私は──夢を、多分夢を見た。 ─ プロローグ ─ 「夢?」 彼女が言うと、彼はそう聞き返してきた。 「うん。──私、すごく辛い…よりももっと…な、夢を見たんだ」 すると、彼は顔を少し顰めて、 「────。…だから…今日は少し元気がなかったの?」 と、心配げに言った。彼女は頷き、そして訊く。 「そう…なんだと思う…、それでその……夢の話、聞いて──聴いてくれるかなぁ」 集中して聴いて欲しかった。凄く痛い夢だから。 彼は、こくりと頷いた。 「──……勿論」 彼女は心配になって訊ねる。 「すごく、厭で、辛くて、…それで、何だか…そんな話だよ?」 でも、彼は微笑して応えた。 「…うん、────聴くよ…」 彼女は意を決して話すことにした。 終わったとき、彼はどんなことを言ってくれるのだろうと思いながら。 「──────それじゃぁ…」 自伝、或いは自嘲的Lメモ ──痛すぎる聖夜の雪── … 前編 … 痛い。 痛いと、僕の心が泣いている。 酷く酷く泣いている。 月並みだが、泣いている。 何故彼女は僕にこんな事を頼んだのだろう? 彼女は僕の想いを知らなかったのだろうか? 何故知らないのだろう? 何故伝わらなかったんだろう? 言葉がないからだ。 僕が最大限に伝えようとしなかった所為だ。 想いや些細な行動では…誤解しか生まない。 ジョークととられても仕方がない。 それでも、あまりに辛すぎる…。 鬱。 ひたすらに鬱。 吐き気がする。寒気がする。息づかいが荒くなる。 どうしたって鬱。 耐えられず、嗚咽みたいな物が漏れ始める。 しかし、僕はいつもの顔をしなければならない。 僕は、彼を見つけると声をかけた。しかし、それをするまでに酷く葛藤し、辛かった。 どうしようもなく。 「耕一さん」 彼は振り向くと、少し顔を歪めた。顔に出ているのか?この辛さが。どうしようもない痛さが。崩壊しそ うな精神が。叫びだしたくなるような咽の震えと、それを抑えるきつさが。 「どうかしたのか──?」 彼はそういうと、心配そうに僕に近づいてきた。顔を直視するのが少し、厭だ。 ──否応なしに意識してしまって居るんだ…。 僕の顔から、おかしな苦笑いが漏れた。それは泣き顔にも似ている。 僕ができるのは苦笑いだけか? 「実は──────」 何故彼女は耕一さんに直接言わないのだ? それは直接自分に返ってくるものであり、嫉妬から来る八つ当たりだった。 「──────────」 自嘲とともに、僕はいった。 本当に自嘲だ。 どうしようもない、自嘲だ。 彼はそれを聞くと、一瞬面食らったような顔をしたが、すぐに神妙そうな顔に戻す。 「ああ、じゃあ、答えは俺が直接言うよ────」 僕はそれを聞いて、彼を嘲った。……妬みだ。 どうするというのだ。彼は僕の気持ちを知っている、彼女は僕の気持ちを知らない、彼は如何に応える? その後如何に接する? これは彼女にとって大いなる賭だ。それを彼はどうする? 彼にどうできる? 彼 は良すぎる人間だ、彼に本心があるのか? しかし、その全てを僕は内に内包した。 「……それじゃ、僕はこれで…」 僕は彼に背を向けると、不自然でないように走り出した。 誰も周りにいなくなってから、少しだけ瞳に水を湛えさせた。 無様だ。 縁側に一人、男が座っている。彼は柏木耕一という。 その後ろにもう一人、少女が立っている。彼女は柏木初音という。 耕一は、初音に背を向けたまま短い言葉で応えを告げた。 少女は──こくん、と頷くだけだった。 時はそのまま、誰かが介入するまで、止まる。 寒く、遠い夕日が、 赤々と、二人を照らす。 どすん と言う音がしたかどうかは定かではないが、まあ良いだろう。