我が夜を啜れ謀略者 投稿者:Rune
(BGM:WHITE ALBUMトラック21)

 健やかの声。
「スランプなんじゃない? 休んだ方がいいよ。できれば長々と」
「にゅう」
 ルーンは少しバテ気味だった。
 ここ連日企みとかやっていたせいで、あまり頭が回らない。
 情景描写とかもやらなくなって久しい。
「野球対決とか、色々ネタはあるんだけどねー……」
 ごろりと芝生に寝転がる。
 授業は既に終わっていた。
 暖かな色彩のグラデーションが、西の空から頭上の雲へと腕を伸ばしている。
 平たく言うと――
「夕方だなぁ」
 しみじみと呟いて、ルーンは目尻を下げた。
 穏やかな自分の呼吸が、穏やかすぎて自分の耳に入らなかった。
 胸が上下しているかどうかさえ怪しいものだと思う。
 視界の隅では、未だ星は瞬かない。
 無論、いずれはそうなるのだろう。
 この中庭は、ひどく暗いから。
 尽きることのない闇が、校舎の、誰も知らない最奥から滲み出てくる。
 ただ、暗い暗い世界。常夜灯さえ、この学校にはいなかった。
 一度、生徒会が警備員の常駐を申請したそうだが、校長に却下されたらしい。
 柏木賢治校長だったという話だが――まあ、この学校にはまだまだ何かあるということ
なのだろう。学校そのものに。
 とにかく、それはおいて。
 今は、ただ静かだった――静かに闇が迫り来るこの時間に、無遠慮な光を投げかける者
はいないのだ。
「るーちゃん」
「んー?」
 黒へと溶け落ちる空を眺めながら、健やかに生返事を返す。
「もうすぐ、夜だね」
「んー……」
 きらりと、濡れたように光る健やかの瞳が、唯一の光源だった。
 勿論、眼球が光を発することなどないのだけど。つまり、何かの光を反射しているのに
過ぎないのだけど。
 それでも、そのある意味鋭くて、ある意味切ない灯は、瞼の奥に呑み込まれることなく、
一瞬たりともその揺らめきを止めることがない。
 二人の少年は、ただそうやって寝そべり、或いは座っていた。

「さて……私も帰るとするルリコ」
「あ、はい。お疲れさまでした、会長」
「じゃ、気をつけて帰るんだよ」
 拓也は鞄を掴むと、そのままドアを開き、そして、閉じる。
 七瀬彰は、ぼんやりと浮かべていた笑みをふう、と鼻息と共に吹き散らして、どっか、
と折り畳み式の椅子に座り込んだ。
「あー……疲れた……」
「ふふふ。先生、大丈夫ですか?」
「大丈夫……でも、やっぱりまだ緊張するなー……」
「お茶でも煎れますね」
「うん。頼むよ」
 ゆっくりと流し台に立つ香奈子を横目に、七瀬は部屋を見渡した。
 壁紙は黒で統一し、会長席のちょうど背後にはドクロマーク。
 ちなみにスイッチ一つで壁が反転して、月島瑠璃子の肖像画が出てくる。
 他には、隅々まで清掃された棚やロッカー。
 おそらく、今は学校で最も明るい部屋がここだった。
 照明が皓々と点いているというまさにその一点で。
 ここは、いつも、学園で最も暗い場所の筈なのだけれど、それでも。
 この夕方には、それが逆転する。
 要するに、いつも無駄に遅くまでいる、ということだ。
 今は、ただ、こぽこぽと、湯が立てられる音しか響かない。
 息づかいは聞こえない。正直、胸が動いているかさえも怪しい。
 ただ、柔らかい生活の音が籠もるだけだ。
「はい、入りましたよー……」
「ん。ありがと」
 部屋にいるのは結局二人だった。
 誰もいないことを確認して、七瀬がそっと口を開く。
「さっきの月島くん、さ」
「はい?」
 香奈子が、帳簿を取り出して、また眺め始める。
 確か先程、拓也に「今日はこれくらいにして帰るように」と言われて「はい」と頷いた
筈なのに、だ。
 それを目にしながら、七瀬は疑問を口にした。
「一緒に帰ろうと思えば帰れたんじゃないの?」
 沈黙。
 ……ややもして、香奈子が苦笑した。
「……どうでしょうね」
 それは、一緒に帰ることを思いつかなかったと言う意味か。
 それとも、一緒に帰ることを拒絶されるのを恐れたと言う意味か。
 ただ、気遣ったという意味か。
 或いは、一緒に帰ることを望んでいるかどうかも理解らないという意味か。
 七瀬には、沢山の意味に取れて、ただ、曖昧に頷くしかなかった。
 だから、立ち上がる。
「お茶、ご馳走様……美味しかったよ」
「ふふふ。良かった」
「じゃ、僕も先に帰るよ」
 その前に職員室に寄らなくてはならない。背広や鞄は全てそちらにあるのだ。
 ドアのノブに手を掛けようとして、ふと思いつき、彼は振り返った。
「あ。お茶菓子切らしてたっけ……明日買ってくるけど、何がいい?」

