Lメモ・夕陽色のグラウンド 投稿者:セリス
  キーン、コーン、カーン、コーン…。

 一日の授業の終了を告げる鐘が響く。
「はぁ、終わった終わった。さてと、いつものように掃除に行こうかな…」
 教科書を鞄にしまうと、セリスは教室を出た。
 帰宅する者、クラブ活動へ向かう者、友人とのおしゃべりを楽しむ者などで、
終業直後の廊下には生徒の姿が多く見受けられる。
「今日は、確か二年廊下の掃除だったな。今から行けば、ちょうど……ッ?!」
 のんびりと歩いていたセリスだったが、急にその表情を硬直させた。
 行く手を阻むような形で、ハイドラントが立っていたからだ。
「よう。どちらへ行かれるのかな? ジャッジナンバー2さまよ」
「…別に…お前には関係ないだろう」
 ハイドラントの真意を掴みかね、慎重に言葉を返すセリス。
「そんなことを言ってもいいのかな? いい情報を持ってきてやったのに…」
「…情報?」
 不審気に、だが興味をそそられたようなセリスを見て、ハイドラントは満足げに頷く。
「今日の放課後。ダーク十三使徒とエルクゥ同盟が戦闘を行うぜ」
「…な、なんだと?!」
 セリスは驚いた。
 もし本当だとすれば、一大事である。
 ダーク十三使徒、エルクゥ同盟、どちらも大きな勢力を持っている。
 そんな二つの団体が全面戦争、などという事態に陥れば、最悪の場合学園崩壊もあり得る。
「ま、戦うったって、小競り合い程度だろうけどな。それでも、無視はできないと思うぜ」
「…ああ、そうだな…」
 セリスはあいまいな返答をしながら、思考を巡らした。
「じゃあな、確かに伝えたぜ」
 言いながらハイドラントは歩き出し、セリスの脇を通り抜けて行こうとする。
「しかし、何故だ? なぜお前が…ダーク十三使徒の長であるハイドラントが、そんなことを
教えてくれるんだ?」
 ハイドラントは一瞬歩みを止めると、
「…さて、ね。退屈だからかな」
 そう言って、横顔でフッと笑った。



