Lメモ・学園男女混合テニス大会! 第75章 「DEAD OR ALIVE」 投稿者:YOSSYFLAME




「葵が……負けた……」

 おそらくは、気づいていまい。
 彼女の右腕に巻かれた包帯。その先が震えていたのを。

 彼女は無言で、引き返す。
(葵……そして姉さん……)

 彼女が歩を進める先には、談笑しながら歩く男子生徒達。
 その彼らの軽口が止まる。手の平に汗が滲む。頭でそうと思った時には、既
に道を開けていた。
(みんな……みんなアイツにやられた……)
 
 怒るべき筋合いじゃないのはわかってる。
 多分に策もあったとはいえ、これも勝負。
 勝者は残り、敗者は消える。
 勝負の世界の一端の、覇者を担ってきた綾香が、よもや知らぬ訳のない“摂
理”。
 でも。……でも。

(レディー・Y…………篠塚、弥生……!)

 綾香はおそらく、気づいていまい。
 その右腕に巻かれた包帯。その先に血が滲んでいたのを。 







(……でも)
 控え室で一人、綾香は俯く。
 視線の先は、血の滲んだ包帯。
 どだい無理な話だった。 
 来栖川の医療技術をもってしても、粉々に折られた腕を、僅か一週間で治す
など。
(梓……)
 もうすぐ相まみえる、ライバル。そして、親友のことを思う。
  
“あのときよりもいい試合をしてみせる。そして、今度は私達が勝つ!”
“同感。だけど結果は変わらない。梓、今度も勝たせてもらうからね!”

 抽選会、誓い合ったあの約束。
 それを破るのか。
 自分と対戦したい、それが為、学園最強サイボーグ、そして自らの姉をも下
した梓。
 そこまでして登ってきた彼女の期待を、こんな形で裏切るのか。
 悔しさに噛みしめた歯が軋む。
 負けることが怖くないと言えば嘘になる。悔しくないと言えばとんでもない。
 しかしそれ以上に、万全とは程遠い自分を、梓の前に晒すこと。
「ああああああっ!」
 いたたまれない悲鳴をあげながら、折れた右腕を自傷気味に叩きつける。
 鋭い鈍い、入り交じった嘔吐するような痛みが脳髄を襲う。
 しかし。
 それ以上の、たまらない“痛み”が、不敵な瞳に涙を滲ませる。



 ぐわっしゃああああああああああああああああああああああああああん!!
「まいどー! 真心運ぶペンギン便でーす!」



「な、な、な……」
「来栖川綾香さまですね? お荷物とどけにまいりましたー!」
 あまりといえばあまりの闖入者に、綾香は開いた口がふさがらない。
「んしょっ」 
 どんっ。どんっ。どんっ。どんっ。どんっっ。
「牛乳30リッターお届けにあがりましたー、ハンコかサインお願いしまーす」
 あっけにとられたままサインする綾香。
「はい、確かに。どうもありがとうございましたー!」
 どぐわっしゃああああああああああああああああああああああああんっ!!



「な……なんなわけ、あれ……?」
 嵐が過ぎ去ったあとの大穴を、呆然と見つめている綾香。
 その穴の隣にある、30リットルの牛乳タンクも。
 突然起こったあまりな事態に思考が停止している綾香。ふと、手に何かが触れている
のに気づく。
「手紙……?」
 首を傾げながら開封する。それを見た瞬間、綾香の目に光が戻った。
「これ、これって……!」

『……………(30リットルの成分無調整牛乳……
 ……たかがカルシウム。このカルシウムが奇跡を起こすのです……)』 












『さあさあさあさあっ! 男女混合テニス大会も残すはあと6試合!
 さらにさらに過酷を増す今大会! そしてぇ!
 準々決勝第二試合! それはまさに、宿命の対決よぅーーーーーーーっ!』

 その“宿命の対決”に沸きに沸く会場の大観衆。
 その、観衆を沸き立たせてる長岡志保は、得意そうに手を挙げている。

「あの調子こきはともかくだ、まさにその通りだな」
「……はい」
 情報特捜部・シッポと姫川琴音の二人が、同僚のアナウンスを可笑しげに聞
きながら呟く。
「校内エクストリーム大会素手部門の決勝戦・再びだからな」



