Lメモ/Japanese/5 投稿者:NTTT
保健室で、綾香と男は向かい合っていた。古い型の石油ストーブの上で、ヤカンが湯気
を少しづつ吹く音だけが、聞こえている。

「まず最初に覚えておいて欲しいのは、「転ばない人間はいない」と言う事です。人間が
二本の足で立っている限り、転ばない人はいません。どんな人間でも、手で軽く押し
てやれば、必ず転ぶんです。ヘタすると、押す必要さえ、ありません」

綾香には、信じられなかった。何をしても、膝をつかなかった相手を、知っている。

「たとえば、30センチくらいの段差の下に、目隠しをさせて突き飛ばしたら、どうです?」

確かに、転ぶかもしれないが、それは屁理屈というものだ。

「では、その人を高さ30センチほどの狭い段上に上らせて、目隠しをさせます。次に、気
付かれないよう、段の周りの地面に土を盛って、周囲を段と同じ高さにしてやった
時、段から一歩踏み出したその人は、どうなると思いますか?」

転びは、しないだろう。だが・・・

「バランスが崩れると、思いませんか?その時、軽く押してやれば・・・」

「人が何かに直接接する時、それが地面でも、壁でも、人の腕でも、必ず多少なりともそ
の体重を預けているんです。さて、体重を預けている以上、触れているその対象に
変化が現われれば、こちらの重心にも変化が現われるのは、当然の事です」

「つまり、相手と接していれば、こちらの状態を変化させる事により、相手の重心を
操る事ができるんです。特に人間というのは、見たものを信じてしまいます。案外、「闘う」
という行為は、相手を信頼しなくては、成り立たない行為なのかもしれませんね」

そこまで喋った所で男は一息ついて、「喉が渇きましたね」と言った。湯気を吹くヤカンを
重そうに持ち上げて、机の上に置く。戸棚を開けて、覗き込んだ後、綾香を振り返った。

「コーヒーを、切らしてしまいました。すいませんが、職員室の湯沸かしの所にもありまし
たから、借りてきて頂けますか」



インスタントコーヒーの瓶を持って戻ると、男は「まずお湯を入れて、カップを温めま
しょう」と言って、洗ったばかりのカップを二つ、机の上に置いて、傍らのベッドに腰掛けた。
手には丸めた紙屑を持っている。カップを拭いたティッシュだろうか。

・・・どうせ、インスタントなのに・・・

綾香がヤカンに手をかけるその瞬間、男の手から紙玉がつぶてのように一直線に走った。
正確に目を狙って飛んでくる。綾香は、首を振って避けた。

綾香をかすめるように飛んだ紙玉が壁にあたる柔らかい音を、綾香は床上50センチで、
聞いた。

尻餅を、ついていた。

綾香は、ただ、首を振って避けただけだった。

男も、ただ、紙玉を指で弾いただけだった。

綾香がバランスを崩して尻餅をついた理由は、その右手に今も持っているヤカンだった。

ヤカンの中身は、空だった。

呆然としている綾香の目の前で、男はベッドの下に手を伸ばした。

まだかすかに湯気の立ち上るもうひとつのヤカンを、重そうに取り出す。

「炊事場にあったもんですからね、取り替えてみたんです」

男は、微笑んだ。

綾香も、微笑んだ。

いつのまにか、綾香は声を出して笑っていた。

笑いは、なかなか、止まらなかった。


「たとえば、あなたが私に突きを放つとして、あなたは私の事を、「おそらく、これくら
いの手応えがあるに違いない」と、前もって考えてしまうはずです。そして、それに
応じた威力の突きを出すでしょう」

「ですが、私に触れた時の手応えが、予想したものと全く違った時、あなたはどうなるのか?」

男は、「いきますよ」と言うと同時に、綾香に向けて貫手を放った。顔面を狙って飛んでき
たその貫手は、決してかわせない速度ではなかった。が、そのタイミングが問題だった。

おそらく、男が前もって声を掛けなければ、あたっていたに違いない。まるで子供が偶然
反射的に手を伸ばしたような、そんなタイミングだった。綾香は、反射的に払った。
きわど過ぎて、避けるのは論外だった。

払った次の瞬間、綾香は膝を崩し、床に手をついていた。


「昔の剣士は、極力刀を打ち合わせる事を、避けたそうです。刃こぼれを防ぐためというのも、
理由の一つでしょうが、打ち合わせる事による「崩れ」を警戒したとも、いえるでしょう。当然な
がら、制御の精度が高い方の勝ちになってしまいますし、精度が同等なら、ねじれが起こって、
単なる力勝負になるでしょうしね」

男の貫手を払った時の感触を、綾香は思い出していた。触れたその一点から、力が吸い込ま
れる感覚を覚えたその時、膝の力が抜けていた。

・・・合気!?

男に聞くと、笑って、

「あれは元はと言えば剣の術理ですからね」

と、答えた。


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久しぶりに再開。読みにくいという話があったので、一行の字数を変えてみました。
あと、スンマセン、ハイドさん。「Lメモらしく」ということで、番外とか書いてみようともしたんだけど、
本編との雰囲気が、どうもしっくりいかない。なにより、構成の点で広げられない。というか、変に
広げたくない。あと3話ほどですので、どうぞ、ご勘弁  m(..)m