バレンタインL 「魔女と女神のチョコレート」 前編 投稿者:山浦

バレンタインデー
それは、聖者バレンタインにちなんで行われる儀式の日。

 その日、全ての者は、貴き者も卑しき者も、富める者も貧しき者も、力在る者も力無き
者も、全てのしがらみを越え、階級を越え、貧富を越え、愛を語らうことを許される。

 その日、乙女達は恋の媚薬たるチョコレートを手に、恋する者に自らの想いを捧げる。

……そう、恋を為すための儀式の日。それがバレンタインデーです。
……年に一度のこの儀式……失敗は許されません。

 目を閉ざした蝦蟇の油に魔女の軟膏。それにブランデーを一垂らし。
 魔女の釜には奇跡が沸き立ちます。

……おじいさま、お母様、お父様、そして綾香……私に力を、勇気を貸して下さい。
……芹香は、これを成功させねばなりません。

バレンタインデーL
「魔女と女神のチョコレート」


「せいっ! せいっ! せいっ! せいや!」
 爽やかな早朝の空気を裂いて、ばすん、ばすん、ばすん。と何かを叩き付ける音が定期
的に響く。来栖川綾香は、それに誘われるように音の源を探し、歩き出す。
(ふぅん。葵にべったりって訳でもないんだ)
 音の主は、柔道場にいた。丸刈りの頭とでかい体は端から見ただけで誰だかよく分かる。
山浦はサンドバッグを相手に投げ込み練習をしていた。巨体を活かした豪快な払い腰。一
縷の無駄とてないそれは、お世辞にも整った顔立ちと言えない彼をして一枚の絵画のよう
な風景に仕上げていた。
(一生懸命頑張る姿。ってのはアタシも好きだけど……でもねぇ)
「おー、来栖川か。なんか用か?」
 一息ついたところなのか、ようやく山浦が綾香に気付いた。額に流れる汗を手ぬぐいで
拭く。爽やか…………とはどうしても言いようがない。泥臭いとか汗くさいとかその辺の
形容が似合う。
「…………これに姉さんが惚れる……ってねえ…………」
 はっきり言ってあり得ないように綾香には思える。何よりキャラクターが違いすぎる。
姉のことはよく知っているが、姉が惹かれる相手とは思えない。少なくとも、彼女のタイ
プではない。
(…………何より、あそこまで気合い入れてチョコレートを作るわけないし……)
「なんだ? 来栖川ぼそぼそと」
「あ、うん何でもない。ところでアンタ、今日が何の日だか知ってる?」
 話を変えようと当たり障りのない話を振る綾香。しかし、山浦の顔がとたんに渋面にな
る。そして、ふてくされた子供のようにぶっきらぼうに言う。
「バレンタインデーだろ。それぐらいは知ってる」
「なに不機嫌になってんの?」
「お前にゃわかんねーよ。生まれてこの方親戚以外からチョコレート貰ったことのない人
間の気持ちなんかな…………」
 遠い目で……遙かを眺める遠い目で山浦が呟く。バレンタインデーという日が、一人の
少年の心を深く傷つけている。その証拠がそこにあった。
「で、なんだ? チョコでも持ってきたか?」
 すぐに期待に満ちた顔に変わるあたり、傷は浅そうにも見えるが。
「そーねー。あげようかと思ったけど、そんな記録があるんなら遠慮しとくわ」
 鬼である。
「…………ったく。みんなして菓子屋の陰謀に騙されやがって。来栖川先輩ぐらい聡明に
だなぁ…………」
「ん、姉さん? 姉さんだったらこないだっからチョコレート作ってたわよ。それも尋常
じゃない気合いの入れ方で」
…………よかったじゃない。と、綾香は続けようとした。納得はいかなかったが、他にそ
れらしい相手も思い浮かばない。しかし…………。
「なにぃ!? だ、だ、だ、だ、誰に渡すチョコだ!? くそっ! どこのどいつだそん
なうらやましい奴は!!」
 動揺。しかも尋常ではない狼狽えぶり…………明らかにそのチョコが自分の手に渡ると
は考えていないらしい。
「…………分かんないわ、確かに…………」
 あきれる。
 もてない人生が続くとこういう風になる。それは、綾香にはまるで分からない世界だ…
………まあ、分かりたくは無いだろうが…………。
「くそー! 俺にも少し……いや、ひとかけらでもいいから…………あー! 来栖川せん
ぱぁぁぁぁぁぁい!!」
 いつまでも一人狼狽する山浦を背に、綾香は校舎に向かった。もう、付き合ってやる必
要もないだろう。
「そういや格闘部の朝練もあったわね」
 遅刻してはかなわないと、綾香は走ることにした。


