「ようこそいらっしゃいました、お嬢様。」 「獣人の様子は?」 「身体状況に異常は見られません。 脳波も変化無し、熟睡状態と言うところですよ。」 「あとどれくらい眠り続ける?」 「常人ならば20時間と言うところですが、彼の場合はもっと早く目覚めるでしょうね。 それでも、あと数時間は眠り続けると思われます。」 「お嬢様、本当になさるおつもりですか?」 「彼の心を戒めから解放する……確かにそれは我々の理念に沿うものではありますが……。」 「……分かりました、そこまでおっしゃるなら、我々もお嬢様をサポートするだけです。」 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ オレは、闇の中にいた。 オレを包み込み、覆い被さるような闇。 いや、今のオレ自身が、この闇の根元なのかも知れなかった。 何も見えない闇。何も聞こえない闇。 触れるものがなく、ひんやりと冷たく、寂しい闇。 ”これが、今のオレ?” そうかも知れない、いや、多分そうなのだろう。 この忌むべき闇が、今のオレの全て。 オレは闇を凝視する。……と言っても、闇の何処を見ているか自分でも分からなかったが。 今のオレには、この闇をどうするすべも見つからなかった。 唯一出来ることと言ったら、取りあえず歩き回ってみることぐらいだ。 ……その意味も、その結果も分からないまま。 オレは歩き続ける。 歩きながら考える。 ”何の為に歩く?” 答えは、あることはあった。 ”欲しいからだ。” それは毎日の楽しみかも知れないし、人生の目標かも知れないし、人のぬくもりかも知れない。 人が、人として求める物。 そしてそれらは、数ヶ月前にはささやかであっても持っていたものだ。 だが、それらは全てあの日から闇の向こうに見えなくなった。 ”銀狼”のために。 オレの目の前の闇に、不意に何かが形作られる。 人と同じく二つの足で立つモノ。 獰猛な獣の瞳を持つモノ。 凶器たる牙と爪を持つモノ。 その表皮を美しい銀糸で覆われたモノ。 ”銀狼” オレはそいつと相対した。 オレは震えていた。 心の中にあるのは、怒りと憎しみ、そして何より怖れだ。 ”こいつがオレをこの闇に突き落とした。” オレは奴を怖れてその場に立ちすくむ。 オレの中で、恐怖と憎悪が入り乱れてグチャグチャになる。 一方の奴は、その目でオレを捉えたまま、その場を動かなかった。 ”こいつさえいなければ……” そんな思考がよぎる。 銀狼さえいなければ、オレが銀狼の力など持っていなければ。 その全てを抹消できるなら……。 ”こんな苦しみは味わわなくていいはずだ!” オレの中で怒りが増幅する。 奴が、”銀狼”が憎い。 オレをこうまで苦しめた”銀狼”が憎い。 奴は、その目でオレを睨み付けていた。 口元から、剥かれた牙がのぞく。 ”ぐるるるるる……” 奴の唸り声。 今にも襲いかかってきそうな気勢。 どちらにせよ、こいつはオレを食い殺すモノだ……そう感じた。 ”なら、だったら……殺してやる! 殺されるくらいなら殺してやる!” 怒りと憎しみが膨れる。 そしてそれは、それまでオレを支配していた恐怖を押し潰す。 オレの顔が憎悪に歪む。 オレはオレの全てを殺意に変える。 そして、その力をもって”銀狼”を殺そうと身構えた。 その時…… 「待ちなさい……。」 声が聞こえる。 オレの耳に響くように聞こえてくる。 それまで、オレの呟きと銀狼の唸りしか無かったこの空間で。 オレははっとする。 そして、声が響いてきた方向に振り向いた。 淡く、温かい光が放たれていた。 柔らかい暖色の色合いをした光だった。 闇が、その場所を中心に退けられている。 その中心に、一つの人影があった。 それは、長髪の少女だった。 長い黒髪が、ほの白い光の中で映えて美しく見えた。 「戦ってはいけません……。」 少女が言う。 その声は、春の日の日溜まりのように、暖かで穏やかだった。 それが、オレの胸の中に入り込んでくる。 