気分的にそうだ。僕の心地よい眠りを妨げ るべく背中に落下してきた物体の扱いなど、よっぽどのことがない限り邪険で十分なのだ。──僕はそれに 対してリアクションをすることを敢えて避け、無視して掛け布団の中にくるまる。 ──冬の暖かい布団の中というのも良いものだ。 僕はそれを噛みしめながら、再び甘い睡魔に飲まれ──── 「起きろ馬鹿」 ──僕は硬直した。僕の背中を、まるで突き刺さったかのような、しかし鈍くて重い痛みが、ゆるゆると めぐる。息が止まった。 「ご飯のよーいができないでしょーーーーーーーーーがっっっっっっっっっっっっっ!!!」 僕が痛んでいることに気付いた相手は、そういいながら更に攻撃を加えてくる。背中のツボの辺りを中心 に、拳が隕石のように。メテオスラッシュだっけ?──と、そんな悠長なこと言っている暇はない。 僕は、死に物狂いで上半身をあげ相手を転がすと、布団に手足は突っ込んでおいたままで、思い切り叫ん でやった。 「実の兄を殺す気かこらぁぁぁっっ!!」 が、その直後、僕の顔面には相手──つまりはM・Kの拳がめり込んでいた。 「下僕の分際ででかい口たたくもんじゃない……」 ──クリスマスイヴの朝からこの仕打ちはないだろうに。 M・Kの作ったありがたい朝食を食べながら、僕は溜息をついていた。──いや、別に同時にしているわ けじゃないけれど。そうではなくて、ともかく憂鬱だった。 無性に甘ったるいフレンチトーストを噛みながら、昨日のことを思い出してみる。──少々自虐的に。 昔々あるところに柏木初音という美少女がおりました──か? そして、彼女にはゆきという不細工な面した友達がいて? その男は彼女に恋い焦がれていたのだけれども? しかし彼女には想い人が居て? しかもそれが彼等の近くにいる柏木耕一という人間で? その上、彼女の想いを告げる役目を彼女直々に担わされたのがそのゆきという男で? 結局何もできず、耕一という男に伝えるしかなかったと? そして──それは昨日なのだ、と? 彼女は──どうなったのだ? 彼は──どうしたのだ? 僕は──どうしたらいいのだ? 「このフレンチトースト、もう少し砂糖抑えろよ」 「文句あるなら自分でやりなさいよーー」 答えなんかでやしないのにね。 せめて、応えて欲しいのにね。 怠い。体中が怠い。何を考えるにも昨日のことが頭にこびり付き、すぐに思考を中断せざるをえなくなる。 そうしないと辛くて仕方がないのだ。いつ自分の脆い精神が崩れるか、心配でしようがないのだ。 いつもの学校へ向かう道。M・Kは僕が片づけをしているうちに登校してしまったから、当然今は僕一人 である。周りには、幸か不幸か誰も歩いていない。 僕は、立ち止まって溜息をついた。続けて、浮かぶ苦笑。 「なんだっていうんだ?」 吐き出す息の少ない声で、僕は呟いた。人が居ないと寂しいから。 ──本当に、なんだって言うんだ? 思考の断片すら凝固していない、故にそれはすぐに零れだし、気が付けば原型はなくなっている。果たし てこの問いは誰の誰に何のために放たれた物なのか──。 僕はもう一度歩き出した。歩かなければならないから。 息が白い、手の芯が冷えている。──今晩は雪が降るそうである。 何と忌々しいホワイトクリスマス──── 何と哀しい白い聖夜──── 「ゆきちゃん、おはよう」 なんて────── なんだって? 僕は、声のした方を慌てて振り返った。するとそこには、ニッコリと笑んでいる初音ちゃんがいた。 そして、その笑みは僕の心を優しく破壊していこうとする。 「あ…、……おはよ…う」 僕は、どもりながら──というよりも寧ろ面食らって、それだけを喋った。