「さて。どんな試合を見せてくれますか」
 その校内エクストリームの主催者・beakerが会場を見下ろし笑う。
「さすがに綾香の怪我は大きすぎるハンデだろうね。
 激戦再びといきたいところだろうけど、どう考えても梓先輩の優位は動かな
い。
 ……綾香が、何もせず手をこまねいていただけだとしたらね」
 思わせぶりな台詞を綴るパートナーに、beakerは軽い笑みで返した。



『それじゃ!』
 志保の声に、皆一斉にコートに目を向ける。
『Leaf学園の若き女王! 果たして二大会完全制覇なるか!?
 ザ・パーフェクトガール来栖川綾香&地獄の傭兵悠朔の入場だあっ!!』
 


 ざわっ。
 これ以外、形容のしようもないほど会場が一点に集中しざわついた。
 悠と綾香の入場。それは当たり前。
 綾香の右腕がギプスで固められているのも、それもわかっていたことだ。
 観客がさわめいたのは、そんな些細なことではない。
 そう、観客がざわめいたのは――

 顔面蒼白で脂汗を額に浮かべて手で腹を押さえながらへっぴり腰で内股でふ
らつきながら何かを堪えるかのようにぐっと歯を食いしばる誰がどう見てもお
便所一直線フラグ立ちまくり数十分占拠状態確定の来栖川綾香の姿……に。
 その横でほとほと呆れ果ててものが言えないぜというのをジェスチャーで表
した場合もっともしっくり来るかのようなポーズで入場する悠朔。
 あまりといえばあまりの入場に、皆開いた口がふさがらない。
 志保も含め一様に黙り込んだその心中はおそらく皆共通していただろう。
(……………………はぁ)



「皆、呆れてますね」
「ママ……大丈夫かなぁ……」
「少なくとも試合前に牛乳30リットル一気飲みして五体満足な人間がこの世
に存在したならば私はその者を人間と認めたくはないですね」
「希亜くん、ひどい……」
 空中から箒に乗って、いわゆる特別席で観戦している悠綾芽と弥雨那希亜。
「心外ですね。私は喜んでいるのです。綾香さんが人間であったことに」
「……そんな当たり前なことで喜ばれたって嬉しくない……」



「どうやら、何もせず手をこまねいていたわけじゃなかったようですね。
 おや、へたれこんでどうされました好恵さん」
「……何もせず手をこまねいてられたほうがまだ良かったわ……」



「……ゆーさく」
「…………なんだ」
「……あまり近くに寄らないで……」
「………………何を今更」
「あんたねえっ、女を扱うデリカシーってものを少しは………ぅぅっ…!」
「…………怒鳴るのは禁物だな」

「あのさ……試合、できんの?」
「問題ない」 
「……まぁ、当事者がそういうんならあたしに止める権利はないけどね」

「取り返しがつかなくなる前には止めてやれよな、審判東雲恋」 
「やーみぃ。そーいうことは聞こえるように言ったほうがいいと思うぞ」



『……さ……』
 ようやく我を取り戻した志保が、反対側のコーナーをビシリと指し声を張り
上げる。
『さあ! 対するはついにきた! ずっとこの日を待っていた!
 我が最高の宿敵来栖川綾香! 
 打倒綾香を旗印に、最強の姉までも打ち倒し、ここまで登りつめて来た!
 柏木梓&菅生誠治!
 今がそのときだ! 爆発するのはそのときだーーーーーーーーーーっ!!』

  

 別の意味で爆発しそうな柏木梓がそこにいた。おもに後ろのほうが。



「……千鶴さん」
「なぁに、ジン君」
「梓のヤツに飯食わせたりとかしなかったでしょうね」

(梓……)
 千鶴は一人、手を合わせながら梓の身を案じていた。



「……ちょっと……説明してくれる……?」
 頭いてぇとばかりに頭を抱えるこの試合の審判・東雲恋。
 お前が説明しろとばかりに顎をしゃくる悠。ため息をつき口を開く誠治。
「あー……つまり……
 綾香が芹香からもらった成分無調整牛乳30リットルを一気にがぶ飲みし」
「……なに血迷ったことしてんのよ」
「なもんで当然といえば当然のごとくそうなってるわけで」
「まぁ人間として生まれたんなら当然の摂理よね」
「それだけならよかったんだけど」
「なんもよくないけどまあそこは置いといてそれで?」
「ちょうど挨拶に行った梓が綾香の惨状を見て思わず」
「思わず?」
「あたし達の勝負は対等でなけりゃ意味がないって一緒に30リットル」
「……なに考えてんのよあんたたち」

