我が策謀に殴り込め宿敵(笑) 投稿者:Rune
「何なんだ、これは」
「どーゆーことよ、これ」
 ハイドラントと。
 そして、彼の胸倉を引き掴んでいた来栖川綾香は、あまり経験のない展開に面食らって
いた。
 どうということもない、つまりは昼休みのことである。
 春はその辺りまで来ており、今日も校庭に林立している黒い桜は満開だった。
 暖かい陽射しが、風を暖めて、分け隔てなく時と共に教室全てに香りを残して流れゆく。
 ……………………
 何の香りだかは、特に知らない方がいいので言わないが。
 まあ、とにかくいつも通りの平穏の中、二人はじっと彼らの後輩を見つめた――
 彼らの後輩。この学園はそれなりに自由で、平然と下級生が上級生の教室に入ってきて
は、雑談を交わしたりしている。特に上下意識が必要ないのである――つまり、体育系統
の部活があまりないのだ。
 だから。
 先輩後輩を意識するような人づき合いは、基本的にこの学園にはない。
 それをあえて、意識する――或いは意識させられてしまうのは、彼ら3人が中学を共に
過ごした間柄であるからに他ならない。
 彼ら二人は同じ二年生だった。だから、後輩というのは、必然的に一年生――
 二人の視線が直交するところに、その少年はいた。
 Rune。
 二人と同じ、魔術を扱う高校生である。

「まーまーまー」
 Runeは、ひどく、にこやかな表情でそれを二人に差し出した。
 右手と左手、それぞれにのし袋がある。
 そう。まさにのし袋だった。
「いや、あのな……」
「ええと……」
 今一つ要領を得ない二人に、Runeは自信を持って保証した。
「あ、大丈夫です。この前みたいに、いきなり手が真っ赤になるとかそーゆートラップは
仕掛けてませんから」
「いや……そーゆーんじゃないだが」
「ん? ああ、匂い系でもありませんよ。モケケピロピロの鼻毛を紙に織り込んだりとか
もしてませんし」
「そーじゃなくてね……ねえ、Rune。何なのよ、このお金」
「日本円です」
「当たり前でしょーが。聞きたいのはそーゆーんじゃなくて。
 どーしてこれを私にプレゼントしてくれて、ついでに、この変態男にも同額分を恵んで
いるのか、ってことを訊いているのよ」
「…………変態男…………?」
 と、こちらは胸倉を相変わらず掴まれたまま、少し傷ついたようにハイドラント。
 しかし大声で叫ばない限りは(或いはどうせ叫んでも)、必ず無視しなければならない
ことが校則に定めてある以上、彼のささやかな抵抗は無駄なのだった。
 惚れた男の弱みというやつなのだが、世間一般では『泣き寝入り』とも呼ばれている。
「あんたのことだから、どうせ何か企んでいるんでしょ?」
「ははは。やだなぁ。人を諸悪の根源みたいに……大丈夫。ギャラですよ。ぎゃ・ら。
 色々と肖像権をお借りしたりしているんで、その正当な報酬です……ハイドラントの分
は、ですけどね」
「じゃあ、私へのこれは……?」
「梓が受け取り辞退して、渡しておいてくれって。何かこの件にはあたしは一枚も噛んで
ないから、あたしだけは巻き込むな、とも伝言を頼まれました。
 ちなみに彰はさっさと契約金の31%を巻き上げて、今頃はベガスへの国際便の中じゃ
ないですかねー」
 柏木梓。久々野彰。
 ともに、やはり彼ら三人の中学時代の先輩である。
 この5人の間には特に私的な時にはファーストネームを呼び捨てにする習慣があった。
「なるほど、大体事情は飲み込めたわ。ところで契約って何の?」
