ひー娘。 投稿者:XY−MEN



「もうやだっ! べんきょうなんかしたくないもんっ!」

 姫川笛音はそう言うと、漢字ドリルを乱暴に放り投げた。

「あ、ズルいぞ笛音ちゃん! ボクもべんきょうなんかしないんだからっ!」

 それを見て、隣に座っていたティーナも、仲良くドリルを放り投げる。

「あっ、こら笛音!ティーナ! なんて事をするんだ」

 慌てて、OLHが二人を叱りつけた。
 
 ここは来栖川警備保障Leaf学園支部の一室、休憩室である。
 警備保障の警備員達の憩いの場となるこの休憩室、時によっては、OLHの養う所の
姫川笛音やティーナ、榊宗一養う所の木神木風らが入り浸る事もあって、そんなときには
託児所の様相を呈したりする。

 さて、今日は今日とて姫川笛音とティーナは揃って警備保障へと現れ、OLHの就業時間
の終わりを待つ事にしたのであるが、なにしろ、それまでの間は暇である。
 そうなると、やはり二人としては、大好きなお兄ちゃんに遊んでもらいたいとくるので
あるが、OLHとしてはそうもいかない。今日は待機任務で警邏こそしないものの、書類
作成などのデスクワークは与えられている。しかも、ここ2,3日騒々しかったので、
ちゃぶ台の上はまるで書類の山脈なのである。曲がりなりにも給料を貰っている以上、この
状況で子供達と遊び呆ける訳にもいかない。


 執拗に袖を引っ張る二人の子供との熾烈極まる折衝の末、OLHは一つの妙計を立てた。
 すなわちは、「宿題をやっていなさい」の計である。
 OLHがこの計を立てるに際しては、事前の情報収集が功を奏している。

「おにいちゃん、きょうね、かんじのドリルの宿題がでたんだ!」

「ふーん、そうかぁ、大変だなぁ」

「あしたにださないといけないの。いやだなぁ」

 ……このような、生活に根ざした情報収集こそが、いざと言うときに役に立つのである。
 孫子曰く、勝負は戦う前に決している……この言葉を噛みしめていた今日のOLHであった。
 しかし、笛音が大嫌いな漢字の勉強に耐えきれず、放り出してしまうと言う所を予測しな
かったのは、OLHの迂闊と言えよう。

「だって、べんきょうなんてつまらないもん!やりたくないもん!」

「そうだそうだー、べんきょうよりもあそぶ〜」

 まとわりつく二人にほとほと困りながら、OLHはなんとか説得の言葉を探し始めた。

「えーと、いいかい二人とも。
 たとえつまらなくてもやりたくなくても遊びたくても、勉強はちゃんとしなくちゃ
いけないんだよ。今勉強しておかないと、大人になって困るんだよ?」

「なんで? べんきょうしておかないとどうしてこまるの?」

「えーとそれはつまり……勉強しておかないと、えらい人になれないからだよ」

「えらい人?」

「そうだよ、偉い人!
 えらくてしっかりした大人になるためには、ちゃんと勉強をしなくちゃいけないんだ」

「ふーん…………」

 ティーナがそう唸るのを聞いてほっとできるかと思いきや、笛音の次の言葉が、その
安堵をひっくり返す。

「でも、わたしべつにえらくなんてならなくていいもん。
 そのかわりおにいちゃんとあそぶの」

「あ、ならボクもボクも〜」

「ああ、もう……」

 堂々巡りが始まりそうな予感に、OLHは思わず嘆きの独語を漏らした。
 そもそもである、OLHとて、勉強と言う物に対してはっきりした確信を持っている
訳ではないのだ。それであると言うのに、勉強とは何々のために必ずしなければならない
なんて事を上手に言える訳がない。それも、幼児に対して、分かりやすくなど。

「いや、えーとだね、えらくならないのはいけないんだよ」

「どうして?」

「それはつまり……え〜……」

 先程の論旨にのっとって、なんとか二人の説得にあたろうと思ったOLHではあるが、
そこで言葉が詰まってしまった。どうしたものか。せめて、二人を納得させる事を言わ
なければなるまい。多少欺瞞が入ったとしても仕方ないとして。
 が、懸命に回転させているつもりの頭に、なかなか説得力のある言葉が浮かばない。

