Sメモ第3回 投稿者:鈴木R静


  『好きとか嫌いとか最初にいいだしたのは誰なのかしら――、
   ――のSメモ第3回。……うーん、わかんねーにゃー』

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 普段、我々が「言葉」と呼んでいるものの、本質とは何だろう。
 例えば、ここにAさんという人がいたとする。そう、Aという名前で呼ばれ
ているひとりの人間が。
 このときAという名前、記号と、その人物本人とは、イコールの関係で結ば
れている。
 ここでの記号表現を、シニフィアン、記号内容を、シニフィエという。
 このシニフィアンとシニフィエとが表裏一体となったもの――これが言葉と
いうものの本質である。
 あなたが「Aさん」という言葉を使うとき、そこにはその人物の呼び名、表
現であるAという音形と、「A」の記号で示される概念とが同時に含まれてい
るのだ。
 では、もしあなたがそのAさんを、勝手に「B」と呼んだらどうなるだろう
か。
 誰もそれがAさんのことだとはわかるまい。それは、「B」というシニフィ
アンと「A」というシニフィエはイコールではないからだ。そしてここでのB
というシニフィエであらわされるべき人物は、いまだ存在しない。意味として
は仮定されるが。
 すべての人がAさんに「B」というシニフィアンを認めたとき、初めて「B」
という記号は、そのかつてAさんであった「B」というシニフィエを獲得する
のだ。
 しかし、もしも、だ。もし仮に、言葉の裡から、記号表現と、記号内容を自
在に乖離させ、さらにそれを己ひとりの力で現実にフィードバックできたとし
たら?
 もしそのような力の言葉をあやつることができたなら、もしそのような言霊
を駆使することができたなら、そのとき、現実の事象はことごとくその色を失
い、新たな――そしてこの世界の法則、理をさえ無視した――事象がそれにと
って変わるだろう。
 ましてや、その力ある言葉を幾重にも織りあげて、ひとつの物語を形づくっ
たとしたら?
 そこには、言霊を使役した術者の思うままの世界が現出するだろう。
 真に恐るべき力といわねばなるまい。
 はたしてそのような力が存在するものだろうか。
 しかし、実際にそれは起こっている!
 いま静たちの目前で起こりつつある現象こそ、そうであったのだ!!

 吹きすさぶ風に目を開けていられないといった態で、わるちが腕で顔をかば
うような仕種をとる。
 一方、静はといえば、こちらは平静そのもので、微笑を崩すことはない。
 注意深い者ならば、この荒々しい大気の奔流の直中にあって、静の着衣――
この場合白の学生服だが――や、そのつややかな黒髪が、まったくなびいてい
ないことに気が付いただろう。空気が、この男をだけ避けている――そんな風
に見てとれた。
 いや、風がそよぎだした当初は、たしかに静の髪もその流れにあわせて揺れ
ていたのだ。
 しかし、いまは違う。
 この男の周囲でだけ、自然現象は、その在り様を変えているのだ。
 その意味でいえば、Foolと名乗るがっしりとした体躯の青年のまわりにも、
尋常の世界の法則が働いているとはとうてい思えなかった。
 それまで穏やかだった大気が、なぜ急に渦巻く風の嵐を生み出したのか。し
かもその流れは、あきらかにFoolのほう、より性格には彼の背後から吐き出さ
れてくるのだった。
 呼吸の仕方を異なったものにする。
 その意味するところが、静にはよくわかっている。
 この世には、現実の世界を律する理を己の望むようにねじまげ、そして己の
望むがままの現象を生じさせることのできる人間が存在している。
 それは言葉を通しておこなわれる。そしてその言葉――力ある言葉の発露の
ためには、おのずと呼吸の吸い方、吐き方も違ったものになってくるのだ。な
ぜなら、力の言葉を駆使することは、魔術師が魔法を使うのにも似た、ひとつ
の儀式であるからだ。
 SS使い……静の口から発せられ、いままたFoolの口から語られた存在。
 ……Foolの唇が文字の羅列を生み出していく。
 文字は単語に、単語は文節に、そして文節は文章へと。
「……薔薇空間よ、ここにその顎を開け……!」
 そのとき、静は、わるちは、たしかに見た。
 それまで風が逆巻くばかりだったFoolの背後の空間に、かすかな黒い染みの
ようなものがぼんやりと浮かび上がったかと思うと、みるみるその領域を上下
に広げていくのを。
 いまや縦に長く、大人の背丈ほどもある真っ黒な裂け目が彼の後ろにはでき
あがっていた。裂け目――まさにそれはそう呼んでさしつかえないような光景
であった。
「……いま『烙印を押されし愚か者』Foolが呼びかける……薔薇狩人一号、二
号……いできたれ……!!」
 Foolの声がひときわ高くなる。
 めり……めり……。
 耳障りな音がした。暴風の叫喚のなか、その音だけはなぜかはっきりとその
場にいた者たち全員の耳朶に届いた。
 何かが染みの隙間を裂いて、あらわれこようとしている。
 その黒い染みから生え出た、小さな五本の物体は……!