「……そんなことより……っ早く試合して…っ…」
「あたしたちゃ…一分一秒だって無駄にはできないんだ……っ」
「はいはい。じゃはじめましょ。それじゃ両チーム握手握手」

「綾香……抽選会でのセリフ、覚えてるよね……」
「もちろん……」
「あのときよりもいい試合をしてみせる……そして……今度は私達が勝つ!」
「同感……だけど結果は変わらない。梓……今度も勝たせてもらうからね!」

 ぐきゅるきゅるきゅる。
「「し、審判ちょっとタイム!」」
 ずどどどどどどど。
 恋がなにか言おうとする暇もなく二人とも鬼の速度でいずこかへ消えて。

「……没収試合にしてもいい?」
「あー、もーちょっとだけ待ってくれたら嬉しいかも」



「よおし大一番! みんな気合を入れろよ!?」
「うん! 梓先輩がこんな状態だからこそウチらが気合を入れなな!」
「ちょ、ちょっとみんな待っ」
 団結力ならチーム一。
 霜月祐依、保科智子、昂河晶、陸奥崇等工作部プロジェクトが再び動く。
 あのジン・ジャザムをも破った団結の原動力、円陣をガッチリと組む。
 便所帰りの梓がなんか言ったような気もしたがこの際気にしないでおく。
「よし! みんなありったけの気合を二人に注ぐよ!」
「腹の底から震えるような気合を二人にぶつけてやるからな! せーの!!」
『いくぞ誠治!!ファイト梓!!オウ!オウ!オオオオオオオオオ!!!』



『さあ! 予想外のアクシデントもありましたがいよいよ始まります!
 男女混合テニス大会準々決勝第二試合!
 悠朔、来栖川綾香組 vs 菅生誠治、柏木梓の宿命の対決!
 果たして梓選手、大願成就なるか!? 
 はたまたその夢、綾香選手見事打ち破るか!?』



「それでは!
 準々決勝第二試合! 悠&来栖川組対菅生&柏木組!!――プレィイッ!」



「ぐうううぅぅぅぅぅ……!」
 ぺしょん。へろへろへろへろ。
『柏木選手ぅー、あー、なんていうか形容に苦しむボールがネットを越えてぇ』
 ぺしゃっ。へろへろへろへろ……
『来栖川選手うったー、なんていうか非常に気の毒な打球が返されてぇ』
 ぺしゃん。へろへろへろ〜
 ぺしょっ。へろへろへろ〜
 ぺしょん。へろへろへろ〜
 ぺしゃっ。へろへろへろへろ〜

「ゲーム。悠、来栖川組、1−0」
『えー、解説の牧村さん、今のゲームはどう思われますかー?』
『そうですねー。
 あの工作部プロジェクトの円陣の大声分、柏木選手のおなかにダメージが蓄
積されたようですね。
 このゲームはその差がわずかに出た展開といえるのではないでしょうか』
『そうですかー、
 それで1ゲーム終了したとたん、二人ともトイレに駆け込んでいった訳です
がー、その点を含めまして今後の試合の展望などありましたら』
『そうですねー、
 まず両チームとも10分の治療時間が与えられますので、その10分をどう
使うのかが勝負のカギを握ると思います。
 特に相手側のタイムアウトをどう使うかが、分かれ目になるんじゃないでし
ょうか。
 いかに相手のタイムアウトを使い自分の欲求を解消していくか。
 そのあたりのコントロールをうまくできたほうがやはり、優位な展開になる
と思います』
『そのほかにはなにか』
『あとはその、大観衆の流れをうまく読むこと』
『それはどういう』
『これだけの観衆でこれほど暑い日ですから、みんなお花を摘みに行くかと思
われます。
 もし女子トイレが満室だった場合、果たして勝負にどう影響するかですねー』

 南の予想は半分は当たっていた。
 激戦の中、便所に足を運ぶたび、確実に時間が消費される。
 しかし、綾香も梓も、そこに小賢しい計算など入れなかった。
 この戦いにおいて、計算はいらない。
 ただ己の全ての力を出しつくして、最高の好敵手とぶつかりあいたい。
 綾香も梓も、ただそれだけを思っていた。
 そして――