 ハイドラントと別れたセリスは、その足でジャッジ本部へと走った。
 マルチと掃除の約束をしていたのだが、やむを得ずジャッジとしての任務を優先させていた。
(学園壊滅の危機に、私事にかまけてばかりはいられないからな…)
 本部到着と同時に他のジャッジメンバーへの緊急召集をかける。
 放課後でもあり、五分後には皆集まっていた。
 一人を除いて。
「…ひなた…遅いな…」
 セリスの小さな呟きにつられるように、瑞穂を伴った岩下が疑問を口にした。
「セリス。突然のエマージェンシーコール、一体どうしたんだ?」
 しかし、責めているような調子は全くない。
 岩下はセリスに全幅の信頼を寄せており、あくまで事態の説明を求めているだけだ。
「…ああ。これ以上待っても、ひなたは来そうにないからね。みんなに、今回の召集理由を話すよ」
 一息吐くと、やや困惑気な声で話し出した。
「ハイドラントが教えてくれた。今日の放課後――つまりこれから、ダーク十三使徒とエルクゥ同盟が、
戦端を開くということだ」
「な、なんだって?! それは大変だ!」
「…静観視できる事象ではありませんね、私達ジャッジの存在意義を考えると」
「小競り合い程度と言っていたから、全面戦争というわけではないだろうが、しかし無視することはできない。
そこで、ジャッジ召集をかけたんだ」
「なるほど。確かにこれは、セリス一人でどうにか出来る問題じゃないからな。よし、分かった」
「争いは嫌いなんですけどね…」
 早くも気勢を高めている岩下・貴姫に対し、冬月はまだ判断しかねていた。
 懐疑的な目でセリスを見、疑りの言葉を投げかける。
「でも、それって本当に信用できる話なんですか? ダーク十三使徒長のハイドラントが、どうして
そんな事を教えてくれるんです? 彼にとって、どんなメリットも無さそうなのに…」
 ジャッジに加入してからまだ日が浅い冬月にとっては、セリスがまるでハイドラントの言葉を鵜呑みにしている
ように見えたのだろう。
「冬月!」
「いや、いいんだ、信。…そうだな、確かにハイドラントにとっては、何の得も無いように思える。
 だから、信じられなくとも無理はない」
「だったら…!」
「でも、だからこそ、ぼくはハイドラントが真実を言っていると思うんだ。それこそ、ダーク十三使徒にとって、
こんなウソをついたところで特に大きなメリットがあるとは思えないからね」
「そ、それは、私達ジャッジを困らせて喜ぶとか、もしくは誤った情報を流して、その間に別の場所で
破壊活動を行うとか…」
「ハイドラントはそんなことをする男じゃない。ダーク十三使徒とは言え、彼等には彼等なりの美学が
あるようだからね。…まぁ、これは君にはまだ分からないかもしれないが…」
「で、でも…、それはあくまで、心理学的な推測でしょう!?」
「それだけじゃない。今、ここにひなたがいないだろう。…これは、エルクゥ同盟の方でも、何か動きがあると
いうことなんだろう。それを鑑みても、やはり無視するのは危険すぎると思う」
「そ、それは、ひなたさんが遅れているだけとか…」
「ひなたは…まぁ、ちょっといい加減なところもあるけれど、緊急召集を完全に無視するヤツじゃない。
 何か事情があるのなら、きっと美加香あたりを寄越すさ」
「…な、なるほど、そうですね…。あはははは…」
 笑って誤魔化そうとする冬月であったが、唇の一端がひきつっているのは、気のせいではないだろう。
「冬月。セリスは、確証のないことは言わないんだ。だからこそ、ジャッジのブレインを務めているんだ」
「今度から、気をつけます…」
「ははは…」
 冬月を気づかった笑みを浮かべていた岩下は、一転して真剣な表情になると、セリスに向き直った。
「じゃあ、セリス。私達は、彼等の仲裁役を引き受けるというわけだね?」
 厳しい口調で言う岩下に、セリスもまた表情を引き締めると、皆を驚かせるような事を言った。
「いや。ぼくは、止めるべきではないと思う。ある程度までは、彼等のやりたいようにやらせよう」
「…どうしてです? 学園の正義を守るのが、私達ジャッジの使命でしょう?」
 常々冷静さを崩さない貴姫も、セリスのこの発言には少し意外そうな表情を見せた。
 もちろん、他のジャッジメンバーにとっても、予想外の言葉だった。
「ダーク十三使徒とエルクゥ同盟とは、冷戦状態がもう長く続いている。このまま押さえ続けているのは
よくない。いつか大爆発を引き起こしてしまう。それよりは、少しずつ小さな爆発を起こさせた方が、
総合的な被害は少なくて済むと思うんだ」
「…強者の理論ですね」
「否定はしない。でも、ぼく達は決して万能ではないんだ。それなら、自分が最善だと信じる事を
するしかないと思う」
 その一言に、本部室内は水を打ったように静まり返り、時折コンピュータから発せられる電子音だけが
教室に空しく響いた。
「…分かった。私は、セリスの意見に同意する。一緒に行こう」
 いち早く賛同したのは、岩下だった。
「信さんが賛成されるのなら、私も…」
「まぁ、止めるばかりが能でもないですからね」
「…私たちも、他に良い案もありませんから…」
 続いて、瑞穂、冬月、桂木、吉田の四人も賛意を口にする。
「…ありがとう、みんな…」
 そして、六人の視線は、自然と貴姫に集中した。
「…やれやれ、分かりました。私も、一緒に行きます」
 吐息と共に苦笑する。
「じゃあ、早速行こう。桂木さんと吉田さん、それに瑞穂さんは、いつものようにここに残り、
データを無線で転送してくれ。冬月は、万が一のため、本部にて待機」
「はい、分かりました」
「お任せ下さい」
「了解!」
「ぼく、岩下、貴姫さんは、すぐに現場へ向かおう。事が起こってからでは遅い」
「よし、急ぎましょう」
「…まあ、仕方ありませんね」
 皆、セリスの指示に素直に従う。
 学園内の評価では、『岩下がジャッジのトップ、セリスはナンバー2』というのが定着しているが、
内部ではそんな事を思っている者はいない。
 二人はジャッジ旗揚げ以来の親友であり、地位的にも同格なのである。
 あえて訂正する必要もないと思っているので、何も言わないのだ。
 付け加えるならば、有事には、セリスは軍師、岩下は切り込み隊長を務めることが多い。
 ここからも、岩下が格上と見られやすいのであろう。
「岩下さん…気をつけて下さいね」
「大丈夫さ。カタがついたら、今日は一緒に帰ろう」
 岩下の身を案じる瑞穂に、力強く答えている。
「マルチ様をお呼びしないんですか?」
 それを見ていた貴姫が、セリスに問いかけた。
 皮肉そうな、寂しそうな、そんな口調で。
「…ああ、いいんだ、今日は。マルチを…危険な目には遭わせなくないからね」
 答えるセリスの口調も、どこか哀しげだった。
 やや物足りなさを感じた貴姫だったが、マルチを危険にさらしたくないという点ではセリスと同意見。
 何も言わずに口をつぐむと、セリスと岩下の後を追った。