「『裏・To Heart』のマスターアップ分……要するに後払い分ですね。ソニーと
集英社を騙していただいてきたんです」
「ほうほう……ところで俺からも、一つ訊いて構わんか?」
「駄目」
「『裏・To Heart』って何なんだ?」
「訊いちゃ駄目だって言ったのに……まー要するに、普通のTHじゃPSユーザーも満足
できないだろう、ということで、モザイクもみーんな取っ払った無修正版を作ったのさ」
「それだけか?」
「まっさかぁ。メインヒロインに佐藤雅史を据えて、主人公のもう一人の幼なじみ役に、
神岸あかりを大抜擢。長岡志保役に橋本先輩、来栖川芹香役に長瀬源五郎氏……」
「プアヌークの邪剣よ!」
 性急に叫ぶハイドラントの衝撃波をひょいとRuneは横にかわした。後ろにいた筈の
新城沙織の声が――悲鳴も――ないことに若干ひっかかりを覚えるが、特に振り向く必要
もないので気にしないことにする。
「てめえ! まった懲りもせんとそーゆーもんばっか作りやがって! 殺す! 頼むから
離せ俺の綾香! こいつを殺して受取人不在の腐臭がいい感じな航空小荷物を20くらい
作ってやる! 後生だから俺を止めるなぁぁぁぁっっっ!!」
「止めるに決まってるでしょ、そんなの」
 呆れ顔でより強く襟首を締め上げる綾香に、Runeがうんうんと頷いた。
「そーそー。基本は13個ですよね、手荷物」
「あんたはあんたで何か病気な気もするけど……」
 疲れたように嘆息する綾香。
「でも、よく考えたらTHの男キャラって5人くらいじゃない。残り四人はどうしたの?」
「はっはっは。やだなー。だから言ったじゃないですか。出演料、って」
「ああ。なるほどね……」
 納得する綾香の手では、ハイドラントが唾を飛ばしながら口を高速に動かしていたが、
ひゅーひゅー、という息の音が洩れるばかりだった。
 そのハイドラントを迷惑そうに見た後、おもむろに握力を20kgほど強めて、さらに
疑問(というか雑談)を続ける。
「ちなみに何の役なの、こいつ?」
 Runeは即答した。
「保科智子役です」
「どーするのよ。こいつ偽大阪弁しか喋れないのよ」
「あー、そこは大丈夫です。今回、シナリオから何から全て『まるお』っていうマルチに
似たメイドロボにやらせたんですが、これが超優秀で大阪弁に非常に詳しいので、ハイド
ラントは東京から来た転校生になっているんです。で、ぱちもん(偽物)の大阪弁を必死
に喋ろうとするんですが、周囲からいつも半殺されるといういじめを受けているんです。
 そこへ――」
「浩之が出てくるわけね」
「その通り! そして二人は結ばれるわけです」
「第二ラウンドはやっぱりあるの?」
 綾香も実は結構そういうのが好きなのかも知れなかった。
 というか、ホモ談義が好きよね。この年頃の女の子って(<セクハラ受けた経験あり)。
「もっちろん」
「お風呂よね?」
「うい(訳:はい)。まずは胸板を洗いっこ。やがて……」
「へえ……」
 Runeは途中、横目でこっそりハイドラントを見た。
 怒っているかそれとも絶望で涙しているか……
 しかし、残念ながら気管が閉じられてしまっているらしく、既に意識は無いらしかった。
「ところで、綾香は要りませんよね。ギャラ」
「ええ、私はいいわ……って、私も出てるわけ?」
「ははは。実はそーなんです。でも、単なるちょい役ですし」
「ふうん。ちなみに何の役?」
「ハイドラントをいぢめる性悪小娘のリーダー格、岡田役です」
 その言葉に、ぴしり、と綾香は固まった。
「……………………」
 沈黙。
「あれ? どーしました?」