白い息が、彼女と僕とを塞ぐ 壁のように立ち上る。──寒い、身体が震える。 彼女は笑みを崩さないまま僕の隣まで来ると、『歩こう』と促すように僕の目を見つめた。僕は正面を見 る振りをして、彼女から目を反らす。辛いから。 そして、僕達はとことこと歩き出す。 とことこと、とことこと。酷くノンビリと歩く。時折息が、白く漏れ出す。 僕は何を言えば良いんだろうか? ──何かを言わなければならないのだ。何かを。 寒いね──でも、可愛いね──でも、どうだった? ──でも。 何でも良い、応えてくれる科白を── 「ねえ、ゆきちゃん」 白い息が僕の顔にかかり、彼女の声が僕の耳に響く。強く、強く息を吐いて、溜息をつきたくなっていた。 どうしようもないというのに。 「……ん………?」 いつもの顔──そんなものができるものかっ。 僕はそんなに大人ではない、寧ろ、何も知らない、何も学んでいない子供だ。子供は答えを求めるから、 何かを探すから、だから、いつもと同じでなんていられるはずがないのだ。 そんな僕に、何故いつもの顔をしろと自らは言う? だから、僕は初音ちゃんを見ずに、ただ咽を震わせただけだった。 「わたしね────」 彼女の声は変わらない、おそらく表情も変わってはいまいて。──仮に、していたとしても目を伏せるだ けだろう。 ──何だって言うんだ? それは、彼女にではなく自分への問い。 彼女は何を考えているのだ? どうしてそんな顔をしていられる? 何で僕に話しかけられる? 何で僕 の隣に歩くことができる? それとも、これは結局僕の自意識が過剰なだけなのか……。 きーんこーん…………がぁぁぁぁぁぁんごぉぉぉぉぉぉんっっっっっっっっ!! ぎんごんがんごんぎんこんがんこんきんごんがんごんどんどんどんっっっっっっっっっ!!!!!! 相変わらずやけくそな予鈴が鳴っている。が、僕らは慌てなかったし、いつものように苦笑することもな かった。──とうとう、僕の表情からは苦笑すらも消えてしまったか。 「────ダメだったよ」 真っ白い息が、また僕の顔にかかってくる。でも、僕は何もしなかった。 いや、寧ろなかったことにでもしようとしていた、あの鐘の所為で聞こえなかったと、そうしようとさえ 考えた。でも、僕の咽は動かない、ただその言葉を頭の中で反芻する。ひたすらに、ひたすらに、ひたすら に。──「ダメだったよ」と。 幾度か反芻するうち、僕は酷く自分が褻らわしく思えた。当然だ。 ──僕は、彼女が耕一さんに断られる、それを多少なりとも期待していたのだから。 何だというのだろう!? 僕は悲鳴をあげたくなった。 悲鳴を上げ、取り乱し、誰かに同情して欲しくなった。──しかし。 しかし僕の体は動かないのだ。 「…………うん………………………」 例えば、僕はここで彼女に何か言うべきだったのかも知れない。或いは、彼女の頭を撫でるでも、背中を 軽く叩くでも、何かリアクションをするべきだったのかも知れない。 だが、矢張り僕の体は動かないのだ。 この身体は、僕に何をしろというのだろう? この唇は、僕に何を語れというのだろう? でも、僕が出来たのは小さく反応しながら首を縦に振る、それだけだった。 ────────今日は、十二月二十四日。 ────────今日で、二学期が終わる。 「少し、急ごうか」 いつもの顔なんて出来やしないのに、僕はそういった。 「うん」 YES、といった彼女は、何を考えているのだろうか? 生まれて初めてだ。 ざわざわとやかましい教室の中、僕一人だけ机に突っ伏しながらそんなことを考えていた。 ──初音ちゃんの隣の席だというそれが、厭だなんて。 