「ご主人様っ、あれって……あれって人の指じゃないの?」
 気味悪そうに叫ぶわるち。
 静は答えない。
 楽しげな感じこそ変わらぬものの、彼がこの事態に際して実際にどんなこと
を考えているのかは、その表情からは皆目うかがい知ることはできなかった。
 空間から指が伸び、掌が出、そして頭部が姿を現わす。
 両手で裂け目をこじ開けるようにして、それはこの世に産み落とされた。
 屈強な体躯を誇る、筋骨隆々とした大男であった。
 もうひとり、同じような男がそれに続く。
 いまFoolの背後に、鍛えあげた肉体を誇示するボディビルダーよろしくポー
ジングを決めつつひかえた男たち――それは恐ろしく危険なマッチョたちであ
った。
 ぴっちりしたビキニパンツの上から、全身網タイツを着込み、そこに直接無
地のネクタイを締めている。口にくわえているのは、一輪の薔薇だろうか。
 薔薇狩人一号&二号。健全な精神の持ち主なら誰もが思わず一歩引くであろ
う、Foolの呼びかけにより出現した、ふたりの妖人たち。
「どうだ、鈴木……こいつが薔薇属性に対しては無敵の強さを誇る、俺の切り
札……薔薇狩人だ……。薔薇の王子様……あんたが『薫り高き薔薇』の称号を
背負う男……Roseのミドルネームを持つ男だってことは、すでに調査済みだぜ
?」
 静はそんなFoolの口上が聞こえているのかどうかもさだかでない、超然とし
た態度で、ひとりごちる。
「あなたはSSのことをよくわかっているといいましたが……もし本当にSS
の、その真の本質をあなたが理解しているのなら……私は別にあなたでもいい
んですが……おそらく、それはあなたではないでしょう……私の直感が……魂
とさえ呼んでいい本能が、私の求める人物はあなたではないと、そう告げてい
ます……」
「何をぶつぶついってやがる……闘(や)らねえのかい? それじゃこっちか
らいかしてもらうぜ。遠慮はしねえ……あんたの得意のSSが何かは知らねえ
が、本人さんが直に相手するのは、ちっときついと思うぜぇ、うちの薔薇狩人
はよ?」
 Foolが吠えた。
「ふふ、もちろん私もあなたの力業にふさわしい応対はさせてもらいますよ…
…『わるち』、封印解除です……」
 静の呼気が変じる。
 傍らのわるちの額に指を二本添え、力の言葉を開放する。
 「わるち」という記号が、新たな記号に置き換わる。
 静が「封印解除」と呼んだそれは、すみやかに世界の法則を書き替え、わる
ちの――彼の言葉を額面通りに受け取るなら――封印を取り払い、彼女を本来
あるべき存在へと還元した。
 見た目はそのままのわるちだが、しかしいまそこにいるのはあきらかに別の
何者かであった。
 彼女がぎろりと、Foolを睨み付ける。
「てめえ、さっきから聴いてりゃオレのご主人様に対して好き勝手なことばっ
かりぬかしやがって……痛い目見るのはおまえのほうだ!」
 性格が豹変している。とても女の子が使うような言葉使いではない。
 静は、たおやかな面を軽い苦笑でいろどりながら、彼女の肩に手をかけ、呼
びかける。
「いきますよ……ワルチ……!」
 それが戦端を開く合図となった。
 静はすっと背後に身を引く。
「おもしれえ、あんたも『召喚系』か? それがわるちの正体ってわけか……
