柔道部設立L 「カンバン騒動記」 前編 投稿者:山浦


「まとめて逝けぇ!!」
 哄笑とともにハイドラントの掌から光熱波が放たれる。じゅ、と儚い音を立てて射線上
の人間が灰と化す。
「あめえんだよ!」
 そのハイドラントに高速で間合いを詰めるのはYOSSYFLAME。しかし、戦っているの
は彼らだけではない。脇では平坂蛮次の拳が地を砕き、beakerのクリムゾンが火を
噴く。さらには、普段直接戦闘に関わることのないRuneや、完全に戦闘要員でない塚本
千紗やら雛山理緒やらまでもが得物を片手に争いの渦の中にその身を置く。
「ひいいいいいいいいいぃ!!」
 そのまさに戦場の中、柔道着の男がまるで転げるように逃げ回る。懐に、一枚の板っき
れを抱いて。
「なんでこんな大事になるんだあああああああ!!」
 絶叫はどこにも届かない。そう、いつだって始まりは些細な事でしかないのだ。始まり
だけは…………


 柔道部設立L
    『カンバン騒動記』


「あー、すんません。柔道場の使用の件で……」
 全ては、山浦が剣道場に顔を出したことから始まった。
 現在、柔道場の所有権は剣道部にある。そして、柔道場の使用要求は柔道部設立の絶対
条件である。そのために、どんな困難も克服する意志が彼にはあった。
(断れようと、土下座することになろうと、俺はやる! 剣道部に毎日だって顔を出して
やる!!)
 山浦は燃えていた。柔道部設立に立ちふさがるであろう、数々の困難を思って。
「承認(一秒)」
「…………はぁ?」
「ですから、承認です、どうぞ使って下さい」
 にこやかに答える剣道部部長に、山浦はおそろしく間抜けな表情を返すことしかできな
かった。
「と、言っても我々も部室兼更衣室として柔道場は使用したいので……」
「押忍、こちらが無理を言っておるのです。半面使わせていただけりゃ、十分ッス」
 ともあれ、目的は拍子抜けするくらい簡単に果たせた。応える顔も自然と緩む。
「それならこちらも問題ありません。あとの詳しい取り決めは後ほど、と言うことでいい
ですか? 部活もありますし。……それでは、これから宜しくお願いしますね」
 そう、にこやかに言って剣道部部長は部活に向かった。既に剣道場からは面を打つ竹刀
の音が響いている。
「いやー、いい人たちだ」
 背を向ける部長を見送りながら、心の底から山浦は思う。……まったくもって単純な男
である。
 ともあれ、道場の確保と言う第一命題はこれにて成った。彼の悲願、柔道部設立に大き
く前進した。気合いも入ろうと言うものだ。
「うっしゃ、まずは道場を使えるようにしないとな」
 剣道部が綺麗に使っているとはいえ、そこは体育系部活動の部室である。替えの道着や
制服。現在使用していない竹刀や防具、買ったはいいが滅多につかわない鉄アレイやエキ
スパンダー、読みかけの雑誌や食べ差しの菓子袋、それに何故あるかも不明な謎の私物(蚊
取り線香を入れるブタの焼き物とか信楽焼のタヌキとか)などが、そこかしこに混在して
いる。ここから柔道部らしさを”発掘”せにゃならん来ている。結構な重労働になるのは
目に見えていた。
「おいしょ! と、こいつはここでいいな……。これはこっちに置いとくとして……」
 動かしてみるとかなりの量になる荷物に対し、この大男は正面から掛かっていった。実
際、それ以外に方法はない。
 しばらくの悪戦苦闘。徐々に、そして確実に道場の左半面は柔道場らしさを取り戻して
いった。それに伴うようにもともと道場にあった物が顔を見せ始める。そしてそれも、そ
の一つだった。
「なんだこりゃ? カンバン? 汚ったねえ字だな。えーっと何々……『精力善用・自他
共栄』……神前の上に掛かってるアレか。えーっと誰が書いたものだ?」
 荷物の中から発掘した板ッ切れを、ためつすがめつ眺めながら作者の署名を探す。
「お、あった。前田光世……ほー、コンデ・コマかぁ」
「ホントかそれっ!!」
 いいなり背後から声が響いてきた。しかも山浦はこの声を主を知っている。振り返ると