  ヒュウウゥゥゥ………。

 普段滅多に人の寄りつかない、人気のない学園の裏山。
 しかし、今日は違った。
 四つもの人影が、そこにあった。
 彼等は二人ずつ別れて立っており、それぞれが対峙している。
 すなわち、エルクゥ同盟とダーク十三使徒それぞれのメンバー、ジン、風見、ハイドラント、葛田達である。
「…どういう風の吹き回しだ? ハイドラント」
 エルクゥ同盟側のリーダー・ジン・ジャザムが、一語一語を噛みしめるように口を開いた。
「どうもこうもない。お前達にとっても、良い機会だろう?」
 ジンと対峙していたハイドラントが、落ち着き払った答えを返す。
「確かに、僕達エルクゥ同盟は、ダーク十三使徒とは対立しているけれど…」
 ひなたの言葉には、若干の迷いが感じられる。
「ふっ…甘いですね。私は常々思っていましたよ。…あなた達を、滅ぼしてやりたい…とね」
 葛田が、およそ人好きのしない笑みを浮かべる。
「…ごたくは結構です。要は僕達と戦いたい、そういうことでしょう…ハイドラントさん?」
「ああ、その通りだ風見君。最初からそう言っているのに、ジン君がうるさくてね…」
 わざとらしくため息を吐き、肩を竦めてみせる。
 その仕草がジンには気に入らなかった。
「…ああ、そうかい。なら、お望み通り戦ってやるぜ! 後悔すんなよ!」
 言い終わるが早いか、アームランチャーを構えてぶっ放す。
 ジャッジのメンバーが駆けつけたのは、ちょうどその時だった。
「む…既に戦いが始まっているようですね…」
 岩下は息を整えつつ、戦況を観察する。
 貴姫も同様だったが、岩下がエルクゥ同盟寄りの視点から見ているのに対し、貴姫はダーク十三使徒側の
着眼点を持った。
「…ああ、そうだ。裏山周辺一帯のエネルギー変数値を良く見ておいてくれ。何か異常があったら、すぐに
報告を……ああ、その通りだ。…よし、頼んだぞ」
 セリスは無線での連絡を終えると、全体的な視点で戦局を見極めようとする。
 三人が別々の見方をすることで、戦況把握がより確実に行えるのだ。
 セリスが見たところでは、両陣営の戦いはほぼ互角だった。
 お互い大技を使わず、小技やフェイントで相手の隙を窺っている。
 だが、それだけに、いつ禁じ手が飛び出すかも分からない。
(これは、一瞬たりとも気が抜けないぞ…)
 セリスは額に浮かんだ冷や汗を拭うことも忘れ、戦況を見つめ続けた。



