「君は、本当にそれで良かったの…?」 僕は、目の前に倒れている片腕の青年──セツという──に、小さな声で語りかけた。 ──それは…どういう意味ですか…? 彼は、千切れた左腕の痛みを耐えながら、それでも無理矢理に微笑んで問う。僕は思わず目を伏せ、 「…大丈夫…?」 と、訊いた。無惨な、痕。未だ、千切れたところからは鮮血が噴き出している。 ──それは…まあ、確かに痛いですよ…。でも…でも、リネット様は生きている。リネット様が…彼女が、 生き続けてくれるのであれば……、この程度の痛みなんて…。 彼は、相変わらず笑みを崩すことなくそう言いきると、 ──そういう………ものなんですよ…。 僕の、まるで心の中を見透かして居るかのような口調でそう続けた。 彼は何を見て、何を想う…。 「理解できないよ…。それほど大切な人を、どうして……」 彼は何故、リネットを次郎衛門のもとへ…。 ──………。例え…この想いが痛くても…。あのとき彼女を抱き締めてしまって、刹那に逃げていては…そ れは幸せではないから…。だからこそ────あなたが居る…。 綺麗な笑顔だな、と僕は想った。彼の今浮かべている微笑みは、優しく、強く、穏やかで、偉大だった。 それは、可哀想なくらいに。しかし、僕には断ずることが出来ないのだ。 「でも…。それじゃ、僕は彼女を抱き締めてしまっても良いの? 彼女が、彼を思っていることを知ってい て?」 応えはなかった。 ただ、彼は微笑とも苦笑とも取れる笑みを静かに投げかけてきただけ──────────── 自伝、或いは自嘲的Lメモ ──痛すぎる聖夜の雪── … 中編 … 「ゆきちゃん…?」 リネット様────初音ちゃんの声で、僕は我に返った。驚いてきょろきょろと辺りを見回す、どうやら 電車の中のようだ。この車両にはあまり客が乗っていない。隣には、初音ちゃんが腰掛けている。 うたた寝でもしていたのだろうか? 「……え、あ、ああ。なんか…寝てた?」 僕がしどろもどろにそう言うと、初音ちゃんは困った顔でこくん、と頷いた。 「ご…ゴメン…」 僕は、罪悪感と恥ずかしさにまみれながら俯いた。──誘ったのは僕の方なのに…。 「ううん…。それより、ゆきちゃん大丈夫? ──疲れてるんじゃ…?」 どうやら、困った顔ではなく心配した顔だったらしい。 疲れていないわけではない、特に精神的な面では至極疲れていると言えるだろう。しかしそんなことを言 っている場合ではないし、第一言いたくもない。せっかく一緒に来たのだから。 「……ん、大丈夫だよ…………」 相変わらず声はがらがらしている。小声だからだろう。 遊園地は、電車に乗って少し行ったところにある。今までも幾度か行ったことがあるので、馴染みといえ ば馴染みだ。少なくとも、某ネズミーランドよりはずっと。多分、もう少しでつくだろう。 そんなことよりも。 さっきの夢は何だったのだろう? セツって誰だ? リネットって? 掴もうとすればするほどに、それらは逃げ出していく。まるで蜃気楼みたいだ。…或いは本当に。 「……ていうか、もう次の駅みたいだね……」 僕がそう苦笑を交えて言うと、彼女は笑顔を浮かべて頷いた。 僕の表情に再び苦笑が戻った。 まだ、大丈夫。 本当に辛いのは、足掻くことも抗うことも逃げることもできなくなって、ただじっと耐えるだけというそ れだから。 そう、そうだから、本当に僕は大丈夫なんだ。 ただ、少し自分が信じられないだけで…。 僕達は、遊園地の入場門が見えてきたところでいったん立ち止まり、ひとまず大きく伸びをした。二人し て、何処かで固くなっていたんだ。──少なくとも僕は。 いつもの顔が出来ないことは、もう諦めることにしていた。事実、僕はいつもの僕なんかではない。いつ もはしないような苦笑をし、いつもは言わないようなことを言い、いつもはやらないような仕草をする。今 ここにいるのは初音ちゃんにアプローチをかける僕ではなく、彼女のことを愛そうとしている僕だった。ど うしようもなくなるまで、僕はこうしていることにしたのだ。 そして、理由は僕には解れない。でも、初音ちゃんもいつもの顔をしているわけではなかった。何処が違 うかと言われても困るけれど、少なくとも三年以上一緒にいて、今日のような顔をする初音ちゃんを見るの は初めてだった。──先日から、ずっと見たことのない彼女を見続けているのだ。 結局のところ。 唐突にここに来てしまったが、さて、どうしたものか。 