汝ら奇なり 投稿者:XY−MEN


 其処は荒野と呼ぶべきであった。
 現実には、一学園の取るに足らぬただの校庭に過ぎぬ。
 だが、其処は確かに荒野と呼ぶべきであった。
 なぜならば、其処には二人の男が対峙しているのだから。

 一人の男をアイアウスと呼ぶ。
 鍛錬に鍛錬を重ねた巌のような筋肉を、惜し気こそ愚かとばかりに大気に晒しているそ
の姿は、人を威圧するに十分なものであろう。だが、何よりも人を圧倒するであろうもの
は、彼の身に纏うその装束にある。一言でその異様を表現するならば、それは冒涜の極。
爪先より太股までを覆うのは、仮に肉付きのよい女性が履いたなら、男心に訴求すること
大であろう網タイツ。股間を覆うブリーフは、如何なる不可思議を起こしたのか、その両
端は、腹部にて交差した後に両肩部へと掛けられている。そして何より恐怖すべきは、顔
面を覆う布切れにこそある。そう、それは、パンツ。パンティ。あるいはショーツ。即ち
は、女性下着である。なんと、この男たるや、女性下着を顔面に被っているのである。驚
愕すべきかな、恐怖すべきかな。正に、男性たるものを、女性たるものを、そして性別と
いうものを造りたもうた天をも冒涜する姿かたちを、何らの恐れも逡巡もなく世界へと広
げて見せているのだ。一体、この男は天が、神が、恐ろしくはないのだろうか。いつの日
か、神が神罰のいかづちを彼の身の上に落とす事を、畏れないのであろうか。そうではな
く、いつの日にか受くるべき罰を、自ら背負って生を送るような手合いなのだろうか。
ショーツの、本来足を通すべき二穴より覗く、引き絞られた平行四辺形のような瞳からは、
彼がいずれの人種であるかなど、判別し得る色合いは見えない。

 一人の男をTaSと呼ぶ。
 彼を彩るのは、黒白の二色だ。彼が身に通すのは、そう、白、白、白。純白。まるで、
朝の陽の光の中に見る新雪の色に似た、人の心をも透徹するかのような白一色の学生服。
白とは侵されざる神聖の色。何人も変えられぬ潔白の色。その白が、彼の色彩のひとつだ。
然るに、彼のもう一色は黒。そして円。彼の頭頂に、鎮座という表現を使わせるそれが、
渦巻いている。アフロである。髪々が、各々の赴くままに、進み、曲がり、激突し、激突
の故に再び曲がり、上を目指し、下を目指し、右を目指し、左を目指し、そういったこと
を無量大数も積み上げた上に円が現出する。それはまるで、逃げ惑う罪人の死者どもで寄
せかえる地獄のようである。さもなくば、魔界を照らす真ッ黒な太陽だろうか。そして、
その髪の円の下に、まるでアフロの黒に付き従ったの如き、靴墨で真ッ黒に彩色された顔
面が存在する。
再度表現する。彼は黒白二色の男である。
地獄のような黒と、天界のような白を、同時にその身で表現するこの男は、果たして善悪
何れに、神と悪魔の何れに帰結する人間なのであろうか。彼の瞳は、サングラスの向こう、
まるで夢幻の彼方に存在するかの如く、まるで見えはしない。



 二つの魁偉は、この荒野に聳え立って揺るぎもせぬ。
 互いは互いの瞳を射抜き合って離れもせぬ。
 荒野は二人の気のみで満ち満ちて、最早なにひとつの不純物もありはせぬ。
 そう、これは決戦の一刻前。

「理由(わけ)を――」
「――問わぬのか――」

 あたかも呟くように、アイアウスが語りかけた。

「不要デス――」
「――恐らくハ――」
「――アナタを初めて見たその時カラ――」
「――こうナルことは定まってイタ」
「ズット思ってイタ――」
「――アナタとワタシは――」
「――キット争い合う存在同士ナノだと――」
「――待ち焦がれてイタ――」

 TaSは笑顔であった。満面の笑顔であった。
 他の要素などなかった。戦士の悲哀など、闘争の虚無など、不要だ。そんなものは要り
はしない。ただ笑顔で受け入れるのが最も良い。そうに違いない。そう全身で信じている
のか、それとも、全身で信じる事に決めたのか、いずれだろうか。
 アイアウスはただ、そのTaSを、首肯で断じた。是、也。

「――潔し」
「――だが――」
「――私には私の矜持がある――」
「――故に我が闘争の意を――」
「――貴様に語っておこう」

 TaSもまた、そのアイアウスに首肯で応じた。是、也。
 アイアウスが語る。

「――我が敬愛する――」
「――我が信仰する――」
「――我が欲情する――」
「――ドミナ環」
「――その弟たる向坂雄二――」
「――彼を貴様らアフロ同盟に――」
「――緒方理奈を餌にアフロ同盟へ引き入れるなどは――」
「――この私が――」
「――このアイアウスが――」
「――ドミナ環への欲情に誓って――」
「――許さぬ」
「――そういうことだ」

 TaSは再び首肯で応じた。是、也。
 だがそれは、彼の言い分を受け入れて、己が退くなどという意味では、勿論、ないのだ。
 それは、アイアウスの、戦いの前提条件を受け入れた、ということだ。
 つまりは、この二人の間で、戦いの契約がなされたということだ。

「――アナクロですガ――」
「――トテモ美しい――」

 TaSはそんな修辞を以って、この契約を彩った。

「――イイででショウ」
「――戦いまショウ」
「――戦ッテ戦ッテ――」
「――ソシテ決めマショウ――」
「――勝っタ者が得る――」
「――負ケタ者が失ウ――」
「――ソレが生物世界の根源の――」
「――永遠のルール――」
「――ソレこそが今は相応シイ」

 契約文は、この台詞で結ばれた。

「――戦わん哉――」
「――ヨロシカロウ――」

 契約書に、両者の印が、押された。



「つおああぁぁぁッ!!」

 大気を掻き分けて、アイアウスが大地を跳ぶ。
 それは、空気を四分五裂に粉砕して突き進む弾丸に似て、TaSに迫った。

 ――ニヤリ。
 応じたのは笑みだ。TaSの、笑みだ。
 或いはそれは撃鉄か。狂気の光を吐き出すための、それは撃鉄なのか。
 急速に、TaSの頭部に闇であり光であるものが、昏き昏き輝きが収束し、凝縮されて
いく。一つの悪夢が解き放たれる。

「アフロッ! ビィィィムッッ!!」

 空間を穢しながら、暗黒が奔る。
 それは、地獄から伸びた恐慌の渦なのか。
 聴覚で捉えられぬ怨嗟に似た何かを撒き散らしながら、アイアウスに迫る。

「フゥゥゥゥオォォォッッ!」

 アイアウスは両手を揚羽蝶の羽根の如く広げ、悠久の時空をたゆたう天使のように世界
を躍った。ビームは彼の残像を撃つのみだ。虚しくも、虚空を過ぎ去り、しかる後に大地
を穿つばかり。一撃にて半径5mの大地を爆散させるその威力も、これでは蟷螂の斧と何
ほど変わりがあろうか。アイアウスは、背後に響く爆音をそのままに捨て置いて接近。
イントロダクションはこれにて終了する。彼の奏でる旋律は、突如に変化する。
さぁ始まるぞ。届けよう。優雅より情熱を。貴様に。

「シュアアアアアアッッ!!」

 連。連。連。連。連。
 続く、続く、続く、アイアウスの攻撃。
 拳が、手刀が、肘が、足刀が、膝が、撃つ、撃つ、撃つ。
 一方のTaSは、それを防ぎ、避ける。防戦一方。
 いや、防戦一方、にさせているのだ。
 一撃目で仕留める必要などない。相手の体勢を崩せればよい。下がる暇を与えなければ
よい。反撃の暇を与えなければよい。そうして集められた無数の一撃の先にこそ、仕留め
の一撃が生まれるのだ。アイアウスはそれを待ち続けた。

「HA!! ヤリマァス!ネ! デスガ!」

 またしても暗黒が、暗黒が、TaSの頭部へと凝縮を始める。
 物理法則すら戦慄させる、形而下の忌むべき奇跡が、二度発現しようとしているのだ。

 ほぼ零距離。TaSはただ首を傾けるだけでよい。そこには避けようもないほどにアイ
アウスの肉体があるのだから。後は撃鉄を鳴らすだけで、一撃は確実にアイアウスを打ち
のめすだろう。TaSの口の端が吊り上がった。
 光条が、発射される……
 その瞬間、アイアウスはTaSの視界から突如消えた。
 いや、だが、捉えている。アイアウスの肉体は下方へ沈み込んだに過ぎない。射角を下
方へ向ける……だが、それよりも速い。アイアウスはそれよりも速いのだ。下方に望んだ
目が見たのは、地上より大空へと射出された、肉の塊。岩石のような肉の塊が、空間を驀
進する。それは臀部を魁とする、アイアウスという名の砲弾だ。