「ゲーム! 菅生、柏木組、5−5!」



「ついにここまで来たか……」
 誰がともなく呟いた。
 長く香るようなこの試合も、ついに終盤に入ったのだ。
 あまりといえばあまりにもかわいそうな打球を打ち合ったこの試合。
 しかし、試合が進むにつれて観衆の目が真剣味を帯びてきた。
 そして、5−5で迎えた第11ゲーム。
 観衆は何も語ることなく、ただコートを。
 その中にいる四人をただ見つめていた。
 それはなぜか。
 答えるまでもない、観衆は気づいていたからだ。
 いや、当事者四人が。
 いや……本当の当事者である綾香と梓が一番それをわかっていただろう。

 彼女らが救われる時間など、もはや一秒たりともないことに。 

 第11ゲーム、サーバー・菅生誠治。
 これまで綾香は一度も誠治のサーブを打ち返せていなかった。
 それは梓にしても同様で、一度たりとも悠のサーブを返せてはいない。
 それでも綾香は構える。
 両足を震わせながら。そして鈍く鳴る腹の音に涙ぐみながら。
 静まり返っているコート。
 観客席の前方になら聞こえるかもしれない、それほどの鈍い腹の音。
 今までなら、真っ先にタイムを取り便所に駆け込んでいた状態。
 しかし綾香はただ黙って、身体を震わせ構えている。
 唇を真っ青にし小刻みに痙攣させながら。歯をカチカチ鳴らしながら。
(せめて手遅れにならないうちに……)
 そんな配慮がこもった誠治のサーブ。
 ……それがこの試合、唯一の致命傷だった。
 
「イヤアアアアアアアアアアアアアア!!」
「!!」
 雌豹の咆哮。
 誠治がそうとわかったときには、ボールは足元に突き刺さっていた。

「イ、イン! 0−15!」
『な、なっ……これは……』
 実況の志保も観衆の誰もが声が出せない。
 もう既に死に体と思われていた綾香の、よもやまさかの反攻に。
「ゲーム! 悠、来栖川組、6−5!」
 結局そのワンポイントが元となり、今試合初のブレイクゲームとなった。
 それはつまり、ここにきて綾香組の絶対的優位を意味するものであった。

「ぅ、ぐ……っ!」
 しかしそんな中、綾香が膝をつき腹を押さえ込み倒れこむ。
「ぅ、ぅ、ぅぅ…っ!」
 堅く閉じられた瞼には涙が滲んでいる。限界を物語るその姿。
「ぐっ、ぅぅっ!」
 乾いた音がコートにこだまする。ラケットが地に落ちた音。
 そして――
「綾香ッ! 大丈夫か?!」
「……触るなッ!」
「…………ッ!」



「………………今触られると……ヤバイのよ……」



 綾香の左手は、こともあろうにその左手は、尻の奥を固く押さえていたのだ。
 綾香とて年頃の少女である。
 何が悲しくて大観衆注目の中尻の奥を押さえたいと思うだろうか。
 しかし今の綾香は、もはやそうせざるを得ないほど逼迫していたのだ。
 右手が壊れ、唯一残った左手でさえ、ラケットが握られないほどに。

 タオルを握り締めながら悠は思った。もう限界だ、と。
 しかし悠の目に写るひとつの光景。
 対戦相手の菅生誠治もまた、タオルを握り締めながらこちらの様子を伺って
いる。
 不意にざわめきが会場に起こる。
 梓もまたコートにへたりこんで、動けなくなってしまっていたのだ。
 悠は迷った。
 横を見ると額に脂汗を浮かべている蒼白の綾香の表情が。
 その瞳に涙を浮かべながら、しかし闘志の炎は揺らめきながらも未だ消えず。
 ひときわ大きなざわめきが会場を揺らす。
 へたれ込み歯を食いしばっている梓の左手が、尻の奥に向かい回されたのだ。
 唯一ラケットを持てる右腕も震えている。
「っんぐぅ……!」
 綾香の嗚咽。もはや身体中がガクガク痙攣して蹲り身動きさえ取れない綾香。
 悠は迷った。投げるべきか投げざるべきか――

「ゆー、さく……」
「! あ、綾香……」
「タオルなんて投げたら……一生口きかない、から、ね……」 
 うずくまりラケットさえ握れない状況でありながら悠に叫ぶ綾香。
「くっ……」