 戦いは、夕暮れ時になってもまだ続いていた。
 四人とも体力を消耗しきっており、今ジャッジのメンバーが飛び込めば、確実に、被害を最小限に抑えて
仲裁することができる。
 …いや、無傷のジャッジ三人でかかれば、ダーク十三使徒ハイドラントと葛田の二人を、いとも容易く
仕留めることができるだろう。
 岩下と貴姫は、高ぶる気を抑えるのに必死だった。
 今にも飛び出して行こうとするも、セリスが『絶対に出るな!』というサインを送っているからだ。
 二人はセリスを信じ、自分を懸命に押しとどめていた。



 …やがて、夜の帷が間近に感じられるようになった頃。
 戦況は膠着状態に陥った。
 最大の光源である太陽も地平線近くにまで落ち込み、今後視界もどんどん狭くなっていくであろう。
 ダーク十三使徒・エルクゥ同盟は、双方とも中距離にて相手を窺っている。
「…今日は、この辺で引き分けにしておかないか」
 その時、意外なことに、ハイドラントから一時休戦が提案された。
 エルクゥ同盟側も驚いたようだったが、彼等も既に戦闘力の大半を失っていたこともあり、
「ああ、分かった。ここまでにしよう」
その申し出を受けた。
 ジンが代表して答える。
「では、我々は失礼しよう。…葛田、行くぞ」
 ハイドラントの命に無言で付き従い、裏山を下る二人。
「なんだ…妙な奴等だったな。いつも妙だが、今日はいつにも増して変だった」
「そうですね……あっ、セリスさん! それに、岩下さん、貴姫さんも。いつからいたんです?」
 強敵を前にしてのプレッシャーがなくなり、ようやく一息吐いたジンとひなたは、今頃になってやっと
セリス達に気付いた。
「ああ、いや、結構前からいたよ」
「ふ〜ん…。お前らもご苦労な事だな。『法の番人』たらんとするジャッジは、立会人までやってんのか」
「まぁ、ね。ぼくはbeakerさんから、『JUGEMENT』…『審判』のカードをもらっているからね。
 これくらいはやるさ」
「その辺が、『正義』にこだわるジャッジの限界なんだろうな…ま、俺には関係ない話だが。
 さて、俺も帰るか。ひなたはどうする?」
「僕も、今日は帰らせて下さい。もう夕方だし、疲れたんで…」
 ジンに声をかけられたひなたは、岩下に伺うように訊く。
「あ、ああ。いいよ。うん、お疲れさん」
「はい、じゃあお先に失礼します。
 ジンさん、帰りましょう」
「おお。んじゃ、またな」
 ジンと風見も、いともあっけらかんと帰って行く。
 後に残されたのは、やや呆けたようなジャッジの三人。
「…結局、私達が来た意味、あったんでしょうか…?」
 貴姫が責めるような視線をセリスに向ける。
「…………」
「…ま、まぁいいじゃないか。ジャッジの目的である『平和』が守れたことには違いないんだから」
 自らの行動が誤りであったのか思考の海に沈むセリスを、岩下がかばうように言った。
「それだけが、唯一の希望ですね」
「た、貴姫さんも、それくらいにして…。さぁ、帰ろう。
 本部の四人については、私が瑞穂を呼びに行く時に、ついでに帰るように言っておくから。
 じゃ、また明日」
 岩下は率先して学園へと山道を下る。
「私もお先に帰らせていただきます…では」
 貴姫も、セリスに気を止めずにさっさと立ち去る。
 結局、最後まで残ったのは、最後まで傍観者だったセリスだった。