「ねぇ、どうして?」

 そんな、笛音とティーナの視線を感じて焦るOLHに、ひょんと救いの手が伸びた。

「お、なんだ笛音ちゃんにティーナちゃん、OLHさんを困らせちゃって?」

 にまにまと笑顔を浮かべて休憩室に現れたのは、霜月祐依である。
 どうやら、巡回を終えて一休みに来たらしい。

「あ、しもづきのおにいちゃん、こんにちわー」

「ねぇねぇ、おにいちゃんが宿題しろってうるさいんだよー」

「だ、だから、勉強はちゃんとしなくっちゃダメなんだってば!」

「だって、ボクたちえらくならないもん」

「だからべんきょうもしないの」

「ねー」

「いや、だからそれは……」

 二人の子供達と、その対応に苦慮するOLHを、霜月はフーンとばかりに見比べた。
 なるほど、おおよその事態は飲み込めた、と。
 霜月は、にっこりと笑って身を乗り出した。

「ねぇ二人とも、いいこと教えてあげようか?」

「え、なぁに?」

「えらい女はね、いい女なんだぞ」

 二人が、心なしかぴくりと反応したようだ。
 しめしめと、霜月が口元もなめらかに語り始める。

「人が恋愛をする時、相手にどんな感情を抱くか?
 色々あるけれど、その一つは尊敬の気持ちだ。
 男は、いつだって素敵な女性を求めている。
 素敵ってどんな事だと思う? 尊敬に値するって事さ。
 つまり、えらい女はいい女だ。えらい女に男は惚れる!」

「ほんと?」

「ああ、ほんとうだとも!
 だから、お兄ちゃんに好きになってもらうためには、えらい女にならなきゃダメだぞ」

 霜月にそう言われて、二人はうーんと考え込んだ。
 それから、

「……ボク、べんきょうしよ!」

「わたしも!」

二人とも、さっき自分が放った漢字ドリルを拾って、一生懸命解き始めた。


 おおよそ30分ほどで、二人は宿題の範囲を全部解き終わった。
 それと前後して、きたみち靜やてぃーくん、雛山良太らが遊びにやってきて、二人は
彼らと連れだって遊びに出かけた。
 それを見送ってから、OLHは霜月に茶を差し出した。

「いやぁ、助かったよ霜月。ああなると如何ともしがたくってなぁ……」

「察するよ。あの年頃の子供は扱いが難しいからなぁ」

「まったく。それも女の子だしなぁ。
 懐いてはくれているんだけど、その割に言うこと聞かせるのが難しくって……」

「……なんだ? おやおや、ふっふっふ。
 OLHも、毎日女の子と接している癖に、意外と女心が分かっていないんだなぁ。
 女の子にはツボってものがあるんだよ、ツボってものが」

「ほぅ、ツボねぇ…………」

「俺みたいに女の子と沢山付き合っていると、そう言うのも段々分かってくるもんだ。
 例えばだな……」

 霜月は、水を得たサカナになって、物知り顔で喋り始めた。
 OLHは、前述の通り書類作成の仕事があるのだが、恩が出来た霜月相手であるし、
その喋りに付き合わない訳にもいかない。
 霜月をサカナにしてしまったのは、OLHの話題提供なのだっだ。
 どうも、今日のOLHは、やはり迂闊であるようだ。





「ふーん、えらい女はいい女ねぇ…………」

 感心したのかどうなのか、てぃーくんが腕を組んで唸った。

「靜はよくわからないなぁ…………」

「なにいってるの靜ちゃん! そんなことじゃダメだよ!
 えらい女にならないと、きたみちさんとられちゃうんだから!」

「うーん…………」

 ティーナにまくしたてられながらも、きたみち靜は首を傾げて納得しない様子だ。

「でも、えらいことはいいことなんだぞ。
 えらいと家族のためになるんだぞ。ほめられるんだぞ」

 家の経済状態が厳しいせいか、雛山良太が顔に似合わない殊勝な事を言って、
胸を張ってみせた。

 OLHが霜月の女の子談義に付き合っていたその頃、校庭の一隅。
 先程警備保障を出たお子さま方は、いつものようになんやらかんやらと遊んでいた
のだが、そのうちにちょっと一休みが入り、雑談が始まっていた。

 話題はこの通り、「えらい女」のコトである。
 ティーナなどはもうすっかりその気で、さっきから鼻息荒いことこの上ない。
 他の子供達を巻き込んで、夢中で喋っているのである。