やはり、想像通りの人物、YOSSYFLAMEが剣道着もそのままに立っていた。
「何だYOSSYFLAME。脅かすんじゃねえよ」
「いいから! ホントにコンデ・コマの書いたモノなんだな?」
 YOSSYの声はいつにないくらい落ち着きがない。目は爛々と輝き、興奮のためか息
が荒い。剣道着を来たままと言うことは、部活途中で抜け出てきたのだろう。
「……部活はさぼるなよな……まあいいけどよ……。たぶん間違いねえ。いつだったか講
道館で見せて貰ったコンデ・コマの書ってのと同じ字だ」
 山浦の太鼓判を聞いた瞬間、YOSSYは崩れ落ちるように膝をつき、背中を大きく反
らしてガッツポーズをとる。
「……なにやってんだお前?」
「いや、喜びを全身で表現してみただけなんだけど。……ま、いいや。で、こいつだが…
………」
「ん? 部の備品だからな〜。とりあえず…………」
 どこに飾るべきかと柔道場を見回す山浦。ひとしきり見てからYOSSYに向かう。
「……どこに」
「どこに売ろうか!?」
 それをYOSSYの思いがけない一言が制した。
「第二購買部だと買いたたかれそうだよな〜。マニアに直接売るってのも手かも……。あ
〜いやいや、『なんで●鑑定団』に電話するのが先だなっ! おーい、TV●京の電話っ
ていくつだっけ〜?」
 突然、YOSSYはそう呟いてから走りだ…………
「やめんかこら」
 ……そうとして山浦の足払いを食らってこけた。
「何すんだよ!」
「そりゃこっちの台詞だ。いきなり何だ、部の備品を売るだの鑑定に出すだの……」
 しばし二人は睨み合う……が、YOSSYが思いついたようにポン、と手を打つ。
「ああ、安心しろ」
「なんだよ?」
 嫌な予感がすると言わんばかりに眉をひそめてみせる山浦。
「分け前は折半だ」
「……いやだから……なんで前田光世なんてマイナーな柔道家の書なんか欲しがる奴がい
るんだよ」
 あきれたように山浦は言う。明らかにYOSSYの言っていることがわかっていない。
「はぁ? 知らねえの? コンデ・コマって言ったら……」
「ブラジル移民の父だっけか? こないだ『知ってる×もり』でやってたが」
「違う違う! ブラジリアン柔術の始祖じゃねえか! 知らないのかよ!?」
 山浦は首を横に振る。どうやら、両者間に隔絶とした認識の差が存在するらしい。その
ことだけは二人ともよく分かった。
「あー、つまりなんだ。前田光世はブラジリアンなんとかの有名人だと」
「そうだよ。こいつなら高く売れるぞ、きっと……」
 興奮を抑えきれない様子で言うYOSSYの両目には、すでに¥マークが浮んでいる。
頭の中では札束が舞い飛んでいることは間違いない。
「それって本当!? 本当に高く売れるの? よかったねぇ良太。これで生活も楽になる
よぉ!」
 さらに、突如として現れる触覚頭……もとい癖ッ毛の少女……。
「ねえちゃん、どれくらいになるんだぁ?」
「わからないけど……きっと新渡戸さんは拝めるはずよ!!」
「おおぅ! すげーぞねえちゃん」
「…………何だお前らは…………」
 いきなりな雛山姉弟の言動に、どう反応していいか分からぬまま、山浦は言った。その
隣では、やはりYOSSYがどう反応を返すべきかと困っている。
「雛山良太だぞ」
「姉の理緒です」
 姉弟そろって頭を下げる。「たいへんよくできました」と小学校では言ってくれるだろ
うが、ここは小学校ではない。
「……んなこたぁどうでもいいんだよ。なんでお前らがここにいる?」
「そんな!? この寒空の下、姉弟だけで冷たい世間の荒波を乗り越えろというの!?」
 よよよ、と理緒はわざとらしく泣き崩れる。…………どうやら、冷たい世間の荒波は彼
女を強くしたらしい。
「……もう夏だろ……つうか、そうじゃねえだろ」
「ねえちゃん、はらへったぞ」
「良太、我慢するのよ! 世間の荒波は辛くて苦しいけれど、正しいことをしていれば、
きっといつかは報われるはずよ!」
「その通りだよ、理緒ちゃん! 清く貧しく美しい兄弟愛には必ず助けが来るはずさ! 