「ヌゥゥゥゥアァァァァッ!!」

 咆吼一つ。臀部をTaSの顎に直撃させる。

「OH?!」

 衝撃に、TaSの顎が跳ね上がる。射角も一気に跳ねる。そして、止められぬままに、
ビームは発射され、あらぬ方角へ、空の彼方へと飛び去る。
 宙を浮遊する。一撃を受けたTaSも、一撃を食わせたアイアウスも。
 両者に違いがあるのは、攻撃を受けた側には体を御する術がないが、攻撃を仕掛けた側
にはそれがあるということだ。アイアウスはそのまま縦回転。

「フオオオオオォォォッッ!!」

 高く、円を描くように足を廻す。途上で、中空を浮くTaSの腹部に、踵が叩きつけら
れる。所謂踵落としの逆の要領で、追い撃つ。丸太のような太腿、つむじを巻く蹴撃。
まともに受けたTaSは空を目指したベクトルを更に加速させ、飛ぶ。一方のアイアウス
は、蹴りの勢いをそのままに、宙でくるりと一回り、事もなく着地する。

 一つの攻防が終了した。
 ゆらり、とアイアウスは振り返る。
 ……想定の範疇。
 TaSは、数mの距離を置いて何気もなく立っている。

 ――先の一撃を受けて、どうしてそのようにそのように立っているのか?
 ――先の一撃受けた後、如何にして体勢を整えたのか?
 ――先の一撃によって受けたダメージは如何ほどか?

 全て愚問。
 あの程度、彼には痛痒にもならぬのだ。
 そう、それが想定の範疇。
 驚くに値せぬ。

 TaSが呵々と笑う。

「――ナカナカやりマスね――」

 アイアウスはふん、と鼻を鳴らした。その顔で、その面貌で、その表情で言うことか。
 TaSは続ける。

「――オカエシをしなけれバ――」
「――ワタシも――」
「――ガンバらせていただきマス――」

 ぞくり。
 ぞくり。
 ぞくり。

 粟立つ。肌が粟立つ。
 ああ、感じる。感じるのだ。大気が、歪む。
 大気に異物が注入されていくかのような、恐るべき違和感。
 それは前方から、TaSから、その頭部のアフロから、始まっている。
 そう、始まっているのだ。TaSが成す、その、次の何かが。
 この男は何か? この、森羅万象に反すると感じられる何かは何か?
 この男は、何か恐るべきものの一端を覗かせようとしている。

「――なれど、我は退かじ!」

 奔る。TaSに向かい、アイアウス奔る。
 手のひらは平のまま、後方へと肘を引く。
 放たれた矢のように、貫手が喉笛に突き刺さらんとする。
 が、突如、アイアウスの視界が暗黒へと落ちる。
 何だ?これは一体何なのだ?
 吹き出た疑惑も、心を満たすことはなかった。その猶予が与えられなかったからである。
 放たれた貫手は、受けるべき衝撃を受けることもなく、奇怪な包容感に包まれたかと思
うと、何かの上を、つるりと滑ったかのようだった。
 いや、ただ滑っただけではこうはなるまい。何故ならば、アイアウスの体は、宙を吹き
飛んでいるのだから。
 大地に根を下ろして踏ん張るべき下半身も、下半身の安定を腕に伝えるべき上半身も、
貫手を撃った腕に付き合って吹き飛んだのだ。
 その奇怪な現象に、吹き飛んだ宙から逆さに見えたTaSを見つけて、アイアウスはや
っと気づいたのだ。
 ああ、そして、あれは凶。なんたる凶。凶の輝き。TaSのアフロより迸る、なんたる
凶よ。

「HAHAHAHAHAHAHA!! アフロ・ビィィィムッ!」

 哄笑が響く。暗黒が奔る空間に、響く。
 避ける事叶わぬ。防ぐことすらも叶わぬ。
 ただただ、ビームの猛威が、その速度が、その衝撃が、アイアウスの体を撃つばかり。
 砕かれるような、切り刻まれるような、溶かされるような、氷結されるような、そして
己の全てを抹消されるような、陵辱されるような、衝撃。
 その衝撃を受け、アイアウスの体は数m後方へと飛ばされていた。
 砂塵を上げながら、その体が地上へと叩きつけられる。

「ク、ガ、ウァァ!」

 呻く。痛みを吐き出すように。
 まだだ、この程度、どうと言うことはない。
 体を軋ませながら、アイアウスは立ち上がる。
 ぎりぎりと疼くものは無視する。
 まだまだ戦えるのだ。だから、そんなどうでもいいものは忘れる。
 そして向き直る。
 TaSは、面頬をつり上げた顔を曝して待ちかまえている。
 余裕か。しかしそれにしても。

「――奇怪な――」

 一体何をされたのか?
 一体何が起きたのか?
 判断がつかぬ。
 TaSは、アイアウスを悠然と見やっている。

「――HAHAHA――」
「――ドウしますカ――」
「――モウ一度試しマスか――」

 誘いだ。この言葉は誘い。
 もう一度掛かってくるがよいと、そうしたら再び迎撃してくれようと、そう言外に含め
ながら、アイアウスの闘争心に敢えて訴えかける、誘いだ。
 知っている。分かっている。そして、了解している。
 だから。

「――言わずと――」
「――知れたことッ――」

 アイアウスは、何度でも往くのだ。
 何度でも、我は凶器となろう。
 剣となろう。槍となろう。斧となろう。弾丸になろう。砲弾になろう。
 敵を穿つまで。敵を粉砕するまで。

 往く。往く。往く。
 振り翳す。拳を。
 そして突き込む。TaSに向かって、拳を。

 アイアウスは、それをやりながら、極限まで神経を研ぎ澄ませていた。
 そう、この瞬間に起こることを、見逃してはならない。
 ミリ秒の単位の時間の中で、いや、マイクロ秒の時間の中で、何かが起こる。いや、起
こされている。それを拾え。

 拳が進む。進む。進む。
 腰の回転に合わせて、左拳が引かれる代わりに右拳が進む。
 ミリメートルの単位で、マイクロメートルの単位で進んで行く。
 進み、進み、進み。
 拳は全行程の半ばまで到達したころ、それは起こった。

 ああ、暗黒だ。そう、先の攻撃の際にも、暗黒に包まれたのだ。
 だが、今は分かる。暗黒の正体が。今こそ捉えた。

 それはTaSのアフロだ。
 アイアウスに向けて突き出された、アフロだ。
 だが何だ、これは。途方もなく膨張している。恐るべき速度で、膨張している。
 そして何だ、この暗黒は。光の一滴すらも見つからぬ。これではまるで。

「――ブラックホール?――」

 そう、ブラックホールであるかのようだ。
 いや、ブラックホールであるのか?
 事実、アイアウスの体は急激にその中心に向けて引き込まれていくではないか。
 止められない。踏みとどまる術がない。
 引き寄せられる。吸い込まれて行く。

「――おおおおぉぉ?――」

 暗黒の中へ。
 暗黒の中へ。
 消えて行くアイアウス。
 加速して、伸びるように、縮むように、己が、己が、消えて行く。
 全てが、終わる。
 そして、突然に始まる。
 突然に提示される、世界。
 眼前に広がる宙空。
 ああ、それは元に己がいた世界。
 そう、アイアウスは、ブラックホールから吐き出されていた。
 はじけ飛ぶように、体は宙を進む。制御は叶わない。
 そして、背後より凶の呼び声。

「アフロ・ビィィィムッ! HAHAHA!!」

 背中を襲う衝撃。
 再び襲うあの痛苦。
 なんという陵辱。
 アイアウスは、再度地面へと叩きつけられた。
 地面を削り取り、砂煙と一緒くたになり、土塊を浴びながら、それでやっと体に掛けら
れたベクトルが零になる。

「――グ、ム――」

 二度目のクリーンヒットだ。
 それも、只の攻撃ではない。
 途方もない能力。
 よもや頭髪の中にブラックホールを飼うなどと、何人が知るか。何人が信じようか。
 だが、紛れもない事実。
 もし、この時に心が折れようと、誰が非難できよう。
 己には最早敵わぬと諦めたとして、誰に嗤うことができよう。
 もう立ち上がらぬとして、誰が妨げよう。
 だが、アイアウスは立ち上がる。

「――貴様の攻撃は――」
「――見切ったぞ――」

 TaSは楽しげな、なんとも楽しげな声で笑う。

「――HAHAHAHAHA――」
「――モシ本当に見切ったのナラ――」
「――ワカるはずデス――」
「――コノ防御を破ることナド――」
「――デキルはずがナイ――」