 その声に答えるものはなかった。
 ただ、静寂が訪れては、春風の音さえ掻き消していく。
 やがて、綾香が、 ゆ  っ  く  り  と  口  を  開  い  た  。
「…………あんた…………私をそーゆー目で見てたわけ…………」
「はっはっは。大丈夫ですよ。パソコンユーザーより、プレステユーザーの方が多いです
から、確実に世間の大半が誤解してくれますって」
「どーすんのよ。後のフォローがかなり大変じゃない」
「はっはっは。それも問題なしです。第一印象ってなかなか覆せないもんですからね……
特に悪評は」
「あんたはぁぁぁぁぁっっっっ!!」
 不意にぶちきれた綾香が、ばきり、とハイドラントの頸椎をへし折った後、床に最頭部
から彼を叩きつけて喚いた。
 その言葉を媒体にして、綾香の動体視力が2.5倍以上に跳ね上がる。
 先にも書いたが、彼女は魔術の訓練を受けていた。
「何で怒るんですかぁぁぁぁっっっ!?」
 悲鳴を上げて、Runeがフォローを入れる。
「そーだ! 彼女は、本当はハイドラントに恋するあまり、そーゆー行動に出てしまうと
いう設定にするということで――」
「マスターアップしたROMの設定を変えられるわけないでしょうがぁぁぁっっ!!」
「な、なら、ハイドラントを調教しようと企んでいる、いっつも黒いマント着ていて赤い
ハイヒールして青きヒゲを生やしたナイスガイってことに――」
「なお悪いわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっ!!!」
 一際高い絶叫を上げて、綾香が魔術を発動させた。世界が彼女の思い描くままに、奇跡
を呼び起こす。教室のガラスが一斉に割れて、外へと弾け散った。圧縮された空気による
爆発は、あまりの熱量の高さに引火を起こし、結果、教室を火の海へと変える。
 そんなことはどうでもいい。
 問題は、墓の下へと送り込むためのこの爆発で、Runeを仕留められなかったことだ。
 相手もまた、魔術使い。一瞬のうちで、その姿を消していた。
 空間転移である。
(Runeはどこっ!?)
 動体視力を上げても、転移の行く末までは掴み取れない。舌打ちしながら、綾香は音を
待った――
「ここにいますよーん」
(上!?)
 時間に直せば爆発からは半秒と立ってはいなかったが、とにかく十分な余裕を持って、
彼女はバックステップしながら顎を上げる。一瞬前まで彼女が立っていたそこに降り注ぐ
強酸の飛沫が、彼女のスカートの先を少し灼いて、無駄な糸くずの集合体に変える。が、
それもまた教室に踊る紅蓮の炎の中では美しかった。
「我は放つ――」
 それには目もくれず、Runeが別の魔術を放とうとした時。
「プアヌークの邪剣よ!」
 丁度宙空に浮かぶRuneの足下にいる形のハイドラントの魔術が完成した!
 そちらに注意は向いていなかったのか、まともに喰らった形のRune――
「いや!?」
「やって、くれたね……」
 Runeの顔をした、精巧なゴーレム(魔術人形)が、呻く。
 腹を貫通した魔術。上半身のみになっていても、まだそれは稼働していた。
「まあ、いい……マスターの伝言を伝えよう……」
「疾風よ!」
「おい、こら!? ちょっとまっ――」
 無視して叫ぶ綾香の魔術に、ゴーレムが一撃される!
「おい! ここは黙ってこう先人の意見を聞こうとかいう謙虚な――」
「竜巻よ!」
 ごがしゃぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!
