入れたカップを二人前に差 し出した。 「ありがとう姉さん」 「いただきます」 それぞれに口を付けるが、二人ともすぐに口を放した。 「まだ熱いわね」 そう言って綾香はカップをテーブルに戻す。 一方の綾芽は、ふーふーと息を吹きかけて、ずずずっと熱い日本茶でも飲むかのよ うに啜る。 綾香はその様子を見て、 「綾芽。良い温度に下がるまで、話しながら待ちましょう」 そう綾芽に言った。 「熱い紅茶も、好きなんだけどなー」 「あら、そうなの?」 「普段熱いお茶ばっかり飲んでいるから」 「なるほどね。で姉さん、何か話しでもあったんじゃないの?」 綾香の言葉に、綾芽も芹香の方を向く。 「……朔さんの事です?」 「パパの?」 コクコク。 「……もう戻っては来ましたが。夕方に神社に戻ろうとして、またどこかに跳ばされ ました?」 「無事… だったのよね?」 「……あの子が寮までつれて返ったようです?」 「あの子って、あの綾芽のオプション?」 コクコク。 「オプションってママ、希亜君は物じゃないよぉ」 「じゃあ、綾芽の恋人?」 「どうなんだろう…」 綾芽は自然にそう呟く。 その綾芽の言葉に来栖川姉妹は、一瞬言葉を失った。 「あれだけ仲がよくて、ただの友達。じゃあないわよね?」 「嫌いじゃないし、友達だって言われたらそうかもしれないけど。希亜は本当はどう 思っているのかな?」 「ちょっと待ってよ綾芽。希亜なら事ある毎に、と言うほど頻繁じゃなくても綾芽の 事『好きです』って言ってるじゃない」 「そうなんだけどね… なんて言うのかな、ずっと側にいてくれると思うけど、私の 事求めてくれなさそうな気がして。 …そう言う所がすごく心配なの」 「……あの子は待っているんですよ?」 コクコク。 「何を待っているの?」 「……それは、ふたりが気付かないといけない事?」 コクコク。 「芹香さんは、希亜君が何を待っているか分かるんだ」 フルフル。 「え? あの子が本心から待っている事の詳しいことまでは分かりませんが、だいた いなら話を聞きましたので?」 コクコク。 「でも綾芽。どうして希亜の事が気になるの?」 「だって、長刀の刃を素手で掴む事するような子だよ? 危なくて放っておけないよ」 あの後何度か見せてもらった希亜の手の傷跡は、今はよく目を凝らしてみなければ 分からない程度になっていた。 どうしてあの傷を付けることになったのか、どうして傷つくことを厭わなかったの か。 綾芽にとって、希亜を傷つけた事は事実であったが、彼がそのことを責めることは なかった。 針で縫うほどの傷だったにも関わらず、彼は後に「こんな事であなたを縛るような ことをするのは卑怯ですから」と、そうのほほんと言ってのけたのだった。 綾香も芹香も他人の恋愛事には興味がある、目の前の妹のような存在の相手ならな おさらだった。だから今、綾芽が黙って考え事をしているのを、二人はじっと見守っ ているのだった。 それからしばらく、綾芽がそれに気付くまでずっとその様子は続けられた。もちろ ん困ったり、微笑んだりとコロコロと表情の変わる綾芽を見て、純粋に楽しかったか らでもある。 とは言え、それは恋愛感情の産物なのかと言えば、幾つか疑問が残ると言えた。 「そういえば。パパは芹香さんと希亜が、いろいろと調べているのは知っているんだ よね?」 「そうね」 「だったらどうして一人で悩んでいるんだろう」 「希亜はパパが聞くのに答えるのはいいけど、教えたらダメだって言うし。今日はパ パを突き放すことを言ったし。目的は分かるんだけど、ちょっと冷たいよ」 「あの子の目的って?」 「えっと、言って良いのかな。『自分の庇護者は芹香だ』っていう事を、パパの口と 本心から言わせることなんだって」 「そうなんだ、姉さんとしてはどうなの? 私は魔術の事なんか分からないから、何 とも言えないけど」 「え? そうですね、あの子のその目的は本人から聞いていました?」 コクコク。 「なら簡単じゃない、悠朔を説得すれば済む事よ」 「そんなに上手く行くかなー? パパへそ曲がりって言うか天の邪鬼だから」 「そうねー、確かに人を信じないし天の邪鬼だし、加えて社会適合性も低いけど、良 いところもちゃんとあるわよ」 「良いところ?」 「組織での目的に対する合理的な判断とか、がそうなるかな。早い話がリーダーシッ プは持っているのよね、本人がめんどくさがって行使しないだけで」 「リーダーシップ持っているのに、今回の事じゃあ役に立たなかったんだね」 「初めてのことに対して、有効な判断ができる人間なんていないわよ。それにあいつ 友達いないから」 「そっか、そうだよね」 「だから、深刻なんだけどね。悠朔ってかなり追い込まれないと人を頼らないから、 いきなり追い込まれていることに気付いてないんじゃないかな」 「……まだそこまで追い込まれていません?」 「例えそうだとしても、かなり追い込まれているように私には見えるわよ」 「うん、わたしもそう思う」 綾芽の相づちを最後に会話が途切れた。 程なく部屋にかけてある時計が鳴り時間を告げる。 「もうこんな時間なんだ」 「じゃあママ、そろそろ戻るね」 「そうね、続きはまた明日にでもしましょう」 それぞれに持ってきた物を片づけ、芹香と綾芽は一緒に部屋の出口へ向かう。 「じゃあ、また明日ね」 「お休みなさいママ」 「お休み綾芽、お休み姉さん」 そう挨拶を交わして二人は部屋から出ていった。 戸を閉めてテーブルに戻る。 何となくカップに残っていた紅茶を口に含む。 (姉さん、綾芽。私には、何が出来るのかしら) ぼんやりと考える綾香だが、答えが浮かぶでもなく、ただ紅茶の苦さを感じていた。