しかも常に召喚させっぱなしたあ、恐ろしいまでの言霊だな。しかし、二対一
ってのがネックだぜ」
 薔薇狩人たちが地を蹴った。
「召喚……? ふふ、そう思いますか? もしそうだとしたら、私はいつも精
神をすり減らしていなければなりませんね」
 静の落ち着きぶりは、あまりにこの場の緊張とはそぐわないものであった。
それはあるいは、彼にとってはこれはつまらない瑣末事にしか過ぎないのだと
いうことを、態度で表明しているかのようだった。
 ワルチ――かつてわるちという名前で呼ばれていたもの――は、若干腰を落
とし、やや両足を開くと、全身に力をみなぎらせる。
 迎撃姿勢だ。
 宙を左右に跳躍してきたふたりの大男が、静たちの前に着地しきるかしきら
ないかのうちに、ワルチの瞬発力は膨れ上がり、彼女の脚が床をすさまじい圧
力でとらえる。
 それは同じだけの反発力を生み出し、ワルチの身体を瞬時に加速させる。
 ふたり組の、ワルチから見て、左のほう――そちらに向かって、彼女は駆け
跳んだ。
 なんという力か! ワルチはコンクリ床を蹴り離れるや、箭のように――そ
のまま足は地面に触れることなく、すさまじいまでの勢いで、目標対して一気
に肉薄した。
 彼我の距離差は10メートルはあったろうか。それをひと飛びで、しかも弓
なりなどというただ跳んでいるだけといった運動ではなく、閃光が疾ったかと
見まがうような激しい直線の動きで、つめたのである。
 薔薇狩人――どちらが一号か二号かは知らないが――は、不安定な一瞬をつ
かれて、ワルチの身体ごと体重を乗せた突きの一撃を、かろうじて腕を交差さ
せて防御することしかできない。
 盛り上がった筋肉で鎧った腕に、ずしりと響く痺れが走った。
 いったいこんな小さな女の子のどこにそのような力が……?
 甘く見ていたわけではない。しかしFoolはあらためてこの娘に対する認識を
厳しいものにした。
「一号……そのままわるちと遊んでろ」
 彼の指示にしたがって、薔薇狩人一号は、懐に飛び込んできた小娘をつかま
えにかかる。
「気持ちわりーんだよ! 寄るな!」
 覆い被さろうとする手を払いのけながら、ワルチは拳を放ち、蹴りを叩き込
む。
 そのときには怯むものの、一号は案外すずしい顔で、執拗にワルチを捕捉し
ようとする。
 今度はワルチが舌を巻く番だった。
 薔薇狩人はいまだ攻撃らしい攻撃はしてこない。しかしこの肉体だ。一度で
もその裡に取り込まれれば、それが彼女の命とりになるであろうことは容易に
予測された。
 ……もう一体は?
 仕掛け直すためにいったん距離をとりながら、ワルチの周囲の状況を把握す
る。
 二号は、いままさに彼女のご主人様である静ににじり寄ろうという体勢であ
った。
「ご主人様っ……!」
 ワルチが振り返って叫ぶ。
 意識をふたところに分断させてしまった彼女の背中に、必然的に隙が生ずる。
 一号が猛然と突進した。
 前後に敵をかかえて、しかしワルチの思うようになる身体はひとつのみ。
 そして背後に肉迫する直接の危機!
「なんだい……押されてるのかい、静さん?」
 Foolの高笑いが高所から響き渡った。
                               (続く)