「ハイドくん、どう見る?」
「ポイントでは綾香圧倒的優位だが……現状を見るに梓優位ですね」
「どうして?」
「腕の本数差ですよ。
 梓は右手でラケットを持ちながら、左手で尻を押さえられる。
 綾香にはそれがない。
 尻を押さえるか、ラケットを持つかの二者択一」
「なるほどね。ラケットが持てるか持てないかの違いだけど、大きな違いね。
 二人とも腹痛で、これでノーハンデの勝負になったと思ったんだけど、こん
な形で右腕のハンデがかかってくるとはね……」
「それともう一点。
 悠と綾香は思い知るでしょう。柏木梓という女の恐ろしさを」
「え?」



「イン! 15−0!」
 悠からのサーブ。誠治との競り合いからポイントを奪って、まず1点。
 自分達の勝利まで、あと3ポイント。
 この試合、梓は悠のサーブを一本たりとも返せていない。
 そして綾香同様、梓もまたあまりの発作に瘧がかかったように全身をガクガ
ク震わせている。
 しかし、悠の眼には一片の油断もない。
「イン! 30−0!」
 冷静にサーブを隅に落とし、一歩一歩着実に勝利へ向け進んでゆく。
  
(くっ……)
 いよいよ追い詰められた誠治、梓組。
 ここで誠治がポイントを取られるようなことになれば、勝利の可能性はもは
や尽きたといっても過言ではない、そんな状況。
 今回誠治は、パワーアシストグラブも軌道解析ツールも使用していない。
 自分のパワーでなんとかなる相手は、極力自分の力のみで戦う、それが誠治
の信条。
 それに、解析ツールなどなくても、悠の球の解析は事前に済んでいる。
 悠のサーブは打ち返せる。
 問題はその悠のサーブを、どこに打ち返すか。

 悠のサーブが放たれる。
 誠治の解析通り見事にコートの隅めがけて飛ぶ悠の打球。
 それを誠治はすくいあげる。
 狙いは、綾香を庇うために彼女の近くに寄った悠から一番離れたところ、ネ
ットスレスレのラインスレスレ。
 誠治の放ったループボールがゆっくりとコートに落ちる。
「イン! 30−15!」

「ふぅ……」
「……誠治……」
 ふと振り向くと見える、内股で今にも爆ぜそうな発作を手で押さえて懸命に
堪える梓の姿が見える。
「……ごめん、な……」
「……もう少しだ、がんばれ、梓……」

「イン! 40−15! マッチポイント、悠、来栖川!」
 悠のサーブが的確に梓の手の届かないコート隅に決まる。

「ぅぅ…っ……ぅ」
 ふと悠が振り向くと、傍目にもわかるような瘧にかかっている綾香の姿。
 もはや立つことさえできず、左手で懸命に尻を押さえ耐えるものの、その左
手自体ブルブル震え今にも外れそうな状態。地に擦り付けられる顔、そして唇。
 ガチガチ音を立てて震える歯。もはや涎を止められぬ唇。涙に濡れたその瞳。
 もはやプレイはおろか、口も聞けるような状態ですらない綾香。
 しかし――

(綾香、待ってろ。これで決着をつけてやる)

 悠が構える。サーブを打つべく。これで最後にすべく。
 誠治が構える。サーブを迎え撃つべく。可能性をつなげるべく。
(どこに来ようと打ち返す。そして、その一撃で終わらせる)
(………………)
 ボールを上げる。振りかぶる。そして……打つ!

 悠のサーブは見事なまでにライン際。
 しかし誠治、それをあまりに無造作に打ち返す。
 なんと誠治の打った場所は、悠の真正面――

 スパァアン!
 確信を持ったスイングで、悠は打ち返す。
 ここで終わり、と思ったスイングは、梓の足元へ。

 それが誠治の計算どおりであるということも知らず。

 カッ。
 梓の発作は変わらぬまま。
 震える左手は尻の奥に添えられて。
 そして震える右手で持ったラケットの先だけが、悠の速球を捕える。
 腰が入ってない、棒立ちの、へっぺり腰の、手打ち以外の何物でもない。