 大釜の中の褐色の液体を最後の一滴まで型に流し終え。ようやく、永かった作業も最後
を迎えた。
「ふぅ、何とか間に合いましたかぁ」
 額に浮き出た汗を拭いつつ、神無月りーずは溜息をつく。その周囲では、神凪遼刃が「使
い人は殺すぅ」とか寝言を言ってたり、東西が命に看病されたり、皇日輪が袈裟にくるま
って寝てたり、トリプルGがビームライフルに突っ伏してたり、神海が本に埋もれてたり、
T−star−reverseが一人元気だったり…………まあ、オカ研の面々(男子の
み)がまるで三日ぐらい徹夜したかのように満身創痍の体である。
「よく間に合わせたものです。三日徹夜した甲斐がありましたねぇ」
 りーずの言葉に応えられるのはティーぐらいのものだ。他の者は一人残らず精根尽き果
て応える気力もない。
「…………あとは沙耶香さんがbeakerさんに……はなし、を…………」
 りーず自身も辛そうだ。今まではオカ研のまとめ役という立場が辛うじて払っていた眠
気を、作業を終えた安堵が急速に呼び込む。話している間にも瞼が重くなり、全身の力が
弛緩してゆく。
「ああ、分かっていますからりーずさんも寝て下さい。後は私がやります」
「…………はいー…………ぐー…………」
 ようやく安心したのか、ようやくりーずが倒れるように寝込んだ。それを支えてやって
から、一人残されたティーはしかばねと化した仲間達に毛布を掛けて回る。
(本当にみなさん頑張りました)
 急に芹香から提案されたこの企画。あまりに時間の余裕がないと皆が思った。無謀とす
ら最初は映った。しかし、為せば成るもの。その企画もなんとか完成にこぎつけ、その成
果が今日、バレンタインと言う日に出る。
「仕上がりましたか?」
 コンコン、と軽くノックをしてからbeakerが入ってくる。
「はい、オカ研特製『恋の魔法のチョコレート』300個です。後は宜しくお願いします」
「ひいふうみ……たしかに。ご苦労様です」
「いや、全く。少しばかり無茶だったかもしれませんね」
 オカ研部室惨状を眺めつつ、ティーとbeakerはうなずき合う。りーずも既に夢の
中。他のメンバーも本格的に寝に入ったらしく、動く気配すら見えない。幽霊部員の気配
すら完全にない。
「我々としては商いが成立すればいいのですが……急にどうしてこんな事を始めたんです
か?」
 beakerの意見ももっともだ。今まで、オカ研はこのような行事に進んで関わろう
とはしていなかった。どちらかと言えば、beakerの方から提案しようと考えていた
企画ですらある。それが、オカ研の……しかも来栖川芹香自身……方から提案が来たのだ。
何かがあると思っても仕方ない。
「来栖川さんが提案したことですからね。正確には分かりませんが……オカ研のイメージ
アップを狙ってのことだと思いますが……」
「……ふむ……まあ、主力商品が出来たという事実は我々にとっては朗報ですから構いま
せんが……ああ、そう言えば…………」
「効果の方は折り紙付きですよ。来栖川さんが召還した熾天使だかの祝福を初め、我々全
員の英知を結集して作り上げた呪物ですから。まあ、媚薬の使用は一応禁じられてはいた
んのですけど……」
「…………むにゃむにゃ、一日一悪ぅ…………」
「……入れたみたいですね」
 あっさりとやばげなことをいうティー。だが、beakerは嬉しげに頷く。
「そうでなくっちゃいけません。それでは、お客様も待っているでしょうし、私はこれで」
 立ち去ろうとするbeaker、しかし。
「待ってくださぃ〜」
「おや、トリプルGさん何か?」
 半寝ぼけのトリプルGが呼び止める。その、半ば開いた目に確かな決意があった。後に
beakerはそう語る…………いや、嘘だけど。
「…………一つ買います…………」

…………薔薇…………?