 今度こそ。完膚無きまでに、Runeからのメッセンジャーは沈黙したのだった。
「さあ、行くわよ、ハイドラント!」
「おうっ!」
 二人とも、目指すべきは理解っていた。
 ソニー本社である。

 ……というわけで二人は、最後の一部屋を除き、SCE(正式名称:ソニー・コンピュ
ーター・エンターテイメント)の殆どの機材を破壊してきたのだった。
 そう。
 最深にして最後の一部屋は彼らの目の前で、ついでにこれから破壊される予定なのだが。
 しかし――
「どうやらここのようね――」
 すう、と綾香が目を細めた。
「ああ」
 同じように、彼女の隣のハイドラントも、不敵な笑みを浮かべる。
 そのドアの前には、雛山理緒、太田香奈子、日吉かおり……その3名が。
 彼らを待ち受けていた――そろばん、消火器、クロロホルムという最強の武器を携えて。
「今まで破壊してきたところに、データはなかったわ――」
 呟いて、一段腰を落とす綾香。
「つまり――そこに、あるというわけだな?」
 対して、棒立ちのままのハイドラント。
 3人は、それに対して、動きらしい動きすら見せない。
 当然だ――彼女たちは初めから構えを取っていたのだから。
「一つ――訊くわ」
 綾香が、低い声で問うた。
「何故、邪魔をするの? 私たちは悪を滅ぼそうとしているだけだというのに――」
 3人が、一斉にそれに答える。
「金払いがいいから」
「月島会長のご命令」
「悪じゃないからよ」
 ……てんでばらばらだった。
 綾香は、ため息をついた。
「じゃあ、まずは雛山さん。あなたを買収するわ」
「いくら?」
「私の今日のお小遣い――50万全部!」
「全然駄目ね」
「なら――」
 綾香は、懐からRuneから貰ったのし袋を取り出した。
 大体200万前後だろう。
「これと、ハイドの持ってるので450万! どう!?」
「え? いや、別に俺の分は――」
 狼狽するハイドラントをよそに、理緒は、ふ、と鼻で笑った。
「またその内、ね――今日は『あの』契約金の80%プラスアルファを前金でもう貰っ
ちゃっているから、その程度じゃ話にならないわ」
(そんなに!?)
 Runeも思い切ったことをする――
(……………………)
 何かがおかしい。横目でハイドラントを見る。
 彼はいつものポーカーフェイス。
(…………何か…………ひっかかるわね)
 それが何だかは理解らない。
 とりあえず心に留めておいて、綾香は次の太田香奈子に視線を移した。
 目が濁っている。
 日吉かおりにも視線を移した。
 彼女の目は理想に燃えている。
 説得は行数の無駄らしかった。
「仕方ないわね――」
 それが――戦闘の開始だった。

「プアヌークの邪剣よ!」
 衝撃波がフロアを割り、三人に迫る。避ければ開発室に直撃だ。だが――
「甘いぃぃぃぃぃっっ!」
 理緒が右手に握った大根を床に打ち込んだ。
 衝撃波が、大根に当たり――
 ごわあああああぁぁぁぁぁぁぁんん…………
 いい加減な中華鍋を思わせる効果音と共に四散する。
 硬直しているハイドラントに、理緒が誇らしげにピースサインを出した。
「さすが精魂込めて育てた家庭菜園の大根! よゆーよねっ!」
「どんな大根だっ!?」
 両手をわななかせて叫ぶハイドラントに、綾香が鋭く叱咤する。
「馬鹿っ! 敵は一人じゃないのよっ――!?」
 言い終わる前に。ハイドラントは、背後に気配を感じた。
(暗殺者の背後を取るだぁ!?)
 寒いものを覚えながら、身体を動かそうとする――
 ――動かない!