 自信と確信とそして驕慢。
 天を仰ぎ、両手を広げ、哄笑する。
 その姿は、あたかも天を嘲笑うが如く、侮辱的だ。

 だが、それだというのに、ああ、ああ、アイアウスよ、何故にそれ程に穏やかに微笑む
のか。

「――証明してみせよう――」

 この一言に込められた、アイアウスの精神の静謐はどうだ。
 まるで、深き森林の奥、朝靄の立ちこめる早朝の泉の水面ではないか。
 引き絞られた瞳が見つめているのはなにか。透いて通すその先に見つめるのは何か。
 TaSは奇妙な焦燥を面に表す。

「――HAHAHAHAHAHA!――」
「――ナラ――」
「――ヤッテみるがいいのデスヨッ――」
「――アフロビィィムッッ!!――」

 暗黒の矢が放たれる。
 それを契機とアイアウス、跳ぶ。
 再び、アイアウスは蝶となり、世界を飛ぶ。
 変幻自在のその機動、緩と急が入り乱れるその機動、然れども何故それが優美たるのか、
人よ、人よ、それに答えなど求めてはならぬ。美は美たるが故に美であるに過ぎぬ。解な
ど、宇宙の彼方まで追い求めても見つかりはしないのだ。
 暗黒の矢など、当たる由もない。アイアウスは飛ぶ。
 既に射程圏内。拳を飛ばせば優に届こう。

「サァ、来なサイ!」

 TaS吼える。
 アイアウス応える。

「ヌアアアアアアァァァ!!」

 渾身の一撃、右の拳が唸りを上げる。
 唸りを上げて、TaSの顔面へと飛んで行く。
 だが、それが突き刺さる一歩手前、またしても暗黒が、あの暗黒が広がり、拳を、アイ
アウスを包んでいく。

「HAHAHA! 捕まえマシタ!」

 暗黒に飲み込まれて行く。
 またしても為す術もなく。
 いや、だが、アイアウスの顔を見よ。
 その表情は、莞爾。
 そうだ、捉えたのは、アイアウスなのだ。

 我は全てを貫ける。
 我は全てを断ち切れる
 我は全てを粉砕出来る。

「――我が拳に賭けるは――」
「――我が欲情――」
「――遍く全て悉くを――」
「――震わせようぞ――」

 TaSの成すブラックホールの中、闇の濁流の猛威に押し流されながら、アイアウスは
咆吼を上げる。

「振動拳ッ・バイブフィストォォ!!」

 アイアウスの右拳が振動する。
 暗黒の渦の中で、重力の井戸の底で、その全てに抗うが如く、巨大な運動エネルギーを
発して振動する。
 振動が波動を呼び、波動が鳴動を呼ぶ。
 振動が、波動が、鳴動が、空間に満ちて響いて渡る。
 作用が、反作用が、互い互いにぶつかり合って砕け散る。
 重力も、ベクトルも、罅割れて崩れて行く。
 重力の渦が、ブラックホールが消えていく。
 暗黒が消えていく。
 そして、光り差す世界が戻ってくる。
 アイアウスは、元居た場所に、元居た通りの姿、形勢で戻っていた。

「……バカナッ?!」

 TaSの狼狽もさもあらん。
 だが、アイアウスはここにいるのだ。
 ブラックホールを超えて、今ここにいるのだ。

「――オオオオオオオ!――」

 右拳が突き抜ける。
 先の振動を残したままの右拳が、その勢いそのままに、TaSの頬へと突き刺さる。
 衝撃。衝撃。衝撃。
 TaSを打ちのめす一つの、しかし絶大な一撃。
 TaSの体が浮き上がる。頭部を先に、つま先を後に、両手をなびかせながら、後方へ
と飛んで行く。血しぶきを飛行の跡として残して、打ち出されて行く。
 ごうごうと空気と摩擦する音を轟かせながら十数mを飛び、そして空気との摩擦の所以
によって失速し、だがそれでも残った巨大なエネルギーを叩きつけて、地面を爆散させた。

 もうもうと土煙が舞う。
 TaSの姿は、砂塵の壁の向こう、覆い隠されて毫も見えない。
 アイアウスは両腕を露わな胸の前で組み、息を一つつく。
 組まれた腕の筋が、ゆっくりと定期的にぴくり、ぴくりと動いている。まるで何かを計
っているかのように。或いは、待ち人をしているかのように。

 やがて、砂塵の中に、影が一つ、浮かび上がる。
 それは直ぐに明確に輪郭を整えて、人影と判別されるに至る。

 見紛う者がいようか。その輪郭で。
 己の頭を撫でながら、砂塵の中から、TaSが現れる。

「――イヤァ――」
「――ヒドイ目にあいマシタ――」

 ぺっぺっと口の中の砂利を吐き出し、或いは頭部や白学生服に付着した砂を両手で払い
落としながら、苦笑に似た何かの表情をしながら、朗らかに語る。
 ダメージの影は…………窺い知れない。一体、この男にどのようなダメージを、どれほ
ど与えれば勝てるのだろうか。それを想像する時、果たしてそれをした者は平静でいられ
るであろうか?
 だが、アイアウスは平静である。

「――ふん――」
「――貴様は幽霊ではないか――」
「――生真面目に霊体の上に砂を被って見せるのは――」
「――何かの冗談かね――」

 TaSもまた、己の技を破られたにも関わらず、全くの平静だ。

「――HAHAHA――」
「――コノ方が気分が出マスカラ――」

「――全く――」
「――くだらない――」
「――貴様らしく――」
「――くだらない戯れだな――」

「――HAHAHA――」
「――言われテしまいマシタ――」

 TaSが呵々と笑う。
 アイアウスもまた、口の端を微かに上げて喉の奥で笑った。
 暫しの、執行猶予だ。
 次の戦闘フェイズの前の――

 TaSの笑いが収まる。
 荒野に一つの風が渡って、二人を急かした。

「――サテ――」
「――モウ準備運動はイイと思うのデスガ――」

 TaSが切り出す。
 準備運動と言った。確かに言った。
 では、これまでの戦いが、絶技を尽くした戦いが、体を温める程度のものでしかなかっ
たと、TaSはそう言うのか。

「――よかろう――」
「――私としても望む所だ――」

 アイアウスが応える。
 なんと、この男も言うのか。
 所詮は小手調べであったと、今よりこれまで以上の、超絶の戦いを始めようと、己らは
それを行うのだと、そう言うのか。

「――ただし――」
「――我々が己が全能を尽くせば――」
「――この学園が只では済まない――」
「――場所を変えようか――」
「――誰を傷つける事もない――」
「――何人の影響も受けない場所へ――」

 アイアウスの言葉に、TaSが頷く。

「――ショウチ――」

 同意の成立。
 彼らは、何処へと行こうと言うのか。

「――では出立――」

 バシュ!
 そんな、大気を炸裂させる音を響かせて、二人は飛んだ。
 50m上空まで飛び上がるまでにコンマ1秒掛かったのも最初だけであった。
 直ぐに二人は音の早さを超え、空気を切り裂く音を置き去りにしながら、上空にあった
積乱雲に大穴を開けて、更に上空へと飛翔する。既にライフル弾の初速など物の数ではな
い。更に加速が続く。ほんの十秒後には、高度500km、大気圏の境を飛び越えた。更
に加速が続く。続く二十秒後には、地上より26万kmを越え、重力の軛が外れた。上下
の別が無い世界への突入だ。加速は極まる。二人は光の速度を超えた。

 嗚呼、神は愕いていよう。
 嗚呼、神は憤っていよう。
 嗚呼、神は嘆いていよう。
 何故己の定めた法を破る者がいるのかと。
 何故人の身で、己の構想の外に位置する者が現れるのかと。
 何故、己の全知全能に点睛を欠くが如き事態が起こるのかと。

 二人は宇宙の深淵目指して飛行する。その体から、激しい光を放ちながら。
 五分後、二人は彼らが生まれ出でた銀河を飛び出した。
 既に人の目になど止まりはしない。人智が生み出した如何なる計測装置を用いた所で、
彼らとすれ違う瞬間を記録するのは困難だろう。数万光年の距離を置いてならば、銀河を
横切る二つの光を観測することが出来るかも知れない。ただし、数万年後に。

 十分の後、二人は目的の場所へと辿り着いた。
 アンドロメダ星雲のまっただ中。地球より数えて230万光年の彼方だ。
 数多の星々が、各々の色で輝きながら、二人の異邦人を歓迎している。
 異郷の宇宙に、ただ二人。
 二人は宇宙空間に静止した。