「ところで、導師。今日の目的は一体何だったんです?」
 学舎まで戻ってきたダーク十三使徒の葛田は、前を颯爽と歩く自らの長にのんびりと話しかけた。
「ただの暇つぶしさ。悪いか?」
「悪いです。導師がそんなことをするはずないですからね」
「ははっ…。さすがに葛田にはお見通しか」
 ハイドラントは軽く頭を二、三度掻くと、
「ジャッジの奴等の頭を調べたのさ」
「頭? …みんな不良になる素質のあるような、80年代風に言うと「なめんなよ」的な髪型はしていません
でしたけど…」
「馬鹿。外見じゃなくて中身だ、中身。…俺の言葉を嘘と決めつけて戦場へ来なかったり、あるいは来たとしても
ただ俺達を仲裁するだけなら、所詮奴等のおつむはその程度だ。今後色々とやりやすくなる。その辺を
確かめておきたくて、今日の愉快なイベントを思いついたわけなんだが…」
「導師のおめがねにかないましたか?」
「ああ。少なくとも、今日のところは十分合格だ。奴等も、それなりの頭は持っているようだな。どうやら、
正義という名の偽善を振りかざすだけの烏合の衆ではないようだ」
「なぜです?」
「もし奴等が絶対的な正義を求めるのなら、今日の戦いも仲裁するに決まっているからだ。その結果、より
大きな破壊が起きることも知らずに。…いや、あるいは分かっていながら、それでいてなお止めようとする
のかもしれないが…」
「…?」
「もし俺達がいなくなれば、Leaf学園の勢力図は一変する。その地図が完全に塗り替えられ、また現在のような
かりそめの平和を取り戻すまでには、永い時がかかるだろう…」
「???」
「大を生かすために小を殺す、か。…フフフ、誰が策を考えたのか知らんが、そいつにはジャッジよりも
ダーク十三使徒こそが相応しい居城なのかもしれんな。…ククククク…」
 もう葛田には、尊敬する導師が何がおかしくて笑っているのか、全く理解できなかった。
 分かっているのは、導師がこのまま笑いながら歩き続けると、五秒後に立木に激突するということだけであった。



「ああ、すっかり遅くなっちゃったな…」
 誰もいなくなった朱色の山道。
 セリスは、急ぎ足で学校へと走っていた。
「みんなひどいよなぁ…帰るんなら、ぼくにも一声かけてくれればいいのに…」
 自分が考え事をしていたから、呼びかけに気付かなかったということを分かっていない。
 鬱蒼と生い茂る樹木に覆われ昼なお薄暗い小道は、陽も落ちようとしている時分には一層歩きづらくなる。
 それでも、なんとか無事に校舎裏に帰り着く事ができた。
「鞄は…あ、ジャッジ本部に置きっぱなしだったっけ…。…いいや、今日は手ぶらで帰ろう。
 今から取りにいくのも面倒だ」
 裏道から、校舎の側を素通りし、正面グラウンドへと出た。
 校門正面のグラウンドでは、少しずつ黒みを増す紅色の光の中、どこかの運動部の課外活動により使いっぱなしで
放り出されているいくつかの器材や、大勢の人間に走り回られたまま、土ならしをされていない正面トラックなどが
セリスを迎えてくれた。
「あーあ…、ひどいな。うちの学校って、いつもこうだったのかな?」
 セリスは、校舎が閉まる直前の時間――ちょうど今頃の刻限だが――まで学校に残っていたことはなかった。
 比較的優等生にカテゴライズされる彼は、どんなに遅くとも、下校時刻の30分前くらいで学校を
出るようにしていた。
 だから、もし毎日このようになっていたとしても、それを知る術はなかったのだ。
「まったく…。『全国大会進出!』なんていうニュースが聞かれないのも、こういうだらしなさがそもそもの
原因なんじゃないかなぁ…」
 口ではそう言いながらも、無意識の内に生徒昇降口からほうきやローラーを持ってきている自分に気付き、苦笑する。
「ははっ…。いつの間にか、ぼくも掃除好きになっちゃったみたいだな」
 セリスは、放課後のマルチとの掃除が、ほとんど日課になっていた。
 掃除する場所は、その時々によって異なる。
 二階廊下であったり、屋上であったり、また今のようにグラウンドであったりするのだが、そのいずれの場合でも、
マルチは実に楽しげに掃除をしていた。
 嬉しそうな笑みを浮かべ、のんきに鼻歌を歌いつつ、手に持ったモップを動かす。
 セリスはかつて、藤田浩之から、どうしてマルチが掃除を楽しそうにするのか、聞いたことがある。
「掃除することで、綺麗になった場所を、人間の皆さんに気持ちよく使ってもらえるのが嬉しいんです」
 浩之の問いに対し、マルチはそう答えたそうだ。
 それは嘘ではないにしろ、マルチが上機嫌で掃除をする理由の全てではないんじゃないか。
 マルチは、掃除をすること自体が好きなのだ。
 そこにはどんな打算も思いも存在せず、ただ単純に、無心に好きなんだろう。
 だからこそ、その気持ちは、いつも一緒に掃除をしている自分にも伝染したのだ。
 セリスはそのように分析していた。
 …分析?
「…ふぅ。これはもう職業病ってやつかな。…こんな時にでも、ついついこういう風に考えちゃうってのは、
なんだかなぁ…」
 ぶつくさ言いながらも、手を休めることはない。
 テキパキとグラウンドを片づけていく。
「うん。やっぱり、グラウンドは綺麗な方が気持ちがいいよね」
 なんだかんだ言いつつ、すっかりマルチに感化されているセリスだった。