オレは、暴力の衝動に駆られていた自分の心が、急激に鎮められていくのを感じていた。 「なぜ……何がいけないんだ?」 オレは訊く。 その口調も、少し強めの語気ではあるが、もう落ち着いたものになっている。 彼女が答える。 「その獣も……やはりあなたですから。あなたの内のひとつですから。」 「こいつが……オレの内のひとつ……。」 オレは、”銀狼”に視線を移す。 凶暴な外観をした異形の獣、銀狼。 奴は少女が現れた時から、その場に突っ立ったままだった。 オレは、その奴を睨み付ける。 「”銀狼”はあなた自身。その力もあなたのもの……。」 「そんな……コイツはオレの望んだモノじゃない!」 オレは叫ぶ。 「それに、コイツがオレの内の一つだとして、どうしてオレがこんな目に遭わなくてはいけない? ”銀狼”のせいでオレは……」 オレが続けようとするのを、彼女が遮ってゆっくりと語った。 「それは、あなたが”銀狼”を拒んだから。その力を怖れたから。 だから、あなたは力を制御できなかった。 だから、力は暴走したのです。 ”銀狼”は、望むと望まぬとに関わらず、あなたが持って生まれた力。 だから、あなたはそれを受け入れなければならないのです。」 「オレが……オレが拒んだから……?」 オレは、酷く胸を突かれたような、そんな気持ちになった。。 胸の奥、そのどこかで分かっていたのだ。 オレは、刺客だとか何とかよりも、なにより”銀狼”から逃げていた。 逃げたかったのだ。 あまりに突然だったから。あまりに恐ろしいモノだったから。 だがしかし、それを続けてはいけなかったのだ。 オレは、自分が”銀狼”であることを受け入れなければならなかった。 そうしない限り、”銀狼”をどうする事もできない。 結局、オレを追い込んだのはオレ自身だったというのか? オレは、歯をギリギリといわせた。 「だからって……だからってどうしようもないじゃないかっ! オレは知らなかった。こんな力知らなかった。 ある日突然力が目覚めて……そして訳も分からないままそれを使わなきゃならなかった! そうしたら戻れなくなって……オレは逃げなきゃならなくなって……戦って…… オレは……オレは……」 最後の方は、もう涙声だった。 言いたいことも、自分でよく分からなくなった。 なぜ泣いたのだろう。 悔しいのか悲しいのか、オレは体を震わせて泣いた。 彼女は、そんなオレに手を差しのべて、その手で頭を撫でてくれた。 その目は優しかった。 ”責めているわけではないですよ” そう言っていた。 彼女は、オレが落ち着くまでのしばらくの間、オレを撫で続けてくれた。 温かかった。 人の温かみに触れることが出来たのも、数ヶ月ぶりだった。 ・ ・ ・ 一つ大きく深呼吸をする。 涙も止まり、心ももう落ち着いている。 積もり積もった鬱積も、全てスッキリと流れたようだった。 彼女は、オレのその様子を見て、微かに微笑んだようだ。 「あなたが”銀狼”を認め、受け入れれば、自ずとその力を使いこなせるようになります。 そして、”人”の姿に戻ることもできるのです。」 彼女はそう言った。 オレは、もう一度”銀狼”を見る。 この数ヶ月間、オレの運命を狂わせて、振り回し続けた”銀狼”……。 人を薙ぎ、壊す力を持つ”銀狼”……。 それを今、受け入れ、その全てを引き受ける。 「さあ……」 彼女が促す。 オレは、怖れる心を精一杯抑えて、右手を差し出した。 少しの間。 長い長い静寂。 それまで全く動かなかったを銀狼が、その頭をゆっくりもたげる。 その眼光がオレを刺すようだ。 オレの気が張りつめる。 ”怖れるな! 信じろ! そして受け入れろ!” 自分に言い聞かせる。 ”銀狼”の、その全てをオレの物とする……。 オレは、真っ直ぐに銀狼から視線を外さず、手を差し出したままじっと待った。 彼女も見守っていてくれる。それがオレに勇気を振り絞らせてくれた。 ”銀狼”がその手を動かす。 そして、それがオレの右手を握る。 