「何だか、色々出し物をやってるね」 と、初音ちゃんが僕の服の裾を引っ張りながらそんなことを言った。そちらの方を見てみると、サンタや トナカイをかたどったらしいバルーンがいくつか浮かんでいて(何で今まで気がつかなかったんだろう?)、 徹底的にクリスマスらしくしている。というか、内側からはクリスマスソングが聞こえてきていた。中は、 もっとクリスマスイベントが盛んに行われているのだろう。 ──そうでもしなければ、この寒いのに好き好んでこんなところに来たりはしない。 好き好んできたやつが一人、ここにいるが。 「あ、入場門のところに、柳川先生がいるよ」 「……へっ………?」 ぼけーっとくだらないことを考えていた僕の耳に、とんでもない言葉が流れ込んできた。柳川さんが? こんなところに? 「どっ、…どこ……?」 僕は、そういいながら入場門の方を凝視してみた。だが、見えるのは大勢の(顔を見たことすらない)客 達と、その人達に何かを配っているサンタクロース(に扮したバイトの人)だけで、柳川さんらしき人物は 何処にも見えない。こんな時に、彼と一緒にいなくても良いのだけど……。 「ほら、あのサンタさん」 僕は、硬直することにした。なるほど、帽子と髭の間から覗くあのクールな瞳は、よくよく見ると柳川さ んのものである。そしてその彼が、ああして、客にティッシュか何か配っている。 僕はふうと溜息をついた。そして回れ右をして、もう一度。 「あ、何だかみんな来てるね」 初音ちゃんはにこにことそういったが…。僕は肩を落とした。 後ろには、リーフ学園の生徒達が大挙して訪れてきていたのだ。当然、顔見知りもかなり大勢いる。 「そうだよね…。終業式の午後で、イヴだって言うのに、ここに来ない人がそうそう居るはず無いよね…」 まったく。 結局、行けるのは日常の世界だけなのか? 何というか。そのまま僕らは顔見知り達の波に飲み込まれ、普段に限りなく近いノリ──つまりはなるた け初音ちゃんと居ようとしながらも世間話しかできないような──のままアトラクションで遊ぶことになった。 で、激しい系のアトラクションを全て乗り終えた頃、一部の男子生徒はくたくたとオープンカフェの椅子 に腰掛け始めていた(というか、屋内の喫茶店は入るのにすら長蛇の列に耐えなければならないほどに混雑 しているのだ)。勿論、僕もその中の一人だ。 何となく人が座っているところを求める僕としては、丁さんとひなたちゃんが座っているテーブルのとこ ろに腰掛けるのは当然とも言える。僕は──力無く笑みながら──言った。 「座ってもいい?」 実際のところ、全部吐き出すなり萎えているなりして同情されたかったのかもしれない。でも、そんな無 意識まで気にしているような余裕はないし、関係もないのだ。僕は僕なのだから。…おそらく、だけど。 ──だいいち、恥ずかしいじゃないか。 何を押し隠そうとしているのか解らない。意味を持たない言葉の羅列が────。 「ゆきちゃんて薔薇でしたっけぇ〜〜」 にぃっと可愛く微笑みながら丁さんがそんなことを言ったが、取り敢えず無視してひなたちゃんの隣の椅 子に座った。今の僕は、普段のノリになれるほどテンションがハイじゃない。 「もしもそうなら、ジェットコースターの最後尾に捕まって梓さんを追っかけていた秋山さんのところに行 った方が良いと思いますよ」 ううっ、ひなたちゃんてば……僕、ハイじゃないって言ってるのに。いや、言ってないけど。 「何だかヤキモチやいてみまーーす」 相変わらずのほほんとしながらそんなことを言う丁さん。何気ない、冗談のような一言。 ヤキモチ…嫉妬、妬み、ジェラシー。 今僕が抱え込んでいる沢山の心情の中の一片。 世界中の誰もが多少なりとも抱き込む感情。 俗物としての人間が当たり前のように抱き締めている想い。 抱え込み、抱き込み、抱き締め、認め否定し淘汰し肯定する。 「ゆきちゃーーん、イタイですぅ〜〜」 僕は、脈略なく浮かぶ科白を訳もなく考えながら、丁さんのほっぺたをクニクニとつねっていた。 「さっきから人のことを薔薇だとか薔薇だとか薔薇だとか薔薇だとか薔薇だとか薔薇だとか薔薇だとか薔薇 だとか薔薇だとか薔薇だとか薔薇だとか薔薇だとか薔薇だとか薔薇だとか薔薇だとか薔薇だとか薔薇だとか 薔薇だとか薔薇だとか薔薇だとか薔薇だとか薔薇だとか薔薇だとか薔薇だとか言ってるからだよ」 「じゃあ女装趣味?」 「それはアンタがさせたんだろーーーがぁぁぁぁぁ!!!!!」 