「だからね、ボクはえらくなっていい女になって、きっとおにいちゃんのハートを
いとめてみせるんだよ!」

 気分るんるんとこんな風に話されれば、笛音も黙って聞いている訳にはいかない
のである。コケンに関わると言う物だ。

「わ、わたしだってえらくなるもん!
 ティーナちゃんよりえらくなっておにいちゃんとそいとげるもん!」

 どこでそんな言葉を覚えたやら、笛音は一生懸命言い返した。
 言い返されれば言い返さないと気が済まないのが、この年頃の子供である。
 ましてやお互いが「恋のライバル」となれば言い返さずにいられまい。

「だめだめ、ボクは笛音ちゃんよりもずっとえらくなるんだから!
 だから、おにいちゃんはボクのものになるんだ!」

「ちがうもんちがうもん!
 わたしのほうがティーナちゃんよりももっともっとえらくなるもん!
 おにいちゃんをてごめにするのはわたしだもん!」

 まったく、どこでそんな言葉を覚えたやら、そもそも使い方を間違っている言葉で、
笛音は言い返す。
 こうなると二人とももうムキである。
 むー……と顔を突き合わせ、にらめっこを初めてしまった。
 これを見て、

「け、けんかはダメだよー」

と、てぃーくんと靜はおろおろとうろたえたのだが、ただ一人、良太は実にマイペース
に一言言った。

「そういうことなら、ふたりで勝負すればいいんだぞ」

「しょうぶ?」

「どうするの、それ?」

 にらめっこを一時解除してこちらを向いた二人に向かって、良太はうむとばかりに
鷹揚に頷いて、言った。

「ふたりのどっちの方がえらいのか、勝負するんだぞ。
 それをにいちゃんに見てもらうんだぞ。
 それで、にいちゃんがほれた方がふさわしい女なんだぞ」

「ああ、そっかぁ」

「なるほどぉ」

 なんとも、単純明快で分かりやすいルールだ。
 良太の説明に、これは良いと、二人はうんうんと頭を縦に振った。
 それから、その頭をお互いに突き合わせ直す。

「笛音ちゃん……」

「ティーナちゃん……」

「しょうぶは一時間ご。
 おにいちゃんのまえで。それでいいかな?」

「う、うん、いいよ……」

「よし! じゃあ、しょうぶだよ、笛音ちゃん!」

「の、のぞむところなんだから!」

 やっぱりおろおろとしているてぃーくんと靜、そしてとぼけた顔でそれを見ている
良太を脇に、二人の少女はしばらく意地っ張りににらみあってから、さっとお互い
別の方向に去っていった。
 残された三人は、色々と迷った挙げ句に、てぃーくんは笛音に、靜はティーナに
付いていき、良太は腹が減ったと、とっとと帰ってしまった。




「ねぇ、ティーナちゃん、どうするの……?」

 笛音にてぃーくんが付いていったので、いきおいティーナの方へと付く事となって
しまったきたみち靜は、なにとは無しに不安げにそう訊いた。
 この「どうするの?」には、靜の色々な気分が詰まっていて、それが含む意味も
1つだけではなかったのであるが、ティーナはそれに関しては特に気付かずに、元気に
返事をした。

「そりゃ、ボクのえらいところをいっぱいおにいちゃんに見せつけるためのじゅんびを
するんだよ、靜ちゃん!」

 胸を張って、意気は揚々。
 校庭を闊歩するティーナは、細工が流流と言う訳でも無いのに、実にあっけからんと
自信たっぷりである。
 一方そのティーナの隣を歩む靜は、この後の自分の運命をおおよそ想像してしまっている。
 行き当たりばったり。その一言で表現される行動に付き合って、きっと自分は、一時間
後にはへとへとになっているのだろう……それが靜の予想であり、確信である。
 分かっちゃいるけど逃げられない。そんな運命。

「で、でも、じゅんびって?」

 一時間で出来る準備なんてないよ……と言う意味を裏に込めて、靜は往生際悪くそう
言ってみた。勿論、それは徒労に終わった。

「あっ!」

「うにゅ?」

 靜の言葉を遮って、突然嬉しそうに声を上げたティーナは、目を輝かせて言った。

「えらそうな人だっ!」

「え、ええっ?」

 突然駆け出したティーナと、それを必死に追いかけた靜が辿り着いた先にいたのは、
誰であろう、ディルクセンであった。
 風紀委員数人を引き連れたディルクセンは、確かにさも偉そうに、彼らに向かって
ああだこうだと指示をしている真っ最中である。

「……と、言うわけで、我々の巡回があってこそ、試立Leaf学園の秩序は保たれている
のである! 我らの存在があってこその我が学園なのだ! その誇りを常に胸中に抱き、
各々の任務に励むことを期待する!」

