Lメモ未来編「FAKE and BLACKS」……転 投稿者:XY−MEN




 街に、闇が墜ちてくる。
 闇は強圧的だ。人を押さえつけ、檻の内へと追いやる。
 満月に近い今宵の月ではあるが、その光さえ、響とマナの調査を続行させる
ほどの力は持ち得ない。
 二人は、結局なんの収穫も手に入れることなく、調査をひとまず終了させた。
 尤も、二人が足立邸に到着したのが午後2時であったから、大した時間を
調査に費やせた訳では無かったが。

 二人は、日の没した後の午後七時頃には足立邸に戻り、足立のもてなしを
受けた。

 足立に大した権限が無いとは言え、それでもこの地域の管理責任者である。
 食料などの配給は十分であったし、電気やガスなども使用でき、水道もある。
 おかげで、二人は十分満足のいく夕食を摂る事ができた。

「シャワーを使えるのがありがたいわよね」

とは、マナの弁である。

 この屋敷は牢獄であるが、同時に城でもある……響はそう思った。
 昼間に黒虫の襲撃を受けたものの、それは岡田と共に入ってきただけであり、
セキュリティーの態勢が万全であることには変わりない。
 屋敷内に響とマナ、足立に岡田の四人以外の生命反応が見つからなかったの
であれば、間違いなく安全である。


「黒虫が人に取り付いていたって事は、間違いなくそれを指揮するやつがいる
……って事よね」

 シャワーを浴びてきたばかりのマナは、タオルで髪を撫でつけながら、そう
言った。

 黒虫は、実はそれだけならただの生物のようにしか活動しない。
 人を襲い、或いは操るという行動を取るのは、それを指揮する人間がいる場合
だけなのである。
 と言うことは、先刻の岡田に取り付いた黒虫もまた、何者かの差し金で送り
込まれた訳である。

「岡田さんが目を覚ませば、何か手がかりを得られそうだけど……」

 岡田は、響に倒されて以来、未だ眠り続けたままだ。

「ま、とりあえず明日からよね」

 マナのその言葉に、響も同意した。




 そして、夜は更けてゆく。
 この街の夜は静かだ。打ち捨てられたこの街の夜は。
 特に、セキュリティの壁によって閉ざされた、この館の内では。
 特にするべき事も見あたらない響は、早めに床に就いた。

 天井を見つめながら呟く。

「どうも……何か引っかかるなぁ…………」

 何の変哲もない薄白い天井に、語りかけるように呟く。

「何が引っかかってるんだろう…………黒虫……?」

 目を閉じて、再び明ける。

「…………いや、足立さんか……」

 頭を掻く。

「………………どう思う?」

 天井に問いかける。
 天井は、何も答えない。

「……………………私も寝よう」

 思考から解放されて間もなく、響は眠りへと落ちていった。
・
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・
・
『わたしのこの手がまっ赤にもえるです〜
 楓にもえろととどろきさけぶです〜
 ばくれつ、めいぷるふぃんがーです〜』