ひなたちゃんのさり気ない一言に一応の突っ込みを入れた僕の目に、EDGEさんやM・K達に引っ張ら れてゴーカートの方へ歩いていく初音ちゃんの姿が目に入った。瞬間、耕一さんの顔が浮かび上がる。 僕は苦笑した。そう、またしても重要なことを考えていなかった。 嫉妬しているのは辛い。では、嫉妬される側がそれを知ったら? 「まあ、僕には一生理解らないんでしょうけどね」 「ひなたちゃん、人の話聴こうよね」 その通り、僕には一生知ることのできないことだろう。──嫉妬される。 「あー、ひなたちゃんがゆきちゃんに女装させたんですかぁ〜〜?」 「「ちがうわっっっっ!!」」 ──それから。 それから、ゆき、風見、宇治の三人で少し雑談していると、ジンが唐突に表れてゆきをさらっていった。 何でも、人間アドバルーンに挑戦するらしいが、話から逸れるので記さないことにする。 ともかく二人になった宇治と風見は、ふうと溜息をついた。 「ゆきちゃん、何だかいつもと違っていたねー」 「まあ、途中から結局いつものゆきちゃんでしたけどね」 二人の視界の向こうでは、相変わらずサンタの格好をした柳川と、ジンの二人に口に無理矢理ヘリウムガ スを吸いこまさせられている来栖川空とゆき、おまけで東西と幻八と浩之がいた。近くを琴音と神凪とOL Hが通っているのだが、まるで透明な存在だとでも言うように、ていうか当たり前なんだけど助けない。 「何かあったのでしょうかぁ〜〜?」 のぺーっと冷たいテーブルに頬を押し付け、宇治が呟いた。風見も、テーブルに…と言うよりは宇治の頭 に肘をついて、 「でも…向こうから話してもらわないと、僕らには何もできませんよ…」 ぽつりと言う。 「痛いですぅ〜」 「もうすぐ師匠が暴走して楓様が呼びに来るはずだからそれまで我慢しなさい」 「ヒドイですぅ〜〜」 「おーーい、大丈夫かーー??」 「全然ダメですよぅー」 アドバルーン計画は見事に頓挫したものの、唐突に表れたド○えもんのお節介によって僕は──僕だけが 空を飛ばされていた。電池の残っているタケコ○ターが一つしかなかったらしい、僕はジャンケンに勝った。 勝ったから、やることになった。冬の寒い空に、背中にタケコプタ○を付けられ、幸せそうなカップルと少 し薄暗くなってきた道を見下ろしている。さっき、漸く梓さんが助けに来てくれたは良いが、秋山さんの登 場により僕の救助は難航し、今さっき漸く秋山さんのカタが付いて助けてもらえるところだ。 「なんまんだぶなんまんだぶ…」 「ゆき君、安らかに逝ってくれ…」 「初音ちゃんはオレが幸せにするからな…」 ──そこ、勝手に殺すな。 「だぁぁぁぁ!! 梓ぁぁぁぁ!!!」 「復活するなぁぁぁ!! 宇治、頼むぅぅぅぅ!!!」 「秋山さ〜ん、もうちょっと眠っていて下さらないと困りますぅ〜〜」 「楓ぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!」 「綾香ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」 「カツはいやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」 「薔薇は嫌いだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」 「エルクゥユウヤ☆」 ……。 結局。 巻き込まれてる。 それはそれで良いのかも知れないけれど。 或いはそれしかないのかも知れない。 だとすれば。 僕には流されることしか…できない…? 「有り難う御座いました…」 漸く解放された僕は、わかめ涙で梓さんにふかぶかとお辞儀をしながら言った。失礼、わかめ涙を流しな がら、ふかぶかとお辞儀をして、お礼を言った。 「まあ、連中の悪のりはいつものことだし…」 腰に手をあて、苦笑しながら言う梓さんの肩に、右に秋山さん、左に丁さんがしがみついているように 見えなくもないが、取り敢えず気にしないことにした。 「でも、本当に──」 僕が改めてもう一度言おうとすると、しかし梓さんは顔を顰めながらそれを制し、そして言った。 「そんなことよりも、一つ。────朝から何となく、本当に何となくなんだけど、初音の様子が少し変な んだよ。アンタが理由を知ってるかどうかは解らないけど…、元気、出させてやってくれないか? 初音が 元気ないとさ、凄く家が暗いんだよ…。