 この場の全ての者がそう思った。完全に熟睡していた者ですら。
「…………ええっと……チョコレートを……一つ購入で宜しいんですね」
 一歩引きながらbeaker。ティーは青い顔をしてbeakerの後ろに回る。他の
部員もさりげなくトリプルGの周囲から這うように離れる。りーずに至っては、既にここ
にはいない。
「その通りです! 早く下さい!!」
 自棄になって叫ぶトリプルG。彼にしたって別に男に告白するつもりはない。薔薇でも
ない。れっきとした芹香萌えであるが、それを表明できない彼。その苦肉の策だったりも
する。
(これにだって、何分の一かは芹香さんの想いが込められてるんだ!)
…………けなげな話である。
「お客様は神様です。はい、最初のお客さんでーす」
 もちろん、『神様』が芹香萌えだろうが、薔薇だろうが、金さえ払うならbeaker
には関係のない話ではある。


「…………まさかトリプルGさんが薔薇だなんて…………」
 ここにも誤解している男。先ほどチーターよりも早く逃げ出したりーずである。
「今後は気をつけないと…………あれ? 芹香くんだ」
 どう気をつけるかよく分からないが、視界の隅に止まった芹香の顔を眺めつつりーずは
溜息をつく。気持ちが伝わらないと言うものはやけに苦しいものである。
「はぁ、やはり芹香くんからチョコレート……なんて無理な話ですよね…………」
 嫌われてるんだし仕方ない。と自分に言い聞かせつつ、りーずは立ち去ろうとする……
……が。
「っ!? なんですって!!」
 見てしまった。一番見たくないものを。意中の女性が今日、この日にチョコレートを渡
している所など…………そして、その相手が…………。
「え? ちょちょちょちょちょ……チョコレート!? ホント!? くれるんですか? 
食べていいんですか? うわ……私こんな豪華なもの…………あ、良太に少しとっとかな
いと……あ、あと母さんの分も…………」
 思わず、逃げ出す。
(…………そんな……そんな…………)
 信じられなかった。信じたくはなかった。
(……芹香くん…………芹香くんが…………)
 逃げる。いや、逃げたい。どこか遠くへ。この苦しみの届かない果ての地へ。
(…………芹香くんが…………百合だったなんて!!)
 それは、りーずにとっては処刑台のギロチンよりも重く、鋭い刃物として彼の心を切り
裂く出来事。死よりも、遙かに恐ろしい。


 朝だというのに第二購買部は大盛況を迎えていた。原因は主に先ほど入荷したチョコレ
ートだろう。呼び込みの声にも力が入る。
「そこのおにーさん、買っていきませんか?オカ研特製『恋の魔法のチョコレート』です
よ〜!」
 そんなbeakerの呼び込みに、山浦は白い目で店主を眺め、言う。
「…………坂下……お前の旦那、正気か?」
「うるさい!」
 いきなり険悪な空気の二人。やはり空手家と柔道家は仲が悪いのだろうか? いや、本
編とはまるっきり関係ない話なんだが。ってゆーか旦那ってなんだ一体。
 まあともかく、beakerにしても別にふざけて呼び止めたわけではない。
「いえいえ、コレは来栖川芹香さんが心を込めて作った……」
「買った。いくらだ?」
 即答。こいつもけなげと言えば、けなげである。
「それが実は品薄でして……」
「……倍……いや3倍払う!」
 さすがに今月の小遣いがやばくなるが、そんなことは些細なこと。つーか、この学校で
親から小遣い貰ってる奴ってどれくらいいるんだろう?
「まいど〜」
 にこやかに売買成立を告げるbeaker。品薄なのは確かだし、何より「夢」を売っ
たと思えば3倍額とて安いものだ…………売った側の理屈では。
「……来栖川先輩の……来栖川先輩の心がこもったぁ!」
 買った側も満足しているらしい。神無月りーずの使命感やら、トリプルGの情熱やら、
神海の怪しい薬やらが入ったチョコレートをボリボリと嬉しげに貪りながら校舎を進む。
…………無知と言うものは時に幸福である。
 まあともかく、思いこみ一つで並の出来のチョコレートが何物にもまさる甘露に感じる
んだから人間の舌なんていいかげんなもんである。
「……でも、先輩からもらえたら嬉しいだろうなぁ……」
 似合わないことを言いつつ、「ふぅ」とか溜息をついてみたりする。一応、こいつも思
春期だ。それに、今朝方綾香が言った言葉も気になる。口の中の甘みを反芻しつつも悩ん
でみたりする。
「くれって言ってみようかなぁ。先輩、頼めばくれそうだし…………」
 聞きようによっては失礼なことを呟きつつ、ふと向かいの校舎を見る。そこには……
「お、先輩だ…………ん? 柏木先生に何を……あ…………」
 見た。
 見てしまった。
 来栖川先輩が、手に持ったハート型の包みを、耕一に…………。
「……あ、ははははは…………なーんだ…………なんだよ……好きな人……いるんじゃね
えか。そーだよな……当たり前か、あんな綺麗な人なら…………」