きゅぅん……しゅぅぅ…………

『はうぅ……だめです〜、長続きしないです〜』

『はっは、まぁまぁ。
 この短期間でメイプルフィンガーのコツをつかむとは、大した物だよ。
 意外と響君は素養があるのかも知れないなぁ』

『はぅ? ほんとうですか、ししょう〜』

『本当だよ。正直、風見よりも飲み込みが早い。
 後は、基礎体力があれば……と言うところだな』

『はうぅ……腕立てとかするですか?』

『そうだ。強靱な体を持たねば、立派なSS使いにはなれんぞ』

『はうぅ………………あ、あふろさんです〜』

『ああ、TaSか………………』

『いつ見てもへんな頭です〜』

『こらこら、あんまりそんな事を言うもんじゃない。
 あの男は、見た目は確かにヘンかも知れないが、腹に一物持っている男だぞ。
 侮ってはいけない』

『はらにいちもつですか?』

『そう、奴は奴なりに何か考えがあるのさ……』

『はぅ〜?』

『TaSちゃんはTaSちゃんだよ……』

『あ、瑠璃子さ〜ん』

『ねぇ、響ちゃん。響ちゃんはどうして強くなりたいの?』

『はぅ? かっこいいからです〜
 つよいいとかっこいいです〜』

『そうなの……?
 よくわからないな…………。
 強いと、何がかっこいいの……?』

『拳と拳で語り合うです〜。
 かっこいいです〜』

『……それだけなの……?』

『はぅ……えっと……つよいと、だいじな人をまもれるです〜
 かっこいいです〜』

『そうなんだ。響ちゃんは、人を守るために強くなるんだね』

『はぅ? えぇ〜っとえぇ〜っと……はい、そうです〜』

『じゃあ、いつか私のことも、助けてくれる……?』

『はぅ? はい、たすけるです〜
 ししょうから習ったこのめいぷるふぃんがーで!
 見ててください〜
 わたしのこの手が………………』
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・
 明くる日の早朝から、探索は始まった。
 足立から、岡田が黒虫を目撃したというポイントを聞き出した二人は、
その周辺から調査を進めた。
 真ん中からへし折れた電信柱。地表に垂れた電線。
 破れかぶれのアスファルトに、その上に散乱した瓦だのガラスだのブロック
の欠片だの……。
 秋口の太陽が照りつける中、二人は何時間となく歩いた。

 全く面倒なことだった。
 なにしろ、廃墟であるとは言え、並び立つ棟々は形を留めている。
 かつてベッドタウンとして重宝されてきたこの街は、探索するには骨が折れる。
 手分けをして二方向から探索してみたところで、一向に効率は上がらない。
 一軒家、アパート、マンション等々……。分け入る度、二人は糠に釘を打つような
手応えの無さを感じるだけだった。
 昼を回り、夕を回っても何の成果も得られず、二人は再び足立邸に引き返し、
その日の探索は終了した。

 そして、更に翌朝からも探索を続行。
 しかし、やはり何の収穫もなく、この日も夕暮れ時を迎えようとしていた。



「まったく、なーんの手がかりも得られないわね」

 マナが、ムスッとして言う。
 響はマナの顔を見てはいないのだが、その表情は十分に予想できた。
 だからこそ顔を見ていないと言う、逆説的な話でもある。

「取っかかりも見あたらないですよねぇ……」

 響の口調はいつもマイペースで、それが時にはマナの癪に触ったりする。
 マナは、一層不機嫌な雰囲気になって、足下の石ころを蹴り飛ばした。

 試立Leaf学園校門前。
 学園内の探索を大方終えた二人は、この場で待ち合わせたのだった。

 結局、学園の探索も無駄足に終わってしまった。
 二人とも、もしやこの学園ならば……と思うところがあっただけに、少々
落胆をしていた。

 これで、街の40%強の探索は終了した。
 だが、残りの60%を探索したところで、成果が上がるだろうか?
 黒虫の発見ポイント周辺の北部、そして学園の存在する東部を除いた地域を
探ってみても、何も見つからないような、そんな気がしていた。

「あの岡田って子が目を覚ませば、何か手が見つかるかもしれないのに……」

 初日に響を襲った岡田は、昏倒して以来目を覚ましていなかった。
 足立家付きのセリオタイプによるメディカルチェックでは何の異常も見られ
無かったし、黒虫に取り付かれた人間が、その後一日二日眠り続けるという
のは良くあった症例であるから、大して問題ではなかったが。

「あーあ、なんか手詰まり……」

 こうなると、岡田の少しでも早い覚醒を望みたくもなるのだった。
 マナはもう一度、小石を蹴る。
 一方の響は、黙考に入っていた。

『黒虫……TaSの遺産か…………』

 ふっと、二日前にも回想した、4年前のあの日のことを思い出す。
 TaSが死んだあの日。
 響はただ、あの戦いを見守っていただけだった。
 ちくりと、忘れていた胸の痛みが甦ってくる。
 瑠璃子は、悲しんでいた。顔を歪めずに。