 香奈子が、無表情に消火器を振り下ろした! それは致命的にハイドラントの後頭部を
突き破って、彼の大脳新皮質とそうでないものを、部分的にせよ、ほど良くミックスする
筈だったが――
「綾香!」
 ――そう。
 綾香が、横殴りに跳躍して、ハイドラントを脇からさらったのである。
「気を抜いちゃ駄目よ! 彼女たち、もともと卓越した個性がない分、パワーアップして
いることが多いんだから!」
「余計なお世話よっっ!!」
 かおりが理緒の横で叫びながら、投げ縄を飛ばした。縄は綺麗な弧を描いて、二人の元
へ――
「ちっ!」
 ハイドラントが懐に隠し持っていたナイフを下から、上へと、振り上げた。白銀の軌跡
が、縄を縦に割く。僅かな衝撃に、縄そのものが震えて軌道を損ねた。
 微かな甘い香りが鼻を突く。ハイドラントの頬を、麻が撫でていた。一瞬、瞼を閉じて
――黒しか存在しない世界への埋没を――夢――見――
「小癪なぁぁぁぁぁっっっ!」
 無意識に編み上げていたハイドラントの魔術の構成に、炎が灯った。
 それはまばゆい紅。彼の魂の色。全ての色彩を塗り替えるほどに、力強く、激しい――
声だった。魔術師は声に力を託す。魔力と声とを融合し、世界に干渉する。
 彼はまさしく魔術を発動させていた。全く見当違いの方向――彼らの数メートル手前の
天井を勢いよく灼き貫いた熱線が、一階上の何かに命中したらしく、無意味に大きい爆音
と共に彼らの足下をも揺らす。
「ハイドっ!?」
「気をつけろ! 催眠ガスまで使ってやがる!」
 一瞬意識が肉体から遊離しかけたのを、今更のように冷や汗という形で背中に刻みつつ、
彼は綾香の腕を引っ張った。彼女を胸に抱き入れて、叫ぶ――
「ヤスランの樽よ!」
 彼の要請に応えて、世界が凝縮し始めた。みちり、と音を立ててコンクリートの白壁が
廊下へと引きずり込まれる――
 廊下が、瞬時に爆砕した。粉塵が太陽から5人の姿を烈風と共に覆い隠す。床ビニール
が簡単に蒸発し、その下の灰色の石の塊をえぐり飛ばし、中の鉄筋を打ち断って、爆音に
耳障りな甲高い衝撃音を付け加える。
 外気を呼び込むために、ハイドラントは壁をあらかた吹き飛ばしていた。
 爆煙が晴れるのを待つつもりは無論無い――彼の声の届くところが、即ち射程距離なの
だから。
「プアヌークの邪剣よ!」
 熱線を勘をたよりに撃ち放つ。手応えは――
 ない。お返しとばかりに、不定形の白い壁を割いて、何かが飛んでくる。
 サンマだった。
「旬じゃねーだろーがっ!」
 訳の理解らないことを叫びつつ、ハイドラントがそれをナイフで切り払う。綾香がそれ
を確認して、駆け出す――前へ。
「妖精よ……」
 呟く。視力が自然的なものではなしに引き上げられる。煙越しに踊る影は2つ――
 一つは理緒だろう。もう一人は?
 そして、残り一人は何処へ消えた?
 彼女はそこまで思考を進めると、疾走中だというのに深く息を吸って――
「上だっ!」
 ハイドラントの声を背に、更に加速する。自分の頭の真上に、気配。
「疾風よ!」
 彼女は吸った息を肺から絞り出して、自分の背後すれすれに衝撃波を生み出した。
 声もなく(或いは出すことすら忘れて)、その人物は再び真上に吹き飛ばされる――
「この消火器女ぁぁっっ!」
 その空中のターゲットに向かって、ハイドラントがとどめを刺したらしかった。
 どのみち、彼女は背を向けていて、それを確認するために振り返るつもりもない。
 背中は任せるためにある――そして、彼、ハイドラントは性格的には少々弱点やら欠陥
やら問題やらその他諸々を抱えていたが、「戦闘技術に関しては」おそらく彼女が信頼を
おく中でもベストの中の一人に数えて良かった――つまり、本人に知られない範囲で、と
いうことだが。
(消化器女、ね)
 ということは、残りはかおりと理緒だけだ。
 まずは弱そうなかおりから――
「誰が弱いってぇ?」
 耳元を、そんな声で席巻され、彼女は、横に飛び退こうとした――
 無論、できない。かおりは既に背後から、彼女の胴に手を回していた。
「く、空間転移だとぉ!?」
「ふふふ……新しい愛をゲットするためなら時空の一つや二つワープできなくてどーする
ってのよ」
 ぺろり、と舌なめずり――
「ふ・ふ・ふ……むさ苦しい男はゲームで同じ男の@@@にでもされてればいーのよ」
 綾香は、無論、抵抗を試みていた。
 左肘を相手の脇腹目がけて振り、それをフェイントに右肩で相手の顎を狙い、更に右脚
で相手の臑に蹴りかかり……
「でも、無駄なのよねぇ。んっふっふ。私が何人手込めにしてきたと思っているの?