「はっ!」

「では、解散っ!」

 今日も思う存分たっぷり訓示を垂れ終わり、満足げな表情を浮かべたディルクセンは、
ふとそこで、ようやく自分の右後方1m付近に二人の少女が立っているのに気が付いた。

『おや……この子らは、OLHときたみちの所の……?』

 その子らが、一体どうしたのだろう?と疑問を感じるディルクセンを前に、目をきら
きらさせたティーナが言った。

「ねぇねぇ、どうやったらえらくなれるの? ねぇ?」

 この言葉を聞いたディルクセンの表情が、瞬転恍惚の表情に変わり、それから今度は
努めて威厳と慈愛を醸し出そうとそれなりな笑顔へと変わった事を、特に描写しておく
としよう。
 言うまでもあるまい。ティーナの言葉と表情が、ディルクセンにとっては、彼への
尊敬の念の表れであると見えた事は、言うまでもあるまい。さもなくば、そんな質問を
自分にぶつけるはずがない……というのが、ディルクセンの常識的思考の流れである。
しかし、ティーナのそれは、真実としては、ただの好奇心の現れに過ぎないのだった。
 そんな互いの食い違い知らぬまま、ディルクセンは己が持論を語り始めた。

「うむ! いいかな少女? 偉い人間というのは、即ちは人を敬服させ、そして従わせ
る人間なのだよ。従う人間の数は、正にその人間の格を表し、従う人間の忠実さは、その
人間の崇高さを表す! そして、それら衆人の尊敬と期待をその背に背負いつつも、いさ
さかの疑問・躊躇・怖れを抱くことなく、人々を導いていける人物……それこそが真の
偉人なのだ!」

「ふんふん……なるほどぉ。そうか!ありがとう、おにいちゃん!」

 ……と、そこまで聞いた所で、ティーナは何かを思いついたらしく、あっと言う間に
駆け出していた。それを、きたみち靜が慌てて追いかける。

「故に真の偉人とは……って、あら?」

 ディルクセンとしては、語りたい事のほんの序論に過ぎないところまでしか話していない
と言うのに、少女達はさっさと去って行ってしまって、思わず、

「なんだよぉ……」

 と砕けた腰で言ったが、そこは、

「いやいや、今は少女の心に種を蒔いただけで良しとするか」

うむ、と、己を納得させた。笑顔と共に。
 いずれ彼女の中に蒔かれた種が発芽し、彼女がそれに気づいたとき、再び自分を
訪れることだろうと、幸福な想像を脳裏に浮かべながら。



 さて、一方の笛音の側に視点を移そう。
 ティーナの手前、見栄を切ってみたものの、笛音はなんらアテを持ってはいなかった。
 OLHに「えらいな、笛音は」と言わせる程度の事ならば、笛音にだとていくらでも
思案はあるのである。しかし、相手はあのティーナだ。
 一体、どのような手段を講じてくるのか予想が付かないし、笛音としても尋常な手段
を取るだけでは心もとない。これは、大好きなおにいちゃんを掛けた女と女の勝負なの
であるから。……実は、この時点で、二人の戦いは本来の意義を見失っているとも言え
無くないが、本人らにその認識はない。

「やっぱり、家事とか手伝うのがいいんじゃないかなぁ。ねぇ笛音ちゃん?」

「うんー…………」

 さっきからてぃーくんが色々と話しかけるのだが、笛音は生返事を返すばかりである。
 確かに、てぃーくんの言うことは正攻法であるが、当たり前過ぎるのである。
 もっともう1ランク上を目指さないといけない……と、笛音は思っているのだ。
 しかし、良いアイデアは、一向に浮かんでこなかった。
 
 うーんうーんというばかりの笛音に掛ける言葉に困ったてぃーくんは、ふと脇に目を
転じ、そして、「あ……」と小さいつぶやきを漏らした。

 それは、思案に暮れる笛音の元へと、笛音の気付かぬままに寄ってきた。
 この勝負に、我知らず混沌をもたらすべく。

「ホーッホッホッホ! 笛音さん、おげんきないわねぇ。
 そんな事じゃボクにかてなくってよ!」

「えっ?」

 驚いた笛音が、思わず振り向くや大口を開けて茫然とした表情になった。
 そこには、ライバルのティーナの変わり果てた御姿が現れたからである。

 それは驚くはずである。ついさっきはラフな普段着を着ていたはずなのに、今の
ティーナは女王様か王女様か……と言う、なにやら凄いドレスを着て、メイクバッチリ。
頭には王冠を被り、白い手袋をはめた右手で口元を覆って「ホホホ」と笑う始末である。