 しかし、柏木梓にとっては、それだけで十分すぎたのだ。

 パァアアアンッ!
 梓の剛球が、悠と綾香の真ん中を突き抜けた。
「イン! 40−30!」
 東雲恋の宣言が、やけに澄んだように悠の耳に聞こえた。



「ど……どう、だ、い、悠…………これが、あたしの……」
「………………」
 尻を後ろに突き出し内股で震えながら、梓が悠に毒づく。



 その瞬間、工作部プロジェクトをはじめとする梓応援席から大歓声が沸きあ
がった。

「アズサ! アズサ! アズサ! アズサ! アズサ! アズサ! アズサ!」
「アズサ! アズサ! アズサ! アズサ! アズサ! アズサ! アズサ!」
「アズサ! アズサ! アズサ! アズサ! アズサ! アズサ! アズサ!」
「アズサ! アズサ! アズサ! アズサ! アズサ! アズサ! アズサ!」
 梓に注がれる大歓声。

「なんの負けるなぁ! 皆大声張り上げろおおおおおおおおおお!」
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
「せぇえーーーーーーーーーーーのぉおおおおおおーーーーーーーーー!!」
「アヤカ! アヤカ! アヤカ! アヤカ! アヤカ! アヤカ! アヤカ!」
「アヤカ! アヤカ! アヤカ! アヤカ! アヤカ! アヤカ! アヤカ!」
「アヤカ! アヤカ! アヤカ! アヤカ! アヤカ! アヤカ! アヤカ!」
「アヤカ! アヤカ! アヤカ! アヤカ! アヤカ! アヤカ! アヤカ!」
 応援団長梓がいなくても、
 盛り上げるSS使いガンマルが背景で意味がなくとも、
 綾香を応援してくれる一般生徒、彼ら彼女らの綾香への思いが、大歓声を巻
き起こした。
「アズサ! アズサ! アズサ! アズサ! アズサ! アズサ! アズサ!」
「アヤカ! アヤカ! アヤカ! アヤカ! アヤカ! アヤカ! アヤカ!」
「アズサ! アズサ! アズサ! アズサ! アズサ! アズサ! アズサ!」
「アヤカ! アヤカ! アヤカ! アヤカ! アヤカ! アヤカ! アヤカ!」
「アズサ! アズサ! アズサ! アズサ! アズサ! アズサ! アズサ!」
「アヤカ! アヤカ! アヤカ! アヤカ! アヤカ! アヤカ! アヤカ!」
「アズサ! アズサ! アズサ! アズサ! アズサ! アズサ! アズサ!」
「アヤカ! アヤカ! アヤカ! アヤカ! アヤカ! アヤカ! アヤカ!」



 ここが勝負の分水嶺とばかりに大声を張り上げる双方の応援団。
 この応援は、確実に梓も綾香の二人に無限の活力を与えていた。
 大歓声に煽られて、猫背と顔色と痙攣がよりいっそう悪化した梓。
 大歓声に煽られて、ついに口から泡まで吹き出し始めた綾香。
 しかし、大爆発寸前の二人の心は、熱く熱く燃え滾っている。



「………………」
 悠が構える。本気でこれを最後にすべく。
 梓が構える。右腕だけで。しかしその構えは限りなく復活しつつある。
 そして――

 パァアーーーーーーーーーンッ!
 
 悠のサーブが放たれた。
 サーブの場所は――なんと梓の真正面!

「な……何考えてんだあのゆーさく野郎ーーーーーーーーーー!?」
「いやいける! 問題は綾香さんが反応できるかどうか!?」 

(綾香……)
 悠のサーブが飛んでくる。
 梓はそれを、妙に長い時間のように感じていた。
 梓が鬼化するのには、その一瞬で十分すぎたから。
(綾香)
 梓の左手が、尻の奥から放たれる。
 梓の構えが、本来のものへと戻っていく。
 梓の瞳が、梓の肌が、梓の四肢が、梓の全てが――――鬼化する。
(綾香)

「これはっ!?」
 千鶴が立ち上がる。
 梓がやろうとしてること、千鶴は誰よりも真っ先に感じられたから。
 梓がやろうとしてること、それは――

(綾香)
 梓は思う、綾香のことを。
 今までの経緯など関係ない。
 この一瞬に、あたしたちの全てを出し尽くそう。
 だから立て、綾香。
 だからこの弾に、このあたしに、全力でこい。
 あたしはそれを――粉々に打ち砕いて――勝つ。

 ――いくよ――



「綾香あああああああああああああああああああああああ!!!」
(――不可破の鬼弾!!)



「チェイサアアアァァァァァーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!」
 ドンッッッッッッッッッッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!