 沈みかけている夕陽の斜光の中、一人黙々と――少なくとも遠目にはそう見える――掃除を続けているセリス。
 その姿を、昇降口から見つめている人物がいるとは、さすがの彼も気付いていなかった。
 マルチだった。
 彼女は、普段は授業と放課後の掃除が終了したら、すぐに下校していた。
 父親である長瀬源五郎からは、「学校でもっとゆっくりしてきていいんだよ」と言われていたが、
特に用事もなかったので、すぐに研究室へと戻っていたのだ。
 今日は、たまたま源五郎に言い遣った用事があったため、こんな遅くまで残っていたのである。
「あれ? あれは……?」
 玄関へと向かう一階廊下を歩きながら、何気にグラウンドを見やったマルチの目に、一人グラウンドで
立ち回っている人影が見えた。
 陽光は地平線すれすれから真横に射し込み、影が長くなっているため、廊下の窓からは人物の特定はできない。
 それでも、マルチには、それがセリスだと分かった。
 掃除をするときのちょっとした癖、仕草、歩き方。
 それが、この学園に入学して以来、毎日のように共に掃除をしていたマルチの記憶にしがみついていたのだ。
 セリスに視線を向けたまま、下駄箱の辺りまで歩き続ける。
 人影が夕陽に対して背を向けたとき、ちらりと見えた横顔は、マルチの判断が間違っていなかった事を告げていた。
(一人で大変そうです。私にもお手伝いさせて下さい〜)
 マルチはそう思った。
 だから、素早く靴を履き替えた。
 そのまま、グラウンドへ出ようとした。
 …出られなかった。
 なぜか、マルチは飛び出して一緒に掃除をすることができなかった。
 そうすることがはばかられた。
 昇降口で、石膏像のように固まり、動けなかった。
 掃除することが大好きなはずのマルチなのに。
 なぜなのか。
 高性能な論理演算機能を有しているマルチの電子頭脳も、この命題に対する有効な回答ははじき出せなかった。
 その時。
「…よし、これくらいでいいだろう。掃除用具を戻して、ぼくも帰るとするか」
 そんな、セリスの言葉が聞こえた。
 マルチは、口から心臓が飛び出すくらい驚いた。
 まるで、いたずらが見つかった子供のように。
 そして、弾かれたように素早く、手近な下駄箱の陰に隠れた。