「――この辺りでよかろう――」

「――エエ、素敵な場所デス――」

 TaSははしゃいでいるようだった。
 踊っている。星影のワルツを。
 広大な闇と星々の煌めきの中、白き学生服が踊る。
 手を広げ足を伸ばし、あるいはそれらを折りたたみ、そしてくるくると身を翻して回る。
 それは、TaS流の、この銀河に対する礼であるのか。

 そしてアイアウスは、ブリーフの中より一つ、ショーツを取り出す。

「――ヒメカワ星人のショーツよ――」
「――我に大宇宙の加護を――」

 それまで被っていた向坂環のショーツの上に、そのショーツ……姫川琴音のショーツを
を更に被る。

「――ダブル・エクスタシー――」

 その瞬間、アイアウスの肉の、あるいは魂の密度がより濃く高くなったようだった。
 姿形は変わりない。しかし、その姿態から溢れる気配は、より濃密で豊かなものだ。
 より強力な生命を得た、と表現しても良い。
 溢れ出でるその力強い気に、思わずTaSも振り返る。

「――HAHAHA――」
「――ナンというファンタスティック――」
「――ワタシもイキリ立ってシマイマス――」

「――もう良いのか――」

「――ハイ――」
「――モウ待ちきれまセン――」

「――それは良かった――」
「――ならば始めよう――」

 二人は向かい合った。
 壮大なドラマが始まる。
 この巨大な宇宙を舞台にして。
 この巨大な宇宙を丸ごと呑み込むほどの。
 だがしかし、彼らたった二人のための。

「――戦わん哉!――」
「――ヨロシカロウ!――」

 二人が、宙を奔った。
 二人の相対距離は500万km。
 だがそれは、二人にとってはほんの一瞬で消える程度の距離でしかない。たかが鼻先の
距離に過ぎない。250万kmの距離にまで接近。射程距離に勝るTaSが、先手を取る。

「アフロ・ビィィィムッッ!!」

 暗黒の矢が、暗き宇宙の海に射出される。
 秒間にして320発の超速連射だ。それが、まっしぐらに宇宙を驀進するアイアウスに向
けて、五月雨の如く襲いかかる。
 アイアウスは、だが、避けようともしない。降り注ぐ暗黒の矢に向かい、己も矢となっ
た如く直進する。

「ヌオオォォォォ!!」

 アイアウスの左拳を見よ。振動拳・バイブフィスト。
 TaSのブラックホールを打ち破ったあの技が、今もまたその拳に宿っている。
 左拳を前に突き出す。一発目のアフロビームが接触。ビームは、無惨なまでにねじ曲が
り、虚空へと飛び去る。次のビームも、次の次のビームも、次の次の次のビームも、同じ
様にして振動拳の前に弾き飛ばされていく。ビームの弾雨の中を、アイアウスは些かの減
速も行わず、真一文字にTaSへと向かっていく。残り10mに接敵。右拳が握られる。

「フゥゥゥゥッ!!」

「OOOOOHHH!!」

 驚愕の声を上げるTaSの腹に、その右拳を思い切り叩きつける。
 今度は、TaSが矢のようになって飛ぶ番だ。背後1000万kmに位置していたアステロイ
ドベルトに突入。漂泊する小惑星の一つに激突するも、なおその勢いは止まらず、小惑星
の内部を突き抜け、バラバラに崩壊させながら尚も飛ぶ。0.5秒の間に更に1000万kmを行
き、アステロイドベルトを突破。だが、ああ、なんと言うことか。そこには既にアイアウ
スの影があるではないか。

「ホアアアアァァァッ!!」

 アイアウスは、飛来するTaSの体を待ち受けて、ひらり体を捻ると、一回転1ピコ秒
の回し蹴りをその背中にしたたかに打ち付けた。

「OOOOOUUUUUCCCHHHIIII!!」

 TaSは再度アステロイドベルトに突入。今度は小惑星二つを粉砕しながらもアステロ
イドベルトを突き抜け、その先8000万km先に待ち受けるかのように佇んでいた惑星の大気
の層を突き破り、空気を真っ赤に燃やしながら飛ぶ。
 この惑星は誕生以来6億年の若い惑星だ。
 既に海は存在しているものの、そこにいるのはせいぜいが単細胞生物。この後数十億年
の時間を掛けて、長い長い生命の進化の歴史が始まるのだ。その母となる海に激突し、そ
れを爆破し、海底に拭えぬ疵痕を刻み込みながら、TaSは尚も止まらない。1万kmほど
海中を疾走したのち離水。大気の層に阻まれつつも空へ向けて打ち出され、大気圏を突破。
間もなくこの惑星の衛星の一つの表面に激突。深さ1000kmほどの大穴を空けたところで、
やっと停止に至った。

 アイアウスは、この惑星の軌道上に静止した。
 惑星上では海の爆破により巨大な水煙、いや既に水蒸気の層と呼べるものが一帯を覆い
つつある。海面では、各大陸の岸を木っ端微塵にするような巨大な津波が起こっていよう。
 そして衛星には、土煙の層の向こう、巨大なクレーターが出来上がっている。
 いつかこの惑星が有人惑星となった時、識者達はこの巨大なクレーターを見て、一体何
物が落ちたのだろうか、と知力とロマンを闘わせるのだろうか。

 アイアウスの視線は、衛星のクレーターの中心に注がれている。
 衛星の表面が煙る。未だそれは晴れる事はない。
 TaSも未だ、姿を見せない。

「――ふん――」
「――勿体付けるものだ――」

 苦笑しながら待つ。
 まだTaSは現れない。
 土煙は少し薄くなって来ている。
 アイアウスは顎を一つ撫でた。
 あの霞が消えたなら、その時が戦闘再開の合図であると、TaSは問いかけているのだ
ろうか。だとすれば、それはあと少しだけの後だ。
 ぐっと胸を反らし、両腕を両足を、その肉を伸縮させて待つ。

 クレーターを覆う霞が、ついに晴れる。

 何だ。
 一体なんだ。
 あれは、何なのだ。

 アイアウスの瞳が捉えたのは、赤。赤き球。
 何だ、あの見知らぬ色彩は。あの、異常なまでに鮮やかな、不吉なまでに鮮やかな、あ
の赤は何なのだ。

「――馬鹿な――」
「――あれはまさか――」

 球が、揺れる。
 覗く、白。
 それは、顔。
 赤き球の下から、白き面貌が現れる。
 ああ、まさか。だが間違いない。

「――TaS――」

 アイアウスが呟く。
 呆然と、呟く。
 怪奇が、目の前にある。
 戦慄が、目の前にある。

 あの男は、黒白の男であったはずだ。
 それが、何故こうなる?
 地獄のような漆黒で埋め尽くされていた髪々は、紅蓮舌のような赤に変わった。
 丑三つ時のような暗黒に塗り尽くされていた顔面は、不気味なまでの不自然な白になり、
唇の赤さを邪悪に彩っている。
 新雪のような白であった学生服は、吐き気を催すほどの自己顕示を隠しもしない、圧倒
的なまでの黄色と成り果てた。
 最後に残ったTaSの名残とばかり、元のままの黒いサングラスが、奇妙に寂しげに見
える。

「――HAHAHA――」
「――HAHAHAHAHAHAHA――」
「――HAHAHAHAHAHAHAHAHAHAHAHAHAHA!!――」

 嗚呼、見るがいい。魔と成り果てた男が哄笑する。
 圧倒的な妖の気配。
 網膜に映すだけで理解出来る何かがある。
 この男は何かを捨てたのだ。
 何かを捨てて、あれになったのだ。

「――アフロ・ビーム・ジェノサイドッッ!!――」

 紅蓮の球より、無数の光条が発射される。
 その色は、同じく紅蓮。
 数は5946本。
 同時斉射。
 あたかも活火山のように、火山弾を吐き出すように、災厄を虚空にばら撒いた。

「――ちぃっ!――」

 アイアウスは即座に回避に移る。
 迫り来る血色の無数のビームを、天頂方向へと弾けるように運動して躱す。
 だが。

「――何?!――」

 ビームの軌道が、曲がる。
 アイアウスを追尾し、5946本のビームが一斉に美しい曲線を描いた。
 いや、だが、それぞれの軌道は一様ではない。
 アイアウスの足下から狙う軌道。アイアウスの右より迫る軌道。アイアウスの左をふさ
ぐ軌道。アイアウスの背後を衝く軌道。アイアウスの正面を遮断する軌道。アイアウスの
上方向へ先回りする軌道。
 全て、アイアウスの周囲はビームで埋め尽くされる。
 そして。

