静かな夜であった。 雲一つない澄んだ暗天を映し、日中無色の川面は蒼い清流へとその身を変じている。 その川岸に、一人の娘が立っている。 この国の物ではない不思議な、だがどこか神秘的な美しさを感じさせる衣服を身に纏い、 中空にかかる朧の月を眺めているその横顔からは、いかなる感情も読みとることはできない。 あるいは、全天へ悠久の思いを馳せているのか。 「エディフェル様…どうしたのです?」 いつからいたのか、娘の背後から男が声を発した。 物憂げに佇む後ろ姿を見つめる瞳には、深い慈愛の念がこめられている。 「………」 それを知ってか知らずか…、エディフェルと呼ばれた娘は何も応えない。 ただその視線を遙かな月へ投げかけるばかりだ。 「…エディフェル様…」 「…私は…何を想っているのでしょう…」 男の穏やかな呼びかけに、エディフェルは微かに視線を下げた。 「…私には、エイジがいてくれるのに…なのに、なぜ、このように、心が乱れるのでしょう…」 蒼月を湛える水面に落とした瞳は、一人の男の姿を宿している。 「…エディフェル様。今日はもうお休み下さい」 エイジは、それを肯定も否定もしなかった。 「…ええ。今日はもう、休みます…」 エディフェルは、本当は答えて欲しかったのかも知れない。 エイジに否定して欲しかったのかも知れない。 エイジもまた、そんなエディフェルの想いに気づいていたのかも知れない。 エディフェルに自らの想いを伝えたかったのかも知れない。 しかし、二人はその後どんな会話も交わすことはなかった。 二度とめぐり会うことはなかった。 …そう、永遠の眠りが、美しき姫とその清廉なる守護者をわかつまで。 煌々と輝く月だけが、全ての傍観者であった。 透也は、蒼い蒼い月を、宿の一室に設けられた大窓よりぼんやりと見上げていた。 淡い月光が、宿の布団に横になっている透也の姿を浮かび上がらせている。 領主・天城義忠は、討伐隊出発を明日の正午と定めた。 そのため、透也は一日の宿を取らなければならなかった。 幸いにして、次郎衛門と同室に泊まることができたので、宿探しに苦労せずにすんだ。 「俺と同じ部屋に泊まらないか? 寝るには十分なスペースがあるし、宿代が半額ですむぞ」 この誘いは、透也にとって渡りに船だった。 ちょっとした路銀は持っているが、やはり旅費は節約するに越した事はない。 次郎衛門はそれなりに信用できそうな人物だったし、長旅の疲れを十分に癒やす事も必要である。 また、宿泊が一日ですむのも幸運だった。 透也達がやってきた目的である「お触れ」は、数日前に出された物だ。 そのため、隆山に近い土地より集まってきた戦士達は、早い者ではお触れが出された翌日にはもう到着していた。 しかし、今日までは、天城義忠は誰とも会おうとしていなかったのだ。 皆、門前払いに遭っていた。 (…戦う者がある程度集まるまで、待っていたのだろう) 透也はそれについて、このように判断している。 たまたま着いたその日に義忠に謁見することができたのは、実に幸運だったのだ。 (運でも何でも構わない…幸運だと言うのなら、それをとことん味方につけるまでだ…!) 蒼く光る月を見上げながら、透也は自らを奮い立たせ、そしてまどかの事を想った。 透也が村を出てから、今日で四日が経過している。 明日、鬼討伐が五日目となる。 (まどか…待っていてくれ。僕は、必ず…!) 「…透也…」 その時、突然次郎衛門が話しかけてきた。 透也は次郎衛門が起きていた事に少し驚きつつ、すぐに言葉を返した。 「なんです?」 「………」 しかし、次郎衛門は何も言わない。 「……………」 透也が、さっきの次郎衛門の声は気のせいだったのかとさえ思い始めた頃、 「…なぁ、透也。お前、どうしてここに来たんだ?」 「…………」 意外な質問だった。 まさかこの男にそんな事を訊かれるとは、予想もしていなかった。 「…お前…いいのか? …恋人…いるんだろ…?」 「……………それは……」 透也が言葉に詰まっている様子を感じ取り、次郎衛門は小さく笑うと、 「いいぜ、もう分かった。…お前も、好きな奴のために命を張ってんだな…」 「…次郎衛門さんも?」 「…まぁ、な…」 透也がまどかを想うように、次郎衛門もまた、一人の娘を想っていた。 今宵のような、蒼い月の輝く晩。 静かなせせらぎが耳を潤す川縁。 偶然に出会った。 鬼を口実にして声をかけた。 しかし、言葉が通じなかった。 「お前は、美しいな」 その声も、言葉にのせた想いも、届かなかった。 そして、別れた。 ただ、それだけの事だ。 「…どことも知れぬ国の娘だ…。できることなら、もう一度会いたいが…。 …多分…気持ちを伝える事も…かなわないんだろうな…。俺の言葉が…通じなかったように…」 語尾には、自嘲の色も窺える。 「…そんな……そんなこと、そんなことない! 絶対に!!」 透也は思わず、悲痛な声で叫んでいた。 「言葉が通じなくたって…、国が違ったって…、そんなのは、…そんなことは関係ないんだ! 本当に好きなんだったら…、忘れられないんだったら、…いつも想っていればいいんだ。そうすれば、 想いは確実に伝えられるんだ!」 いつしか、次郎衛門の言葉に、自分とまどかの姿を重ねていた。 「…そう…そうだ…な…。…初めから諦めていたら、どんな願いだって叶うわけないよな…」 次郎衛門の声も、少しずつ張りを取り戻してきた。 「そうですよ。だから、次郎衛門さんも、諦めないで下さい。諦めてしまったら、…いつか、きっと 後悔しますから…」 「ああ。…柄にもない事言っちまったな。このことは忘れてくれ」 「はい、分かりました」 透也はなぜか心が落ち着き、にっこりと笑った。 「…そろそろ、僕は眠ります。お休みなさい。また明日」 安心したのも束の間、睡魔が急激に襲いかかってくる。 自分の布団に体を落ち着けてすぐ、安らかな寝息をたて始めた。 「…ありがとよ、透也…」 次郎衛門も、柔らかい口調で小さく呟くと、瞼を閉じ、再び眠りについた。 そして、数刻後。 運命の一日の朝が明けた。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― …タイトル(『忘れえぬ想い』)をつけるのを今まで忘れていた…(超激烈爆) …ぼくって…バカ?(笑)