…………つーことで、カンバンよこせ」
 わざとらしく抱き合う理緒と良太にYOSSYも同調する。どうやら、雛山姉弟の味方
をすると決めたらしい。
「…………てめえ…………」
「ごふっごふっごふ! ああ! 家では病気の母さんが!!」
「ねえちゃん働き過ぎだぞ! おれもなんかするからねえちゃんは少し休め」
「……良太……いつの間にそんなに大きくなって…………すまないねぇ……」
「山浦! こんな可哀相な二人を放っておけるのか!? お前は!」
 ドラマのワンシーンを思わせる雛山姉弟の掛け合いをバックに、YOSSYはかさにか
かって山浦を責め立てる。その瞳は、正義の炎に燃えていた。
「そりゃなんとかしてやりたいけどよ……」
「だったら! カンバンを手放すくらい何だってんだ!!」
「いいの……いいのよ、よっしーくん。その気持ちだけで私たちは嬉しいわ。ね、良太…
………。私たちは、冷たい世間が何の助けをしてくれなくったって、清く正しく、そして
誇り高く生きてみせるわ!!」
「ボロを着ててもこころはニシンだぞ!」
「…………だからこいつは部の備品だからよ…………」
(ひでえ、こいつら)
 と、思いながらも山浦に反撃の手段はない。しどろもどろにする弁明も、力を無くしつ
つある
「…………あくまで、カンバンは渡せないってんだな…………」
 態度を変えぬ山浦に業を煮やしたのか、YOSSYの視線に殺気が混じる。じり、と畳
の床を掴むように足下を確かめる。その動作の中に、YOSSYの本気を山浦は嗅ぎ取っ
た。
「部の備品だしよぉ…………」
 言いながら、山浦は一歩引く。次に何が来るのか、皮膚の感覚が知らせている。そして、
自分にはそれをかわす手段が無いことも。
「……ならば、しかたねえな…………。食らえ、『絶・烈風乱舞』!」
 気合いと共に、YOSSYFLAMEの体が一陣の疾風と化す…………はずだった、が…………。
「って、しまった! 速度調整期つけっぱなしだった」
「でやあああ!」
 ただの踏み込みと化した『絶・烈風乱舞』に、山浦は正面からラリアートを叩き込み、
そのまま巻き込み気味の大外刈りで、YOSSYの後頭部を地面に叩き付ける。
「くそ! ぬかった!!」
 と、言っても地面は畳。さしたるダメージもなく立ち上がるYOSSY。彼が目にした
モノは…………。
「…………逃げらたぞ、あいつ…………」
 妙にがらんとした柔道場に、呆然と立つ雛山姉弟だった。


「畜生! なんだってんだよ!」
 泣きながら中庭を走る山浦。左手には、例のカンバンを抱えている。SS使いの中でも
屈指の機動力を誇るYOSSYFLAMEから逃げるのは並大抵のことではない。それは彼自
身よく分かっていた。
「どうする? 寮まで逃げるか? いや、待ち伏せされたら元も子もねえし…………」
 少ないお味噌で次の手を考える。そんな彼を追走する黒い影、一つ。
「追いつかれた!? …………って、なんだ、来栖川か」
 艶やかな黒髪をなびかせて、来栖川綾香が山浦の横に並び、にこりと笑う。
「悪いけど、大体の所は立ち聞きさせて貰ったわ。アタシはアンタの味方よ!」
「…………おう…………」
 何故か嫌な予感がする。と、山浦は思った。そして、その理由はすぐにわかった。
「で、五千でどう?」
「って、お前もか〜〜〜〜〜!!」
 男泣きしながらダッシュ。所詮人間は一人で生まれ一人で死んで行くのだ。
「あ、ちょっとまってよ〜。ローンが効くならまだ上乗せ出来るし…………」
「そう言う問題じゃねえええええええええええええ!!」


「なにぃ! 五千万円のカンバンだって!?」
 こーいった、金にまつわる噂は瞬く間に学園を駆け抜ける。今回もまた、情報特捜部の
活躍でその話題は学園を駆け抜けた。
「国宝級の書だってよ!」
「なんでも、コンデ・コマが死ぬ直前に書いたものとか……」
