Lメモ/Japanese/6 投稿者:NTTT
綾香は焦っていた。ただ右腕を掴まれただけで、動きがこれほど不自由になるとは、
想像もしていなかった。

・・・しかも、「掴んでいる」と、言えるかどうか・・・

確かに、見た目は男が綾香の右腕を「掴んで」いるように見えるだろう。だが、普通、
人が相手に「掴まれた」状態の時に感じるであろう圧力が、右腕からはほとんど伝
わってこない。まるでただ「添えて」いるだけのように感じる。少し腕を振れば、すぐに
引き剥がせそうな、そんな感覚。

だが、引き剥がせない。

まるで接着剤で貼り付けられているような、いや、もとからシャム双子のように、腕が
繋がったまま生きてきたような、一体感。自分の腕に込めた力は、そのまま男の腕に
流れ込んでいく。

「感覚を覚えて、できれば攻撃してみて下さい。おそらく、今のあなたには2種類ほど
の選択肢があるはずです。考えて見つけて下さい」

男はそう言ったが、今の自分にできるのは、おそらく片手で相手の顔面を引っ掻く
か、髪をひっぱるか、目を抉るか。だが、男はそういう意味で言ったのではないだろう
し、第一、それすらもできるかどうか。自由なはずの左手を伸ばそうとするたびに、体
はグラグラと傾く。立っているはずの固い床が、まるで底無し沼のように不安定な足
場と化していくのだ。蹴りどころか、脚をわずかに浮かすことさえ、できなかった。

原理は、わかっていた。

そう、自分の重心は、すでに自分の中にはないのだ。男は、その手のひらの上で、ま
るでビー玉でも転がすように、自分の重心を転がしている。攻撃をかけるためには、
動かなければならない。だが、動きの起点となる部分が、自分の中から消失している。

だが、男は確かに言った。

自分には、選択肢があると。攻撃する方法があると。

重心を、自分の元に戻すためには・・・


膝の力を一瞬で、電気のスイッチを切るように抜く。腰も、肩も、腕も。体がガクンと垂
直に落下していく。膝が地面につく刹那、男の腕がわずかに離れた。足の指と膝を
つっぱり、腰を立ち直らせながら、拳を握りつつ、突き出す。目の前には、白衣の裾
から覗く男の膝。わずかに視界の中で、ブレて、消えた。


膝と片手を床につき、左手を宙につきだしたまま固まった綾香の背後、高みから、男
の声が聞こえた。

「そう、それが一つ。二つ目の方法は、各部を同時に多方向に制御して重心を私から
とりかえしていく方法です」

・・・できるわけ、ないじゃない!!

声も出なかった。いや、出せなかった。

全身汗まみれで、疲れきっていた。





「とりあえず、これで見るべきものはすべて見た事になるでしょう。その上、奥技まで破
られてしまいましたし、これ以上教えられることはないですね。今の所は」

・・・奥技? 今の所?

「ええ、今あなたが顔をぬぐっているそのタオルだけを掴んで、さっきのような状態を作
り出す技術もあるんですが、まだ開発段階ですし、他にも触れるだけで相手を吹き飛
ばす技術なんかも、同じようにまだ解明ができてません。なにせかなり昔に失われて
しまった流派ですのでね。現段階で私が使える技術の最高峰が、さっきのアレなんで
すよ」

「もともと柔術系はさっきのような原理を有していたんですが、なにせ学ぶのが難しい。手っ取り早く人が強くなろうとした場合、どうしても、関節やら投げやらの、即実戦
に使える技を欲しがるものですから、いきおい、難しい術理は奥技化して、そのうち
に後継者がいなくなって、使えるものはいなくなり、流派自体が埋もれ、よそに吸収さ
れてしまう。私は誰かに習ったわけではなく、一冊の書物から、学んだんです。我流
も我流で、『無比無敵流』を名乗る資格は、ないのかもしれません」

・・・本から、学んで、ここまで・・・

「最初は苦労したんですよ、古い巻き物でしたからね。『円ハ円ナラズシテ、尚、円ナリ』
とか、『体、捻ジラズシテ、クグツナルベシ』なんて、なんのことやら」

・・・順体と、歩法ね・・・

「しょうがないから、昔の資料や他の格闘技の解説書なども見て、少しづつ、解読して
いったんです。特に助けになったのは、同じ柔術系の合気道と、それから、何だと思
います?」

・・・やっぱり、剣術かしら?

「答は、空手なんです。古い琉球空手の達人の動きは、合気道と非常に良く似てるん
ですよ。しかも袴を着けてないぶん、動きがよく解る。あなたも空手をやってるなら、
古い形をよく見て研究してみるといいですよ」

綾香は、以前見た事があった。100歳になろうかという老人の、まるで舞を舞うかのよ
うに優雅な動き。ゆるやかなその動きは、綾香の目指す物とはかけ離れているような
気がして、ただの『古い形』として、今や忘れかけていた。

「古い形には『昔なら通用したであろう、現在は無駄な動き』に見える動きがあったり
するんですが、よく見ると、その中には『体を基本となっている姿勢に戻し、ねじれを
とって、術理を使えるようにするための動き』があったりするんです」

・・・なるほどね、確かに我流だわ、でも・・・

・・・これほど謙虚な我流ってのも、珍しいわね・・・

思わず口元がほころんだ綾香の顔を、男は不思議そうに見ていた。

「ま、そんなわけですから、私が教えられるのは、ここまでです。関節や投げもあるん
でしょうけど、私が持ってるのには、書いてないものですから・・・私が持ってるのは、い
い事なのか、悪いことなのか、どうやら『奥技』に属する部分だけだったみたいで、私
もそれ以外の部分は、まったく知らないんですよ」

その時の綾香の爆発的な笑い声を聞いたものは、男以外にはいない。

だが、聞かれなくて幸いだったろう。

それは、そんな笑いだった


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