「ヌオッ!」

 それらは、一度にアイアウスの体に躍りかかり、両手に、両足に、首に、胴に巻き付き、
それらを千切らんばかりに締め上げ、五体の自由を完全に奪った。

「クオオオオッ!」

「HAーーHAHAHAHAHAHAHAHA!!」

 ぶんっ、とアイアウスの体が振られる。
 ビームの束によって引っ張られ、無理矢理に宙を移動させられる。
 その先は、惑星。
 つい先ほど、TaSが突き抜けたこの惑星の、大陸のど真ん中へと向けて、アイアウス
は微塵の容赦もなく叩きつけられるのだ。
 大気圏の壁もなにするものぞ、アイアウスは落ちる、落ちる。
 数百kmの大気の層を、0.8秒のうちに破り抜け、標高7000mはあろう山脈の天辺へと激突
する。
 激突の衝撃、落下の際の衝撃波、行き場を失った大気の爆発、激突の震動を受けての大
地震の発生。
 正に厄災。天より来たる厄災。それが今のアイアウスを呼ばう名称か。
 しかし、彼を厄災と成さしめた真実の厄災であるTaSは、この程度で終わらせるつも
りなど毛頭ない。
 アイアウスが引き寄せられる。標高7000mが跡形もない、最深部1000mのクレーターの底
から。再度大気の壁を、先と同じ0.8秒で突き破って。
 TaSは、惑星より50万kmの宙に位置しながら、己の頭部から伸びた赤い赤い鞭を、そ
の先端がちょうどぶつかるように、20万km先の衛星に向けて揮う。
 大気圏を飛び出てより1.2秒後、アイアウスは、今度は衛星の表面に叩きつけられた。
 衛星の半径は約4万km。アイアウスは、一撃で約3万kmの地底まで叩き込まれた。既に
衛星の中心を突き抜けている。
 衛星が、窪む。衛星そのものの崩壊の危険すらある状態だ。
 ここで、やっとTaSは、ビームの束を消し、攻勢を終わらせた。

「――なあんチャッテ――」

 否、まだ終わらせないのか。
 否、止めを刺すつもりなのか。
 TaSの頭部に、悪夢が凝縮される。
 それは、この宇宙と言う名の器の中身を掻き混ぜ、磨り潰し、泡立て、ドロドロに溶か
しきるかのような、狂気そのものの力だ。
 そう、直径30kmの狂気。それが――

「――アフロ・ビーム・イレイザー!!――」

 迸る。狂気が、走る。
 衛星に向かって、一毛も逸れることなく、直線に、直線に、飛んで、突き刺さる。
 赤々と輝きながら、衛星の大地を照らしながら、その大地を崩して、溶かして、めり込
んで行く。
 衛星の大地が、ひび割れる。縦横に、ひびが走っていく。それは、ただ一瞬だけ峡谷で
あったかも知れないが、すぐにそれはただの断面になり、そして断面ですらなくなった。
 衛星は、木っ端微塵に爆散して、その破片はただの宇宙の塵の一つとなった。

「――フフ――」

 TaSは笑みを浮かべる。
 赤い唇の端が、弧を描いて吊り上がる。
 赤と、白と、その中に取り残された黒……その黒のサングラスの奥で、衛星が消えたそ
の場所を、じっと伺っている。

「――サァ――」
「――マダマダこれからデス――」
「――マダマダ楽しみマショウ――」

 呼びかける。
 人を誑かすかのように。
 魔が人を陥れるように。

 アイアウスの姿が現れる。
 衛星の破片が散乱する宙域のただ中から。
 薄汚れながら、傷つきながら、だが、アイアウス、健在。

「――とっさに――」
「――新城沙織と柏木梓と宮内レミィ――」
「――三人のショーツを更に被らねば終わっていた――」

 大きく肩で息をする。
 切れた頬を拭う。吹き出た血液が、無数の球となって宇宙空間に散った。

「――だが――」

 だが、通常の五倍のショーツを使用してまでも、未だ彼我の戦力差は埋められぬ。
 それが、アイアウスの実感する処なのだ。
 アイアウスは、被るショーツの量を増やすほどにその力を増す。
 しかし、同時にそれは、肉体に対する負荷の増加と引き替えにしてである。
 今現在も、膨張し過ぎた体内のエネルギーが、体を溶かし尽すのではないかというほど
の苦となって体全体を包み込んでいる。
 これ以上の負荷を増やして、果たして己が保てるのか。膨張しすぎたエネルギーによっ
て、その熱の中に己は消えて行ってしまうのではないか。
 恐怖する。

「――アフロ・ビーム・トーチャー!――」

 アイアウスの逡巡を、TaSは待ちはしない。
 今まさにアフロから放たれたのは、五本の赤い光だ。
 だが、それはまっすぐアイアウスには向かわない。各々、アイアウスからは多少外れた
地点を目指して伸びる。距離的にTaS・アイアウス間のそれよりもやや行き過ぎて、そ
こでビームの延長は停止する。五本の停止位置を結ぶと、正にそれは正五角形。一辺は4000
kmほどになろうか。

「――これは――」

 不吉。
 そして。

「HAHAHAHAHA!!」

 アイアウスの周囲を囲った五つの光線は、振り下ろされる鞭よろしく、アイアウスの体
を打ち据えんと宇宙の闇を、びゅう!と切り裂いた。

「――くっ――」

 一本目はかろうじて躱した。
 二本目は体を掠めた。
 三本目は……避ける余地を残してくれなかった。

 熱い。熱い衝撃が、アイアウスを打つ。
 この熱量は……計れば万の値を優に超えているのだろうか。
 灼熱の鞭が五本、代わる代わるにアイアウスの肉体に浴びせられる。
 一度食ったが最後、回避に回る隙も与えてくれぬのか。

 背を打ち、腹を打ち、顔を打ち、尻を打った。
 ああ、アイアウスの肉体に、その巌の如き肉体に、刻まれていく灼熱の疵痕。
 肉体を削らるかのような衝撃の連続に、アイアウスは砕け散らんばかりだ。

『――このままでは――』

 このままでは、敗北。死。
 ならば。ならば。ならば?
 ならばなんとする。
 為すべきは、為すべきは。
 逡巡は、やがて消えていく。
 精神の天秤が傾きかける。

「――デハ、そろそろオシマイにシマス――」

 アイアウスを、灼熱の鞭でいたぶる事138秒。回数にして3422回。
 TaSは、遂に終焉を望む。
 この戦いの、そしてアイアウスの。
 TaSは、五本のビームを、再び正五角形に位置させた。
 ちょうど、底が五角形の錐が形作られる格好だ。
 五角錐の六つの面が、線と同じ、紅蓮に彩られる。
 アイアウスは、その内側に閉じ込められる。

「――ぬっ――」

「OH! YEAH!!」

 TaSのそのかけ声と共に、五角錐の内部で、無数の火花が散り始める。
 アイアウスの周囲でもそれは起こり、彼の体を灼いていく。

「うぐああああああ!!」

「HAHAHAHAHA!!」

 いくつもの灼熱が弾けていく。その数は加速度的に増えて行き、アイアウスの体を覆い
隠して行く。五角錐の内側は、今や6000万度の灼熱の海と化している。

「――死――」

 アイアウスは呟いた。
 今、自分は、そう、死の隣まで近づいているのだ。
 死神が、今や遅しと手ぐすね引いて待っている。
 それを認識する。そして。

「――なぬ――」
「――死なぬ――」

 それを拒否する。
 抗おう。抗って、生きよう。
 そして、そのために。

「――篠塚弥生ショーツよ――」
「――高瀬瑞希のショーツよ――」
「――リサ・ヴィクセンのショーツよ――」
「――カミュのショーツよ――」
「――麻生明日菜のショーツよ――」
「――我に力を!!――」

 新たに取り出した五つのショーツ。五つの力。
 もう躊躇は無い。
 己の身を灼いて今、新たなる次元へ。
 アイアウスは、五つのショーツを、これまでの五つのショーツの上に被った。
 アイアウス、今、十の力を得て、限界を凌駕する。

「――テン・エクスタシー!――」

 TaSは、己の構成した灼熱の五角錐の内部を、より苛烈に掻き混ぜた。
 もうここまでだ。もうこれ以上の戦いは不要だ。
 速やかに終わらせよう。速やかに、アイアウスの命を絶とう。
 アイアウスには、灼熱の中に消えゆく運命のみが待っている。
 その筈だった。
 だが、TaSの目は、彼が想像し得なかった物を捉えた。

「ヌオオオオオオ!!」

 咆吼と共に、灼熱の五角錐が打ち破られていく。
 錐を構成していた線が、面が、TaSのアフロビームが突き破られ、断ち切られていく。

「――ナント――」

 呆然と独語する。
 これは、如何なる事態なのだ。アイアウスに何が起きたのだ。
 その回答が、アイアウスそのものが、今、TaSの目の前、宇宙に向けて示される。
 散々に打ち破られ、打ち砕かれた五角錐。今や粉砕され、消失していく五角錐。
 かつてそれが存在した宙域に、それを破壊した者が、いる。