『瑠璃子さん……』

 響は、ただ側にいるだけだった。
 そして、「泣かないで」と響が言ったら、瑠璃子は「うん」と頷いたのだ。

 痛い記憶だ。

『助けてくれる……?』

「助けるよ、瑠璃子さん…………」

 響は、呟いていた。

 その耳に、風切り音が届く。
 響が気の付いた時には、細長い何かがかすめ、地面に突き刺さっていた。

「なんだ……?」

 響は素早く周囲に気を配したが、既に何者の気配も拾えなかった。
 足下に目を落とす。

から、かららら

 鮮やかな赤の羽が、風の凪ぐ度に転がっている。
 真紅の羽の風車だ。
 地面に斜め突き刺さり、まるで不格好に倒れた花のようだ。
 響はそれを抜き取り、その軸に巻き付けられていた紙切れを、丁寧に開く。
 寄った皺を伸ばしてやると、そこには短くこう書き付けられていた。

『足立、怪し。
 今宵に何事かありぬべし』





 時は夜半に至る。
 丑三つ時……には少々早いが、人が眠るには十分な時分だ。

 真夜中の廊下を、足立は音一つ立てずに歩んでいる。
 その足取りは、異様なまでに軽く、速い。
 その腕に一抱えの箱を持ち、速やかに移動していく。

 淀みない足運びで廊下を抜け、玄関前のホールにたどり着いた所で、足立は
その足をぴたりと止めた。

「こんな夜分遅くに何処にお出かけですか、足立さん?」

 響だった。
 だだっ広いこのホールの真ん中に、その長身を屹立させている。

「……少々、用が出来たのでね…………」

 足立はそう言って、二階からホールへと続く階段に、ゆっくりと足を掛けた。

「こんな時間にですか? しかもガードの一人も無しに……?」

 今度は、足立の背後から声が掛けられた。
 肩越しに見た背後には、マナがいる。
 足立は、ただ黙って視線を戻した。

「気になりますね…………どういうつもりです?」

「……………………」

「その箱が何か、関係あるんですか……?」

 その言葉に、足立はぴくりと反応したようだった。
 視線を、腹の前に抱えた箱に落とした。
 そのまま、三者は沈黙する。
 と、足立は腹から肩を震わせ始めた。
 笑っているのだ。
 くっくっと喉をならし、足立は笑う。
 しばらく嘲笑を続け、それから足立は響に眼を付けた。
 瞼のラインが、その側の皺が、凶々しく歪んでいた。

「いいだろう……それほどこの箱の中身が見たいと言うのであれば、見せてやろう」

 足立は、箱の蓋を開け、その中に手を差し入れた。
 両手と、それが掴んだ物体を持ち上げる。
 両手を頭の上に持っていく。その手のうちに有る物と共に。
 彼は、それを己の頭部に被せた。
 響とマナが息を呑む。
 それは、アフロだった。

「やはりか……足立さん、あなたが……」

「ふふ、結局勘付かれてしまったか。
 まぁ、君たちがやって来た時から、こうなる可能性は十分すぎた。
 欺き切れるとは思っていなかったよ」

「……………………」
 
 響は、知らず知らずと足立のアフロを見つめていた。吸い込まれるように。
 アフロ……アフロ……アフロだ。
 だが、何かが違う。
 何かが思い出されそうな感触がした。

「あなたの目的は何?
 そんなアフロなんて被っちゃって、TaSの真似事かしら?」

「真似事などではないよ。真似事などではね……」

 岡田のアフロを見たときとは違った何かの既視感のような物が、響の中に
わき上がる。
 ふっと何かが閃いて、響はその既視感の意味を理解した。

「!!……まさか……そのアフロはTaSの……!!」

「ほほう……なかなかに察しがいい……」

 足立がにぃと笑う。
 そうだ、そうなのだ。足立がその頭にしているアフロは、間違いない……
あのアフロはTaSのものだ。TaSのアフロなのだ。

「そんな馬鹿な! TaSのアフロは失われたはずだ!」

「回収したんだよ、私がね。
 ……素晴らしいよ、このアフロは。
 これを被ることで、黒虫共を好きなように操ることができる」

「そんな…………」

 響もマナも絶句する。
 その二人を見やりながら、足立はアフロを撫でつける。

「……とは言え、今の状況は元の計算の外だな。
 君ら『L.E.A.F』を招き寄せてしまったのはね………。
 いや、計算外なのは岡田君か…………彼女に黒虫を見られたのが最大の失敗だった」