 その上……いや、その下になのだが、佐藤ポチを従えている。と言うより、四つん這い
のポチの上に横座りをしている。

 更に左右には、きたみち靜と何故かティーナの姉であるルーティが、メイド服を着込ん
で佇んでいる。

 一体、ティーナの頭の中でどのような連想が起こったのかは分からない。
 だが、ディルクセンの言葉は、結局「女王様になって、人を従えればいい」と言う風に
解釈されたと言うことらしい。わざわざ口調まで変えているのは、純粋にティーナの気分
によるものであるようだ。その方が雰囲気出るから、と。

 ちなみに、衣装に関しては第二購買部で揃えたのだが、笛音はそんな事を知る由もない。
 ついでに触れておくと、代金は勝手に風見ひなたにツケてきた。

「ホホホ、驚いてらっしゃるみたいね、笛音さん。
 見たところさっきとおかわりないみたい。それではボクの敵ではありませんことよ」

 勝ち誇って高笑いをするティーナに、笛音はうーと言葉も無かった。
 実際的には、果たしてこれを「偉い」と評価するかどうかと言うと疑問を呈せざるを
得ないのだろうが、笛音にはそこまで至る思慮がないし、また、そんな事は、突き付け
られたインパクトの前には、かき消える考慮であった。
 笛音の表情から己の圧倒的優勢を確信したティーナは、満足げに笑むと、さっと身を
翻した。どうやら、ただ見せつけたかっただけらしい。

「では、ボクはこのへんでごきげんよう。
 せいぜいがんばることですわね。
 行きますわよ、ポチ。そして靜、ルーティ!」

「わ…………わかりましたワン」

 しくしくと涙を流しながらも佐藤ポチは動きだし、靜は逆らっても無駄と、しずしずと
歩き出したが、ルーティだけは不満げである。

「こらティーナ! いくらなんでも姉を呼び捨てにするなんて……」

「あらルーティ? ボクにそんな口を利いていいのかしら?
 あのことをマールおねえちゃんに言っても…………」

「う……ぐ……わ、わかりました」

 どうやらルーティ、ティーナに何か弱みを握られているらしい。
 握り拳を震わせながら、ティーナの後を付いていった。


 そして、ティーナご一行様が立ち去った後には、笛音とてぃーくんが残る。

「どうしよう…………」

 笛音が呟いた。
 ティーナのあの姿が、よっぽどショックだったらしく、その声音はひどくしおれて
暗然としている。

「え……あ、あの、きっと大丈夫だよ、笛音ちゃん……」

「でも、さっきのティーナちゃん、すごかったもん……」

「そ、それはそうだけど……でも……」

 でも、あれはなんか違うんじゃない?と、てぃーくんは言いたかったが、その前に、

「どうしよう! わたし、ティーナちゃんにまけちゃうよぉ!」

と笛音は叫ぶや、パニックを起こした体でいきなり駆け出してしまった。
 それを追って、てぃーくんも慌てて走り出す。

「あ、ま、待ってよ笛音ちゃ〜ん!」

 だだだだだだだだ……と、突発的においかけっこに移行した二人。
 夕暮れの近い校庭を駆け抜けて、人もまばらな校舎の方へと駆けていく。
 片や笛音は頭の中カラッポ状態で、片やてぃーくんは、何とか笛音を掴まえて
なだめなければ、と頭を悩ませながらの全力疾走である。
 それが故に……二人ともに、前方の障害物に対する注意は甚だ散漫であったと
言わざるを得まい。
 てぃーくんがやっとそれに気付いたとき、前を行く笛音は、既に手遅れであった。

「あ! ふ、笛音ちゃん! まえっ!まえっ!!」

「え……? わ……わわぁっ!!」

「おおっ?!」

 まず、笛音が前方に歩いていた人物に激突し、てぃーくんがその背中にぶつかった。

「あ……いてて…………」

 鼻の頭をしたたか打ち付け、目の前には星が踊っている。
 その痛みを耐えて鼻をさすり、ようやく涙目を開けたてぃーくんは、そこでようやく
笛音のぶつかった相手を確認した。

