Lメモその1/Japanese 投稿者:NTTT
あまり知られてはいないが、来栖川綾香の朝は、意外に早い。だが、彼女がかなりの実力を持つ格闘技者
だということを考えれば、それも当然であろう。その日の早朝も、彼女はジョギングスーツに着替え、来栖川
家の門を出た。日課のランニングのためである。走りながら一定の間を置いて静かにに吐き出される白い
息は、彼女にとってそれが普段通りの日常である事を、うかがわせた。
いつも通り、公園沿いのコースを、黙々とペースを守り、走る。来栖川邸の敷地だけでもランニングには充
分なスペースはあるが、幼い頃からなじみがありすぎて、飽きてしまった。今はこのコースがお気に入りだ
が、いつかはまた、変える日が来るだろう。だが、走ること自体は、やめる気はない。格闘技を続けていく限
り、きっと。
仕上げに公園の柵を飛び越え、落ち葉の中、公園中央の広場へと向かう。柔らかい大地が、熱を持った足
の裏に、心地よい。広場でストレッチと形を一通りこなし、休憩の後、走って帰る。しかし、その朝の予定は、
そこで大きく狂う事となった。

先客が、いたのだ。

遠くからでも、その男の姿は目立った。医者が着るような白衣を着ていたのだ。男は、白衣を着たまま一本
の棒を構えていた。構えた先には誰もいない。おそらくは、形稽古であろうと、綾香は思った。と、男が動い
た。
棒を地に叩き付ける刹那、軌道を変えて宙に突きを放つ。高く垂直に振り上げたとみるや、握りで喉笛を砕
く動き。防御と見せて下方から跳ね上げ、攻撃と見せて体を入れ替える動き。男と棒は一時も休んではいな
かった。止まったかに見える動きの中にも、わずかに身体のバランスが移動しているのが、綾香には理解
できた。

・・・剣術だろうか・・・

いや、剣ではない、と、綾香は思った。棒を握る両の拳が、剣術にしては広すぎる。だが、棒術にしては、動
きが剣のそれに酷似している。

・・・杖術!?・・・

綾香は、以前にもそれに良く似た動きを見た事があった。剣術を相手に戦うための手段の一つ。剣よりも
間合いの長い杖を使い、カウンターで無防備な急所を砕く。懐に潜り込み、体を預けながら、押さえる。最
もシンプルで、それが故に「最弱にして、最強」という武人さえいたという、古流の技。古い演武会のテープ
だったろうか。だが、男の動きは、記憶にある物よりも、素早く、鋭かった。男の持つ棒は、まるでダンスの
パートナーのように、男の周囲を巡り、男を守り、そして目に見えぬ男の敵を叩いていた。綾香はその動き
を、遠くからじっと見続けていた。

男の動きが、いつのまにか変化していた。

先ほどまで、男の動きは、仮想敵に向けられていた。だが、今は、完全に、綾香に対して警戒する動きに、変わっていた。男は視線に気付いたのだろう、もう綾香に背を向ける事はない。綾香は、迷った。

・・・邪魔しないように、公園を出て行くべきかしら・・・

格闘家として、男の邪魔はしたくなかった。だが、男の動きには、興味があった。滅多に見る事はできない
であろう、古流の動き。なにより、この公園の広場は自分のテリトリーであるという自負もあった。

・・・出ていったげるけど、見せてもらうわよ・・・

ポケットを探る。帰りには自販機でジュースを買って飲む事もあるため、小銭は用意していた。百円玉を手
のひらで転がす。曲げた指の上で、固定した。少林寺拳法の、「指弾」。正式に習ったわけではない。我流
だ。だが、一度見れば、その技、動きを正確にトレースできる自信が、綾香にはあった。この距離では狙っ
た場所に正確に当てる事は難しいが、的が大きい。どこかに当たるだろう。相手はどうさばくか。指に力がこ
もる。

指弾を撃とうとしたその時、男の姿は、木立の奥に消えた。

男が立っていた場所に、ゆっくりと近づく。すでに気配はないが、用心にこした事はない。そこには、一本の
棒が転がっていた。棒では、なかった。棒だと思っていたそれは、錆びた鉄パイプだった。年度末調整とい
うやつか、この公園のあちこちでも改装工事が行われている。見る所、取り壊された古い手すりの一部だろ
うか。男はおそらく、散歩していたのだ。そしてこの鉄パイプをみつけ、戯れに形稽古を行っていたのだろう。

綾香は、パイプを拾い上げた。ずっしりと、重い。目を閉じて、男の動きを思い出す。構え、ゆっくりと、ト
レースしていく。

腰が、定まらない。獲物の重さに、動きが引きずられる。男は、おそらくパイプの重さを利用して、振り回し
ていたのだろう。遠心力を利用するには、もう少しスピードが、必要だ。動きを、早めてみる。




綾香は、膝をついた。息が上がっていた。男は、重さを利してはいなかった。正確にトレースしているはず
なのに、純粋なパワーだけでは、男が見せた動きの説明がつかなかった。慣性を無視した動きだった。
なにより、トレースしているはずの自分の動きは、その勢いで落ち葉を舞わせてしまうのだ。男のそれは静
かで、素早い動きだった。地面にわずかに残った足跡で、男が革靴をはいていたと知った時、綾香はそれ
以上続けるのを止めた。

パワーではない、それだけは、解っていた。だが、どういう技があのような動きを可能にさせるのか、解らな
かった。冷たい汗が、背筋を流れ落ちるのを、綾香は感じていた。

・・・まるで、狐に化かされたみたいね・・・

綾香の呟きは、林の中に吸い込まれるように、消えた。


再び、綾香がその男に会ったのは、数日後の、やはり朝だった。校長に紹介されたその男は、朝礼台の上
から、凝視する綾香の視線を捕らえ、ゆっくりと、そしてかすかに、笑みを浮かべた。


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・・・ああ・・・暇だったんで、グラップラーを意識して、書いちゃった。
続けるか続けないか、まだ、決めかねてます。反響次第。
ま、そんなわけで、よろしくお願いしますね。