次の瞬間、銀狼はまるで幻のように、霧のように、その像を歪める。 そして、それはオレの中に勢い良く流れ込んでいった。 ほんの数瞬間のことだった。 オレは、最後の瞬間の”銀狼”が、オレと同じ顔に微笑みを浮かべているのを見た。 「やった……のか?」 そのあっけのない出来事に、オレは思わずそう言っていた。 さっき”銀狼”が握り返した右手をしげしげと見る。 「今、あなたは”銀狼”の力を間違いなくその制御下に置きました。 もう大丈夫です。 あなたの姿も、今頃は人のものに戻っているでしょう。」 「そう……なのか?」 オレにはまだ実感がない。 だが、彼女の言葉は嘘ではないだろうと思った。 周囲の闇……オレの闇が、少しずつ払われていくのが分かった。 オレはぐっと拳を握る。 オレは、”銀狼”を、今本当にこの手に入れた。 「そろそろ……お別れですね。」 不意に彼女がそう言う。 ふと見ると、彼女の姿は少しずつその鮮明さを失おうとしていた。 「私も……そろそろここにとどまるのは限界のようです……。」 そうだ。オレも薄々気づいていた。 ここはオレの”心”の世界なのだ。 本来、彼女がいられる場所ではない。 彼女の存在がこの世界から薄らいでいく。 少しずつ……少しずつ……。 彼女が言う。 「あなたが元気になってよかった……。」 「あ、待ってくれ! なぜ……なぜオレを助けてくれたんだ?」 オレはそれを知りたかった。 オレを諭し、慰め、元気づけてくれたことの理由を。 だが、彼女はその姿を消してしまった。 ただ一言だけ残して。 「あなたが寂しそうだったから。 私によく似てると思ったから……。」 オレは……一体どのくらいの間、眠っていたのだろう? オレが目を覚まして感じたのは、ただ漠然と「よく寝た」と言うことだけだった。 頭がまだフラフラする。 全く、これだけよく眠ったのは久しぶりだった。この数ヶ月、常に神経を尖らせて眠っていたから。 取りあえず体を起こし、周りを見渡す。 そこは、白くて四角いコンクリートの壁の部屋だった。 オレは、そのはじっこに寄せられた簡素なベッドに寝かされていた。 「ここは……どこだ?」 どうやら、見覚えのない部屋であることは間違いないようだ。 オレは思い出す。 『そうだ、オレはあの時あの爺さんに叩きのめされて……』 少しずつ記憶と思考を手繰ろうとする。 あの爺さんとの戦い、そして……その後の……夢? 『あの夢……長い髪の優しい女の子の……夢に思えない夢……』 オレは、しばらくの間、ぼうっとそれを回想していた。 だが、それはいきなり中断させられた。 ブツン。 その音に、オレは振り向いた。 それまで気づかなかったが、そこには……その壁には、モニターが一台はめ込まれる様に備え付けられている。 そのモニターの向こうから、髭を生やした40代半ば、と見える白衣の男がオレに視線を向けていた。 「目が覚めたようだね、”銀狼”君。」 男は屈託のない笑顔を向けながら、オレに話し掛けた。 オレは訳も分からずぱちぱちと瞬きをする。 「体の調子はどうかね? 魔術治療は効果を現したようだが……。」 「体の調子?」 男に言われて、オレはやっと自分が”人”の姿に戻っていることに気づいた。 思わず手のひらを広げて見つめる。 「芹香様の魔術治療の賜物だよ。 感謝しなければならないよ。」 「芹香様? 魔術?」 酷く説明が少なく、突拍子もない話だが、何か納得出来た。。 あの夢……。 少女に助けてもらった夢……。 あれはやはりただの夢ではなかった、と言うことなのだろうか? その芹香、という人がオレを助けたのだとすると、あの少女がその芹香さんだったのだろうか。 「ああ、来栖川本家の長女であり、同時に優れた魔術師でもある。」 男は説明が足らなかったことに気づいてそう付け足した。 「来栖川……」 来栖川のお嬢様。 今一つ分からない話だった。 それはそうとして、オレの思考は別の方へ向く。 来栖川、という言葉であの爺さんの言っていたことを思い出したのだ。 