Japanese/2 投稿者:NTTT
相田響子が保健室を出ていった。今ならあの男一人だけのはずだ。綾香はそっとドアを細めに開けた。

・・・赴任してきたその男は、校医兼カウンセラーだった。この学校には、これで3人の校医が存在する事に
なる。とはいえ、実質2人と言ってよいだろう。何しろ一人はほとんどの時間、職務をさしおいて特定の教師
とこもっているのだから。騒ぎの絶えないこの学校には、それでは少ないくらいだ。男は、おおむね好評
で、迎え入れられた。

男は、多くの生徒達からは、「トロいが、人当たりのよい先生」と、見られていた。人当たりに関しては、実際
の態度と少し笑ったような顔の作りが、「トロい」と思われたのは、その歩き方が原因だったのだろう。男
は、歩く時、常に右足と右腕を、左足と左腕を、同時に出して歩いていた。

だが、生徒達の多くがそれに気付いたのは、男が赴任してしばらく経ってからの事だった。はじめから気付
いていたのは、ごく少数だろう。あまりにスムーズで、自然だったため、違和感がほとんど感じられなかった
のだ。

綾香は、朝の公園で初めて男を見たその時から気付いていたが、その歩法を「順体」と呼ぶのだと教えてく
れたのは、セバスチャンだった。

「不思議に思われた事はありませんかな?相撲、柔道、剣術、はては日本舞踊、歌舞伎まで、日本におけ
る構えと歩法は、全て「同じ側の足と手が同時に前に出る」ことによって、成り立っておるのです。ところ
が、現代の日本人の普段の立ち居振舞いは、「同じ側の足と手が互い違いに前に出る」動きなのです」

「答は簡単でしてな、昔は皆、「順体」で暮らし、動いておったのです。もっとも、私もその時代を経験してお
るわけではありませんのですがな・・・明治の初めくらいには、もう日本人は今のような歩き方をしておった
はずですので」

「なぜ今のような動きになったかと言えば、走るためでしょうな。昔の日本人は、訓練を受けたものでなくて
は早く走れず、庶民は走らねばならぬ時には、両手を頭の上に上げ、ゆるゆる走ったと言われておりますから。明治になる頃は、それまで走った事のない人間が、軍隊として走らねばならなかったゆえ、西洋式の
歩法を学ばざるをえなかったのでしょう。西洋式の歩法は、学ぶのが存外楽ですし、すぐに走れるようにな
りますのでな。学校などでもそれが取り入れられ、現在の形ができておるわけです」

「ただ、昔の飛脚などには、想像もできん速さで走るものがおったと言いますぞ。300キロを一日で走った
とか・・・まあ、大袈裟な伝説かもしれませんがな・・・」

綾香は、その日から家の中では「順体」で動くよう、心掛けてみた。最初は体に違和感があったし、今でも
幾分残る。走るのは、まだ体が拒否する感覚があり、ついついそれまでの動きに体が戻ろうとする。それま
で使わなかった筋肉が、時々つりそうになった。

だが、発見したものは、大きかった。

自分には、まだ鍛えきれてない筋肉があったという、発見。

常に体全体を使わなければ、その時点でスムーズさが失われるという、発見。

そして、ゆっくりとだが、走る事によって解った事。

順体は、体の上下が少ないため、視線がブレにくいのだ。

それまで格闘技をやってきた綾香にとって順体で動くという事は、常に武道の形を行っているような、そん
な感覚だった。細かい動きのズレが、クリアーな形で動きに影響する。現在、格闘技の修行を行っている人
間のほとんどは、道場では順体で過ごし、外ではその逆を行う。センスの無い、おかしな話に思えた。日本
で派生した武道は、純日本的な動きの中から生まれたものなのだから、修行のためにも、普段から順体で
過ごすべきなのだ。動きの質が根本的に変わるほど順体で生活していない自分でさえ、そう思う。

・・・あの男は、一体いつから順体で暮らしてきたのだろう・・・

順体に慣れてきたかと思う頃、鉄パイプを使って、また男の演じていた形をトレースしてみた。幾分か動き
が記憶のそれに近づいたような気がしたが、それだけだった。男が演じた、勢いを殺し、なおも素早い動き。
「順体」は基礎のようなものなのだろう。だが、その上に、何を積むのか・・・


・・・細めに開けたドアの隙間から部屋の中を伺う。男の背中が見えた。机に向かって何かやっているらしい。
机の上で右手をピアノを弾くように、左右に動かしている。実際、ピアノを弾いているように、リズミカルに机
を指で叩く音が聞こえた。少しづつだが、叩くスピードが上がっているようだ。断続的だった音が、連続音に
変わっている。

・・・ピアノの、練習かしら・・・

注意して見ていた。そして気付いた。男は左手一本で文庫本を持ち、器用に片手でページをめくっていた。
右手は、その間、机の上を左右に動き続けている。机の端から端まで右手が動くのに、約一秒ちょっと。
だが、男が指で机の上を叩く音は、その間に約6回。

器用とかいうレベルではなかった。

左手はゆっくりと、本のページをめくる。それと同時に、右手は規則的にすばやく机の表面を往復し、右手
の指は、さらに速く机の表面を叩く。それぞれの動きが、完全に違うリズムで、同時に動いていた。

と、男の動きが止まった。一挙動で、椅子を回転させて、振り向く。


しばらく、男と綾香は黙って互いを見つめあっていた。やがて、男はゆっくりと、そして小さく笑みを浮かべた。

「なにか、御用ですか?ひょっとして、お悩みでも?」

穏やかな、声だった。


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年明けという事で、再開。しばらくは、このシリーズで行くつもり。ご意見など、お待ちしております。