「ブラジル政府がこれを探しにエージェントを差し向けたってよ!」
「第二購買部が賞金をかけたって話だ!」
「来栖川の特殊部隊が動き出したって聞いたぜ」
…………多分に、誇張されたモノではあったが…………。
「なんでこんなおおごとになるんだああああああああああああっ!!」
 で、いきなり窮地に立たされたこの大男。いまや、学園のほとんどが敵と言ってもよか
った。思わず飛び込んだ校舎を駆け抜ける内にも、遠くから漣に似た響きが迫ってくる。
それが、何を意味するか、Leaf学園にいる者で分からないものはいまい。
「今の内にアタシにそいつを売れば万事おっけー☆ミ」
「おめえのせいだろ! こんな大事になったのはっ!!」
 綾香の追撃をかわしつつ山浦は叫ぶ。脚力自体は綾香がはるかに上回るが、かといって
走りながら満足な攻撃が出来るほどの差はない。精々がすぐ後ろに付いて嫌がらせ臭い説
得を続けるくらいのものだ。
「くそったれ、もたもたしてたらYOSSYFLAMEにも追いつかれる…………職員室へ…
………柏木先生なら…………」
 柏木耕一の良識を期待しつつ職員室を目指す。もちろん、千鶴校長がどんな事を言い出
すかとか、耕一がそれに反対出来るはずがないとか、その辺は考えてない。そこまで頭が
回ってないとも言うが。
 走る。とにかく走る。途中、行く手を阻もうとした一般生徒A(「主役だ! 俺は!!」)
もいたりもしたが、体重100kgを越す人間の全力疾走を前にあえなく玉砕した。
 YOSSYFLAMEが……この速度を苦にせず攻撃が出来るものが……来るまでは、安全だ。
と、山浦は判断した。
そして、それはもちろん大間違いだった。
「プアヌークの邪剣よぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」
「だあああああああっ!」
 横殴りに突っ込んできた熱光線を、山浦がかわせたのは幸運以外の何者でもない。
「ちぃっ! 外したか! 綾香にカンバンをプレゼントで好感度UP! さらに、手に入
れた金でクーラーを設置! 今年の夏を快適に過ごすと言う高邁な理想の為死ねるのだ!
 ありがたく思え! 『ガデムのさ……」
「カンバンごと潰す気かアンタはぁ!」
…………べきどがぐしゃ…………。
 突如現れた黒服は、綾香にボコされて地に沈む。だが、逃げる身である山浦にはそんな
事など気にしてる余裕はなかった。と言うかその隙に逃げた。
「…………なんだかよくわからんが、助かったらしいな…………」
 命があることを感謝しつつ、さっさと綾香の視界から姿を消す。SS使い達が出張って
きた以上、最早一刻の猶予もない。バケモノどもが群をなして襲いかかってくるのは目に
見えている。
「やぁっと追いついたぜ!!」
 とか言ってる内に追撃が届いた。YOSSYである。
「畜生! もうかよ!?」
 絶望的な叫びを上げて、山浦は走る。が、彼が一歩進むごとに、後ろから迫る足音は三
歩近づく。YOSSYとの距離は、見る見るうちに縮まっているだろう。しかし、その姿
を確認する余裕すら山浦にはなかった。振り向いた瞬間にYOSSYに追いつかれてしま
うだろう。
「まてまてまてまてまてまてまてまて〜!!」
「待つかよ畜生!」
 すぐ背後から、YOSSYが振り回す木刀の音が響いてくる。既にそんな距離まで追い
つかれていたのだ。一呼吸する間にも喧嘩刀の剣先が逃げる大男の背中に達する……その
瞬間。
「あたれえええええええええええ!!」
 幾条もの光線がYOSSYの襲う。当然のようにYOSSYは素早いステップでそれを
かわすが、その上で追撃するのはさすがに不可能だった。それ幸いにと一気に距離をとる
山浦。
「……トリプルG……どうーゆーつもりだ? いったい?」
 怒りすら込めて、YOSSYは襲撃者を睨む。トリプルGも負けじとビームライフルを
構える。
