私的Lメモ「忍の日常」前編 投稿者:東雲 忍
 外は雨が降りしきっていた…。
 雨音だけが聞こえる静寂な夜…。
 少年にはそれしか聞こえなかった…。

 その少年・東雲 忍は、今は鎮火しつつある自分の家の前にいた。
周囲には一台の消防車が消火活動をしており、野次馬も辺りを囲んでいた。
 幸いにも、降り続いていた雨のおかげで、被害は忍の家だけにとどまった。
 家の前にいる忍の顔は、まるで正気を失っており、瞳はガラス玉のように焦点を失していた。
 忍の腕の中には、一人の少女がいた。少女・東雲 恋は泣き震え、声すら出なくなっていた。
恋の胸には刺し傷があり、そこからは血が流れていた。
 恋は忍の体をきつく抱きしめ、恐怖から逃れようとしていた。
 「……………。」
 不意に、恋が忍を見上げた。忍の表情は相変わらずであったが、恋の頭を優しく撫でていた…。
 『お兄ちゃん…』
 一筋の涙が恋の頬を伝い、恋はそのまま忍の懐に顔埋めた…。それは恋が感じた最後の安らぎ…。
 この時から、二人の運命の糸は狂い始めてゆく…。

 「あれ?忍先輩。今から帰るの?」
 家に帰ろうと下駄箱の所にいた忍は、ある男子生徒に声を掛けられた。
 「…こんにちわ。」
 その声に答えて、そしてコクンとうなずく忍…。
 「まーた、そんなしけた顔してんの?もうちょっと明るく行こうよ!明るくさ!」
 その男子生徒・藤田浩之が軽く肩を叩く。
 「こんにちわ、東雲先輩。」
 その傍らには、女子生徒もいた。彼女の名は神岸あかり。お料理研究会の部長で、毎日お弁当を作って持ってくる忍をそこに誘ったのも彼女である。
 この二人は幼なじみで、二人で一緒にいるのをよく見かける。忍は二人をまぶしそうに見つめた…。

 ここは試立リーフ学園。3年前、家を火事で失い身寄りのなかった忍と恋は、鶴来屋グループ主催の「奨学生」に選ばれ、
衣食住を面倒見てもらい、ここに入学する運びとなった訳である…。
 事件当時、忍の感情は喪失し一時カウンセリングを受けていた事もあり、いまいち自分の感情を上手く表現できずにいた…。
 今も、二人に話掛けられたのに反応が鈍い…。現在、忍は3年生、恋は2年生である。

 この二人と忍が知り合ったのは、本当に些細な事であった…。
 ある日の事、突然ひどい夕立が起こり、何人かの生徒は傘を持っておらず、昇降口で右往左往していた。
浩之とあかりもその中に含まれていた。
 『ついてねぇな…こんな日に限って…』
 『………ごめんね…私が遅くまで付き合わせちゃったばっかりに…。』
 どうやら、浩之はあかりの部活が終わるのを待っていたらしい…。浩之の背中を見つつ、あかりは俯きながら謝っていた。
すると、浩之は振り向いてあかりの頭をくしゃくしゃと撫でた。
 『別に夕立になったのは、あかりの所為じゃないだろ?それに今日は一緒に帰ろうって約束しただろ?』
 そう言うと、浩之はあかりに向かって微笑んだ。
 『ありがとう…浩之ちゃん…』
 あかりは俯きながら、そう答えた…。
 そんな二人のやり取りを、忍は後ろから見ていた。いや、ただぼーっとしてただけなのかも知れないが、目線は確実に二人の方を見ていた。
忍は困っている二人に近づいて行くと、カバンから傘を取り出し、傘が二人に覆う様にした。
 驚いて振り向くあかりに傘を持たせると、忍はそのまま夕立の中をスタスタ歩いて行こうとした。
 あまりの事にどう反応したらいいか判らず、しばし呆然としていた二人だが、
 『あの…これ…。』
 と二人同時に声を出した。
 『………。』
 夕立の中でその声に振り向く忍…。もう雨に濡れて制服が透ける程であった…。
二人は忍の色のない、寂しげな瞳を見た。それは吸い込まれそうな程、澄んでいた…。
 その時であった。ホンの一瞬だが、忍が二人に向かって微笑んだ。そして、踵を返すと校門の方に歩いていった…。

 そして後日、浩之とあかりは忍に傘を返した。まあ普通ならそれで、はい、さようならだが、それからどう言う訳か忍をちょくちょく見かけるようになる。
本当は忍の寂しげな瞳を見た時から、二人ともなぜか気になっていたからなのだが…。そのうち二人は、忍がいつも一人でいるのに気がついた。
それからである。二人が時々忍に話しかけるようになったのは…。お料理研究会に誘ったのも、少しでも忍の友達を増やそうとした結果なのである…。