 テルオは汗していた。
 何にかというと……
「なあ……思うに、俺らって……」
 メタオが頷く。
「あんまし目立ってないぜ」
「……やはり、ここは恐山にでも言ってライダーキックを習得しなければならないのか?」
 何故恐山なんだ?
「大体、WHITE ALBUMのこの曲よぉ、森川由綺が主人公といっしょにベランダ
で正月を迎える曲じゃねーか。全然俺たちには合わないぞ……」
 似合おうとする時点で間違いだろが。
「肩でも寄せ合ってみるか?」
「いいねぇ」
 よくないって。
 言っておくが2世誕生とか言われても困るぞおい(笑)。

 健やかは校内を歩いていた。
 ふと、人影に気づく。
「おや……えーと……T-star-reverseくん……だっけ?」
「あ。はい。えーと……」
「健やかって言うんだ。よろしく」
「確か、謎の変な生徒会の……」
「そういうこと」
 す、と、Tが構えを取った。
「健やかさんも、松原さんを青い人とか呼ぶ口ですか?」
「……いや? 違うけど……そっか。まだ、彼女のことをそう呼んでいるんだね、彼」
「健やかさんは違うんですか?」
「違うよ……少なくとも、この学校にいる生徒のことはみんな知ってる」
「そうなんですか」
 ゆっくりと、Tは両手を下ろした。
「るーちゃんの場合は……単に名前覚えるのが面倒だって言ってるけど、どうかな」
 健やかが諭そうとするのに、Tがのんびりと、だが力強く頷く。
「絶対あれは確信犯ですよね」
「まあ、確かにそうだけど……」
 健やかは、ルーンなりの親しみだと言いたかったのだが、ひょっとしたら、本当にTの
言うとおり、からかっているだけなのかも知れないと考えて、その言葉を引っ込めた。
 代わりに、別の問いを口にする。
「それより、こんな時間まで、何してたの? 校門、もうすぐ閉まるよ」
「ちょっと、図書館の方に長居しちゃったんですよ」
「じゃ、一緒に行こう。僕ももう出るからさ」