出会って三年しか経っていないが、しかしそれは始めてであり、ショックだった。何だってこんなにまで 辛いのだろう? 辛くなければならない理由なんてあるのだろうか? 誰かに「無い」といって欲しくて、そう思った。 でも、終業式当日と言うことでざわめく教室に、僕の小さな、そして卑小な声が届くはずもないのだ。 ──そして、こんな日ばかりは、いつもは頼まずとも来る災厄が頼んでも訪れないのだ。 終業式は、いつもとは比べモノにならないほどあっさりと終わった。というよりも、僕は全然辺りに集中 していなかったのだ。僕が考えていたのは、これからどうするかということと、それと耕一さんのことだけ。 ──だから、気がつけば僕は教室に戻っていた。 ──つまり、学校はもう終わっていて、後は家に帰るというそれだけになっていた。 僕は……ノンビリと、また机に突っ伏した。いつもならば、さっさと帰る準備をして、初音ちゃんを何か に誘っているはずなのに。もっと、気分が高まっているはずなのに。 ──ローテンション。 何も考えたくないほどの、憔悴。 それなのに心は落ち着かず、僕は結局帰る用意をすることにして、初音ちゃんの方を見ないようにしなが ら立ち上がった。────と。 ──教室の外で、耕一さんが僕のことを手招きしている。どうやら結構待っていたらしく、手の動かし方 が乱暴だ。僕は、肩を落としながら彼の方に歩いていった。 ──自分で来ればいいのに。 無理だろうけどさ。 「──なあ」 ぼけーっと歩いていたらしく、僕は彼の声で我に返った。はっとして顔を上げると、もう目の前に耕一さ んがいる。彼は、しかしそんな僕の態度には構わずに、 「念のために言うけど、──誤解するなよ」 と、言い聞かせるみたいに言った。僕が反応に困っていると、 「初音ちゃん、よろしくな。──俺が言うのも何なんだろうけど」 そう、辛そうな口振りで続けた。 ──彼だって辛いのだ。 そして、僕は嫉妬される側のことを少しでも考えたか? 「…はい」 戸惑いが咽につっかえ、ガラガラとした声で僕は漸くそれだけを言った。 彼はそれを聞くと、僕の頭に手を乗せて優しく微笑み、少しだけ撫でるように動かしてから、じゃあ、と いいながら去っていった。 僕は溜息をついて──それからぐっと身体に力を入れてみた。──まだ、身体は生きている。僕はそれを 確認するとくるりと身を翻し、教室の中にとって返した。まだ結構沢山の生徒が残っているが、構わない。 そんなことには構っていられない。僕は自分の席、初音ちゃんのすぐ近くまで来ると、だんっ、と軽く机を 叩いて彼女の気を引き、それから明瞭と聞こえるように、合唱するときの子音を出すときみたいに喋りだし た。ガラガラとした声などもうごめんなのだ。 「ねえ、初音ちゃん」 いつもの顔が出来ないのならば、それならば別の顔をするまでだ。僕は、彼女が何? と応えてから続き を話し始めた。 「これから───ええと───僕に、さらわれなさい」 めまぐるしく精神状態が入れ替わる。僕は今どういう心持ちなのだ、僕は恐れているのか、喜んでいるの か、哀しんでいるのか、楽しんでいるのか────。違う、そんなことはどうでも良い。 「え? ええと…?」 初音ちゃんは少し焦ったみたいに困ると、僕に聞き返した。確かに、いきなりさらわれろと言われても困 るだろう。困るだろうけど、僕は照れていたり辛かったり焦っていたりと大変なので、 「いいからいいからいいからいいからっ!! 近くの遊園地にでも行こうよっ」 半ば強引に押し切り、用意の終わった初音ちゃんの手を取ると、大急ぎで駆け出した。 何処へ? ──決まっている、非日常の世界へだ。 … 中編に続く …