耕一のやつも少し変だし…」 そうなんだろうなと、僕は心の奥底で呟いた。 「……はい…」 誰だって、いつもの顔でいられるはずがないのだ。 「あ、そうだ。今晩、うちで晩御飯食べていくか?」 「いくぞぉぉぉ!!」 「いきたいでーーすぅ〜」 梓さんに丁さんと秋山さんが飛ばされている間に僕は少し思案した。………したのだが、何だかよく分 からない有耶無耶のうちに梓さん達はどこかへ行ってしまった。…僕は取り残されたみたいに、街灯の下で。 街灯の下で、ぽつりと。 辺りには誰もいない。 多分、みんなライトアップされた観覧車の方へ行ったのだろう。 誰か、誰かと一緒に乗るために。 でも、僕は── 「初音ちゃん…」 ──僕は呟くことしかできないのだ。 「なに?」 まったく、どうしてこう寂しいんだろう? どうして日常の世界に、しかしその中の空虚な狭間に。 「どうして────」 ────留まらされている? 「だって、ゆきちゃんいつの間にかいなくなっちゃったんだもん」 ああ──── 「────まだ取り残されたわけじゃないんだね」 「え?」 僕は嘆息を吐いた。 今僕の後ろに初音ちゃんがいるという事実。 果たしてそれは、幸か不幸か。 「一緒に乗ってくれるの?」 「今からじゃ、きっと私たちしか残っていないだろうから、二人だけになっちゃうけどね」 「うん。それで良いよ」 幸か不幸か。 愛情か友情か。 同情か劣情か。 どうしたって僕が彼女を愛していること、 彼女が僕のことを愛するまでには至っていないこと、 それは事実だ。 既に、電灯をともさなければ白い息すらも霞んでしまうほどに辺りは暗かった。 「電灯の明かりが火で、そうだったらもっとあったかいのにね」 紅潮させた頬をほころばせながら初音ちゃんは言った。──僕の目をしっかりと見て、白い息とともに。 しかし、僕には何となく解る。その笑みが、その笑みが──無邪気な、或いは天使のような物でないことを。 微笑みの片隅に切なさが溢れていることを。それを僕に見せないようにしていることを。 でも、彼女は僕より優しくて強いのだ。 観覧車が見えてきたことを確認する振りをして目を反らし、そのままで僕は頷いた。 ──どうして、初音ちゃんはこんなにまで可愛いんだ!? そんな悲鳴を上げながら。 「うわぁ…」 僕がそれ以上何も言わないのに気が付いたからか、そうでないかはよく解らない。いや、矢張り素直な感 動だろう。──彼女は、僕が確認したすぐ後に観覧車を見つけ、思わずといった感じで声をあげた。 本当に可愛い声で…。 「すごいね…」 観覧者は優しい赤で映し出され、白野装飾で彩られ、灰色の空をバックに明瞭と曖昧に存在していた。 手袋の中のかじかんだ手も、俄に熱を帯びる。 「もうみんな乗ってるのかな」 僕は、はっはと白い息を吐きながら言った。僕の頬も紅潮しているだろう。 「うん、たぶんみんな乗っちゃってると思う」 僕達は、その言葉を合図にする見たく、少し足を早めた。 「どうでも良いんですけどね」 並びながら、僕はその係員に言った。 「何だって、今日は先生の皆さん達が此処でバイトして居るんですか?」 初音ちゃんも後ろでくすくす笑っている。 ──僕に向けられた物でないそれは、いつもの笑みだった。 「そんなこと言われても困るんだけど…」 トナカイの着ぐるみを着て人の列を整理しているその人は、七瀬さんだった。もこもこした着ぐるみから 童顔が覗いているので似合わないわけではないけれど、しかしやっぱり妙だ。 「でも、似合ってるから良いと思います」 初音ちゃんはやっぱりくすくすと笑いながら、そんなことを言った。 …いつもの笑みで話しかけられている七瀬さんに、少し嫉妬した。 理不尽だと思いながら…。 「みんなそういうんだよなぁ……」 彼はそういいながら泣く振りをしたが…。 ──泣き出したいのは僕の方だ。 と、理不尽なことを思わせてくれただけだった。 僕に学習能力はない。 「あ、ほら。観覧車来たよ、乗り遅れると大変」 七瀬さんがそう言ったのと同じに観覧車が僕達の目の前にやって来た。僕と初音ちゃんは、幸せそうなカ ップルが脇を通り過ぎていった後、ゆっくりと(或いは苦笑混じりに)乗り込む。 「──僕も、美咲さんと乗りたいな……」 その直前に聞こえた、七瀬さんの無邪気な呟き。 さっきの、宇治さんの無邪気な嫉妬。 壊れそうだと、僕は言った。 今にも夢幻と無限の粒を降らそうとしている天に。 … 後編に続く …