「お師様〜」
 聞き覚えのある声に、ルーンは振り返った。
 二人の少年の影が見える。
「智波たちか。どした?」
「テント、張り終えましたよ……こんなところでどうしたんですか?」
 ちょっとな。
 その言葉を呑み込んで、代わりに肩をすくめる。
「にしても、お前、そのお師様って言うのどうにかならねーか?
 自分とお前は同学年なんだぜ」
「でも、テキストではそう呼んであるみたいですし……」
「訳の理解らんことを」
 ぼんやりと呻いて、彼はそれまでの作業の続きに戻った。
「お師様、何してるんですか?」
「サンドバッグを直してるんだよ」
「……またまた。実は中に笑い袋とか仕込んでるんでしょう」
「仕込むか。んなもん。
 ……この前はこいつのせいで腰を痛めたからな」
 そこまで言って、思いつく。
「そーだ。仕返しに瞬間アフロ薬でも詰めておくか」
「……要するに、爆薬ですね?」
「おう」
 古びたサンドバッグは、あちこちガタが来ている。
 整備に気を使っていないのか、上部に付いている吊るし紐がかなり痛んでいた。
 サンドバッグ本体は縫い目が今にも綻びそうだったし、専用の留め金はひどくぐらつき
を持っていて、あまり安心して使用できる状態でないのがすぐに見て取れる。
「馬鹿だからな、あいつ」
「はい?」
「何でもね。それより、お前いいのか? まだ、あの怪しい呪術士のねーちゃんがクラブ
棟にいたぞ」
「ええ、そうですよ……っていうか、何でお師様知ってるんです?」
「一応暗躍生徒会の方の仕事でな。校内に残っている残留許可のない生徒の退校とかで、
むりやり学校から金貰ってんだよ」
「……ひどい話ですねー」
「飢えて死ぬより何ぼかマシだってんだよ。
 ……それより、お前暇ならとっととあの3年のねーちゃんを叩き出してこい」
「あ。芹香様――じゃないや、来栖川先輩は、今魔道の実験してましたから……そっちが
終わってからでいいですか?」
「おう。ついでに送ってこい。セバスチャンが確か表門にいたから、裏門から逃げてって
も構わねーけど」
「……いいんですか?」
「いいもくそも……お前、自分の置かれた状況、理解してねーだろ。
 普段からお前が偉そうに言ってんだろ。『一にも二にも会うことを重ねることだ』って。
 ちゃっちゃと『決め』ちまえ、馬鹿猫」
「……はーい」
 少し首をすくめて、智波は返事をした。立ち去りかけて、呟く。
「……じゃ、いってきます」
「おう」
 智波の影が見えなくなって。
 再びルーンは目尻を下げた。
 いつも無理矢理釣り上げたような目を優しげにほどいて。
「……時間に追われるからなりふり構わず情熱に焦がせる人間と。
 ……時間があるからつい中途半端で満足してしまう人間と――
 どっちが、幸せって言うんだろうな」

 香奈子は、ルーンに見られているとは全く思いもせず、グラウンドを、伸びをしながら
ゆっくり横切った。
 日中の陽射しの強さを物語るように、ただ、ただ、熱気が彼女の身体にまとわりつく。
「一年……か」
 彼女はぼんやりと呟いた。
「どーしたんですか?」
 後ろから彼女の後をついてきているM・Kが、それを聞きとがめてそう声をかけた。
 校内に残っているのを、香奈子に見つかったのである。
「ううん。一年だな、って」
「いえ、それは聞こえましたけど……」
「例えばね」
 M・Kに、というよりは、自らに納得させるように。
 一歩一歩踏み出す足に、大地の感触を刻んでおきたくて。
 香奈子は続けた。
「何をしても一年は一年なのよ。
 ただ、誰かの傍にいるのも一年。
 誰かを想うのも一年。
 誰かと争うのも一年だし、誰かと励まし合うのも一年よね。
 勿論、何もしない一年だって、あっていいの」
「……何となく、理解る気がします」
「そう、理解る?」
 M・Kの相槌に、香奈子は首を振った。
「私には理解んないわ……多分、これから先も。
 何だかね。楽しいような、悲しいような……そんな感じなの。
 一年しかないのよ。何をするにしても。その先があるにしても。
 この一年はこの一年でしかなくて。
 この一年が、少し延びてくれる訳でもなくて。
 この一年にしかないものは、この一年でしか、見ることも、感じることも、触ることも、
喋ることも、彩ることも、聴くことも――思い出すことも。
 この一年の中でしかできない。そして、それを過ぎたら、全然別のものになっちゃう」
「……………………」
「私ね。このままでいたいんだ。ずっとね。
 変わることが怖いんだと思う、私。
 今、みんなと、いっぱい、いっぱい、色んなことをしてる。きっと、この一年だけなの。
 続きなんかなくって。ただ、この一年の中で、私は私のしたいようにしなきゃいけない。
 この一年で私の願うことは、この一年で叶えなきゃいけないの。
 この一年が終わったら、それを望んでいた私でさえいなくなっちゃう。
 でも。
 叶えても、それでも、いなくなっちゃうのよ。
 それが、たまらなく寂しいの。
 怖いのよ……」
「……………………」
 M・Kは、ただ、黙っていた。
 理解できなかったこともある。
 ただ、迫力に押されていたこともある。
 だけど、それ以上に。香奈子の感じる不安みたいな、戦きみたいな、そんな予感に。
 彼女は何となく震えてしまっていた。
 この一年で、私は何がしたいんだろう?
 この一年で、私に何ができるんだろう?
 この一年で、私は何を胸に刻めばいいんだろう?
 この一年で、私が感じたことを、どうやって取っておけばいいのだろう?
 どうやって伝えればいいんだろう――私という人間がいたことを。
 未来の私に伝えるために。
 アルバムの1Pとなった断片的な写真が色褪せることに堪えられるんだろうか?
 立ち止まる二人の間を明らかに夜の所産の風がゆるゆると薙いでいく。