 ふふふ……めくるめく陶酔の世界へ優しく誘って上げるわ」
 かおりは、つまり百戦錬磨なのだった。主に――
 寝技の。
 脇腹を軽く撫で上げながら、太股で両足の間を割る。
「あ、結構着やせするタイプなのね」
「ふ……っ!?」
 ぞわりとした感覚が、彼女を硬直させた。小さな鼻声が意図せずに洩れる。
「てめえっっ!」
 激高したハイドラントが、二人に駆け出した。
 それに向かうは理緒。右手には1m程のバナナが握られている。
「とりあえず時間を稼がせて貰うわっ!」
「プアヌークの邪剣よっ!」
「放射能浴びまくりバナナストライク!」
 ハイドラントの放つ熱線をいとも簡単に吸収して、それは、じじじ、と放電を――
 ……………………
「…………放電?」
「あああああ!? どーすんのよ、これ、高密度の圧縮プルトニウム燃料が含まれている
ってのに!?」
「核汚染物なんぞ初めから使用するんじゃねえっ!」
「いーじゃない! 近所の奥さん大喜びなんだからっ!」
「よくねえだろっ! 大体どーして核汚染対象に核燃料が含まれてんだよっ!?」
 喚く二人。倒れている香奈子。そして、一線を越えつつあるかおりと綾香――
 とりあえず何もかも飲み込んで、全ては閃光の中へと消えていった……

「う……ん……?」
 ゆっくりとした、リズム。
 綾香は、そんな中で、おぼろげに顔を上げた。
 誰かの……せなか……
「気がついたか?」
 彼女に、かけられたのは低い声だ。
 ……………………
 彼女は、答えられない。
 ただ、彼女は彼女の父親の背中に、ひたすらに頭をこすりつけた。
「お、おい……」
 世界はただ紅蓮だった。アスファルトも、コンクリートの壁も、ひたすら赤黒く、乱暴な
色彩で彼女を押し潰そうと迫る。
 だから。
 彼女は、彼女を絶対に守ってくれるその背中を全ての力を込めて抱き締めた。
「お、おい?」
 ……………………
「な、なあ。いや、嬉しいんだけど」
 彼女が精一杯手を伸ばしても、肩にやっと手が届くか届かないか。
 だから、彼女はいつも不安だった。姉のことをいつも話していた、父が。母が。彼女を
忘れてどこかへ行ってしまう時に、父を引き留めきれないのではないかと。
 しかし、今はこうして抱き締めていられる。少なからず、この背中の存在が、寂しさの
恐怖を和らげてくれる――
「お、お前結構着やせするのな、ほんとに」
「――ないで」
「あん?」
「置いていかないで」
「……………………」
 頷いてやれば、よかったのかも知れない。
 ずっとここにいるよと囁いてやればよかったのかも知れない。
 けれど。
 彼女の――何だかは詳しく知らないが、何であっても――弱みにつけ込むような真似は
自分のプライドが許さない。
 彼を、中学時代に、真っ向からこき下ろし、格下扱いしたのは、後にも先にも綾香だけ
だった。彼の視界の中で彼女だけは自信に満ち溢れていた。いつも。絶対の。
 だから。
 彼女を、超えてやろうと思ったのだった。彼女を超えていることを彼女に認めさせて、
はいつくばらせてやろうと思ったのだった。
 だから。
 だから、今、彼女に応えては意味がない。
 いつも自信に満ち溢れた彼女を打ち負かさなくては意味がない。
「ったく」
 彼女を、背負い直しながら、ハイドラントは小さくぼやいた。
「俺って、結構損してるんじゃないか? この性格。外道なんだぞ、本当は。誤解されや
しねーだろーな」
 学校は、すぐそこだ。
 とりあえず、来栖川芹香に押しつければ、この背中のくそ重い荷物ともお別れである。
 ……………………
 そこの角を、右に曲がれば……
 ……………………
「ええい、ったく!」
 その辺の電柱に頭を叩きつけて、ハイドラントは、額から無意味に流血させつつ、走り
出した。太陽は間もなく沈む。