「……故あってここは通すわけには行きません。YOSSYFLAMEさん、覚悟していただき
ます」
「へっ、覚悟するのはどっちかな? いくぜ!」

 などと二人が戦っているさなか、等の山浦が何をしていたかと…………。
「お待ちしておりました。ささ、こちらへ」
 穏和そうな作り笑いの三年生に誘い込まれていた。
「……えーっと、確か神海……先輩っすね。どうして先輩が?」
 ダーク十三使徒の一人神海。先のハイドラントの襲撃を考えれば、彼が敵であることの
可能性の方がでかい。が、学園内の抗争にも世界滅亡にも興味のない体育会系はそのこと
すら知らない。多少は胡散臭げな視線を向けるものの、あまり疑ってかかっている様子も
ない。
「なに、私はただの手伝いにしか過ぎません。部長の来栖川さんがお呼びですので」
「なに!? 来栖川先輩が?」
「この窮状から貴方を助けたいとか……。ささ、こちらです」
 想い人の名を聞いて、残った警戒も消え去った。神海の誘われるがままに、目的の場所
らしき、奥まった教室へと連れられる。
「ここです」
 放課後になってかなり経つためか、中から人の気配は感じられない。いたとしても一人
か二人、しかも音を出さぬようにしている。少しばかりの用心深さがあるなら警戒を怠り
はしないだろうが…………。
「ちわっす!」
 だが、この男にそんなモノを期待する方がおかしい。そして、周囲の人間もそれは重々
把握していた。それが故に彼をここまで導いたのだ。
 教室の奥には、期待通り黒い艶やかな髪の女性が待っていた。
「ハァイ☆ミ」
 妹の方だが。
「来栖川じゃねえかあああああああああ!! 神海先輩、騙したんすかぁっ!?」
「人聞きの悪い。私は『部長の来栖川さん』と言っただけですよ。ちなみに私、格闘部に
所属してます。それに……」
「ねえさんはオカ研副会長よ。知らなかったの?」
 ふふふん、と言った風情に綾香が神海の後を継ぐ。その表情は余裕を満たしているよう
に見えるが、視線だけは真っ直ぐ獲物……カンバンだが……を見据えて離さない。ここで
逃す気は更々ないらしい。
「だからさ〜、言い値で買うって言ってるんだし……」
「いい加減にしてくれ、頼むから」
 泣き言を言いつつ、綾香との距離を測る。距離は10m足らず。綾香なら跳躍一つで攻
撃範囲に入ってくる。だが、その間には机がある。これを……
「……投げつければ逃げる機会が出来る。と、思うか?」
 山浦は、すぐ背後からの声を聞いた。聞いたと思った瞬間には右腕を極められていた。
腕を極められたと思った瞬間には喉元にナイフが突きつけられていた。
「お見事です、導師」
「お前も暗殺者なら俺の手を煩わすな、この程度の事」
 冷徹に、ハイドラントは言う。その風体に先のおちゃらけた雰囲気は微塵としてない。
「ま、そーゆーことだから」
 にこやかに綾香は手を差し出す。カンバンをよこせと言っているらしい。
「金で動かないなら力ずくかよ」
「いいや。その小汚いカンバンよりは高いだろう? お前の命は」
 声色一つ変えぬまま脅しの言葉を発するハイドラントに、綾香は溜息を一つつく。
「ハイド。脅しはやめてよね。アタシは商談がしたいんだから」
「……人に刃物突きつけさせておいて言う台詞かよ……」
「そうでもしないと話も聞いてくれないじゃない、アンタ。……ま、いいわ。どうしても
売る気はない訳?」
 山浦は天井を見上げる。言い飽きた、と言わんばかりだ。
「あのなぁ、部の備品を……」
「……仕方ないわねぇ。それじゃ、ねえさんかもーん!」
「…………」
 申し訳ありませんでした。
 綾香の声と共に、奥に隠れていたらしい芹香が姿を現す。言葉の通り、その顔はややう
つむき、眉を寄せている。表情の変化の薄い彼女にしては最大級の『すまなそうな顔』だ。
「…………」
 勝手な望みとは思います。けれども、綾香の頼みを聞いてくれぬものでしょうか?