 足立は苦笑して続ける。

「それも、かの学園で大事な仕事がある今日この日に、君らがこの場所にいる
…………全く、間の悪いことだ」

 そう言いつつも、足立の面には余裕があるばかりだ。
 追いつめられた……と言う風には見えない饒舌ぶりである。

「何よ、それは?!」

「答える義務はないな。
 なぁに、一晩明けたときには明らかになっているよ。
 尤も、そのときには手遅れだがね」

 足立は、その眼光をぎんと輝かせた。

「私の悲願の成就のため、今夜の間だけは邪魔をさせない……」

 そして次に、その余裕を裏付ける言葉を続ける。

「君らは少々厄介だが、ここに足止めするくらいならわけはない。
 そう、こんな具合に……」

 足立は、手にした何かを胸の前に掲げた。
 間もなく、ピッと小さな電子音が鳴る。
 更に、響の背後の窓周辺から、そして屋敷中から重い衝撃音が響く。

「これは……?!」

 その窓は、元々鉄格子のはまった窓であったが、今はその上に更にシャッター……
それも恐ろしく頑強なそれが覆っていた。しかも二重三重にだ。

「この屋敷はね、こうすればシェルターに使用できるように設計されている。
 そして、その制御システムは私の掌の中。
 ……これがどういう事か分かるね?」

「ちっ…………!」

 響は、不意を突いて足立を倒さんと床を蹴ったが、その前に、横手から影が
飛び出す。
 岡田だった。
 再び頭部を黒虫に覆われ、岡田が立ちはかだる。
 一方のマナも、響のタイミングに合わせて足立に迫ったが、その蹴りが届く
一瞬前に足立は軽く転移し、ホールの逆の端に飛んでいた。

「おやおや、人が折角会話をしているというのに、随分な真似をしてくれる。
 ……まあ、確かに、これ以上語るのも意味は無いだろうが」

「!?」

 ブゥン……と、足立の周囲に歪みが発生する。
 
「では、私はこれで。
 ……そうそう、一つ忠告だ。
 無闇に行動を起こさず、ここで大人しくしていることをお勧めするよ」

「待ちなさいっ!」

 言葉を捨て置いて、足立は歪みと共にこの部屋の空間から消えた。

「空間転移?……しかも、疑似じゃなく本物………………魔法か」

 響は歯がみする。
 その響に、足立が去るのを待っていたかのように岡田が飛びかかる。

「ウォォォアアアアァァッ!!」

「五月蠅いっっ!!」

ドグゥッ

 恐るべき速さで響に迫る岡田。迎え撃とうとする響。
 だがそれよりも速く、その横からマナの蹴りが岡田の鳩尾をとらえていた。
 電光石火の一撃。蹴りそのものも鋭いが、そこまでの反応速度も尋常ではない。
 エクストリームチャンプ・雷蹴のマナの本領はこれだ。
 小柄故にパワーは望めないが、スピード・技のキレ共に彼女の上を行く者は
まずいない。
 黒虫によって身体能力をブーストされた岡田も、彼女の迅速(はや)さには
かなわなかった。
 岡田は再び、あっさりと昏倒する。
 その頭から離れた黒虫を踏み潰す。
 マナはいらついていた。

「なんなのよ、もう!
 私たち、まるきり騙されてたんじゃない!」

「見事にやられたですね…………」

「何呑気に構えてるのよ!
 何だか知らないけど、あいつを追わなきゃいけないでしょっ!」

「それはそうだけど…………さて、どうやってここから出たものか……」

 響は、とりあえず視線で窓を指した。
 響とマナがいかに力尽くでやろうとしても、幾重もの頑強なシャッターを破るには、
相当の手間が必要であろう事は目に見えていた。

 屋敷は、彼らを閉じこめる牢獄と化したのである。



がぃんっ!