 ひげ4。
 それはそれは立派なひげを蓄えた、数多のLeaf学園の奇人達のうちの一人である。
 ともかく、ひげが凄くてひげが好きでひげでひげな人物である。
 ハッキリ言って、それ以外の情報は無いし、必要とすらされてない向きもないでも
ない。とにかくひげだ。実際、今ひげ4を目の前にした二人は、ひげ4のひげ以外の
何も目に入っていない。彼の容貌を人に尋ねたなら、まず「ひげ」と言う言葉が返り、
その後答えにあぐむ事だろう。もしかしたら、仮に彼がひげを剃ったなら、誰も彼と
判別出来ないかも知れない。そう言うひげのインパクトを持った人物である。
 そのひげ4が、ぶつかった相手だったのである。

「おお、大丈夫ですかな?
 怪我でもしていませんかな?」

 口元のひげをゆさゆさと震わせながら、ひげ4は豊かな微笑を湛えて言う。
 いや、その豊かな微笑すら、ひげの添え物に過ぎない。
 それとも、ひげが故に笑顔が豊かに見えるのかも知れない。
 ただひたすらに、圧倒的な存在感を見せつけるひげ。
 その様子を、笛音はただただ凝視している。
 ぶつかった直後の姿勢のまま、見上げるようにして。

『何か……なにかいけない!』

 てぃーくんの中に、ほぼ本能的ですらある、その予感が走った。

「どうしました? 僕の顔に何かついていますか?」

 ひげが、ゆさゆさと揺れている。
 ゆっくりと、円を描くように動いている。
 笛音は、先程までのヒステリーを忘れたかのように、それに見入っている。
 いや、そうではないのか。ヒステリーによって起こった笛音の心の空白に、それ
はちょうど入り込んで来ようとしているのか。
 笛音の呼吸は、徐々にリズムを上げていた。ちょうど、ひげの動きに合わせる
ようにして。
 たっぷりとしたボリュームを感じさせるひげの、雄大とすら錯覚させる動きを、
笛音はずっとずっと凝視している。目を大きく見開いて。
 その視線の意味の危険さに気付いたてぃーくんが口を開こうとしたとき、それを
遮って、笛音は絶叫していた。

「笛音ちゃ…………」

「わたしに……わたしにひげをくださいっ!!」



 笛音とティーナが約束を交わしてから1時間。
 来栖川警備保障の休憩室では、未だに霜月祐依が、OLHを相手に女の子談義を
続けていた。

「……だからな、そう言う時は女の子の自尊心を少しくすぐってやるのさ。
 要所要所をそうやって締める事が肝心なんだ。大抵の男は、その辺を怠るから
駄目なんだよなー。……おい、OLH、聞いているかぁ?」

「へいへい……」

 書類をカリカリと書き募りながら、OLHはいい加減な相槌を打った。
 まだまだ書類は書き終わらない。これと言うのも霜月のお喋りに付き合っている
からで、そうでなければ仕事の効率はもっといいはずなのである。
 いい加減辟易してきたOLHであるが、とはいえ、やはり無下にあしらうわけにも
いかない。

「そもそも自分の美しさを誉められて嬉しくない女の子なんていないもんでな。
 ああでも、二人以上の女の子がいた場合はちょっと大変なんだこれが〜。
 ほら、あっちを立てればこっちが立たずってやつでさぁ。
 ああ、こりゃOLHの方が良く分かってるか。ははははは」

「まーね……」

 OLHが、そんな風にぶすっと返事をしたその次に、ばん!と言う音が二人の耳に
入ってきた。
 扉を思い切り良く開いた音である。
 そして、

「ティーナ様のおなーりー」

と言う声が、部屋中に響いた。

 何事かと唖然とする二人を前に、ごろごろとロール状に、巻かれた絨毯が転がり、
展開されて走る。そして、数人の従者を引き連れ、その上をしゃなりしゃなりと歩み
寄ってくる人物が一人。

「てぃ、てぃ、ティーナ……?」

 OLHの狼狽もさもあらん。
 読者諸氏こそ今のティーナの状態を前もって知ってはいようとも、OLHは知って
いないのである。ましてや、まさか己を巡って笛音とティーナが女の勝負を繰り広げ
ているなどとは思いもよらぬ。