 悠は、綾香の真後ろにいた。
 綾香はなおも立ち上がれない。
 遠目からすらわかるほどビクリビクリと瘧を起こし、顔面は見るも無残な白。
 全身鳥肌を浮かべ、尻の奥から今にも吹き出さんものを死ぬ思いで抑えつづ
ける左腕は、もはや痙攣の絶頂に達し。
 歯の鳴りすら噛み合わないほど口内が震え、涎と泡がとめどなく流れ。
 涙と意識混濁によって視界不良、人事不省といって何も差し支えない状況。
 しかし、悠の目を見て、気づいたものは驚嘆しただろう。
 何故なら悠の眼には、勝利の確信、それ以外のものは映っていなかったから。
 
 悠がラケットを投げ捨てた。
 悠が両手を胸で組んだ。両人差し指を突き出した、陰陽術の呪いの構え。
 そのまま綾香の蹲る尻に、組んだ指の狙いをつける。
 そして悠は、吼えた。これ以上なく凄まじい気合で。
 梓が吼えるとまさに同時に。そして梓が放つと、まさに同時に。

「陰陽術!!!!! 
 鬼神・降臨!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」



 悠の指が突き刺さった。綾香の、尻の、奥の奥に。






 ビクンッ!!!!!!!!!!!!!!!



 まるで落雷したかのように、綾香の全身が跳ね上がった。
 まるで玩具のように、綾香の肢体が立ち上がったのだ。 
 これぞ九鬼流陰陽術・鬼神降臨。
 肛の孔から指を通し気を突き上げることにより、一時だけ気の流れを正常化
させる陰陽術の絶術。
 そのかわり、これを凌がれたら綾香に待っているのは破滅の二文字。
 それでも悠は、敢行した。
 綾香の闘志。ここまでになっても一片も衰えない綾香の闘志。
 そして、“梓と決着をつけたい”という、綾香の気持ちに応えるべく。
 
 綾香は、既に振りかぶっていた。
“不可破の鬼弾”を打ち破るために。
 綾香は確信していた。“不可破の鬼弾”を破れると。
(梓……)
 その確信と、その思いと、全てをこめて、綾香は斬った。

 梓の放った“不可破の鬼弾”を。
 心の奥に焼きついた、何度も何度も反芻した、親友の全てをこめた技を。






 次の瞬間、突き刺さった。
 梓の足元に、綾香が放った一撃が。梓に返した思いの全てが。






「ゲーーーーーーーーーーーーーーム!!
 マッチウォンバイ、悠、来栖川組!! ゲームポイント、7−5!!」



 審判の声があがると同時に、飛び込んできた一台のトラック。
 ネットも何も全て蹴散らし、梓と綾香を拾っていずこかへ去ってゆく。
 当然といえば当然極まりない処置ではあるが、皆一瞬あっけに取られて。
 一拍おいてから大爆笑が沸き起こり、次の一拍、万雷の拍手が沸き起こる。
 素晴らしい勝負を見せてくれた、四人の選手達に。
 誠治が、無言で手を差し出す。
 悠は口を開くことなく、ただ、その手を固く握った。

 観客の拍手は今も鳴り止まない。
 コート真ん中で握手を交わす二人の男達に。
 そして……ようやく解放された、二人の戦乙女たちに。



「綾香……」
「ん?」
 一枚の壁を隔てて梓と綾香が会話を交わす。
 とはいっても、二人とも、ポツリポツリと話すだけ。
 語ることは全て、コートの上で語りつくした。
 梓の全てをこめた“不可破の鬼弾”
 それを綾香が返せたのは、綾香の持つ“合気”の力のみではない。
“どうして、破れたんだ?”
 梓はあえて聞かなかった。
 そして、綾香もあえて言わなかった。
“梓の放った不可破の鬼弾は、千鶴戦とまったく同じだった。
 だから返せた。
 私はそれを、何百度も何千度も、反芻し続けてきたんだから。
 梓――あなたの最高の気持ちのこもった、その弾を”

 今は何も考えたくない。
 いろんな意味で何も考えたくなかった。
 少しでも思い起こすとたちまち真っ赤になるあの時間。
 けれど。梓も綾香も思える。
 あの時間は、あのひとときは、そしてあの一瞬は――

 ――私達は胸を張って誇れる、最高の試合だった、と――
 白い壁に包まれ、絶えず流れる水音の中。二人はしっかり、心を握り合った。
「梓」
「綾香」

 ――サンキュ。
 この言葉のみを交わして。












      悠朔&来栖川綾香組……準決勝進出!!