 アイアウス。
 だがそれは、アイアウスを超えたアイアウスだ。
 巌のように鍛え上げられた肉体は、更なるパンプアップを遂げ、そのシルエットは最早
異形に近い。
 肌の色は赤銅の色。まるで、体の内に太陽を宿したかのような、暗く燃え上がるような
強者の色だ。
 顔面には、十を数える業が重ねられている。力を得た由縁と、力を得たが故の由縁が、
この面相に凝縮されていた。

「――アイアウス・ディエチ!!ー――」

 名乗りを上げる。
 超越仮面アイアウス・ディエチ。ここに誕生。
 TaSは、喉を鳴らす。
 白い額に汗が浮いた。
 手が、困惑を示すように、わななく。それが止まったとき。

「アフロ・ビーム・ジェノサイドッッ!!」

 TaSは仕掛けていた。
 8199本の紅い光条。
 獲物をどこまでも追尾し、その体を捉え、巻き付き、締め上げる8199匹の蛇達。
 放たれた蛇達が、アイアウスへと疾走する。
 だが、標的となったアイアウスは、腕を組んだまま、瞳を閉じて巨岩のように佇んでい
る。

「――イケー!――」

 TaSの号令。
 ビームの襲来。
 直撃まで、3、2、1。
 アイアウスは、瞳を開く。

「――フォォォォォーッッ!!――」

 着弾。
 いや、着弾せず。
 8199本のビームは、アイアウスの体を直撃する直前に、蒸発して消し飛んだ。
 アイアウスの体が、紅い気配で包まれている。
 アイアウスの体から、溢れているのだ。熱が。情熱が。
 赤銅色の腕を上げ、TaSを指さす。

「――TaSよ、教えてやろう――」
「――灼熱のエクスタシーという奴をな!――」

 アイアウスは、指さした手をゆっくりと広げ、それからゆっくりと握る。
 途端に、爆発的な加速を行って、TaSへ向かってひた走る。
 TaSは、くっと喉を締めるや、迎撃の技を展開する。

「――アフロ・ビーム・イレイザー!!――」

 直径30kmの狂気が、瞬時に構成された。
 狙いを付ける間も惜しいとばかり、即時の発射。
 アイアウスへの直撃コース。
 だというのに。
 アイアウスは防御の構えすら取らぬ。
 右の腕も左の腕も、広げたまま、顔も腹も守らぬ。
 このアフロ・ビーム・イレイザーを侮るか、アイアウス。
 しかし。

「――ハァァァァッッ!!――」

 気合一閃。
 アフロ・ビーム・イレイザーは、アイアウスの体表に辿り着くまでもなく、消し飛ぶ。
 直径30kmが、身長2m足らずと相克して、一方的に消滅する。
 なんという光景。
 アイアウスの速度は、加われど減らず。一気にTaSの懐に飛び込んだ。

「チュリャチュリャチュリャチュリャチュリャチュリャチュリャチュリャチュリャ!!」

 突く、蹴る、叩く、薙ぐ、一方的な、連なり連なる打撃の数々。
 全て全てがTaSの体に、寸毫も誤たず打ち込まれる。

「OHHHHAAAAA!!」

 苦悶。だが、アイアウスの攻勢は尚も続く。
 アイアウスはTaSの背後に素早く回り込むと、その背を一撃、惑星に向けて落下させる。
 そして己もそれを追って加速。大気圏突入。
 頭部を先にして落下して行くTaSに追いつく。

「――快楽超特急・デッド・エンド・スピン!!――」

 アイアウスは、TaSの後頭部に取り付き、それを己のブリーフの中に埋め込んだ。
 己自身はV字開脚、流線型の形態を取って、大気の壁の中を突っ切る。

「GYAAAAAAAA!!」

 悲鳴。アイアウスの灼熱の肉体に灼かれ、大気と激突する衝撃に打たれ、TaSが上げ
る悲鳴。だが、真の衝撃はこれから。
 TaSとアイアウス、地上と衝突・そのまま横回転を開始・掘削。
 地殻を、マントルを、外核を粉砕して内核に突き進んでも終わらない、二人の旅。
 内核を貫通し、外核を貫通し、マントルを貫通し、地殻を貫通し、再度地表に飛び出て、
それでも止まらない。背後で、崩壊する惑星。およそ15万kmの穴を空けられ、惑星が苦悶
に身をよじる。爆発までに、あと幾ばくか。だが、アイアウスとTaSには構うべき何も
無いことだ。闘争のただ中にある二人には。
 TaSは、アイアウスは、飛ぶ。ひたすらに。この惑星系の、太陽に向けて。

「――フィニッシュ!!――」

 2億5000万kmの先、太陽。
 0.5秒の刹那、彼らは辿り着く。
 だが、ここから先は、一人で行くがいい。
 TaS一人で行くがいい。

「――さらば!――」

 アイアウスは、己のブリーフに顔を突っ込んでいたTaSを切り離して、急停止。
 TaSはそのまま、太陽の中へと突っ込んでいく。

「UGAAAAAAA!!」

 断末魔。
 TaSの姿が、太陽の炎の中に、消えていく。
 彼は、あの煉獄の中で、塵の一つも残されず、溶けて崩れて気化してなくなるのだ。

「――TaS……我が敵手よ――」
「――その戦いを、永劫に敬しよう――」

 せめての弔いに、ささやかな言葉を静寂の宇宙に響かせよう。
 アイアウスが目を閉じる。
 微かに頭を垂れ、彼との戦いに思いを致す。

「――アリーヴェ・デルチ――」

 別れの言葉だ。
 さらば戦士。
 さらばTaS。

 だが。
 勝者の儀式のただ中。
 異変が起こる。
 太陽が、縮んでいく。

「――何だと――」

 容積が、質量が、熱量が、全て弱まり、小さくなっていく。
 1500万kmの直径が、みるみるうちに半分に、またその半分に、更にその半分に縮小を続
けていく。既に10万km、5万km、1万km、5000km、2000km。もう太陽の体を成していない。
もう、生物の源たる力などない。弱くて小さい、もう恒星と呼べないもの。1000km、500km、
100km。風前の灯火。50km、20km、5km、1km、500m、200m、100m、50m、20m、10m、5m。

 ああ、やはりそうなのか。やはりそうなのだな。
 それを行ったのは、TaSなのだ。
 人影が見える。既にただの火球となりさがったものに照らされて、あのシルエットが、
宇宙に浮かび上がる。
 2m、1m、50cm、20cm、10cm。そして、完全消失。

 アイアウスの眼光が、光る。
 TaSの状況を確認。

 大きく肩を上下させている。全身で喘いでいるその姿。
 見ればそれは、赤と白と黄色の男ではない。黒白の男だ。
 黒く、巨大な円を描くアフロ。闇に溶け込む顔色。サングラス。そして、新雪のような
真っ白な学生服。
 元の、TaSだ。
 疲労して、衰弱して、傷ついて、焼けこげた、TaS。

「――そうか――」

 ブラックホールを使ったのだ。
 TaSは、あらん限りの力をつぎ込んで、太陽を己のブラックホールに飲み込んで、こ
の窮地をなんとか脱したのだ。
 それを理解した。
 そして、TaSの状態も。
 最早、戦闘に耐えられる状態ではないと。

「――HAーHAーHAーHAー……――」
「――参りマシタ――」
「――強いですネーアイアウスサン――」

 あくまでも笑顔。あくまでも軽口。
 だが、力がない。
 もう欠片程度の余裕も残っていないのだ。
 それを見て取る。

「――よくぞ生き残ったものだ――」
「――だが――」
「――もはや戦えまい――」
「――降伏するがいい――」
「――敗北を認めるがいい――」
「――命までは取るまい――」

 静かに、アイアウスは告げる。
 TaSは、静かに笑った。

「――HAHAHAHA――」

 笑いが止まり、沈黙。
 TaSがうなだれる。

「――仕方ありまセン――」

 一拍の間。そして。

「――デスガ、まだ終わりまセン――」

 TaSは言った。
 アイアウスは、ショーツに隠れた向こうで、やや苦い顔をする。

「――愚かな――」

「――そうかもしれまセン――」
「――タダシ――」
「――アナタの思うのとは別の意味デ――」

 TaSは、奇妙な事を言った。
 アイアウスは、微かに、己が戦くのを確かに感じた。
 悪寒。何故だ。このTaSに、まだ戦力が残っているというのか。
 そう思えない。そう感じられない。
 だがしかし。