 浩之とあかりは忍を囲みながら、楽しく賑やかに話している…。
 「明日、部活がありますから良かったら参加してくださいね。みんな先輩が来るの待ってますから。」
 「ば〜か、忍先輩受験生だぞ。そんなに来れる訳ねーだろ。」
 「あ、そうだった。ごめんなさい、無理言って…ところで先輩はどこの大学を受けるんですか?」
 楽しそうに会話する二人を黙って見ていた忍は、不意に話を振られて少し戸惑いの表情を見せる。
 「…あ…まだ、決めてないんだ…。」
 「ふ〜ん、でもいいじゃん。忍先輩、頭良いし…。」
 と、浩之が言いかけた所で、急に何かにぶつかってよろめいた。
 「いてっ!」
 肩の辺りを手で押さえつつ、後ろを振り返る浩之。忍とあかりも、同じく見てみる。
 するとそこには、帰り支度を整えた恋がいた。恋は、浩之をにらみながら、
 「何そんなとこに突っ立てんの?あたし、帰るんだけど。」
 とぶっきらぼうに言い放った。
 「あ…恋ちゃん…。」
 声を掛けたあかりだが、少し困った表情をしていた…。
 恋の顔を見た忍は、ふと昔の事が頭をよぎった…。二人で砂場で遊んだり、一緒に手をつないで下校したり…。
しかし、それもすぐに霧散した。忍の頭に現実が帰ってくる…。

 忍の年子の妹・恋。彼女もまた、3年前の火事で心の傷を負う…。昔は兄妹の仲は良かったのだが、この事件の後、忍とはほとんど話さないようになった。
まあ、昔はちょっとべったりし過ぎていた感じはあるが…。その事だけではなく、夜の街に遅くまで遊び歩いて深夜まで帰って来なかったり、
挙句の果てには、援助交際しているなどの噂も立ち、先生からもかなり目を付けられるようになってしまった…。
 何が恋をそこまで変えたのか…。それは後に語る事としよう…。

 「そういう言い方はないだろ、東雲。お前の方からぶつかって来たんだからさ。」
 浩之は恋に向かって抗議した。しかし、それは明らかに遠慮して言っていた。いつもなら、きっと怒鳴っていたろう…。
 「うるさいわね!あんたが突っ立っていたのが悪いんでしょ!」
 恋も負けずに怒鳴りつけた。かなり迫力がある…。
 そんな二人のやり取りを、あかりはただハラハラしながら見守っていた。
 「お、俺はただ謝れって言いたいだけだよ!」
 さっきの恋の言い方に、浩之は少しむっとしたらしい…。
 「浩之ちゃん…。」
 あかりは浩之に心配そうに声を掛けて、チラッと忍の方を見た。
 一方の忍は、相変わらず色のない瞳でその状況を黙って見ていた…。
 「…ふん!」
 恋は浩之に向かって悪態をついて、そのまま帰ろうとした、その時…。
 「…今日は何時に帰ってくるの…?」
 忍が表情をあまり変えずに言った。いや、本当は微妙に悲しそうな表情をしたのだが、あまりにも分かり難かった…。
 恋はその声を聞いて、一瞬ピクリと動いた。浩之もあかりも押し黙り、その場は一瞬緊張に包まれた。しかし、恋は振り返らずに、
 「今日も友達の家に遊びに行くから、夕飯食べちゃっていいよ…。」
 と素っ気無く答えた。それを聞いた忍は少し表情を曇らせながらも、
 「…作って待ってるから…。」
 とだけ言った。恋はそれを聞いてか聞かずか、スタスタと歩いて行ってしまった…。
 「忍先輩!だめだよ、もっとガツンと言ってやらないと!」
 恋が昇降口を出て玄関に向かった頃ぐらいに、興奮冷め遣らぬと言った感じで浩之が忍に向かって喋り始めた。
 「いくら妹だからって、下手に出てたら好い様にされるだけだって、現に夜遊びとか…。」
 そこまで言って、浩之はハッとなった…。あかりも相当に動揺しており、忍の目を見られない…。
 忍はただ黙っていた…しかし、少ししてポツリと独り言の様に、
 「…信じてるから…。」
 とだけ言うと、今日はごめんなさいと一言言って帰って行った…。
 浩之とあかりはすっかり黙り込んでしまった…。
 「帰るか…。」
 仕方なく浩之がそう切り出すと、あかりは無言で頷いて歩き始めた。
 「きっと…仲良くなれるよね…忍先輩と恋ちゃん…。」
 校門に向かう途中、あかりがポツリと言った。浩之は黙っていたが、その顔付きは真剣だった。
 夕日が学校内に射し込み、帰宅する二人を暖かく包んだ…。もうすっかり秋になっていた…。