 マナは、鋼鉄製のシャッターを飛び蹴っていた。
 が、鈍い音を立てて跳ね返される。

「いったぁ〜……」

「言わんこっちゃない…………」

「何よっ、ならどうしたらいいって言うのよっ!」

 取り敢えず、彼ら二人の起こせる方法で、最も可能性のある方法が、この
窓の部分を破ると言う方法だった。
 廊下に出てみても、既に通路はシャッターで区切られてしまっていて、
セキュリティの中枢に辿り着くのはまず無理なのである。
 だがしかし、それにも関わらず響は、全くそれをしようとはしない。

「何もしなくてもいいですよ。
 ……多分、彼女がなんとかしてくれるから」

「彼女……?」

 マナの顔が一瞬怪訝そうなものとなり、その次に憤りを露わにする。
 彼が何を待っているかをようやく理解したのだ。
 そしてそれは、彼女にとって少々腹の立つ話でもあった。

「冗談じゃないわよ! 毎回あの子の世話になんてなってられないんだからっ!」

 そう叫んで再びシャッターに蹴りかかったが、やはり跳ね返される。
 憎々しげにシャッターを睨み付けるマナ。
 と、なにやら電子音が小さく鳴る。
 そうこうしているうちに、重い音が辺り一面から響いてくる。
 そして、彼らを囲う檻たるシャッターは、全て開放された。

「あ、やった……」

「いっつもおいしいところはあの子が持っていくんだから……」

「おいしいかなぁ…………」

 むくれているマナに、天井から響く声が応える。

「おいしいわよっ!
 いつもいつもピンチの時ばっかり現れて……」

「そんな事ないよぅ。
 だって私、ずっと天井裏に潜んでたんだよ?
 退屈だしほこりっぽいし……」

 天井から響く女の声は、ぐずるように言う。

「なら、さっさと降りてくればいいじゃない」

「あ、そっか……」

 天井裏の女は、まるで気付かなかったようにそう言った。
 間もなく天井が円く切り取られ、ぽっかりと空いた穴から一つの人影が
降りてくる。

「あー、息苦しかった。
 あっと、秋山流くの一、川越たける、ただいま参上!……なんちゃって☆」

 酷くあっけからんとそう言う女……いや、やはり少女と言う方が似合うか。
 『L.E.A.F』隊員、くの一の川越たける。

「それに、秋山流の忍者なのに潜むなんて変だよ〜」

 身に纏った真っ赤な忍者装束にまとわりついた埃を払いながら、黒髪の少女は
愚痴るように言う。
 だが、マナはその愚痴を聞いてはいなかった。
 それに答える代わりに、たけるに突っかかっていく。

「だいたいあんた、また天井裏で居眠りしてたんじゃないの?
 バックアップがそんなんでどうするのよ!」

「ね、寝てなんかないもん。ちょっとうとうとしてただけで……」

「要するに寝てたんでしょっ!」

「だって、暇だったし眠かったし…………」

「二人とも、そんな事言ってないで足立さんを追わないと……」

「うるさいわねっ! これから言おうとしていたのよっ!
 さぁ、とっとと行くわよっ!」

「はぁ〜い……」

 マナを先頭にして、三人は走り出す。
 結局のところ、マナのペースで話は進むのだ。
 例え、それが強引であっても。
 響は、走りながらそんな事を思っていた。

 ホールを駆け抜け、玄関に辿り着く三人。
 しかし三人は、その扉を開けて呆然となった。

 雲霞と言う言葉がある。
 その言葉はあるが、実際にそれを使用するべき状況と言うのは、そう多くは
ないだろう。
 だが、彼らの目の前にそれはあった。
 雲霞……例え今が夜更けであるとは言え、満ちた月光の射す今宵であるはずだ。
 そのはずが、視界に映るのは黒ばかりだ。
 月光に照らし出されているはずの廃墟の町並みが、黒によって霞んでいる。
 黒が、うごめいている。
 波のようにうごめいている。
 黒虫の大群であった。
 これほどの数になれば、既に数える事に意義すらないと思わせる。
 それが、足立邸の周囲を取り囲んでいた。
 三人は、顔色を無くす。