 三叉路を右に曲がって、彼はとりあえず呼気と共に、全ての下らない思考を大気に撒き
散らしながら、ひたすら疾駆した。

「まあ、大体こんなところでいいと思いますが?」
 暗い密室。そこで、一人の少年は肩をすくめてみせた。
 春だというのに白いコートを室内でも手放さなず、窓に近寄って、ブラインドを上げる。
 陽光が差し込んだ。つまり、昼だった――
 正確に言うなら、昼休みだ。
 今も、長岡志保が例の流暢なアクセントをふんだんに使ってSCEでの破壊活動事件を
ブラウン管で報じていた。
 別に、興味もない――要するに、知っていたから。
 月島拓也は腕を組んで、瞼を閉じていた。
 生徒会室。学園に関する全ての陰謀が始まる場所。その一角に座を占め、彼は思考する。
 呟いた。
「例のCD−ROMはどうなったのだい?」
「マスターアップのデータは既にこちらの手元に回収してありますよ。どのみちソニーの
方は捨て駒でしたからね。本命はあくまで、セガですから」
「ふむ……」
 満足げに鼻息を洩らす拓也に、コートの少年は右手のCD−ROMをくるくると回した。
「まあ、この件に関しては学内の情報組織は大体静観していますね。それだけサターン派
が多いってことでしょうか」
「当然だよ……君」
 ようやっと視線を上げて、彼の後輩を真っ直ぐに見つめた。
「Rune君……だったかな? 我々としてはソニーに本腰を入れられては困るんだよ。
 あくまで、セガでなくてはならない……」
「エゴとはよく言ったもんですね」
「そうでもないさ。これは望むべくして望まれているのさ……このままにしておいては、
破局を免れ得ない」
「破局……か。まあ……」
 そこで、にい、とRuneが底意地の悪い微笑と共にガラス窓にもたれかかる。
「ソニーでは雫は実現しえないですからね」
「それがまさしく問題なのさ」
「ま、別にいいですけど。例の二人はこちらの方にまでは気がつかなかったみたいですし」
 呟いて、懐から、本を取りだした。
 そう、集英社の本だ。
「一応最初にソニーと集英社を騙したって言ったんですけどね(笑)。
 ソニーにばっか目が向いて、集英社には手を出さず……か。まあ、計画通りですが」
 表紙は……ご想像の通り。セーラー雅史が振り返っている表紙である。
「君の趣味にとやかくケチをつける気はないがね、Rune君。ここに持ち込んでそれを
僕に見せびらかす必要は特にないと思うのだが?」
「え? それ? それって何でしょう?」
「い・ま・ぼ・く・の・目の前にちらつかせているものだよ!」
「え、この小説ですか? この小説はですね――」
「解説せんでいいっ!」
 拓也が喚いて、ばん、と机を殴った。
 しばし、二人が睨み合う。
 折れたのは結局拓也だった。
「理解った。それを国語のテキストにするように、教師群に掛け合ってみることにする。
それでいいかね?」
「ええ。では、そういうことでお願いしますね」
 かくして。
 全ては渦巻き始める――

****************************************

 えー、やっと完成いたしましたのでアップいたします。
 自分の復帰Lメモ第一作にしては、かなり駄作ですが……まあ、色々、思うことを盛り
込んだつもりでもあります。
 かおりと綾香の寝技のシーンはもっと長かったんですが……(そして、ハイドラントが
そっから綾香を奪回する課程はもっと長かった)まあ、削りました。
 お子さまにも大変やばい書き方をしてたとこを削るのが一番苦痛だったかな(笑)。

 さてさて、ハイドラントさまへのお礼SSでありながら、実はこの話は綾香が主役です
(笑)。綾香って、ほんとはこーゆーやつじゃないか? なんて思っていたり……
 考え過ぎか(笑)。