 驚き戸惑うOLHを余所に、ごっついドレス姿に王冠を被ったティーナは周りを
見渡すや、言った。

「あら、まだ笛音さんはいらっしゃってないようね。
 ボクのこの姿をさきほど見せつけたから、おそれをなしてにげたかしら?」

 ほほほ、と扇子を口元にあて、高笑いをするティーナ。
 その後ろには、佐藤ポチにきたみち靜にルーティ、それに、何故か平坂蛮次や
ジン・ジャザムやおたく縦横やらDボックスやら森川由綺までが付き従っている。
 一体、ティーナがどんな方法を用いたかは知れないが、そうそうたる顔ぶれが
揃ってはいる。
 何がどうなってるやら?と、目をしばたいているOLHの狼狽もさておいて、
ティーナはOLHに抱きついた。

「ホホホ、どうやら、ボクのふせんしょうってわけね。
 きょうからおにいちゃんはボクだけのものっ!」

「あ、いや……お、おいティーナ、一体こりゃ何がどうなっているやら……?」

「だからぁ、おにいちゃんはボクのものになるの!」

「あ、いや、その、ティーナちょっと待って……」

「またなぁ〜い」

 甘えた声を出してOLHに組み付くティーナ。
 慌てているOLHと、なんだかひどくうれしげなティーナと呆気に取られている
霜月以外の面子は、それをしら〜っと眺めている。
 よっぽどロクでもない方法で集められたらしい。

「お、俺たちの立場って…………」

「所詮、脇役と言うことかワン……」

「あ、あの……と言うより、先生は、何のためにここに連れてこられたのか、全然
知らないんだけど…………」

「シリマセンシリマセン」

 どうやら、終いには何でもいいからと、人数水増しのために連れてきたらしい。


「わっわっ! だからよせってティーナ!」

「おーにいちゃんはボクのもの〜♪」

「ちょっと待ったぁぁぁぁっっ!」

 ティーナがOLHにじゃれつき、最早ただのギャラリーと化したティーナ嬢の侍従達
が、己のこの場における存在価値に甚だ疑問を抱き始めたとき、遂に真打ち、姫川笛音
嬢のご登場である。後ろには、既に何かを諦めた表情のてぃーくんが付いてきている。

「ホホホ、笛音ちゃんたら、にげたのじゃなかったのね。
 その勇気はたたえてあげるけれど、このボクに勝てるのかしら……らぁっ!?」

 勝ち誇った笑顔を浮かべていたティーナが、思わず己が目を疑い、驚愕に顔を歪めた。

 ひげ!ひげ!凄いひげ!

 笛音の口元に付けられた、そのひげときたら、峻厳にして激烈。堂々たる大きさを
持ち、それでいてその曲線は艶めかしさすら感じさせるものだ。
 それは、ティーナを、そしてOLHを、その他の人々を動揺させるに十分なもので
あった。

「ふ、ふ、ふえねぇぇぇぇっっ!!??」

 OLHの絶叫も、今は捨て置き、笛音はティーナに向けて宣言した。

「姫川笛音、けんざん! ティーナちゃん、今こそしょうぶ!」

「くっ…………の、のぞむところだよ、笛音ちゃん!
 ひげのひとつくらいを付けたくらいで、このボクに勝てると思わない事だよ!」

「ひげのひとつくらいじゃないもん!
 おにいちゃん、わたしのえらいところ、みててっ!!」

「え?え? えらいって何の事だよっ?!」

 OLHの疑問を放っておいて、笛音はなにやら力み始めた。

『君の望む時、いつでも願ってごらん。
 そのひげは、きっとその願いをかなえてくれるのだから……』

 ひげ4が語った言葉を、今笛音は思い出している。

『わたしのおもい、おにいちゃんにとどけて! おねがい、ひげ!』

 心の中で、強く強く願った。

「あっあっ……ひ、ひげが…………」

「お、大きく…………」

 むくむくと、ひげがどんどんと巨大に成長して行くではないか。
 広げた両手に沿うように、三日月の形に近いひげが、むくむくと伸びていく。
 それは、何かこの地球の万物の生命の営みを感じさせ、偉大ですらあった。

「な、なんてひげ……スゴイ……」

 ティーナすら、そう漏らさずにはいられない。
 もはや、両手の長さにすら収まりきらない大きさに、ひげは成長しつつあった。
 それでもなお、成長を止めない。笛音の顔の下半分も、もう見えない。
 部屋の両端にも届こうと言う大きさまで成長して、それはようやく止まった。