  …ザッザッ。

 セリスの足音が聞こえてくる。

  …コツ、コツ。

 土を踏みしめる音から、コンクリートの地面を一定のペースで歩く音に変わった。
 昇降口に入ったようだ

  ドクン。ドクン。ドクン。

 鼓動の音がどんどん大きくなり、セリスにも聞こえてしまうような気がした。

  ガサガサ…。
  ギィーッ、バタン。

 掃除用具入れの扉を閉める音。
「明日も、この時間まで残ってみるか。またこうなるかもしれないからな…」
 セリスは小さく呟くと、そのまま玄関を出た。

  ザッ、ザッ…

 足音が遠ざかっていく。
 マルチは下駄箱の陰からちょっとだけ顔を出し、グラウンドを覗いてみた。
 ちょうど、セリスの背中が校門を出たところだった。
(…明日…この時間…)
 セリスの最後の言葉を反芻してみる。
 少し、胸が痛んだような気がした。



 翌日の放課後。
 今日こそはマルチと掃除をしたかったセリスだったが、そうもいかなかった。
 昨日の一件に関しての始末書を書かねばならなかったからだ。
「別にいいじゃないか…結果オーライだったんだから…」
「よくありません。私が同じミスを犯したら、あなたはやはり始末書を求めるでしょう」
「だいたい、ハイドラントはもともと『小競り合い』と言っていたのでしょう?
 だったら、やっぱり無視しても良かったんじゃないでしょうか」
 ついでに、貴姫・冬月の厳しい追及もすり抜ければならない。
「せ、セリス…」
「…無理してかばってくれなくてもいいよ、信。…トホホホホ…」
 彼は、ひょっとすると不幸な男なのかもしれない。



 やがて、再び夕闇が辺りを覆い隠そうとする頃。
「や、やっとできたぁ…」
 他メンバーはとうに帰ってしまったジャッジ本部にて、ようやくセリスは始末書を書き上げることができた。
「…はぁ…。…かえろ」
 昨日置いて帰った鞄を手に立ち上がる。
 人気のない廊下をやや落ち込みがちに歩き、昇降口近くなったところで、彼はグラウンドへと目を上げた。
「…おいおい、またかよ…」
 予想通り、昨日と同じ様な様相を呈していた。
「当たって欲しくない予感に限って、当たるんだよなぁ。これがいわゆる、マーフィーの法則ってヤツか…」
 手早く靴を履き替えると、鞄を下駄箱の上に置き、掃除用具入れへと向かう。

  ガチャッ。

「…あれ? 昨日に比べ、一本少ないような気がするけど…。気のせいか?」

  パタン。

「さて、と…」
 視線をグラウンドに下げて歩いていたセリスの目に、誰かの足が映った。
 どこかでみたような、小さな足。
 はっとして目を上げると…
「こんにちはっ、セリスさん!」
 にこやかな笑みを浮かべたマルチが立っていた。
 その手には、ほうきが握られている。
「…マルチ? なんでこんなところに? いつもはすぐに帰っているのに…」
 誰もいないと思っていたので、少し驚いたようだ。
「はいっ。セリスさんのお掃除を、お手伝いしようと思いまして…」
「…そっか。ありがとう、マルチ」
 セリスは優しく笑った。
「でも、どうしてぼくがこの時間に掃除するって、分かったの?」
「え、そ、それはそのぅ…」
「まぁいいさ。…ありがとう、マルチ」
 穏やかな笑みで感謝の言葉を口にするセリス。
 マルチは、胸の痛みが取れたような気がした。




 この日以後、セリスとマルチの掃除の日課に、終業間際のグラウンドという項目が加わった。
 また、セリスがマルチをジャッジに加えたのは、この数日後である。
 その事に関しては、また違ったエピソードがあるのだが、それはまた別のおはなし。