…………ばり、ばり、ばり…………

 動揺を噛み砕くようにチョコレートを噛みしめる。ほのかな苦みが、口の中に広がり…
………ずっと、消えなかった。


 先ほどからずっと、トリプルGは思考していた。
「…………どこで食べましょうかー…………」
 恥を忍んで購入したチョコレートである。やはりゆっくりと、邪魔の入らない所で味わ
いたいのが人情と言う物だろう。しかし、ここはLeaf学園。そんな時には確実に邪魔
が入る。それはまさにこの宇宙の絶対法則と同じくらい厳然たる事実だ。
「比較的安全なのは仮眠室か第一保健室…………いや、今日に限ってはそれもなさそうで
すねー」
 外では、いつものようにジン・ジャザムとDセリオが勝負をしている…………が、学内
の喧噪はそれどころではない。あるものは決闘を、あるものは懇願を、あるものは略奪を、
そして、あるものは暴走を起こして校舎を破壊し、突き進む。

「かっ・えっ・でぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」
「生徒指導部! 盾構えっ!! 目標を阻止し、制止し、制圧し、圧倒し、沈黙せしめる!!
 総員! 突貫!!」
「「「「「「「突貫!!」」」」」」」

 眼下の状況を見る限り、おそらくこの学園内で安全な場所はないだろう。
「うーん、見通しの効くところの方が逆に安全かもしれませんねー。はてさて、どうしま
しょ…………おや?」
 ジンとD芹の戦いに異変が現れた……と、言うか戦いが唐突に中断された。両者の間に
闖入者がはいったのだ。そして、その人物をトリプルGは知りすぎるほどに知っていた。

「あ? 来栖川のおじょーさんじゃねえか。いま取り込み中…………なに? おれにチョ
コレート? 必ず食べて下さい? …………ま、いいけどよ」

(…………嘘…………ですよね……そんな…………)
 信じたくない。そんなことは。だが、確かに目の前には……

「……もぐもぐ……おう、うまいぜ。ありがとな……っと待たせたなっ、D芹! 今度こ
そ決着つけてやるぜぇ!!」
「――芹香様、お下がりを。行きます」

 だが、ジンの鋼鉄の歯は、確かに褐色のハートを噛み砕き、呑み込む。無造作に、そし
して無慈悲に。
「…………そんな……そんな…………」
 トリプルGは呻く。いつまでも、いつまでも。


「ふにゅぅぅぅぅぅぅ。ヒマだにゃぁ」
 エーデルハイドはあくびする。ヒマで怠惰で暖かな朝。猫には最高の朝である。
「おい、青いの」
 少し向こう側では、彼の師であるRuneが松原葵に向かっていた。
「青いのじゃありません!」
「まあ、それはどーでもいい。それよりも今日が何の日か知っているよな? つーか、チ
ョコよこせ、早くよこせ、今すぐよこせぇぇぇぇぇぇっ!!」
(お師様も大変にゃ)
 殺気すら放ってチョコをせがむRune。”松原葵の”チョコレートではなく、チョコ
レートそのもの……つーか食い物か……をほしがっているのが非常に彼らしい。
(お師様は忙しいみたいだにゃ。ご主人様の行こうかにゃ? ご主人様、俺にチョコは…
………くれないだろうにゃ〜)
 ぼーっと考えながら、何ともなしに歩みを進める。足の向いた方向に行く。きわめて猫
らしい行動の決め方だ。しかし、その歩みも数歩で止まる。
「うにゃ、ご主人様にゃ」
 芹香の姿を確認。一目散に駆け寄…………ることは出来なかった。
「…………」
 芹香は、Runeに手に持ったハート型の包みを手渡し……。
(…………え?…………)
――――パク、もぐもぐもぐ――――
 無言で、そして一口で、Runeはチョコレートを頬張り、噛み砕き、  そして呑み込
む。エーデルハイドには、それを黙って見ている以外に術はなかった。
(……なんで? なんでお師様にゃ? 俺は……俺はどうなるにゃ? ご主人様? お師
様? 俺は、俺は…………)
 頭が混乱する。思考がまとまらない。だんだんと、何もかもが靄がかった闇の向こう側
に消えてしまう、そんな気がした。
 芹香がRuneにチョコレートを渡した。それもショックだ。だが、それ以上にエーデ
ルハイドの気持ちを知っているRuneが、芹香からチョコを受け取ったこと。それがエ
ーデルハイドに衝撃を与えた。裏切られた、そう思った。
…………暗い…………
 無明の闇。ただ一人その中にいたあの時。あの時にまた帰るような、そんな予感だけが
エーデルハイドの脳を支配する。
…………気が付けば、ただ一人になっていた…………