「――禁じられたワザ――」
「――使わセテもらいマス――」

 TaSが、笑った。

「――使いタクはなかッタ――」

 TaSが、笑った。

「――出来レバ忘れていたかっタ――」

 TaSが、寂しく笑った。

「――これダケは――」

 アイアウスは総毛立つ。
 何も残っていないはずのTaSから、何故これほどの戦慄を受けるのか。
 理解出来ない。
 もしかすると、理解しないでいたい何かなのか。
 己の第六感が捉えているのは、そういう類の恐るべき何かなのか。
 TaSが、最後の言葉を吐き出した。

「――イキマス――」
「――暗黒女王の行軍――」

 おおおおおおおおおおおおおん。
 慟哭している。宇宙が、慟哭している。
 この宇宙の、全身全霊を掛けた拒否反応。
 宇宙が、震える。

 おおおおおおおおおおおおおん。
 哭いている。TaSが哭いている。
 己が身を震わせて、己の頭を抱いて、心胆の底から苦痛・恐怖・悲嘆の全てを絞り出す
ように、哭いている。

 恐慌が起こる。この宇宙の精神を破壊するほどの恐慌が。

 アイアウスは動けない。
 精神が働かない。まるで白痴になったように。
 逃げる事すら出来ない。思い付く理性の働きがない。
 ただ佇むしか出来ない。
 ただ見ているしか出来ない。
 純粋なる邪の誕生を。

 TaSが鳴動する。
 邪悪を呼ぶ怨嗟のような、鳴動だ。
 その頭部の球。アフロ。それが、鼓動する。
 どくん、どくんと鼓動する。
 鼓動の度に、それは膨張していく。
 どくん、どくんと鼓動する。
 まるで真っ黒な風船。だが、その中に詰められているのは何か。
 おそらくそれは、忌むべきもの。あってはならぬもの。
 禁忌が詰まっているのだ。禁忌が今、詰められているのだ。
 膨らむ。膨らむ。
 既にその大きさは、直径2mの大きさに達している。
 鼓動が止まった。
 TaSも、その鳴動も、全てが一度に止まった。
 宇宙の慟哭までも、黙った。
 アイアウスは動けない。
 次の瞬間を、ただただ待つ。

 ぴしり。
 亀裂が入った。
 2m大にまで膨らんだアフロに亀裂が走る。
 そう、これはもうアフロではないのだ。
 これは、卵。
 孵化するのは邪悪。
 卵の殻がひび割れる。
 TaSという名の卵の殻が。
 ひび割れて、そして、無数の破片となって散った。
 TaSと呼ばれたものは、粉々になって宇宙の闇の中に放逐された。

 そして。
 生まれ出る邪悪。
 この宇宙に出現した邪悪。
 その姿は、15歳相当の女性のものと同質である。
 身長は160cm弱程度。腰まであろう黒髪が、くしけずった直後のような整いようで、ふ
わりとたなびく。
 肌は白く、淡雪を思わせる色。黒百合の花弁をいくつも合わせたような形状の衣服が、
その上を覆う。
 端正に整った顔。紅い瞳が印象的な、美少女、であるはずだ、人間の基準に照らすなら。
 それだというのに、アイアウスは震える。瘧に取り憑かれたように。

「――これが――」
「――暗黒女王――」

 己が口から出した言葉が、己の精神を侵す。
 名前すらも忌まわしい。腹が、胸が、喉が、口が、爛れるかのように忌まわしい。
 暗黒女王が、ゆっくりと伏せていた視線をアイアウスに向ける。
 嗚呼、見てはならぬ。あの瞳を、見てはならぬ。
 精神は恐慌に陥りかねないほどの拒否反応を起こしているのに、視線はほんのごく僅か
すら、動かせない。
 暗黒女王と、アイアウスの視線が交じわる。
 強烈な嘔吐感が込み上げる。
 なんという邪悪。人間であれば穏やかな微笑みであるはずのそれは、アイアウスの精神
を、まるで擦り削るかのように働きかけてくる。
 視覚から毒虫が入り込み、脳髄を這いずっていくような苦悶。
 アイアウスは、懸命に拳を握ろうとする。
 戦わねば。戦わねば。
 あれは敵なのだから。
 戦わねば。
 構えを、取らねば。
 だが、その構えすらもまともに取れない。
 体中の神経という神経が、恐慌に侵されて痺れ果てている。
 ぶるぶると、ぎりぎりと、出来の悪いブリキの玩具のようにしか、肉体が動かない。

「――この――」
「――まま――」
「――では――」

 ――嬲り――殺される。

 暗黒女王は、もはや木偶も同然となったアイアウスを、人間であるならば優しいと表現
出来る視線で観察する。そして、彼女は。

「――HAHAHAHAHAHAHAHA!!――」

 嗤った。
 優しい視線のままで、アイアウスを嗤った。
 人間を嗤った。
 生きとし生ける者を嗤った。
 この宇宙の全てのモノを嗤った。
 彼女の嗤い声は、この惑星系全てを覆った。
 そして、この惑星系の全てを、否定した。

「――ッッ――」

 アイアウスの精神は絶叫を欲したが、アイアウスの肉体はそれに応えてくれなかった。
 邪悪の嗤いの前に、アイアウスの細胞達は、揃って壊死し掛けたからだ。
 暗黒女王の嗤いは、魂を、そして、存在そのものを嗤う。
 嗤われたモノは、この世界で存在する力そのものを破壊されるのだ。
 破壊されて、崩壊して、そして、この世界から消え去ってしまう。
 アイアウスは、その強靱な生命力によって、辛うじて自らの崩壊を防いだ。
 そう、彼はまだましなのである。
 何故なら、先の一嗤いで、この惑星系の18の惑星は、全て消滅したのだから。
 無論、消えたのは惑星のみではない。
 アイアウスとTaSの戦闘で崩壊した惑星とその衛星の破片。アステロイドベルトや飛
来していた彗星。宇宙空間に漂っていた微少の塵やガスも。ダークマターもエーテルもだ。
 半径100億kmの範囲は、何も無くなった。
 真空とすら、呼べるのかどうか分からない。
 何もかもが否定されて、何もかもが消失させられたのだ。
 そして、二度と何物も存在出来ない空間になってしまったのだ。

 その、消滅の空間の中に、暗黒女王とアイアウス、ただ二人。
 アイアウスは、暗黒女王の嗤いを耐え切った。
 だが、二度嗤われたなら、その時この世界から消え去る事を避けられまい。
 もう肉体が動かない。指一本が動くかどうか。言葉の一つを発する事すら困難だ。
 今のアイアウスは、壊れたブリキの人形に等しい。
 戦闘能力など、論外。

『――正に、死に体の我が身――』

 空間を無為に漂う。
 己の行き先も決められぬほどに、衰弱。
 全てに否定されるほどに、絶望。

『――だがそれでも――』

 それでも、まだ、敗北した訳ではない。
 己が零になったのではないのだから。

『――この体に――』
『――まだ悦びが残っているのだから――』
『――生者の悦びが残っているのだから――』

 未だその体に残る熱がある。
 尽きせぬ興奮がある。
 果てしない欲望が残っている。
 だから。

『――まだ私は――』
『――戦える――』

 アイアウスの瞳が開かれる。
 その眼が暗黒女王の姿を捉える。
 暗黒女王は、笑顔で、穏やかな邪眼で、アイアウスを射る。
 アイアウスの唇が語る。

「――我は――」
「――愛し合う……人の子……アイアウス――」

 暗黒女王は、ただ、アイアウスを見つめている。断末魔を看取るように。
 アイアウスの唇が語る。

「――我は――」
「――我が……愛に掛けて――」
「――我が欲情を……貴様に……届けよう――」

 ゆっくりと、アイアウスの指が、己の胸元に触れる。
 そこは、股間から長く長く伸びたブリーフが交差する場所。
 アイアウスは、それを、指の刃で切り裂いた。

 ピシン。
 アイアウスのブリーフが弾け飛ぶ。
 今、戒めの解かれる時。
 今、禁忌を犯す時。

 今もはや、アイアウスを覆うは顔面のショーツのみ。
 彼は素裸。全ては素裸。されど素裸にあらず。
 神の定めたもうた法にも、人が定めたもうた法にも従わぬ。
 己の魂を、己の存在を、限りなく自由に、限りなく崇高に致すための、たった一つの法。
 アイアウスの肉体に熱い息吹が甦る。

「――命燃やす時が来た!――」

 アイアウスの肉体が、血が、肉が、躍らんばかりに訴える。
 我、欲情したり。
 腕がわななく。脚がわななく。悦び満ちたるが故に。
 両腕を広げ、両足を広げる。解放された魂を、燃え上がる魂を、見せるように。
 体中を駆けめぐる、己が生命そのもの。
 炎となった命が、暗黒女王の恐慌を駆逐する。
 命のちからが、暗黒女王の恐慌を駆逐する。
 アイアウスから放たれる波動。
 その色は琥珀。
 琥珀色の戦士。
 人の魂の、究極の形。
 その名を告げる。