 めいめいが座り込み、或いは校門に背を預ける六人の間を、そよ風が撫でていく。
「遅いねー、M・Kちゃん」
 ぷう、とひづきが頬を膨らませた。
 YOSSYが、それをまあまあ、と宥める。
 EDGEは、珍しく黙ってジュースを飲んでいた。
 彼女は地獄耳なのだ。
 校庭でのやりとりも、風に伝わって彼女の耳に微かに微かに届いていた。
「やれやれ。先に行きますか?」
「そうだな」
 肩をすくめる風見ひなたに佐藤昌斗が頷く(例によってワカメ涙だが)。
「あれ、みんな、どしたのさ、こんなとこで」
 そこへ、Tを伴った健やかが現れる。
 学校の外は、常夜灯が皓々と白い光を乱暴にぎらぎらと振りまいていた。
 それに、やや眩しそうに目を細める二人に、美加香がやや唇を尖らせて説明する。
「ふむ……じゃ、みんな待ってなよ、ここで。ひとっ走りして、僕が探してくる」
 上着と鞄を昌斗に預けて、健やかは身を翻した。
 小さくEDGEが呟く。
 幸せを愛せるのは、気づかないでいられるから?
 それとも、それに気づいて、なお答を探し出せたから?
 彼女には理解らなかった。
 彼女も所詮道行く者に過ぎない。

「来ねーなぁ、先輩」
「いらっしゃいませんな」
 浩之のぼやきに、セバスチャンは直立不動のまま答えた。
「もう、帰ったんじゃねーか?」
「お嬢様に限ってそのようなことはございません」
「……………………」
 はふ、と浩之は欠伸をした。
 首を左右に振って肩慣らしした拍子に、空が目に入る。
「おー。星だ」
 常夜灯のぎらつきにも負けず、星が幾つか出ていた。
「美しゅうございますな」
 学園のフェンスにもたれかかる浩之に、セバスチャンは表情を変えずに同意する。
 既に夕焼けは過去のものだった。
 今は群青の空に、星がきらきらと瞬き、かぼそい囁きを地上にこぼしている。
「なー……爺さん」
「セバスチャンでございます」
「星って何で綺麗なんだと思う?」
「闇の中で輝くからだな」
 唐突に耳元に聞こえてきた声に、浩之は何となく驚いて、背後に首をねじ曲げた。
 フェンスの内側、浩之とは反対の方向から、Hi−waitが同じくフェンスにもたれ
かかっていた。
 続ける。
「暗い夜の中、薄雲があればすぐに掻き消されてしまうような、そんな光だからこそ美麗
なんだと僕は思う」
 それに、セバスチャンは頷く。
「確かに、力強い太陽の輝きとは違うものを感じますな」
 三人して、しばし、空を眺めた。
「しかし、空は空で、無限の時を刻んでおります」
 沈黙の中で。そう、セバスチャンが囁く。
 そうだ、と浩之は頷いた。
 どちらも真理だ。
 儚い星の光。
 だが、永遠にそこに在り続ける光。
 人間の一生よりも、ずっと、ずっと、ずっと長く、ただ、弱いだけの光。
 変わるのは、それを見上げる人間だけだ。
 今こうして見上げている己と、いつか遠い未来にこうやって見上げる筈の己にどれだけ
の隔たりがあるだろう。
 誰にも知ることのできない答だ。
 勿論――
「明日、こうやって星とか見ても、同じ気分になれるとは思えねーけどな」
 二人は、虚を突かれたように、浩之を見た。
「星を見たら、いつでも感傷的になれるわけじゃねーし」
 だらだらと続ける浩之に、Hi−waitが小さく問い掛けた。
「……だから?」
「そんだけ」
「そんだけ、って……」
「何かの結論出さなくちゃいけないわけじゃないだろ? なら、いーじゃねーか」
「……………………」
「今しか、こう思えないんだからさ。見てようぜ。星。あんまり、男三人のやることじゃ
ねーけど、さ」
 違いない、と微笑む二人の背に、流れ星が優しく痕を残していく。