 やや躊躇しつつ、すがりつくような視線で芹香が言う。やや上目がちに見るその瞳には
涙が溢れようとしている…………。
「ごぶぅ!」
 効果絶大。属性【格闘】の奴に電波ぶち込んだようなもんだ。しかも、「破壊爆弾」級
の奴。はっきり言って、芹香萌えでなくても……いや、なまなかな女嫌いだろうが、薔薇
だろうが、つるぺた番長だろうが言うことを聞いてしまいそうなお願いアタックだった。
「……うぐっ……いやしかし…………」
 反射的に首を縦に振りそうななる自分を押さえつつ、山浦はしどろもどろに言う。一瞬
でも気を抜いたら確実に従ってしまうだろうことは、自分でもはっきりと分かった。
「コレは、ジブンの一存でどうこうできるものでは…………」
「…………」
 一瞬、芹香は困ったような顔をし、神海の方に助けを求めるような視線を送る。
「……ちょっと、アンタの言うとおりにしたけど大丈夫なの?」
「勿論ですとも。私のやることに抜かりはありません。芹香さん、これを……」
 すぐさま神海が芹香の背後に歩み寄り、耳打ちを入れる。
「って! そこ!! 何やってるンスか神海先輩!!」
「いえ、大したことではないですよぉ」
 いけしゃあしゃあと神海は言う。その人好きのするよう計算された表情の奥に、たくら
みを隠していると視線で語りながら。
「ぜってぇ嘘だぁ!!」
「はははははは〜。そんなことないですってば。それでは芹香さん宜しくお願いします」
 神海が山浦と話している間、芹香は端の方でごそごそやっていた。手にはリップクリー
ムのようなモノを持っている。なにをやっているか、確かには分からないが、『何かをし
ている』ことはまる分かりだ。
「…………」
 そして、山浦の前に立ち、やや顔を上げ、それから目を瞑ってゆっくりと背を伸ばす。
「な、な、な、な、な……何するンスか!?」
 混乱する山浦の声を無視して、芹香の唇は確実に一つの方向へ向けて進んでいった。
(こ、これは嬉しすぎ……違う!! 絶対何かウラがある! いやしかし、これは役得…
………ち、ちがううううううううう!)
 理性と欲望の狭間で振れる少年の心……って、そんなに上等なもんじゃねえけど、思い
人にキスされるって状況を期待しつつ抵抗のフリだけ見せる。
「ちょっと神海。何て事ねえさんにさせるのよ!?」
「大丈夫です。あのリップクリームを塗った人間にキスされた相手は、たちどころに彼女
の虜に…………」
「そーゆー問題じゃない!! ねえさん! そんなことしなくっても…………」
 ちゅどーん!
 綾香の言葉の途中で、一筋のビームが教室を貫いた。
「ぎゃあ!」
 ついでに神海も。
「ちぃ!」
 強襲。この状況に一番反応したのは誰あろうハイドラントだった。血生臭い生活を続け
た彼の本能が、本人の意図に外れて強襲に意識が向いてしまった。そしてそれは、致命的
な隙となった。体に似合わぬ素早い動きで山浦は極められていた右腕を外す。と、同時に
転げるように身を離す。
「しまった!」
 すぐさま、ハイドラントは音声黒魔術を構成する……が、その視線に山浦がいまだ抱え
るカンバンが目に入った。
(……カンバンごと吹き飛ばせば綾香に殺される……)
 一瞬の迷いが全てを終わらせていた。気づいたときには、鉄製の下駄が、もう目と鼻の
先に…………。
「でえええええええええええええっ!」
 他の人間が反応出来たとき。そして、投げつけられた鉄下駄をハイドラントが叩き落と
したその時には、山浦は逃げ延びていた。先ほど出来たビームの大穴から…………。
「とにかく追って!」
「虚仮にするかっ! この俺を!」
「…………」
 残された者達も慌てて後を追う。
「神海さん! 私は芹香さんにそんなことをさせるために協力した訳では…………おや?」
 そして、救いの神……先ほどの隙を作った張本人……であるトリプルGが教室内に躍り
込んだとき、教室には神海の焼死体(死んでないけど)が残るのみだったとさ。めでたし
めでたし。