「……どう、ティーナちゃん?
 これが、これがわたしのおもいのちからなんだよ、ティーナちゃん!」

「う…………くっ……」

「ティーナちゃんは、このひげにかてる?
 わたしがいっしょうけんめいそだてたこのひげに、かてる?!」

 笛音の、力に満ちた問いかけに、ティーナはがっくりと肩を落とした。

「ぼ、ボクの…………ボクの負けだよ笛音ちゃん……。
 ボクでは、そのひげになんか勝てないもの…………」

「ティーナちゃん…………」

「約束どおり、これでおにいちゃんは…………」

 悔しそうに、辛そうに、ティーナがそう言おうとしたのを、笛音が止めた。

「ううん…………」

「えっ? で、でも笛音ちゃん…………」

「いいの、ティーナちゃん。
 これからも、いっしょにおにいちゃんのおよめさんでいようよ、ね?」

「ふ、笛音ちゃん…………」

 思わず涙ぐんだティーナの肩に、笛音が手を置いた。
 でかくなりすぎたひげが邪魔で、ああだこうだした挙げ句に、ひげのど真ん中に
手を突っ込んで通らせて。
 ティーナは、自分の肩に置かれた手を、自分の手で握り返した。

「あー、いやいや良かった。
 …………それで、結局これってなんだったんだ、なあ?」

 仲を取り戻した二人に、笑顔でありながら何だかひきつった顔で、OLHは訊いた。

「ああ、だからねぇ、ボクたち、どっちがおにいちゃんにふさわしいおんななのか、
しょうぶしていたんだよ!」

 晴れやかな笑顔で、ドレス姿のティーナが言った。

「そうなの。どっちがえらくていいおんななのか、きめようって」

 こっちは、ひげのせいで表情も読みとれない笛音が、それに続けた。

「へ、へぇ…………えらい女……ね…………」

 確かに「えらい」女だ。スゴイひげだ。
 OLHは、頬のひきつりを一層大きくして、霜月の方を振り向いた。
 霜月は、その視線を受けるやいなや、額に冷や汗を掻きながらあらぬ方向を向いて
しまった。
 「ったく、後でどうしてやるか……」と、思いながらも、OLHは、ともかく笛音と
ティーナに言った。

「あのね……えらいって言うことはそう言う事じゃないんだよ…………」

 結局、OLHは、その後2時間掛けて、己の知能の限りを尽くし、自分の言葉をもって
「偉い」と言うのはどういう事なのか?と、二人に教えたのだった。





 さて、最後に、ひげ4のその後について述べておこう。
 ひげ4は、非常に上機嫌であった。

「ふふふ、こうしてまたひげの同志が増えたのである……と。
 我がひげ……えーと、ひげの会(仮)も順調に成長していると言う事だッ!」

「ふぅん…………」

 ゆきは、そう答える以外の言葉を持たない。
 と言うか、何か余計な事を言ったなら、自分もまた巻き込まれそうで、怖い。
 それでいて、積極的に逃げる事の出来ない自分の優柔不断が恨めしい。
 そんな、昼休みの一時。

「取り敢えず、姫川笛音嬢にはひげナンバーを差し上げないと。
 ゆき君! 君の何か好きな数字を言ってくれたまえっ!」

「え? そんな事言われてもなぁ……」

 そこで、ゆきは自分の手元の教科書を見下ろした。数学の教科書だった。

「えっと……141421356……とか」

「よし! 笛音嬢のひげなんばーは、141421356……長いッ!
 ………………だがそれもまた良しッ!!」

「いいんだ…………」

 ゆきは、やる気が無さそうにそう言った。
 間違っても、やる気があるように見えてはならない。
 やる気があるように見えた瞬間に、自分の口元にひげが付いているかも知れない。
 最近では、おちおち授業中でも寝ていられないのである。
 そんなゆきの戦々恐々など全く知らぬ風に、ひげ4は好きなように話を進める。

「さて、先日の来栖川警備保障に於けるひげ・プレゼンテーションによって、我がひげ
の素晴らしさに気付いた人間が、そろそろ同志として仲間入りを果たすべく僕の元へと
馳せ参じる頃ですかなッ?!」

「…………そうなんだ」

 そんな事あるわけないだろ……と、思うゆきの予想と期待は、裏切られた。

「ヒゲデスヒゲデス」

「おお、Dボックス君! 君もひげの素晴らしさに目覚めましたなっ!」

「メザメタデスメザメタデス」

「そ、そんなのありかぁ!」

「今日から君も、ひげの同志だ!」

 ひげ4と言う男は、つまりはこのようにして、どんどんと敵を増やしているらしい。
 ゆきは、その烈しい潮流の中に、自らが飲み込まれつつある恐ろしい予覚を感じず
にはいられないのだった。