 夜…。月は静かに照らしていた。
 忍はエプロンを脱ぎ、ふ〜っと一息つくとイスに座った。テーブルには、夕食がズラリと並んでいる。
 ハンバーグにポテトとミックスベジタブルが乗ってるお皿、大皿にはサラダが、後は残り物が並んでいる。
 それは当然二人分で、お茶碗も箸も綺麗に並べてある。
 『お兄ちゃん!そんなに食べれる訳ないでしょう!』
 ふっ、と忍の脳裏に恋のそんな言葉が木霊した。恋がテーブルに並ぶ夕食を見ると、いつもこの言葉を言っていた。
 しかし、今は家に帰って来てさえいない…。
 「……………。」
 無言のままテーブルに突っ伏す忍…。時計は9時を指していた。
 すでに夕食を作って2時間が経過し、おいしい夕食もすっかり冷めて、埃とかが入らないように、簡単に被せてあるくらいだ。
 その間、ずっとイスに座って恋の帰りを待っていた忍も、さすがに疲れてウトウトしていた。
 トゥルルル…トゥルルル…
 不意に電話が鳴った。ハッとなって、急いで電話の前に行く忍。
 「…もしもし…。」
 いつもより、ちょっと強い感じで電話に出る。しかし、相手は忍の予想とは外れていた…。
 「やあ。忍君?」
 人なつっこそうな声に、忍は聞き覚えがあった。だが、思い出せない…。
 「僕だよ。従兄弟の寛(ゆたか)だよ。元気にしてるかい?」
 従兄弟…。急にふっと思い出した。
 東雲 寛。熊本に住んでいる20歳の大学生だ。忍達は小さい頃に良く遊んでもらっていた。
 火事があった時も、何度も電話で励ましてくれていた。
 「…寛さん…どうもご無沙汰してます…。」
 「どうだい、調子は?そろそろ受験あるんだろう。がんばってるかい。」
 寛はいかにも気さくで、嘘とか付かない様な感じだ…。忍は適当にその問いに答えた。
 「恋ちゃんはどうしてる?」
 「…今は…友達の家に行ってます…。」
 いきなり恋の事を聞かれて、忍は少し動揺した。
 「そうか…残念だね…。…ところで、忍君。カノジョでもできたかい?」
 寛は話を一転してそんな話をして来た。もしかしたら、忍の微妙な変化に気づいたのかも知れないが…。
 「忍君は意外に年上がいいんじゃないかな?どっちかと言うと、甘えん坊なタイプかなと思うし…。」
 忍は正直あまりピンと来なかった。色恋ネタにはかなり疎い…。
 「実はさ…俺、付き合ってる人がいるんだ…。」
 寛の声は少し上擦っていた。電話の前で、後頭部を掻いている…。
 「先輩なんだけどね…デニムのよく似合う、可愛くておとなしい人なんだ…ってそういう事を言いたいんじゃなくて!忍君も高校生なんだから、女の子と付き合って見るのもいいかなと思うんだ…。」
 忍は相変わらず、ぼ〜っとしながら聞いていた。こういう時、気の利いた台詞一つ出ないのも忍らしい…。
 「あ…そろそろ切るね…何か困った事があったら電話してよ。もちろん、カノジョが出来た時もだぞ。それじゃあね。」
 カチャン。ツーツーツー…
 忍は電話が切れた後も、しばらく電話の前でしばし立ち止まっていた。そして、表情が変わらぬまま涙が流れていた…。
 寛との電話が、忍の奥底にある何かを呼び覚ましたのかも知れない…。

 がちゃ…
 不意に玄関のドアが開いた。恋がミニスカート姿で帰ってきたのだ。時計はすでに午前2時を回っていた…。
 「………。」
 恋は音を立てない様にそ〜っと居間までやって来た。そこには、イスに腰掛けたままテーブルに突っ伏してる忍の姿があった。夕食には一切手をつけてはいない…。
 そんな忍を見た恋は、そっと毛布を持ってきて忍の体に掛けてあげた。そして、忍の背中をそっと抱きしめて、
 「ただいま…お兄ちゃん…。」
 とだけ言って、自分の部屋に行ってしまった…。
 部屋の明かりが消え、辺りは静寂に包まれた…。東雲家の本当の夜が訪れた…。