「じょ、冗談じゃないわよ……いくらなんでもこんな数じゃ……」

「足立さんが言ってたのかこういう事か……二重の包囲網ってわけだ」

「ねぇねぇねぇどうするのどうするのこんないっぱいアフロ虫いたら大変だよ
無理だよ倒せないよあアフロって黒いよね真っ黒だよね頭にかぶったらかっこ
いいけど重たそうでやだなけどやっぱりちょっぴりかっこいいけどやっぱりサン
グラスとかないとダメかなでもくの一だからいいのかなとかそんなことはどうでも
よくてどうするのどうするのねぇねぇ」

「ああっ、うるさいわねっ!」

 マナが怒鳴る。マナでなくても、この場面では怒鳴りたくなるだろう。
 ともかく、三人は黒虫群のうねりを望みつつ、揃って額に汗を浮かべた。

 少しずつ、少しずつ、うねりに変化が見えてくる。
 その動きに敵意のようなものが増して来ているように感じて、三人は総毛立った。

 選択肢は数少ない。
 取り敢えず引き返すか、突破を試みるか。
 高々黒虫如きの戦闘力とは言え、これほどまでに数が揃えば脅威である。
 突破の可能性は低い。
 だが、引き返してどうなる訳でもない。何事かは分からないが、足立の目的
が達成されてしまう。それを見過ごす訳にはいかない。
 彼を追わなければならない。彼の目的を突き止めなければならない。
 彼が、こうやって自分たちを足止めして達成しようとする目的を。
 そして、それが阻止すべき事なら阻止しなければならない。
 それが、彼ら『L.E.A.F』に課せられた宿命なのだから。

「……突破しよう」

 沈黙を破って、響は言った。

「突破するしかない!」

「……そうね、やるしかないわよね」

「大変そうだなぁ……でも仕方ないよね」

 マナもたけるも、息を飲み込むようにして頷いた。
 心は決まった。それが決まれば、後は実行するのみ。
 そして、静かに、各々は身構える。
 彼らのその動静を見て、黒虫群も警戒を強めた。

 両者の間で、交わされる呼吸がある。
 吐き、吸われる度に、それは増幅される。
 より強く、大きく。
 張りつめられていくそれ。押し上げられていくそれ。
 限界が近かった。
 最大まで、頂点まで。

 黒虫の一匹が動いた。
 一匹が動けば、その周囲の黒虫が動く。
 そして更にその周囲が。
 鼠算で、黒の雪崩が発生した。

「うああああぁぁぁッッ!」

 響の叫びを合図に、マナとたけるも地を蹴った。
 響は、強靱なその大腿の筋力を最大に解放して、先頭を先駆けた。
 その後ろにマナ、更に後ろにバックアップのたけるだ。
 雲霞の黒が、三人へと押し寄せる。
 周囲は、黒、黒、黒。
 己を見失わせる黒の壁が、三人を取り囲もうとしている。
 三人は、思わず知らず、歯を食いしばった。
 だが、黒の霞へと突入しようとしたその時。

しゃん!

 その音が響いた。

しゃん!

 その音は、不思議なほど辺りに響く。

しゃん!

 そして三人は、その音が響いたその時から、自分たちと黒虫達の動きが
止まっていることに、ようやく気付いた。

しゃん!

 闇の中から響くその音の正体は、錫杖の音。
 それを携える手に、法衣が掛かる人の姿。

「黒虫よ、去れ!」

 法衣の男の一喝と共に、黒虫の波が引いていく。
 三人は、呆然とその様を見守り、それから声の主を見た。

 月光の下、黒から解放された夜の風景に、法衣の男が佇んでいた。
 黒き丸が、そこに映えていた。