「――我は――」
「――アイアウス・XRATEDなり!――」

 暗黒女王は、優しげな、冷え付いた視線を琥珀色の戦士に投げかける。
 そして突きつける。右手、三本の指を立てて。
 アイアウスは頷く。

「――そうだ――」
「――如何にもその通り――」
「――我に与えられたるは――」
「――僅か三分の時間のみ――」

 嗚呼彼は、そうなのだ。
 唯一、暗黒女王の恐慌を退けるために、そのための法として、彼は己の魂を、己の存在
をも燃やす。解き放った己のいのち・欲情で、恐慌を灼き、己も灼き尽すのだ。
 猶予は、ただの三分間。
 三分間の絶頂の時間の後、アイアウスは、自ら灰となろう。
 快楽の余韻も残さず、塵の一つも残さず、この宇宙より消えるだろう。
 三分間の、最上の欲情。
 それが、アイアウス・XRATEDの正体。

「――なれど我は――」
「――本懐なり!――」

 暗黒女王が、邪悪に、寂しげに、笑った。
 アイアウスが、笑った。
 二人が笑った。
 この虚無の彼方で、ただ二人だけが、笑っていた。
 三千世界の果てで、ただ二人だけが笑うべきだった。

「――戦わん哉ッ!――」
「――ヨロシカロウ――」

 アイアウスが奔った。
 黄金の流星となって、奔った。
 虚無の中を、ただひとりで、ただひたすらに、ただひとつの命で。
 残り1000万m。残り2分20秒。

「――HAHAHAHAHAHAHAHA!!――」

 暗黒女王が嗤う。
 アイアウスを嗤う。
 アイアウスを否定する。
 肉体も、意志も、その意志の表れたるその突進も。
 嗤いが、虚無の宇宙に満ちる。
 虚無が、アイアウスを拒む。
 その突進を、拒む。
 残り200万m。残り2分10秒。

 アイアウスの加速が鈍る。
 彼に絡みつく、暗黒女王の嗤い。
 膝を折れと、囁きかける。
 絶望せよと、囁きかける。
 アイアウスの心を、体を、押し潰さんと働きかける。
 残り50万m。残り2分00秒。

「――オオオオオオ!!――」

 アイアウスが吼える。
 己を知らしめるために。
 己のいのちを知らしめるために。
 己の欲情を知らしめるために。
 己の愛を知らしめるために。
 残り1万m。残り1分50秒。

 暗黒女王が嗤う。
 嗤いが、物理の則をも押し潰す。
 重力の楔が、アイアウスを苛む。
 貴様は私に辿り着けぬ。
 貴様は私に触れられぬ。
 そう語りかけて、苛む。
 残り400m。残り1分40秒。

 暗黒女王が嗤う。
 それは親愛ではない。
 それは憐憫ではない。
 それは喜悦ではない。
 それはもっと残酷で。
 それはただ、アイアウスの熱を嗤う。
 アイアウスの熱を、冷たく冷たくするために嗤う。
 残り50m。残り1分30秒。

 アイアウスが奔る。
 宇宙を奔る。
 黄金の流星となって、奔る。
 既に速度は常人が地上を駆けるそれよりも遅く、うすのろに、だが全力で。
 虚無に蝕まれ、重力に圧され、絶対零度に晒されても、それでも、前へ。
 残り5m。残り1分20秒。

「――貴様が何者でも――」

 残り4m。残り1分24秒。

「――貴様が我を否定するとも――」

 残り3m。残り1分19秒。

「――貴様が我に何を為すとも――」

 残り2m。残り1分13秒。

「――我はそれでも――」

 残り1m。残り1分7秒。

「――欲情する!――」

 アイアウス、振りかぶる。その手を貫手の型に。
 残り70cm。残り1分2秒。

「――フゥゥゥゥゥーッッ!!――」

 残り70cm。残り1分1秒。
 貫手を、撃つ。
 乾坤一擲の、一撃。
 それは、虚無の空を裂いて、暗黒女王の下腹部を狙い――

「――HAAAAAAAAAーーー!!――」

 だが、暗黒女王を傷つける事はなかった。
 赤々と灯る、暗黒女王の瞳。
 かつてなく噴出した虚無が、暗黒女王の恐慌が、絶対重力が、アイアウスを弾き飛ばしたのだ。
 それは、言わば邪悪の暴風。冷酷無惨なる、死を司る意志の奔流。
 アイアウスの烈火の情熱さえも、吹き消すほどの。
 アイアウスの黄金の意志さえも、彼方へと押し流すほどの。

 アイアウスは、1億3000万kmを、流された。
 アイアウス・XRATEDは敗れた。
 暗黒女王の前に、敗れた。
 肉体は、物理的に、非物理的に、散々抉られた。
 全身の致るところで、出血が棚引いている。
 折れた箇所は数知れない。
 潰れた戦闘能力も数知れない。
 アイアウスの肉体は、沈黙した。
 琥珀の輝きが、その色を失っていく。
 残り1億3000万km。残り0分43秒。
 二度目の攻撃を許す時間はない。
 そして、その能力も。

 1億3000万kmの彼方から、暗黒女王の微笑みがアイアウスに贈られる。
 穏やかな、穏やかな、邪悪な微笑みが。
 アイアウスが呟く。

「――そうだな、その通りだ――」
「――XRATEDを起こしたとて――」
「――私には勝ち目は無かったのだ――」

 暗黒女王は、聞いているのかいないのか、ただ、邪悪に笑う。

「――貴様は正しい――」
「――そして――」

 アイアウスは顔を上げた。

「――それを私も知っていた――」

 アイアウスの瞳が、ぎらり光った。
 握っていた右拳を開く。
 その手のひらの中から、黒い何かが浮かび上がる。
 手の中で潰れていたそれは、放されるや、ふわりふわりと広がり、その本来の形状を取
り戻していった。

 暗黒女王の、驚愕。
 深紅の瞳を見開いて、口腔を広げ、周囲1兆kmを破滅させながら、絶叫した。

「――KYAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!――」

 それは、そう、暗黒女王のショーツだ。
 黒く、細長く、そしてフリルのついた、ショーツ。
 アイアウスが、それを我が手にしているのだ。

「――そうだ――」
「――これが標的だったのだ――」
「――これを得んがため、私は――」

 乾坤一擲の一撃を投じたのだ。
 ただ、それ一つを得んがための賭けだったのだ。
 それが唯一の勝機だったのだ。
 そして、アイアウスはそれに勝利した。
 残り1億3000万km。残り0分15秒。

「――KYAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!――」

 暗黒女王が飛ぶ。アイアウスに向けて飛ぶ。
 もはや嗤いではない。それは憤怒。暗黒の憤怒。
 破滅を。破滅の先に破滅を。破滅の先の破滅の先に破滅を。
 彼女は望む。
 彼の消滅を望む。
 ただ彼ひとりの消滅を、ただ彼ひとりの。
 それだけを望む。
 それ以外は、もはや望まぬ。
 ただひたむきに、彼だけを。

 残り100万km。残り0分09秒。

「――貴様が禁忌そのものであるなら――」
「――私も禁忌そのものとなろう――」
「――貴様が邪悪そのものであるなら――」
「――私も邪悪そのものとなろう――」
「――そして終焉させよう――」
「――貴様と私の――」
「――この物語を――」

 アイアウスは。
 暗黒女王のショーツをその手に掴み。
 それを粛然と押し広げ。
 己が眼前に掲げ。
 己の顔面に。
 被った。

「――UKYAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!――」

 残り……。残り……。
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「……っなーんて夢を見ちゃってさぁ、あっはっは、参ったよ」

「……あ、あらー、奇遇ね、Yin君も?
 私も見ちゃったのよねぇ、どうした事かしら、あっはっはっは」

「…………じ、実は……私も……見たんですよ…………ははは……。
 いやー、偶然ですよね、理奈先生!」

「…………わたしもみたよ、デコイちゃん……あはは」

「…………瑠璃子さんまで?!
 い、いやぁ、ははは、実は私ですけど……。
 す、すごい確率ですよね、こんな……こんな……の……」

「ははははは」

「あはははは」

「はは……ははは……」

「……………………」

「……………………」

「……………………」

「……………………」

「……………………」

「……………………夢、だよな……?」

「……………………」

「……………………」

「……………………」

「……………………」

「……………………」

「へろう、皆サン! 今日も元気してマスカァ?」

「「「「「うわああああああああああああああああああああーッッ!!!」」」」」



<終>