「なるほど、オレは来栖川に”保護”されたわけだ……」 少し皮肉な口調だったかもしれない。 流石にアレは、保護、などと言える物ではなかった。 男はオレの口調を別段気にしない感じで答える。 「まあ、君がそう思うのも無理もないことだ。 あのような方法を取ってしまったことについては、申し訳ないと思っている。 だがしかし、あの時の君を、他の方法でこの研究所に連れてくることが出来たとは思えないがね?」 「……………………。」 男の言い分はもっともだ。 あの時のオレは説得などというものの通じる相手じゃなかった。 その判断は確かに間違っていない。 そして、来栖川はオレを”人”の姿に戻してくれた。 それは、爺さんの言っていた”保護”が確かに実践されているなによりの証拠であり、 来栖川のやることには正当性がある、と言えるかも知れない。 「……我々は”銀狼”である君を出来る限りサポートする。 それが我々に与えられた使命だから。 そのことを、君にも理解して欲しいんだ。」 「………………。」 オレは黙った。 男は、オレが迷っていると見ると、言った。 「じゃあ、少し不自由かも知れないが、それも2,3日のことだ。 何かあったらモニターの横の呼び鈴を押してくれるといい。 では。」 男がそう言うと同時に、モニターはまたぶつん、と言う音と共に切れた。 部屋は、また四角いばかりの静かな部屋に戻った。 消えたままのモニターをしばらく凝視し続けてから、オレはベッドに寝転がりなおした。 色々と考えるべき事があった。 『来栖川、か……。』 どうやら、来栖川は本気で獣人などの保護をやっているようだ。 それは分かった。 『じゃあ、オレはどうする?』 オレは考えを巡らす。 もし、来栖川の保護を受けるなら……オレの身は確かに間違いなく安全だろう。 これまでのようにむやみやたらに付け狙われたり、襲われたりする心配もない。 安楽に今後の生活を送れる。 悪い条件ではない。今のところは。 だが、それでいいのだろうか? 『何の為に拳を振るう?』 あの爺さんの言葉がオレの頭に残っている。 「守るべき物……目指すべき物……手に入れるべき物……」 これも爺さんの言った言葉だ。 今のオレにはそれがない。 オレは、それが欲しいと思った。 必要なものに思えた。 『来栖川にいて、それは見つかるのか?』 オレは、それでは見つからないような気がした。 来栖川に保護されて、その手のひらの上でぬくぬくとしていてはダメなんじゃないか? ”大事なものは、自分の足で歩いて、自分の目で見て見つけるもの” それは、一年ほど前に死んだ父さんの教えだったような気がする。 その言葉は正しい、とオレには思えた。 『やっぱり、ここにいちゃいけないな。』 一匹狼とか言うつもりはないが、誰かに”保護”されて安穏とするなんてことは、オレの性にも合わない。 オレは腹を決めた。 『ここを出よう!』 しかし…… 『どうやって抜け出したらいいんだ?』 それが問題だった。 この部屋の扉は、これはオートロックで当然開かなかった。 その上、この部屋には窓もないし、換気口を開けて脱出、というのも無理そうだった。 見事に密室である。 『これは……流石にどうしようもないぞ?』 しばらく座り込んで唸る。 あれやこれや考えたが、良策は浮かばない。 『まぁいい。 いつまでもここに閉じこめておくわけじゃないだろう。』 オレは酷く楽天的に考えて、またベッドに寝っ転がった。 『そのうちチャンスがあるさ。』 そう考えて取りあえず休む。 だがしかし、まさか、そのほんの数十分程度後に、そのチャンスが訪れるなどとは、夢にも思っていなかった。 グゥゥゥゥン…… バカみたいにあっさりと扉がスライドして開く。 オレは寝っ転がったまま、あっけにとられてそれを見る。 扉が開いた先には、なにやらだぶついた服を着込んだ女の子……いや、男か?……が、ふわっと立っていた。 「さあ銀狼さん、逃げますよ。」 その少年?は、にっこりと屈託のない笑顔を浮かべて言った。 (後編へ続く)